蓑浦鉄鼠 『蛾』

 昨日の夜から始めた片付けは順調に進んでいた

 着る人のいない服、観る人のいないDVD。押し入れの手前にあったそれらを、僕は分別することなくゴミ袋に詰めていく。こんなものに未練なんて一ミリもない。

「よし、次は……っと」

 立ち上がろうとして体がふらつく。ちょっと休憩した方がいいかもしれない。僕は袋を放って床に寝ころんだ。ひんやりとしたフローリングが心地よくて、目を閉じる。このまま眠って、明日を迎えてしまったら、そうなったら中止にしよう。

 今日の夜、僕はこの家に火を点ける予定だ。


◆◆◆


 ヒカリさんと初めて会ったのは二年前になる。


 四方八方を田と畑に囲まれ、さらにその周りを山で包囲された田舎の一軒家。酷い車酔いを抑えながら辺りを見回す僕の背中に、祖母が声をかけた。

「しばらくはヒカリさんの家にいなさい。落ち着いたら迎えに行くから」

 落ち着くのはいつになるの、なんて質問が来るのを恐れているのか、僕が返事をする前に車は去って行った。元気でね、の一言ぐらいは欲しかったのかもしれない。見えなくなった車が、少しだけ寂しかった。

 気持ちを切り替えるように玄関へ向かう。小さな植木鉢を積み重ねて作った人形が、ウェルカムボードを掲げていた。その人形への挨拶もそこそこに、チャイムを鳴らす。ポーンと軽い音がして、ガタッ、パタパタと足音が聞こえて、それから扉が開いた。不機嫌そうな顔で出てきた男は、僕を見てきょとんとする。それから、あーっ! と声を出した。

「ハシリくん? 来るの今日だったか?」

 僕は頷いて、軽く頭を下げた。彼がヒカリさんなのだろうか。

「とりあえず中に入って。荷物は俺が運ぶから」


 空調の効いた部屋は少し肌寒く感じた。僕は薄味の麦茶を飲みながら男の話を聞いていた。

「改めて、長旅ご苦労様、ハシリくん。基本的にこの家では好きに過していいからね」

「よろしくお願いします……ヒカリ、さん?」

「ははっ、そう緊張しないで。タメ口でいいよ、タメ口で」

 そう言われても相手は年上だ。中学に入学してから自動的に叩き込まれた上下関係の概念が許してくれない。

「親戚っていっても、遠すぎてほとんど他人なんだから。俺はさ、ハシリくんと友人みたいな関係になれればいいなと思ってるよ」

 ヒカリさんは明るく冗談を飛ばすように笑って言った。少なくとも、僕より十歳は上のはずだ。冗談に決まっている。

 だけど、これはまずいな。

「友達に……そうなれたらいいと思い、ます」

 僕はこういった言葉にとことん弱いのだ。



 ピピピピとなる電子音に顔を顰めながら、スマホに手を伸ばす。時刻は午前八時十五分。うん、起きれた。軽い痛みのある頭を抑えて僕は洗面所に向かった。

 冷たい水を浴びるように顔に押しあてて、ぼんやりとした頭を覚醒させる。顔を上げると、来た頃よりも血色が良くなった顔が鏡に映っている。くっきりとした目の隈は、跡形もなくなっていた。

 初めの一ヶ月は体を慣らすことに集中した。午前中を目処に起床して、日付が変わる前には布団で眠っている。完全な夜型だった生活から抜け出すのは難しかったけれど、ヒカリさんと過ごすためと考えたら苦ではなかった。そうして、気がつくと季節が一巡りしていた。


「おはよう」

 ヒカリさんが台所で朝食を作っていた。

「おはようございます、ヒカリさん。何か手伝うことはありますか?」

「えーっと、そうだな。庭から野菜採ってきてくれる?」

 僕はくすんだステンレスのボウルを受け取り、庭へ向かった。


 水を撒いた後の庭は朝日が反射してとても綺麗だった。緑に紫、青や白。花達は私を見てと言わんばかりに鮮やかなのに、どうしてか、それらは出したての絵の具を思い出させた。もっと近くに行こうと足を踏み出すと、足下にベチャッとした感触がした。見ると、水が染み込んだのか地面が緩くなっている。つっかけたサンダルは、勢いよく踏み込んだせいで泥を被っていた。

