第49話 私の話しを聞いて
玲の声音が世界に浸透した。彼ら彼女らの夢にある一人の少女が現れた。
その声は透き通っている水の刃物のような凛とした音色。決して驕ることも惨いことも醜いこともない、ただただに透明なまでの意志だけの声音だった。
玲の声音に言葉が乗って、音楽が導いて一つの世界を生み出し、すべてのひとの少女の存在を証明させる。
たった一つ初恋をした叶わない少女の恋の抗いを。
嗚呼、嗚呼、嗚呼!唸りだす。叫びだす。走りだす。
夜空を切り裂く流星の如く、雨の中を駆ける狼の如く、虹の橋を飛び越える英雄の如く。その世界は誰も知らない輝きと抗いと存在証明をもって咲き誇った。海の波が月光や陽光を取り入れて、透明なまでにすべてを呑み込んだ。
そこには人を好きになった純粋なまでの想いが存在していた。ただ何でもない、縛られてもいない強制されてもいない、憑りつかれてもいない。自分の意志で自分の望みで自分の心で好きなった純粋な気持ち。
利益やメリット、有能さなど微塵も脳裏になく、その人に纏わるあらゆるものに左右されないほどにただただひと思いなまでの透明な恋心。
それが決して報われないものだとしても、それでも無様に滑稽に愚かに抗い続ける姿。
規定など跳ね飛ばし、ルールなど忌み嫌い、社会関係など微塵も視野に入れず、己の己がままの己の意志と思いのたけのみで抗う小さな炎。
ただ一言——『好き』と言う、たったそれだけの言葉。それでも、変えることなどできない世界のたった一つだけの想いの言葉。
決して叶わない。決して報われない。決して幸せではない。
それでも、最後には笑ってみせる少女の涙に——嗚呼、誰もが言葉を失い、誰もが少女に問いかけた。
——どうして、抗えるの?
こう伝えよう。——それが自分だけの意味だから。
——どうして、諦めないの?
こう示そう。——それが自分だけの想いだから。
——どうして、笑えるの?
こう空を仰ごう。——私が私でいられたのだから。
——どうして……あなたは恋を伝えたの?
嗚呼、歌ってやろう。——私という存在が、誰でもない私だけの感情がここにあるから。私がここに生きているから——
嗚呼、玲は歌う。すべてを乗せて少女と共に。
嗚呼、ルナは奏でる。示した己を光らせて。
嗚呼、花は支える。決して夢想などではなく、誇れるあなたなのだと。
嗚呼、ヒロは刻む。せめて彼女たちの想いが届くように。
嗚呼——綺麗だった。
本当にただそれだけに、それほどにそのようにどうしようもなく胸が締め付けられた。
どうしようもなく視線が聴覚が脳が離れなかった。離さなかった。
奏でる奏でる奏でていく。
ベースが掻き鳴らし、ドラムスが荒れ狂い、ギターが弾け、キーボードが唸らせる。どれだけ強く強く強く音を鳴らせても、綺麗なままに美しいままに愚かなままに少女は輝いていた。
初めて出会い、初めて告げた海の砂浜で、たった独りでも、それでも輝いていた。
黄昏に照らされた終わりの海。イルカが水中から弧を描いて飛び跳ね、パシャンと水飛沫が上がる。波が揺れるだけの黄昏の海で、たった一匹のイルカの飛沫だけが沫のように弾け光に照らされた。
そして、共に落ちた雫を最後に人々の胸に波紋した。
決して忘れられないひと夏の初恋を雫に。
私はきっと泣きそうだ。今にでも涙を流してこの場から逃げてしまいそうになる。
叶わない恋をする少女——まるで私のようだ。
決して叶うことのない恋。私の恋も叶わない想い。誰かに告げることもできず、誰かに委ねることもできず、誰にも譲れない恋心。
彼を苦しめただけの想いの熱狂。
ああ、逃げたい。今すぐに彼女らの音楽から離れたい。耳に入れたくない。少女の初恋なんて知りたくない。
でも、聴いてしまう。でも、望んでしまう。でも、希望を求めてしまう。
彼は私のことを好きじゃない。
彼は私に罪悪感という罪を抱いている。
決して恋心などという甘く苦しいものじゃない。ただ痛いだけの罪という傷を背負っている。
確かに私は彼に傷つけられた。この恋心を侮辱されて、尊厳まで歪められた。それでも、必死に抗おうとする彼に惹かれた。何一つとして何かがきっかけなわけじゃない。ただ、偽りでも犠牲でも利用でも、それでも私に彼が話しかけてくれた。ただそれだけで、目の前の少女のように好きになった。
きっとそれだけ。他に意味なんてないんだと思う。
だから歪んでいるんだと思う。愛情というような普遍的な感情ではないんだと思う。
だから終わらせる覚悟を決めた。
彼を赦すんだって、私は私の恋を捨てることに決めた。
なのにどうしてっ……!
