恋に翼を得たる如し

セラー・ウィステリア

Act.1 古龍の住まう森にて


 煌びやかな恰好をした青年の前に、鎖で縛り上げられた煤だらけの少年がいた。


 本来は赤いのであろう少年の髪は煤汚れで黒く染まり、日に焼けた褐色気味の肌は栄養不足なのか、若干青みを帯びている。


 それでも骨と皮だけと称せるほど憔悴しきってはいない。


 どこか反骨的な赤い目が、ギラリと光っている。


「君には、古龍の生贄になってくれ」

「はぁ? 古龍って、おっさん頭大丈夫か」


 突然、少年の頬が横からぶたれる。馬の調教用の鞭だ。青年の傍らに立つ大柄な男の一撃に、少年は成す術なく倒れた。


 鎖がジャラジャラとなり、青年は少し不愉快そうに眉間に皺を寄せる。


「君のような盗人が、我々の街のために役に立つのだ。むしろ光栄に思ってもらいたいくらいだ。その価値のない命に、我々は名誉までも与えてやるのだから!」


 芝居がかった言い回しをする青年の目は、これからと殺する家畜を見る目だった。


 解体され、肉になり、食われる対象に憐憫を抱くとしても、それは一瞬だ。すぐに血となり肉となり、感謝はすれど明日には忘れる。


 いや、青年にとって次の瞬間には、少年のことなど忘れているだろう。


「我ら貴族の屋敷に押し入りながら、除名されているのだ。感謝してくれたまえよ」


 傲慢、という言葉がよく似合う青年は、自らを貴族と称する。その通り、綺麗に仕立てられた服に、美しく整えられた金髪。目の前にいるぼろきれを纏った少年とは、対照的な裕福さだった。