「乾く前に落とさないとなぁ……」

 せめて服は汚さないようにと、ゆっくりと歩いて庭の一角に着く。赤・赤・赤。下段には一色も入っていなかった色が、緑や紫を押しのけるように広がっている。

 僕はその中から、ハリがあってほどよい大きさに育ったものを何個か見繕って捥いだ。それを水場に持っていき、蛇口から緩く流れる水で優しく洗う。ふと思い立って、テレビのCMのように太陽にかざしてみた。光を後ろに隠して、つやつやとした赤が僕を誘う。惹かれるように、僕は太陽にかぶりついた。


「ヒカリさん、これでいい?」

「ほぉーい、ありがと……痛っ」

 キャベツを刻んでいたヒカリさんがこちらを見てなぜか驚く。そしてその拍子で指を切ってしまったようだった。

「はは、久しぶりにやっちゃったな、これ……ハシリくん、リビングの棚から絆創膏持ってきてくれるか?」

 僕は急いで絆創膏と消毒液を準備し、移動してきたヒカリさんの指を見た。

「病院に行かなくて大丈夫ですか? 切り傷だから痛いでしょう?」

「大丈夫、大丈夫。皮しか切れてないから」

 手当てを受けながら彼は笑っていたが、絆創膏を巻くために傷口を押さえると、少し顔を歪めた。

「残りは僕がやりますから、ヒカリさんはテレビでも見ててください」

「ごめん、よろしく」


 台所に戻り、鍋を火にかけて味噌汁を温め直す。残り、といってもヒカリさんはほとんど作り終わっていたため、盛り付けと後片付けぐらいしかできることはなかった。

 まな板の上には千切りになりかけているキャベツがあった。断面は彼の血が付いているから、朝食には使えない。僕はそれを水で洗い直して、再度切り刻んだ。そして勝手口の横にある『ひりょうばこ』に突っ込んだ。養分ぐらいにはなってくれるだろう。

 味噌汁と肉そぼろ、どこか物足りなさを感じる野菜炒め。炊きたての白米を茶碗に盛って、僕らは少し遅めの朝食を食べた。


 昼は特にすることがない。ヒカリさんはいつもどこかへ出かけ、僕は散歩をしたり、お気に入りの昆虫図鑑を読んだりと気分によってまちまちだ。


 一度ヒカリさんにどこに行っているのか訊ねたことがあるが、教えてもらえなかった。

 僕はてっきり仕事に行っているのだとばかり思っていたけれど、そうではないらしい。ヒカリさんは働いていなかった。生活に関わるお金は全て本家が出しているとのことだった。

「つまりここは現代版の超快適な座敷牢ってわけ」

 本家から見て厄介なやつをここにまとめるんだ。買い物から帰ってきた(その日はスーパーにも行っていたようだった)ヒカリさんはそう説明した。

 なるほど、座敷牢か。それなら家の周りに何もないことにも納得がいく。田畑に囲まれているのも、人目に付かないようにしているためだったのか。僕がそれを言うと、

「それは、ここがとてつもない田舎だからだ」

と、大笑いされた。


 今でも行き先は隠されているけれど、僕はもう知っているから無駄なことだ。彼は必ず山に立ち寄っている。獣道を通ってある場所まで行くと、

「出てくるな」

 と一言だけ言って山を下りた。何回か後を付けてみたけれど、いつも同じ事しかしていなかった。


 夜はテレビを見る。チャンネル権は交代制で、僕は初めの頃、バラエティ番組を選んでいた。この家に来る前からの習性のようなものだったから。学校に通っていたときは、友達がよくテレビのモノマネをさせてきた。だから僕も、何を頼まれても喜んでもらえるように、話題のタレントや芸人をチェックしていたのだ。友達は、僕がうまくやれば笑ってくれたし、失敗しても罰ゲームで笑ってくれるいい人達だった。