どうして……叶わなくても歪でも愚かでも抗えなんて言うの……!
どうして……自分として自分の唯一無二の想いを叫べと言うの……!
どうして……笑えるの……?
正反対。私が考えていたやり方とまったくの正反対。わかってる。これは皆に向けた歌。私だけじゃない、皆に向けた彼らの意志。
だから履き違えるな。愚考するな。呑み込まれるな。
それがすべて逃げだとしても……私が赦さないと彼は前に進めないから。
「この歪んだ恋を終わらせないとダメなのよ……綴琉」
静かな熱狂の喝采を背に、私はその場を後にした。
今は誰とも会いたくない。今だけは、一人でいたかった。
彼が歌に込めた想いと自分の想いを正しく間違えない結果を出すために。
歩く歩く。当てもなく道もなく歩き続ける。
歩く歩く。意味もなく意義もなくただただ歩き続ける。
歩く歩く。逃げるように迷うように決めつけるように歩き続ける。
歩く歩く。決して振り向かないようにもしくは死体を探すように歩き続ける。
歩く歩く。誰でもない私が歩く歩く歩き続ける。追いつかれないように。
なのに——追い抜かれた。
魅入られた感情じゃない。迷いだした結末じゃない。……ただ、その本人が私を追い抜いた。
追い抜いて、そこで待っている。
間違えようのないほどに、海が静かな夕焼けの傍、砂を足に包んでその瞳は決意に満ちていた。
夕焼けによって琥珀色を一滴落して黒の瞳。
彼は——夜乃綴琉はそこにいた。
ただの予測でしかなかった。ただの勘でしかなかった。けれどそれでいいと思った。
だって俺の決意はちゃんと決まっている。もう揺るがさない、迷わない、決して逃げない。
俺が傷つけた彼女だけからは、絶対に逃げ出さない。向き合え、言葉を交わせ、本音を告げろ。
夕焼けが灯す浜辺、とぼとぼと歩いてきたレイナと目があった。驚愕と迷いと威嚇に満ちた慧眼。
俺とレイナは三メートルほどの幅を開けて互いに対峙する。
沈黙は波の音だった。静寂は息遣いだった。時間は風の囁きだった。
「レイナ。君とちゃんと向き合いたい」
水飛沫が花火のように鳴らす。
「逃げないから。もう、逃げないから」
まるで懺悔するかのように吐き出してしまう。
「俺は向き合うから」
まるで罪に嘆いた加害者のように、無様な陳腐な言葉ばかり飛び出す。砂を浚う波が足を濡らし、暮れていく夕陽が彼女を滲める。
それでも、向き合うと決めたならちゃんとしろ。
「レイナ……俺の話を聞いてくれるか?」
「…………」
レイナは動かない。その場から逡巡しては、夕焼けに邪魔された瞳の奥で俺を見つめる。
俺は彼女の選択を待った。
押し付けるな、早まるな、ちゃんとしろ。今まで散々迷惑をかけて逃げてきたのだ誰だ。俺だ。だから、一方的な想いを押し付けるのだけはするな。それは再び罪となり、傷として、罰の与えられていないこの身には余りある罪の重さ。
俺は待った。それが何秒だろうと何分だろうと何時間だろうと、彼女の選択を待つ。
やがて、レイナは一歩だけ近づいた。その足が波に濡れる様はどこか悲し気だった。
俺は息を大きく吸って吐き出した。
「俺はずっと自分に何もないことが嫌だった」
「…………」
「どれだけ努力しても、どれだけ頑張っても、いつも直ぐに追い抜かれた。俺には才能が何一つもなかった。無力で無価値で無意味だった。……生きているのが辛かった」
「…………」
「学校は嫌いだった。価値や能力のある子ばかりが贔屓されて、俺みたいな屑はいないものとして排除された。誰も俺に期待しなかった。誰も俺を認識しなかった。誰も俺に頼らなかった。誰も彼もが、俺じゃなく姉さんを慕った。姉さんを褒めて、姉さんに笑って、姉さんを好きになった。——俺は無価値な人間だと知らしめられた」
小学校の時だ。姉さんと常に比較されて、常に俺が無力だと無価値だとレッテルを張られて仲間外れにされた。
誰よりも出来が悪く、誰よりもできることがなく、誰よりも価値のある存在じゃなかった。
