麗菜 『停滞』

 一

 どこからか零れてきたそよ風が私の頬を撫でる。

 ドアの向こうから響くクラリネットとトランペットの音色。掃除の時間に綺麗にしたはずの黒板は既に薄汚れている。落書きでもしていたのだろう。

 窓の外からは熱苦しい掛け声と蝉の鳴き声の不協和音。昼の賑やかさなんてすっかり忘れ去られて、空っぽになった放課後の教室。そこで一人佇んでいた。

 華のJK、なんて言われるけどJKの華の部分は主に放課後で出来ている。

 放課後は、お友達とプリクラを撮りにいったり、仲間と共に汗をかいたり、バイトに明け暮れたり、恋人とカラオケに行ったり、それぞれが個性を持って楽しむ時間。

 そんなJKの大事な時間にも関わらず、私は一人だ。

 別に、友達がいない訳では無い。今日だってタピオカに誘われた。今までだって友達とゲーセンに行ったり、ウィンドウショッピングしたり、それなりに有意義な時間を過ごしてきたつもりだ。でも、代わり映えしない放課後を繰り返すことに息苦しさを感じて今日は誘いを断ったってしまって今に至る。

「瑠璃がいないとつまらないよ」

 なんてお世辞を貰った。嬉しかったけど、その言葉を素直に受け取れなかった。。

「誘ってくれてありがとね、また今度遊ぼ」

 そう軽く受け流したが心の中の引っ掛かりが取れない。相手からしたら、インスタのストーリーに登場する人が一人減るだけの事だ。きっと、困ることもないだろう。教室に一人。ただただ虚しくなった。


 二

「今日の朝さ、痴漢された…」

 ホームルーム前に真っ青な顔で話しかけてきた碧の言葉を思い出した。埼京線のホームで電車を待つ。場所的には一号車。

 この時間帯は若干空いているから自分も同じ目に会うことは無いだろう。まあ、どの時間に乗っても私に手を出そうと考える男の人がいる訳ないのだろうけど。

 碧は出会った頃は少しふくよかだったのだが、今ではダイエットに成功して綺麗な体つきをしている。お菓子を沢山持っていて休み時間によくみんなに配っていたような女の子。少し薄い目で胸が大きくて色白だったが、やせてからは目が二重になり、より魅力的になった。誰とでも仲良くなれる性格ではあるものの、ふくよかであるバランスが妙に居心地が良くて仲良くなった。しかし、今では劣等感ばかりが募っている。

 そんなくだらないことを考えていたら電車が通ってきた。線路の空白が埋められる瞬間、私の心も引かれてなくなってしまうのではないかという恐怖感に浸る。減速して止まっていく瞬間を眺めていたら、音楽が流れるて扉が開いた。予想通り車内は混んでおらず、椅子は数席空いていた。どの場所に座ろうか、なんて考えていたらいつの間にか私とほかの制服の女の子やイヤホンをした男の人に座られていて、結局座ることが出来なかった。仕方が無いので、扉に寄りかかり路線図が流れる液晶ディスプレイを眺める。最寄り駅と反対方向に行くことが記されているのを見て安心してしていたら、扉は締まり電車が出発した。


 三

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 深みのあるテノールでのお出迎え。珈琲の香りとタバコの染み付いたような匂いが混ざりあって肺を満たしていく。あまり広くはない店内を見るとカウンター席が四つ、テーブル席が二つあった。テーブル席の一つは井戸端会議をしているようなおばさん達が占領していた。カウンターにはニット帽を被った常連らしいおじさんが煙草を灰皿に押し当てていた。どの席に座るわけでもなくただ立ちつくしている私に気がついたのか、カウンターのおじさんのつぶらな瞳は私をしっかりと捉えた。

「新しい子だね、そんな所に突っ立ってどうしたんだい」

 目のシワをさらに深くしてにこやかに笑いかけてくる。

「……あ、どの席座ろうかと思って」

 無難な返しができただろうか? おばさんたちの笑い声が頭に響く。

「そしたらこっちに来たらどうだい?」

 彼は隣の席の椅子を叩く。

「中田さん、セクハラはダメですよ。せっかくの新しいお客さまが帰ってしまったらどうするんですか」

「セクハラしようとは思っていないよ」

 困ったようにこちらを見る。碧を痴漢したかもしれない想像上の男とは目付きが違っていて、私を女として見る目をしていない。

「そしたら、お隣失礼します」

「ありがとう」

 中田と呼ばれたおじさんは帽子越しに頭をかいた。


 四

「君はどうしてここにやって来たんだい」

 中田さん、という人は孫を見るような目で私を見る。この人は、想像通りこの喫茶店の常連で店主と人と仲がいいようだ。もう帰ろうとしていたところだったようだが、新しくホット珈琲を頼んで私に話しかけてきた。

「初めてこの喫茶店の最寄り駅で降りてひたすら適当に歩いたらここにたどり着いたって感じです」

 目の前の店主は慣れた手つきで珈琲豆を砕いている。香ばしい珈琲のにおいが強くなる。人が珈琲を入れている場面なんてなかなか見ないから興味深い。なるほど、そこから丁寧に作るからここの珈琲は千円弱と高いのか。