 彼は鼻の辺りを抑えながら周りの屈強な男たちに命令する。


「さっさと置きに行くぞ。泥と腐った食い物の匂いで鼻が曲がりそうだ」


 何もしていないのに疲れたような顔をして、青年は傍らの馬に跨る。彼の従者であろう男たちが少年の体を掴み上げ、馬の背に乗せておく。


「さて、偉大なる古龍に贄を捧げに行くぞ」


 馬の蹄が鳴り響く。石畳の整備された道から外れ、森の中の獣道を駆け抜けていく。


 朝早い時間に出発して、夜の休憩を挟んで目的地に辿り着いたのは翌日の正午過ぎだった。彼らが辿り着いたのは、深い森の中に佇む、古代遺跡。


 かつて、古龍と呼ばれる存在が、人と契りを交わしたとされる、人の営みから忘れされた領域だった。

 木々の間から差し込む夏の日差しを浴びようと美しい花が地面に立つ。

 鳥が崩れた遺跡に生える苔を啄もうと舞い降りてくる。


 神秘的――その言葉がこれほど似合う空間はないだろうと、青年貴族たちに思わせる。


「くそっ! 放せ、放せよ!! こんなところに連れてきて、何する気だ!!」


 我知らず見とれてしまっていた彼らを、少年の声が現実に引き戻す。


 静寂に包まれていた森に、ジャラジャラという金属音とともに、けたたましい叫びが響き渡った。鳥たちは一斉にその場から飛び去り、リスやウサギは木々の洞に隠れる。


 煤にまみれた少年を馬から降ろし、近くの崩れた柱へと連れていく。

 一度その身を縛っていた鎖を解くが、すぐに両腕だけは縛り上げられる。きつく、血が滲むのも皮膚が避けるのも構わず、脱出できないように厳重に。


「ぐぅっ! ……っ、お前ら、待てよっ!」


 鎖で遺跡の一角にある柱に鎖をまけば、少年はもうそこから動けない。もがけばもがくほど、皮膚は鎖で削れて血を流していく。

 遥か古から生きる古龍の住処に、この汚れた少年は置いて行かれるのだ。


「それでは、きっちり生贄の役目を果たしてくれ。そうでなくても餓死するしかないんだ。せめて騒いで、古龍を引き付けてくれたまえよ……あーあ、ようやく終わった」


 大あくびをしながら離れていく青年貴族の態度は、真剣さの欠片もない。ようやく堅苦しい役目から解放されという安堵感さえある。


「こんなところに放置したって、何にもならねえぞ……。ふざけやがって貴族ども!」


 森の中に叫び声が響くが、応える者はいない。森の向こう側に消えた青年貴族たちは、振り返る様子すらなかった。


「くそ、痛ぇ、外れろよちくしょぉっ!!」


 怒りの咆哮は虚しく周囲に溶けていくだけで、返ってくるのは自分で動かした鎖のジャラジャラと鳴る音だけだった。


 しばらく動かしていれば、腹の鳴る音とともに疲労がどっと襲ってくる。


「そういえば、なんも、食えなかった……なんも、盗れなかったし……」


 少年が盗人であるというのは、事実だ。そして今回の収穫が何もないため、空腹を満たすものも何もない。

 代わりにもうすぐ、空腹に等悩む必要はなくなる予定だ。


「それだけが救い……なんて思ってたまるかバカヤロー!」


 気分の上下が激しいながら、何とか鎖を解こうとやっきになる。だが、頑張れば頑張るほど、無理だという現実が締め付けてくる。


 何より、疑問が一つ、先ほどからずっとある。


「――っていうか……本当に竜がここに来るのかよ……」


 少年は顔に付いた土を肩で拭いながら、森を睥睨する。


 この森には竜の伝説が存在した。世界最強の生物、あらゆる獣の頂点、神話の時代から生きる霊長――様々な呼ばれ方をする竜は、確かに実在する。


 実在はするが、めったに見られるものではない。


 特にこの森に住むという昔話、お伽噺は、少年も聞いた事がある。


 他の生物とは一線を画す強さを誇る竜種の中でも、特に寿命が長く、遥か昔から生きる〝古龍〟の伝説だ。


 竜種がいくつかの種類に分類されるのは、盗人仲間の話で聞いた事があった。


 天に住まう飛竜、陸に住まう地竜、水に住まう海竜、それらを束ねる真竜など。話半分で聞いていたため、正確なことは覚えていない。


 だが古龍は世界の誕生から生きているとされ、あらゆる生物を超越した存在であり、その一挙手一投足が天災に匹敵するという話は、何となく覚えていた。


 おそらく伝説の古龍が住む森が街の近くにあるという話だったから、宝や金目の物があるかもしれないという場所として、覚えていたのだ。


 しかし、古龍とは神話に謳われた天災のごとき存在。そんなものが近くにいて、どうしてこの街は無事なのかと思わなかったわけではない。


「第一、そんなやべーもんに生贄一人程度で、何を頼めるって言うんだか」


 生贄とは、神、もしくはそれに類する存在への懇願の行為だ。

 太陽が明日もまた昇るように。

 恵みの雨が降るように。

 豊かな実りがもたらされるように。

 敵対する者に死が与えられるように。


 それぞれの祈りや願いのために、神性存在へ生贄が差し出されるのだ。屈強な戦士や美女が差し出されるのは、神性存在が喜ぶ対象を考えてのこと。


 少なくとも、この少年のような栄誉失調気味の浮浪児が、生贄として成立するとは考えられない。少年本人すら、それには同意見だ。

 だが、そんなこと彼が気にするべき内容ではない。


「そもそも、竜がガキ一人を食いにのこのこ――」


 竜の考えなど、人間が推し量れるものではないからだ。



 遠くからズン、ズン、と大地を踏みしめる音が聞こえてくる。


 ビクンッ! と体を震わせた少年の筋肉が弛緩する。小刻みな震えが体の動きを阻害し、近づいてくる音の方へ顔を向けさせない。


 だが、それもまもなく無駄になる。


 森の奥へと続く獣道から現れたのは、家よりも大きな巨体を持った、人ならざる者。銀色の体毛を靡かせながらその雄大な翼を広げた、全生物の頂に立つ神話の獣。


「これが……古龍、なのか……!?」


 巨体であるがゆえに、視界に収めないという選択肢がなかった。

 あまりにも美しいそれは、白銀の古龍。


 鋭い爪を持った四足が地面を踏みしめる。古龍自身としてはゆっくり歩いているつもりなのだろうが、その巨体ゆえに、地響きは鳴りやまない。


 全身を包む羽毛は水浴びした後なのか露に濡れ、陽光を反射してキラキラと輝いている。


 長い首の先にある頭には、大きな翡翠に似た瞳があり、それは少年の姿を映す。


 牙の間から炎の熱が漏れ、ゆっくりと少年へと近づいていく。



 ――美しい。



 今にも食われるかというこの状況で、少年は最初にそう思った。


 すぐにそんな考えは頭から飛んでいき、ぎゅっと目をつむりその瞬間を覚悟した。


 少年の体に、竜の吐息がかけられた。


 じっと見つめる視線が、驚くほど近くから感じられる。


『あなたは、お客様ですか?』


「は?」


 巨大な牙の間から聴こえたのは、そんな穏やかな言葉だった。

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