それだけで、俺は殺された。この学校からいない存在と扱われた。
「学校の先生が俺と姉さんを比較して俺をバカにしてる話を職員室に行くたびに聞いたよ。小学校も中学校でも、高校でも、常に姉さんが上で俺が下なんだ」
「……綴琉」
レイナの呼び声に、俺は頭を横に振った。
「俺は姉さんのことが好きだ。俺にいろいろなことを教えてくれたのはいつだって姉さんだった。俺が死ななかったのは姉さんが俺を愛してくれていたから。別に姉さんを恨んでなんかいない」
そう言うとレイナはどこか安心したように視線を緩めた。
「だから、俺は気づいた。いや、知ったんだ」
「……なにを?」
彼女の問に俺は吐き捨てる。
「みんなみんな上辺だけで偽って生きているんだって」
俺は初めて知った。楓と比較されて同級生や先生に無価値で無能だと定義されて、だから初めて知った。奴らは常に醜い仮面を被り、嘘や偽りを常として適当に生きているんだと。
簡単なことだった。
俺を切り離した奴らはまるで媚びるように姉さんに寄り付いた。
俺を疎外した先生たちは裏での悪口なんて知らんぷりに姉さんを褒め称えた。
みんなみんな価値や能力値だけを見て、偽りを普遍として生きていたんだ。
その光景は酷く悍ましかった。
「みんな俺を貶すのに、俺と違う姉さんには媚びを売るんだ。笑えるだろ?それが酷く気持ち悪くて悍ましかった。俺自身、穢されると思うと……もう無理だった。だから偽ることが嫌いなんだ」
「…………綴琉は、苦しかったのよね?」
「今も苦しいからきっと……。だから、何か一つだけでも俺として証明できる誇れる何かが欲しかった。欲しかったんだ。……でも何もなかった。見つけられなかった。だから、一度だけ、たぶん友達の冬斗や和希に誘われて中学でサッカーをした。でも、ダメだった。友達がいるなら俺に才能がなくても、苦し想いなんてしなくていいと思っていた。大丈夫だって信じていた。……でもダメだった!結局耐えきれなくなって、辞めた。本当に死のうとしたんだ」
偽ることを目立ってしない冬斗と和希がいるなら大丈夫だと思っていた。二人がいれば俺は独りじゃないんだって思えたから。無価値でもいさせてもらえる幸福に小学校の時のような思いはしないと思った。
でも……無理だった。結局は結局だ。俺の根本を変えるなんて一朝一夕にできるようなものじゃない。
集団という澱、牢獄という学校に囚われた瞬間から俺はそのすべてに苛まれ埋め込まれてきたのだから。
たったそれだけで己を認めることなどできなかった。
その事実として耐えきれなくなってやめた。
冬斗にも和希にも何も言えず、もう死にたいとばかりに逃げ出した。
無価値な俺が、偽りの監獄の中に混じって囚人になるだなんて、本能が拒否反応したのだ。
嫌いな俺が嫌いなところでうまくやろうだなんて虫が良すぎる。
「その時にルナと出会って、俺の生き方をルナが見つけてくれた。その楽園に執着して縋って、だから——レイナ、君を傷つけてしまった。俺の身勝手な欲望がレイナを傷つけた。——本当にごめん。本当に……ごめん」
もう自分が何を話しているのかわからなくなった。俺は何が言いたくてレイナに昔話をしているのか……そう改めて考えてみれば出てくるのは罪からの謝罪。この身に余り決して赦してはならない罪過はあまるもの含め、罰と裁かれなければならない。
それじゃないと、誰も救われない。誰も納得できない。
「俺は……またレイナを傷つけてしまうのが、怖い。怖くてたまらない。だからずっと避けてた。……君と向き合うのが怖かった。怖くて怖くてこわくてっ!……でも、ちゃんと向き合うのが制裁なんだって思うから」
その声は震えていた。レイナの眼に映る俺は滑稽だった。俺の瞳は潤んでいた。そのすべてがどうしようもなくて、皮膚を抉るように爪を立てて痛覚のによって引き留める。
だって、泣いていいのは俺じゃない。滑稽であっても、縋っていいのは俺ではない。
