第50話 待ってるから

「私はテレビの向こう側で歌っている人たちに憧れたの」


 そう、レイナはぽつりぽつりと語りだした。


「衝撃的だったわ。音楽と歌だけであんなにも私の心を揺さぶってきたの。希望を持ってって、明日はいい日になるよって、それだけで私は満たされたわ。彼女たちと同じように誰かに希望を届けたいって、子供ながらに思ったのが私の音楽をする原点よ」


 その頃の記憶を思い返しているのか、レイナの表情はいつもよりも柔らかく感じる。きっとレイナにとってかけがえのない一幕だったのだろう。決して誰かが同感することも許されない、彼女だけの特別にして運命。


「でもね、私中学では虐められてたのよ」


 そう、独白したレイナに俺は驚きを隠せなかった。いや、それ以上に理解できなかった。偽ることを嫌いながらもそれが大切な処世術だと知り、他人を悪く言うことを良しとせず希望を届けようと明るい明日を望むレイナがどうして……?

 彼女はこう言った。


「嫉妬よ。私、それなりにモテてたのよ」


 その言葉自体嫌味に聞こえてしまいかねないそれだが、レイナの曇った悲し気な表情にからかうこともできやしない。それは憂いか、はたまた得心のような憐憫か。

 レイナは暮れてゆく海の地平線へと視線を向け、俺も釣られるように海の先の夕焼けを瞳に焼いた。


「最初はみんなと仲が良かったわ。でもね、ある日人気のあった男の子が私に告白してくれたの」

「…………それで」

「もちろん嬉しかったわ。でも、私には夢があったから断ったわ。私そこまで器用じゃないもの」


 なんて自嘲するレイナだが笑いごとなどではない。何かのために唯一のもののために努力をする美しさや苦しみを俺は理解している。俺は諦めてしまったその努力の向こう側、器用じゃないレイナは努力に血を流してきたことだろう。嫌、わかり切れないことを俺が得心するなどエゴでしかない。

 俺とレイナは違う。似てもいない。

 だから俺の考えはきっと間違っている。

 彼女は足を洗う波を爪先で蹴っ飛ばして、水飛沫を上げた。


「それで奇を得たと思ったのか、沢山の男の子から告白されたわ」

「……漫画みたいだな」

「ええ、それならきっと王子様が助けてくれたのでしょうね。でも、現実に王子様なんていなかったわ」


 風がレイナを攫っていきそうに、揺らした。


「上履きを隠されたり、掃除を押し付けられたり、教科書に落書きされたり、校舎裏に呼び出されて叩かれたり蹴られたりもしたわ」

「……」

「私のことが気に入らなかったのでしょうね。先生たちも気づかない振りをしていたし、友達だと思っていた子たちも私を見捨てたわ」

「…………っ」

「でもね、お陰で気づけたことがあったのよ」


 その瞳はいつだって暮れていく夕焼けの地平線のみを映している。

 レイナはそっと手を伸ばした。届きもしない輝かしく海の果てへ、明日のための夜へ。


「現実なんてこんなものってね」


 吐き出した言葉は嘲笑を零し、世界に嘲笑った。世界を蔑んだ。でも、その瞳は揺れているのように、俺は錯覚した。


「偽善を知ったわ。だから偽りは嫌いよ。仮面を知ったわ。だから私は逃げたくないの。色々な人たちを知ったわ。だから、私は諦めたくなかった。ただ、元気にするだけじゃなくて、ちゃんと誰かに優しくなれるような歌を届けたいと思ったのよ。——私は現実を知っている。それでも、ちゃんと向き合って考えて、だから歌うわ!希望を届けるために、明日が輝かしい日々であるように、少しでも元気が出るように——そして、誰かに優しくあってほしいと願いを込めて、私は歌い続ける。いつか沈むとわかっていても、それでも輝き続けるあの太陽のように」


 胸に手を当てて己の信念や炎を鼓動に感じ、伸ばしたもう片方の手で太陽を掴もうと、その指が包み込んだ。

 そこにいる彼女はあまりにも美しい少女だった。


 俺に振り返ったレイナは小さく微笑み、風に揺れる白いワンピースと砂金のような髪を靡かせ、慧眼が流れる髪の間から慈愛のように細めた。

 何も言えない俺にレイナは何も言わない。きっと待っていてくれている。レイナの話を聴いて、俺がどう感じて、どう思って、どうしたいのかを……彼女は待っていてくれている。