「そうか。中学生がこんなところに一人で来るなんて珍しいと思ってさ」。

「いや、高校生です」

 お高い珈琲を使ったカフェラテを頼んだからと言って私はまだまだ子供らしい。自分は、女子高校生に完全に染まったつもりでいたが、他人から見るとまだまだ、ということだろう。

「そうだったのかい⁉ あまりにも若々しいかったから間違えてしまったよ」

「ははは……。スッピンだからかもしれないです」

 高校生に見られないのが、少し悔しくて変なことを口走る。

「最近の学生って化粧するんだ。それはびっくりだよ」

 店主は二つのドリッパーに紙のフィルターをのせ、砕いた珈琲豆をその中に入れた。そして、沸かしておいたお湯を丁寧にゆっくりと注ぎ込む。湯気が立ってじわじわとドリップされる。

「はい。皆、放課後になると、駅やショッピングモールのトイレでメイクをし始めるんです。それについていくのに必死で」

「若い子もいろいろ考えるんだねえ」

 私には到底わかりもしないが、中田さんにも苦労をしてきたのだろうか。

 店主は、珈琲豆の様子を見て、勢いよくお湯をたっぷり注ぐ。小さな円を描きながら注いでいて、香ばしい珈琲の香りがより一層強くなる。

「いつの時代も違った苦労があるみたいだ。でも、この珈琲の香りを嗅ぐと、息苦しさも少し紛れるだろう」

 私は一言も息苦しい、とか悩んでいる、とか吐き出してはいない。驚いて思いっきり中田さんの目を見てしまった。すると、中田さんはまるで何かを察したように目を細めた。

 店主は三度目のドリップをする。もう少しで珈琲は出来上がるだろう。

「そろそろ珈琲が出来上がる。君が頼んだのは、アイスカフェオレだっけ」

「はい。濃いコーヒーの方をミルクに注げば出来るんでしたっけ」

「そうだね。よく知ってるじゃないか」

「もう、高校生ですから」

 私は自嘲気味に笑った。

「そうだったね。……私の孫も今は高校生になる年だなぁ」

「お孫さん、いらっしゃるんですか?」

 考え無しに質問すると、中田さんは少し眉を下げてポツリと呟く。

「うん」

「お待たせしました。ホットコーヒーになります」

 なにか続きを言いたそうにしていていたが、店主の声に遮られてしまった。店主は心配そうに中田さんを見つめ、中田さんは少し目を見開いた後に瞬きをした。何か、良くないことを聞いてしまったのかもしれない。もしかして、お孫さんはもう。

「……すいません」

「まあ、うん。そんな顔しないで」

 心配させないようにと中田さんは口角を少しあげる。

「そうだね、若いうちは知らない事が多い。そして、きっと私には考えられないくらいに多くのことに敏感なのだろう」

 コーヒーカップの縁を深いシワの入った親指がなぞる。そして、まだかなり熱いはずのコーヒーに口付ける。そして、涼しい顔をして飲みほした。

「熱くないんですか……?」

「はは。まあ熱いよ。でもまあ、もう歳だからね」

 中田さんケロリとした顔で応えた。

「私は多くの経験を重ねてきて鈍感になってしまったけどね、君はまだ若い。未体験の事が多く存在していて、その分一つ一つの出来事に敏感になってしまうだろう」

 目尻のシワを縮めてこちらを見る。

「敏感な期間は長いようで短い。どんな経験を重ねるとしても、その時に感じ取った感性が大事なんだ。その時感じたことは想像力に繋がる。だから、今の自分を否定しないで多くの事を感じ取って生きる糧にしていけばいいと思うよ」

「……はい」

 ――パチパチ

 氷の入ったグラスに液体を注ぐ音がする。中の氷がひび割れたみたいだ。

「なんか、心配かけさせちゃったり、説教くさくなってしまってすまないね」

「いえ、ありがとうございます」

 しばらく黙っていると、さっきまで気にならなかったおばさんたちの笑い声がまた聞こえてきた。私たちのこの会話は、あの人たちにとってどうでもいいものなのだろう。

「お待たせしました、アイスカフェオレになります」

 私の頼んだものが届く。それを見やると、中田さんは静かに席立った。

「お勘定いいかな。あ、あと彼女のアイスコーヒーも私が払うよ」

「いや、申し訳ないですよ! 自分で払います」

 なんと、私のカフェオレ代も払おうとしてくれた。しかし、赤の他人に借りを作るのも申し訳なくてつい、言葉を放つ。

「説教臭いこと聞かせてしまったお詫びだよ」

「わ、私の方がお詫びをしないといけない立場なのに……」

「いいって、ここで会えたのも何かの縁だろうしさ。もう会うこともないんだし、素直に甘えればいいよ」

 そう言って、ポケットから折り畳み式の革財布を開くと店主に万札を払った。

「ありがとうございます……」

「いいって、いいって。じゃあマスター、ご馳走様」

 ――カランカラン

 貰ったお釣りをポッケに入れて、帽子越しに頭をかきながらスマートに去っていった。

 目の前のカフェオレの入ったグラスには、汗が滴っている。その雫を眺めていたら、深い意味は無いはずのに、鼻がツンとして視界が滲むが静かに我慢する。そして私は、スカート越しに不幸の真似事をした傷口をそっと撫でた。

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