 当然、ヒカリさんの前でもやったことがある。僕としては、今までで一番良い出来だと思ったのに、彼は悲しそうな顔をして僕を止めた。モノマネはそこまで好きではなかったようだ。それ以降僕は適当にチャンネルを選ぶことにした。


 今日のチャンネル権はヒカリさんだった。画面いっぱいに昼の森が広がっている。夏の虫特集、とリポーターが元気よく言った。端に映っている木が拡大される。そこに止まっていたのは蝉だった。力強く鳴いている蝉を見て、ヒカリさんが顔色を変える。それを見て、僕は即座に別チャンネルに回した。

「ごめん……今日はもう寝る」

 口元を抑えゆらゆらと危うそうに歩きながら彼は部屋を出て行った。僕も後を追う。

 今回は吐き気が襲ってきたようだ。扉を開け放ったままグエグエと嘔吐している彼の背中を擦る。ときどき、ごめんと小さく聞こえたけれど、それは僕に向けたものではないのは分かっていた。


 嘔吐はまだマシだ。とにかく吐くだけ吐かせれば、あとは疲れて眠ってくれる。もっと酷いと自室に籠って、ただ独り言を呟く物体になってしまう。これは朝になるまで戻らない。僕がいくら声をかけても

「でてこないで」

「ごめん」

「あえない」

 と、拙くくり返すだけだった。僕はともかく、ヒカリさんがなぜ厄介者なのか。そんな疑問はこれらを見たことですぐに解消されてしまった。


 ヒカリさんは蝉に敏感だ。いや、少し違う。蝉を通した誰かに複雑ななにかを抱えていた。その「誰か」が前の住人であることを僕は最近知った。そのとき、僕は迷惑をかけたお詫びとして、彼の部屋で映画を見せてもらうことになっていた。部屋の隅に大きな箱があった。これは何か訊ねると、彼は箱を開けてくれた。中には、大量の蝉の標本があった。

「夜は駄目なんだ」

 彼曰く、日中に蝉を見ても聞いても大丈夫らしい。しかし夜になると心が不安定になるそうだ。昼間の山で、蝉の合唱に囲まれていても平気だった理由がわかった。

 標本をよく見ると木枠に名前が彫られていた。ヒカリさんの名前ではない。

「この標本は全部前に住んでいたやつが持っていたんだ。友達だったし、一応、残してる」

 一応なんて嘘だ。僕はこの手の分野に関しては素人だが、それでもこの標本は丁寧に箱に保管されていた。それに、酷く不安定なとき、彼は独り言をその箱に縋るようにしているのだ。

 僕は見たこともない、前の住人が憎かった。

 蝉がうるさい季節が嫌だった。



「海に行こう!」

 ヒカリさんが提案したのは一昨日のことだ。僕はもちろん喜んで賛成した。だけど車の中で、水着を持っていないこと、今の時期はクラゲだらけで泳げないことに気付いた。

「目的は泳ぐことじゃないよ。泳ぎたいっていうなら止めないけどな」


 山を抜けて、海の近くまで来ると、ヒカリさんは温泉施設の駐車場に車を停めた。車から降りたら、少し強い潮の臭いが鼻をついた。

「ここのイカ焼きが美味いんだ。ついでに温泉にも入ってこう」

 夏場は暑いからと、僕はほとんどシャワーで済ませていた。温かい湯につかり、僕はすっかり健康的になったなあと改めて思った。説明書きを見ると、この温泉は美肌の効果があるらしい。効果があるかは分からないけれど、僕はまだ残っている傷跡や火傷の跡に塗り込むようにお湯を掛けた。


 ヒカリさんが言ったように、この施設のイカ焼きは絶品だった。一つ食べ終わると、他の味も気になってしまう。結局僕はメニュー表にあった味付けを全制覇してしまった。小さめのサイズとはいえ、さすがに苦しくなった。