もう沢山縋って逃げて喚いて殺してきた。これ以上の醜態は許させない。これ以上の中途半端は赦させない。
罪を認めたなら、己の心と言葉をもって真摯に向き合え。それが償いにも満たない己が課す制裁なんだから。
「だから——君が俺を好きでいてくれている気持ち……嬉しかった」
「…………ぇ……?」
レイナの顔は潤んだ雫みたいだった。
「誰かに……レイナに俺の存在を認められたんだって、嬉しかった」
「綴琉……」
それでも煮え切らない俺にレイナはただ透明に俺の名を口ずさむ。それが、心地よくて、でも、安らぎだったから、俺は頭を振る。
「でも、本当の俺はきっと違う」
「それって……今の」
「そう。俺はどうしようもなく死にたい奴で、無情な人間で、壊れてるんだ。……誰かを好きになることなんて、できない。……俺は人間が嫌いで、誰も信頼できない。エゴだとわかってても、俺の言えたことじゃないけど、それでも!……俺は誰でもない俺として認められたいんだ」
ああ、なんて醜く浅ましい願望だろうか。いや、願望ではなく正義だろうか。悪でしかない正義。
その答えは絶望的なほどに間違えで過ちで失態だ。
なのに……間違わないためといいながらも俺はまた間違いを強制する。間違いであることを間違いでないと定義して、己の正義と言う他者から見た悪を評定する。
正しいのだと、愚かだと、それでいいんだと。
嗚呼、ここに来て俺は大罪を犯した。
ありのままという『強欲』と『傲慢』を。
在ってはならない選択。わかっている。それでも、それでも、それでも!もう逃げないために俺は悪になる。レイナと関わらないために——
「レイナを傷つけた罪を受け入れて裁かれるよ。その大罪に向き合ってどんな制裁でも受ける。それでも、レイナだけに言う。——俺は『俺』として認められるために生きる。もう、何にも染まらない。俺は夜乃綴琉として証明してみせる!」
その絶対の意……つまり、俺が要らないと判断したものは切り捨てる。俺が必要ないものとしたものは切り離す。それが人であっても関係性であっても、救いであっても。
ここにルナとの『同一性』は消えた。
ルナよりもずっと醜い悪鬼となって生き様を書き記そう。
俺はまた一つ、レイナを傷つけた。
「だからレイナ。俺を裁いてくれていい。でも、君の想いには答えられない」
「————」
「ごめん。……ごめん」
どうして…………再び謝られているのか理解できなかった。
どうして……私が赦さないことを前提に話しているのかわからなかった。
どうして……私の想いも知ろうとせずに拒絶されたのか意味がわからなかった。
どうして……そこまで歪んだ答えを導きだせたのか、知り得なかった。
嗚呼、彼はまだ私を見ていない。私の何も見ていない。全部自分を押し付けて理解させて、相手を一個も理解しようだなんて考えてもくれない。それすら脳に浮かんですらいない。
酷く侮辱され。酷く穢された。酷く滑稽に晒された。酷く、私を殺した。
私はもう、耐えられない!
「ふざけないでッッ‼」
その怒声は今まで聞いたことのないほどの怒りの籠った怒号だった。
火山が噴火した表現を当たり前にし、熱という奔流が津波のように綴琉に襲い掛かる。すべてを呑み込んですべて喰らってすべてを睨みつける。
このどうしようもない苛立ちが喰ってかかる。
「貴方は結局逃げてるだけじゃない!自分の意見ばかり押し付けて、自分のことばかり優先して、自分のことばかり甘えさせてっ!貴方は何も変わってない!」
私の怒号に慄いた綴琉だが、その言い分にぎりっと歯を咬んで喰って出る。
「違う!俺はちゃんと向き合って、俺のことをレイナに話した!その上で考えて考えて、今の結論に至ったんだっ!逃げてなんかない!」
その抗弁はなに?その悪臭はなに?やっぱり彼は歪んでいる。私が彼に抱いた『愛』よりもずっと醜く歪んでいる。