 俺のたった一度きりの選択を。

 俺が向き合おうとしなかったレイナの過去を聴いた。レイナの想いを初めて知った。そこにあった過程も、きっと俺が感じているよりもずっとずっと言葉になってできない。

 それでも、彼女は俺に話してくれた。虐められていた過去を、きっと笑われるような夢を抱いた幼さも。

 レイナは言った。諦めたくなかたと、現実を知っても、ちゃんと向き合って考えて、だから歌うのだと。希望だけではない、甘さだけではない、単純なだけではない、日向レイナの音楽に賭ける情熱たる激情と願望。

 何よりも美しく、誰よりも尊く、決して笑うことなどできないほどに眩しい。

 まるで夕焼けのように目の前で見上げる少女は眩しかった。

 腕を後ろで組んで、決して揺らぐことなく見つめ続ける、待ち続ける少女に俺は——言葉をどうか本心である言葉を、沫にはならないように紡いでいった。


「……ありがとう、教えてくれて」

「……うん」

「初めて、君を知った。初めて、君を見た。初めて、君の想いに気づけた」

「……うん」

「……俺は、凡人なんだって思った。きっと共感されたかっただけだったんだ。優しくされたかっただけ」

「……ええ」

「でも、うんん。君の過去を聴いて、ちゃんと向き合うことの意味を知れた。君のお陰で……だから、本当にごめん!……ごめんなさい」


 やっぱり、押し寄せてくれる罪悪感に謝罪せずにはいられない。だって、レイナの痛みは俺の痛みとは違う。俺とレイナの痛みを比較することなんてできやしない。だから、同情的な言葉は吐き出せない。美辞麗句な思いは言葉にできない。今の俺に本心の伝え方がわからない。それでも、きっと謝罪と感謝だけは本物が届く唯一の言葉なんだと信じて——


「俺を叱ってくれてありがとう。俺を見つけてくれてありがとう。俺と一緒にいてくれてありがとう。……ほんとうに、ありがとうレイナ!」


 今、俺はきっと笑顔なんだろう。罪悪感がどこまで重くても、それでも目の間の彼女を誰よりも美しく強い少女だと思うから。


「今度こそはちゃんとレイナと向き合う。だから、待っていてくれないか」

「…………それって……」


 瞠目するレイナに一歩踏み入って、俺は確かに初めて出会った日のように、たどたどしくてもそれでも確かに俺は手を指し伸ばした。


「ちゃんと知って、言葉にして、考えて、考えて、見て、話して、偽らいから。これが俺が君に償えるたった一つのもう一度だから!」


 この気持ちに償いというのはきっと言い訳染みていて、それでも確かなレイナとの区切りと始まりとするために、俺は吐き出す。叫ぶ、想いの丈にも満たない愚かしくも浅ましいエゴだとしても、きっと本物だと信じているから。

 いつか——君を信じたいから。


「俺と関わり続けてほしい!」

「————」

「きっと、答えるから、ちゃんとレイナの想いに、答えるから」

「——っ」

「俺と関わり続けてくれないか?」

「——————遅いよ」


 そう言って、雫を溶かした彼女はどこまでも嬉しそうに微笑んだ。


「私は貴方が好き。だから——待ってる。ずっと、ずぅぅぅぅっと!待っているからっ!」


 俺の手を力強く握り返してくれたレイナは、夕焼けに照らされながら海を駆ける少女のように、綺麗な微笑みで熱を分け与えた。

 この先、レイナとどうなっていくのかわからない。それでも、関わり続けると決めた今、もう絶対に逃げない。俺は俺として、レイナはレイナとしてお互いに向き合って話し合って伝え合って、そうして生きていく。

 夜明けより蒼の世界で生きる俺と朝焼けの朱の世界で輝くレイナ。

 それでも、間違わないように傷つけないように生きていく。

 俺にとってレイナは初めての好きになってくれた女の子だった。


 この眩しい世界の海の片隅、波が砂を巻き上げ巻き取っていく星空の足元。

 やがてやってくる薄暮は俺たちを歓迎する蒼の世界へと移り変わることだろう。

 けれど、今はこの時間が愛おしく美しく、きっと何者にも変えられない瞬間なんだと、俺は傷のように刻み込んだ。

 決して忘れないように……忘れないように。

 星空が浮かびだすような海の淵、そっと手を離して俺とレイナは歩き出す。


「——ありがとう、レイナ」

「忘れないでね、綴琉」


 そんなささやかな言葉は沫となって星空へと昇って行った。

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