 帰り際、僕は少し憂鬱だった。海にいた間は、蝉の声がまるで聞こえていなかったことに気付いてしまったのだ。穏やかに響き続ける波と風の音も、山の向こう側までは守ってくれない。蝉に悩まされる時間に自ら戻るしかない。

「もうここに住んじゃいたいです」

 僕は思わずそう言ってしまった。それが本音だった。

 ヒカリさんは僕の頭を撫でて、優しく言った。

「そんなに気に入ったなら、また食べに行こう」

 僕が頷くと、彼は満足そうに笑った。


「本当に今日は楽しかったです」

 車の中で僕は今日の感想を言い続けた。ヒカリさんの心が、今日のままであることを願いながら。次はいつ行こうか? その言葉を彼の口から引き出したかった。語彙の限りまで言い続けて、言い尽くして、僕は眠ってしまった。


 ガチャンと、何かが割れる音がする。僕が目を覚ますとリビングの中だった。音がした方を見ると、ヒカリさんが立っていた。彼の視線の先に目を動かすと、テレビに夕方のニュースが映っていた。

『○○山 山中で人骨が発見』

 テロップの文字とヒカリさんの反応を見て、彼がしたことだと簡単にわかった。僕は体を起こして、ひとまず割れたグラスの片付けをすることにした。


「あいつをころさなきゃいけなかった」

「あいつはせみになりたかった」

「だから、うめた」

 不安定になりそうなヒカリさんを宥めながら、彼の告白を聴きとり、頭の中で繋ぎ合せる。十中八九『あいつ』は前の住人だ。そいつは蝉になりたいと思い、殺しにきたヒカリさんに、自身を埋めさせた。

「なんで蝉になるために埋める必要があったんですか?」

 僕は彼の思考に入るようにゆっくりと訊いた。

「いちから、つちのなかから、やりなおしたいから」

「あいつがのぞんだ」

「じかんがきたらでてくるんだ」

「でも」

 ヒカリさんの目の焦点が定まった。

「俺はあいつに会う資格なんてない」

「なんでですか?」

「望まれたとは言え、俺はあいつを殺したんだ。会っていいはずがないんだ」

 嗚咽混じりにヒカリさんは続ける。

「出てきたら、俺はきっと、会いに行ってしまう。だから、蝉になっても、人のままでも、出てこないでほしかった!」

 そしていつも行っている山の方角を見つめる。

「だけど、あいつは出てきてしまった!」

「ヒカリさん!」

 僕は彼を抱きしめた。彼の心をここに引き留めるために。山の中のあいつが入り込まないように。これ以上蝉の声が聞こえてこないように。

 ヒカリさんはひとしきり泣いて、やっと落ち着いた顔を見せてくれた。

「明日いろいろ考えましょう?」

「凄いみっともなかったな。ごめん、ハシリくん」

 ようやく彼の『ごめん』が、僕に向けられた気がした。僕は高ぶる気持ちを抑えながらも、これからのことを考えながら眠りについた。

 その晩、ヒカリさんは獣道の入り口で首を吊った。


◆◆◆


 ゆっくりと目を開けて、大きな欠伸をする。時計を見ると夜の十一時を過ぎていた。良かった、間に合った。

 僕は軽い伸びをしながら部屋を周る。そして置かれているゴミ袋に火を点けていった。リビング、台所、僕の部屋、彼の部屋。全部の部屋を周り終えると、僕は一度家の外へ出た。真っ赤に燃え広がった家はまるで大きな松明のようだ。蝉なんて近づけさせない。

「結局、僕も貴方も夜から出られないんです」

 蝉のいる世界へなんていけない、それでも昼を求めて灯りに近づく。そう、まるで蛾のように。僕らは夜の灯りに取り残される醜い蛾なのだ。

 これほどの灯りなら、引き寄せられてくれるでしょう?

 僕はひとしきり笑って、家の中へ戻った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る