「言いたくなかった過去も、俺の気持ちも全部話した。ちゃんと罪を背負って、制裁を受け入れる。逃げてなんかないじゃないか!傷つけた君にそう言ったんだから、だから押し付けでもない!俺はこういう人間なんだって言った。あれは俺の意志で決断でそう生きたい在り方なんだ!それを、君が邪魔する通りなんて——っない‼」
本当に救えない。
あの虚ろに光を当てた眼も、下手な笑みを浮かべようとする憤慨する顔も、ずっと爪を立てている指も、そこから流れ出した赤い液体も、まるで違う。まるで違う。
今、目の前にいる夜乃綴琉は、私が好きになった夜乃綴琉じゃない。
そこにいるのは醜い化け物。自分以外考えられない人間以下の化け物。
その化け物に落ちている事実すら気づけていない。
綴琉が嫌った人間以下に染まっていることを理解していない。
どうしてそうなったのか、私は知らない。だから、話しをしなければならないんだ。
私の感情を、こんな醜い化け物に否定されるなど御免被るわ。
だって——私の心は私のもの。
それを告げたのはただひとり——死にたくても消えたくても、それでも世界に抗って誰かといたいと求めて、罪を受け入れて罰を望んで、迷いながらも関わり続けると決めた向き合うと決めた優しい男の子なんだから‼
だから、私は一歩、彼に近づいた。
一歩、一歩、一歩…………
「な、なんだよ……!」
波と砂に吸い込まれた足を動かして、綴琉の目の前まで歩みを止めない。私に恐れ、もつれながら後ろに下がろうとする綴琉よりもずっと大きく、ずっと前に私は踏み出す。
やがて、手の届く距離で私は立ち止まって、五センチくらい高い歪んだ綴琉を見上げて——その顔に平手打ちをかました。
バチィィ——ッッ‼
「…………え?」
唖然と呆然と熱が唸る頬に手を当てて、まるでブリキの人形のように私を見返すだけの綴琉。
その目に映った彼女は泣いていた。
「…………れ、ぃな……」
「うるさい!ばかぁ!」
頭の回らない俺は、その抱きしめられた温もりに声も出すこともできなかった。見下ろすとレイナは俺をギュッと抱きしめていた。痛いほどに苦しいほどに泣きだしそうなほどに。
「私の、
ドクン、ドクン、ドクン。
鼓動は逸る。熱が走る。空気が急ぐ。脳が加速する。心が疾走する。俺のすべてが逸る。彼女へと逸り、どうしようもないほどに彼女の
ドクン、ドクン、ドクン。
決して離れないほどに俺を『俺』足らしめようと、歯向かってくる。……俺を取り戻そうと、彼女の『愛』が弾けさせた。
「貴方は向き合ってくれてなんかない。だって、私の話を聞いてくれないもの。私の感情を勝手に定義して、私の想いを勝手に決めて、私を勝手に拒絶しないでっ‼このっ……貴方を『好き』な気持ちをそれ以外の何物にはしないで!」
………………あ……ぁぁぁぁっっぁああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ————————っっっ!!!!
たったそれだけですべてを思い返した。たったそれだけの再びの過ちに叫んだ。
彼女の『好き』が、俺を透明にさせた。
「おっ……おれぇ、ぉれは……な、なにを……れいなに、なにを……ぁ」
蘇る彼女を泣かせた事実の痕。彼女を傷つけた悪臭の香り。レイナが叫んだ、俺の過ち。
全てが蘇る。正しく俺が吐き出した大罪の醜態。
俺は俺でありたい?ふざける……!自分すら保てないお前は何を言っているっ!
認められたい?笑わせるな!誰も認められないお前が何をほざくっ!
罪を犯し続ける?もう死ねよ。その罪を悔いて、間違わないように生きようとしたのはお前だろっ!何をのうのうと罪を犯すなど吠えられるかァ!レイナのあの時の表情を忘れたのかァ!
他人などどうでもいい?戯言もほどほどにしろ!独りでなんて生きられないくせに。いつだって縋って頼って甘えているくせにっ!
レイナの想いに答えられない……?——ちゃんと向き合ってもいないお前が何を言っている?お前はレイナの何を知っている?
俺の中の俺が俺の胸蔵を引っ張って、俺の顔を殴り続ける。言葉という正論の刃物と真意という心の断罪で。
俺を処刑台に登壇させる。火をくべるか。ギロチンを放つか。それでも剣で突き刺すか。
嗚呼、なんて救えない……
「お願い綴琉!私の……私の想いを聴いて……っ!」
もう耐えられなかった。もう隠すことはできなかった。もう見知らぬ振りも考えない愚かも逃げ出す幸せも、何もできなかった。その——レイナの泣き顔を見て……俺は泣いてしまった。
「ぁ————っっっ!!っぅ……ごぉ、ごめん……!レイナっ!——ぁっ……ご、ごめんなさい…………ほんとうに……ごめん……レイナ……っっぅ」
涙が止まらない。涙が止まらない。涙が止まらない。
懺悔を胸に後悔を言葉に涙が止まらない。……俺じゃないのに……泣いていいのは、俺なんかじゃないのに⁉それでも——涙が止まることはなかった。
「ごめん!ほんとうに、ごめんっ!また、君を傷つけて……苦しめて……逃げてっ……!ごめん!……ぁっっ……ぅっごめん……ごめん!ごめん!ごめんっ!ごめん‼」
何度も何度も何度も「ごめん」と、俺は言い続けた。レイナにさすられる背中。まるで大丈夫よ……そう言ってくれているかのように、俺が泣き止むまで謝り続けるまでずっとさすっていてくれた。伝わってくる絶対の『愛』。俺が知ろうともしなかった彼女の想い。俺に向けてくれるその優しさや慈愛。
彼女の熱が俺を何度も何度も嗚咽へと誘い、何度も何度も懺悔と後悔、贖罪に成り得ない謝罪ばかりが口を出る。
気づかされた事実に胸が痛い。心が苦しい。全部全部俺が悪い。
結局、裁かれることすらその意味を知らなかった。償いなんて言葉だけだった。俺は結局、レイナと向き合っていなかった。
まるで道化。まるで偽り。まるで虚勢。
その……彼女に話した過去と何ら変わらない、俺が嫌いとしたその人々の事実。
俺もまた同じだった。
「俺は……結局俺が嫌った人たちと同じことを、レイナにした。君を知ろうともしないで、価値観や理想で傷つけて決めつけて……押し付けて。……こんな俺が俺でいたいだなんて、認められたいなんて、ふざけてるな……ごめん」
ああ、今の俺を認められたいだなんて馬鹿だ。こんな傷つけることしかできない俺を、誰にも認められたくなんてない。こんな俺でいたくない。
その、なけなしの抗いに、そっと体を離したレイナが俺を見上げて……その慧眼を優し気に細めて口にした。
「なら、貴方は自分を変えればいいわ」
純粋な慧眼が儚げに俺を見る。
「変える……」
「ええ。ちゃんと誰かを信じることのできる人。ちゃんと誰かと向き合える人。ちゃんと自分を持って、ちゃんと誰かを見れる人に……貴方が成りたいそんな理想の自分に変えていけばいいのよ」
「理想……そ、そんなの、またレイナを、七歌や冬斗たちを傷つけるかもしれないのに——」
「ええ、でも——」
そう、区切ったレイナは波に囁きを鼓動として、黄昏れる海を情念に、俺の心臓にそっと指先で撫でた。言葉以上のものを、熱情以上のものを、感情以上のものを、きっと伝えきれない以上の何かを届かせるために。
まるで鼓動が止まり、まるで鼓動が逸り、まるで世界が止まり、まるで静寂が包む。
レイナは儚く切なく、それでも『愛』を込めて、俺の心臓に指先でそっとキスを落した。
「——それが貴方の抗いでしょ」
きっと今世紀で一番に鼓動が高く産声を上げた。
「貴方が生きる世界は私と違うけれど、それでも貴方はずっと生きるために抗うのだと言っていたわ」
蘇る彼女との過去。それは確かに甘美で甘味な日常。けれど、確かな胸の熱を現した言葉。恐らくたった一度、レイナに告げた変わらない夜明けより蒼の世界で生きる者としての理念。
俺はレイナから視線を逸らすことはできない。
「綴琉の生き方が自分自身で在り続けることだと言うのなら——」
沸き上がってくる。水上してくる。吹き上がる。それは淡く透明なそれだけの沫。
レイナはまた一つ、俺の心臓にキスを落した。
「——綴琉ならできるわよ!誰よりも透明すぎる貴方なら、きっと」
そう、レイナは微笑んだ。
その笑顔は俺が奪い去ったもの。その笑顔は俺が傷つけた傷跡。その笑顔はずっと探し求めていた歌だ。
これが正真正銘最後のチャンス。最後の生だ。
レイナの言葉が誰よりも心に響いた。まるで、ルナにあの日助けられた時のように、俺の心音は安らかに燃えている。静寂に何度も頷いている。
だから——俺はレイナの手を恐る恐る繋ぐように、大切で一度限りで引き戻せない、それでも決意した抗う生き方のために、彼女と向き合うために、俺は言葉にした。
「——レイナの話しを聴かせて、くれないか……?」
それだけの言葉でレイナは満面の笑みで頷いた。
「ええ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます