第48話 同じ衝動の己の未完
テセウスの船……パラドックスの一つであり、ある物体におけるそれを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは『同じそれ』であるか否を問うた伝説だ。
これには様々な哲学者が結論を導いているが、一つとして同じものがない。言うならば答えの示しよう、いわば概念的締結がないのだ。
物体としてその外見や特徴、在り方に異なるものはない。どこからどう見ても過去と遜色なく同一と言える。しかし、中身という点に着目した途端、意味合いはすべてぐらついてしまう。どれだけ偽ろうと本質的な要素が違った場合、それを同一と認める要は存在しない。それは同一ではなく異質というもの。
アリストテレスは四原因説を唱えた。事象の原因を四つに分け、そこから分析することでパラドックスに答えることができるとした。
『形相因』では設計などの観点から本質は変わっていないため『同一』となる。
『質量因』では時と共に変わりうるので図りかねない。
『目的因』では『質量因』としての材料が変わったところで、テセウスが船である事実——『目的因』は変わりようがない。
『動力因』は誰がどのように作ったかという根本的な推論へと導かれ、これも物によって異なる。テセウスの場合、最初に作った職人が同じ道具や技法を使って修理したと考えられているので『同一』を誇れる。
また『同じ』定義としてヘラクレイトスの川という哲学者ヘラクレイトスの説によれば、『同じ』は二種類に分けられるとされる。
『質的』な同一と『数的』な同一。つまり属性が一致しているか、同一に見える存在が複数あるか。
この『同じ』に対する定義から言えば、テセウスの船は質的には同じだが、数的には違う。
テセウスの船として『同一』であり、けれど同じものとして、数として見たとき『同一』ではなく異数となる。他には構造主義や四次元主義といった、『同一』に解をもたらそうとする哲学はあるが、一般の学生がそこまで深く考えたところで答えなどでるはずがない。その実証は哲学者たちによって証明されている。
だから、俺が言いたいのは一つだけだった。
主観として見たとき、俺と彼女は酷く似ている。それは歩んできた道のりだったり、根にこびりついた欲望であったり、他者や社会に抱く激情や虚勢であったり。
けれど、それは主観でしかなく、もしも客観的や定義としても酷似とされるのであっても、やっぱり俺と彼女は『同一』ではないのだと思う。
俺の感情も意味合いも意義や意志は俺のもので、決して誰かと共通する『同一』のものではない。俺の抱く憧憬や渇望と、彼女の抱く諦観や愚考は互いに遜色なく、けれど相手に委ねていいものではない。俺の諦観や愚考は俺のもの、彼女の憧憬や渇望も彼女自身のもの。
だから、俺は否定する。俺と彼女が似ているとしても、根本が同じだとしても、きっとこれからの未来で誰よりも濃く交じり合うのだとしても、俺は否定する。
——俺と玲は決して『同一』ではないのだと。
だから、乗り込んできた玲に言う言葉は決まっていた。
「俺は常に責任を持ち続ける。それがせめてもの償いと始まりであると、信じてるから」
玲は酷く驚いた顔をしてから、ゆっくりと膝をついた。
「託すなんて俺にはできない。この罪を裁かないかぎり、俺は俺を咎め続ける。二度と傷つけないように、ちゃんと向きうために。……だから、俺と君は違う。違うんだよ」
「違わないわ。私の呪いは貴方自身の呪いよ」
喰ってかかる玲に、それでも俺は頭を横に振る。ホテルの一室、俺と玲だけの息遣いが虚しいほどに取り繕われる。
「誰にも認められない苦しや悔しさ。貴方が抱いている無能の二文字。私と一緒。雨の日に死のうとして、あのまま雨に流されて消えようとしたわ。誰にも認められない惨めな自分が大っ嫌いだったわ。それを笑うこの社会も学校もすべて、他人すら信用できないでしょ?貴方が『夜明けより蒼』の歌詞を書いたって言うのならわかるはずよ。私と貴方は『同一』の存在よ。どこまで醜いくらいに一緒なのよ」
玲は譲らない。俺と自分が『同一』である歪さを、譲らない。許容する。いや、寄り辺とする。自分独りだけではないのだと、俺が同じであるのだと、歪んだ愛で満たす。
孤独は嫌だ。だから、同じ悩みを抱えている人がほしい。そんな人がいるだけで、自分はまだ頑張れる。理解者……共鳴者がいるだけで救われる人もいる。
そんな心のうちが俺の胸に置かれた手の指の微熱によって伝わってくる。本当に俺と異質なほどに似た在り方が。
彼女と同じ存在だと言ってあげたい。彼女と同じで求めているのだと告げたい。その細い肩を抱き寄せて境界が認識できないほどに溶け合いたい。二人で微熱という欲情にまさぐりあい、雨に揺られた互いの日のように溶けて消えていきたい。
それでも……それでも、俺は決めたんだ。
ちゃんと向き合って、話し合って、この罪を償うのだと。
決して、レイナを傷つけ、冬斗や和希に嘯いてきた大罪を赦すことは許させない。
心に刻み込んだ罪を一生背負い続けるのが、俺の使命なんだ。
だから、朱の刺す唇に『愛』を落すことはできなかった。
「ああ、きっと同じだ。同じなんだ」
「…………」
俯いていた顔を上げる玲の眼を見つめた。玲も何も言わず見つめ返す。
「だけど、俺と君は違う」
「それはなに?感情?過去?存在?」
「——罪だ」
その瞬間、玲が息を呑んだのがありありとわかった。その息が喉を詰め、閉塞的な意識の最奥、血流が逆流しながら奔走するかのように暴れだす。夏の暑さは感じられず、目の前のひとつの熱情だけが身に染みて、罪という理念の意識が玲を玲たらしめた。ずっと不規則的に観測できない燎原の火染みた過不足などないその王冠に、身を震えさえ、声を木霊させ、喉を切り裂き烈花を咲かせるかのような倫理の鎌が罪を体現する。
荒れ狂う波に溺れながら、その罪に透明に入り込んだ。
「俺は自分勝手な理想である人を傷つけた。生涯いくら清算しても足りないくらいに、傷つけた。大罪なんだ。それなのに、俺は彼女と向き合えなかったっ!怖くていやでわからなくて、考えたくなくて、……また傷つけてしまうのが恐ろしくて、逃げたんだ。ずっとずっと逃げた。逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げてにげてぇっ!……友達にも七歌に向き合えなかった」
「…………」
「そう、生きるんだって決めて傷つけたはずなのに……気づいたら最初の決意にも後悔してたんだよ。笑えるよな。……こんな中途半端な俺は世界に要らない、邪魔な存在なんだって思った。だから——死のうとした」
玲は俺から決して眼を離さない逸らさない逃げ出さない。
ああ、そこもまた違うんだ。ほら見てみろ。俺と玲は『同一』なんかじゃないさ。それを証明するために、俺は吐露する。紫雨野さんに話したように、俺は吐き出していく。この歪んだ関係性を正すために。
「でも、死ねなかった。紫雨野さんに助けられて、話しを聞いてもらって、また歩こうって決めた。ちゃんと今度こそは向き合うんだって、決めた。…………」
「それはどうして?」
玲の正しい問に俺は口元を緩める。
「俺が犯した罪を胸に刻んで、永遠に忘れない。罪を償うため。……もう一つ、裁かれるためだ」
「それは……」
「きっと歪んだ贖罪なんだってわかってる。それでも、今はそれしかできないから。……それに俺が玲に言いたいのはそうじゃない」
「わかるわよ。……私の固執。妄執染みた依存的な執着さね」
諦めたかのように背中から倒れこんだ玲は流水のような黒い髪を花畑のように広げ、両腕を大きく広げた。
「そうね。そうよね。似ていても『同じ』じゃないわよね」
「ああ」
「確かに重症のようね。貴方を依り代にしようだなんて、バカみたいじゃない」
「知るかよ。……俺は玲にちゃんと歩み寄れたか?」
「…………さあどうでしょうね。けれど、貴方は言葉足らずが多いわよ」
「うっ」
「それに私に言いたかったことの本質はこれでしょ。——罪を犯さないでほしい——」
「それと、俺は君と違っても共鳴することも、共感することができる」
「私は孤独ではないと?」
「せめて、俺だけは君に共鳴させたいし、共感していたい」
そう、強欲に傲慢に吐き出す俺に「強情ね」と、玲は口の端を持ち上げた。玲は天井を見上げながら、俺はドアを見ながら、どちらとも笑い声をあげた。
きっと正しい選択ができたんだと思う。
俺と玲は独りじゃない。俺と玲は違っても似ている同感者だ。決して同情はしない共感者。きっと正しい始まりなんだ。
起き上がった玲は乱れた髪を整えて立ち上がる。そしてスマホを操作して俺に差し出した。
「連絡先交換しておくわよ。ラインもね」
「……そうだな」
違いに交換し終えて玲の海のアイコンを見ていると、通知が一つ着いた。データファイルを開くと、それは耳に覚えのある音楽だった。見上げる俺に玲は髪を払って腰に腕を置く。
「ルナの曲よ」
「それは、わかるけど……」
「ならわかるでしょ。貴方がしなければならないこと」
そう言い残して部屋を出ていこうとする玲。俺は止めることもできず、彼女を無言で見送っってしまう。
全ての意味を理解して、己の役割を意味して、ゆえに不可能に思える使命にため息が漏れた。
きっとこれも正しい始め方で、俺がやらなければいけない抗いなんだ。
ドアに手をかけて出ていこうとする玲は足を止めて、振り返った。
「——〝叶わない恋をした女の子。それでも抗い続ける海の輝き〟」
「え……?」
「ちゃんと伝えたわよ。出来上がったら連絡頂戴ね」
今度こそ玲は部屋を後にする。彼女が発したルナからの言の葉。俺は苦く笑うしかできない。
「ふっまるで俺とレイナみたいだ……皮肉かよ」
ああ、なら決まりだ。俺が綴らないといけない思いは決まった。
「やるか……!」
俺はスマホにイヤホンを繋いで回りの音を遮断する。流れてくるメロディーや曲調を理解して、素早く書き起こしていく。
ただ一人の少女に向けた苦しいくらいに輝かしい魅力を。
夏を奔走させるような夏の一等星が舞台で弾けた。
フェイザーがグルーヴを唸らせて颯爽と駆け抜ける。いや、パーカッションの響きが更にアニマートを促進させた。
暗闇の夜を流れていく。一つの光が惑星や恒星、小惑星の傍を全速力で抜かしていく。それは戦場を白馬が前進するよう。そのたった一つの光に釣られて彼らは共に走りだした。色とりどりの強烈な輝きを放ち、宇宙という壮大な物語を進む。アパッシオナートが全力で唸った。火のように煌々と激しく皓皓と己を大気に震撼させる。
やがて、数億の星々は地球へと振り出した。それは流星群。それは未知の神秘。
海岸で見上げる少年少女たちを圧巻とばかりに魅了する。誰しもの心に残る地球最後の星空。
レイナたちの音楽はすべてを魅了した。誰しもの声を奪い鼓動を奪い熱を奪い鼓動を奪い、視線を意識を奪った。
ああ、ギターのバイタルが更新していく。ベースの波が音すべてを押し上げていく。ドラムスの雷が星を混ざり合って輝きを強烈に苛烈に激烈に鮮烈にする。キーボードの旋律が星々を渦巻一つの芸術へと変貌させる。
地球最後の星空は、嗚呼、あまりにも美しすぎた。……あまりにも、強烈すぎた。
言の葉の一つ一つが彼らの胸に熱と灯す。星空の中、人々も共に熱をもって輝いた。
そして、レイナたちの音楽は辿り着いた下界によって終わりを迎えた。
「はぁーはぁ……」
レイナもクレナもヒロも助っ人の鈴木も目を爛々と楽し気に輝かせて、荒い呼吸を繰り返す。そして、熱狂な歓声が起こった。
「うぉおおおおおおおおおおおおーーっ‼」
ホテルから海を背中にした第一野外ホールの舞台にて、今日一番に近い歓声が沸き上がった。
「っみんな!ありがとう!【エルピス】でした!」
レイナたちの演奏を聴いていたわたしと花はあんぐりと口を開いたままやっとのことで息を吐き出せた。
「やっぱりレイナたちは違うね」
「……初めて聴きましたけど、凄いですね。すごい熱量で触発されてしまいそうです」
「そうだよね。わたしは『希望』なんて信じないけど、レイナが歌うとあるかもしれないって思うもん」
「『希望』……そうですね。あるといいですよね」
二人で話していると、レイナが歩み寄ってきた。まるで感想を求めるよう、さながら猫にも見える。
「どうだったかしら?」
その問いはきっといつもならしないもの。だって、わたしは希望や奇跡なんて求めてなく、わたしの歌は存在の証明、抗いの証明なのだ。夜明けより蒼の世界で生きる者たちへと、わたしたちの生き様を、この優しくなどなく偽りだらけで監獄として機能する社会やルールに歯向かい抗い足掻き藻掻き理想を追い求める愚かな生き様を示す。その異端者として共鳴する者たちに届ける。
それが、わたしと綴琉が始めた音楽。
けれど、レイナは違う。レイナは世界の真理を知りながらも、希望と信じ奇跡を望み幸福を願うことのできる人。朝焼けで生きる朱のひと。
レイナは希望と奇跡と届けるんだと、自分たちの歌で誰かに元気を与えるんだと宣った。
わたしとレイナは正反対だ。夜明け前と朝焼け。蒼と朱。抗いと希望。
けれど、レイナはわたしにこう言った。
……私は私の勝手で、ルナも綴琉も……絶対に後悔させる!私の気持ちを見縊らないで!
今もずっと彼女と対立した日の、言われた言葉すべて覚えている。忘れることはできない。忘れてはならない。
レイナがわたしに伝えた言葉と意味のすべてを。
「……希望は、あってもいいのかなって思ったよ」
「ほんとに?」
「うん。ほんとに。……わたしは要らないけど、レイナの希望なら嬉しいかも」
そう、できるだけ笑ってみせようと下手くそな笑みを浮かべて、レイナがわたしに抱き着いた。わたしよりも五センチほど高いレイナはわたしの耳元でそっと囁いた。
「ありがとう」
ああ、それだけでレイナと向き合った事実が報われた気がした。たったそれだけでも、嬉しいのだと初めて知った。初めて他人との心からの関わりが間違いなどではないと、そう思えた。
「レイナちゃんは本当に七歌ちゃんが好きなのですね」
「…………そうなのかな?」
「そうであったら素敵だと思いません」
微笑む花にレイナはこくりと頷いた。
「そう言えば、綴琉と玲は?」
ようやく気付いたレイナはあたりを見渡すが、綴琉と玲の姿が見えない。抱き着きから解放させたわたしは、ホテルの方を見てそっと信頼よりも歪な思いを託した。
「ヨルと玲は頑張ってるよ」
そして流れるように時間が過ぎていく。玲とヨルが戻ってきたのは、わたしたちの演奏が始まる一つ前。疲弊しきったヨルと興奮していてもクールな玲にわたしも花も助っ人のヒロも笑ってしまう。
あんな無茶ぶりを、あんな歪な託しを成し遂げたのだから。
そして、玲に見せてもらった歌詞を見て、わたしたちは引き込まれた。その未完なまでの想いだけで詰め込まれた海の淡い恋の輝きに。
嗚呼、そこにはわたしたちが掲げる抗いが詰め込まれていた。
この厳しく排他的な世界への叛逆が綴られていた。
己を証明する気高き理想が膨らんでいた。
だけど、どこまでもたった一人の少女が恋をした恋心が鮮明に瞳のすべてを魅了して、胸の熱を作り上げて、未完な海へと到らせた。
ヨルはわたしたちから少し離れた場所で立ち止まり、言葉もなくただ見守った。
彼の視線に皆頷いてステージへと昇る。
「どう?」
「問題ないわよ。完璧に歌ってみせるわ」
「ふふふっ楽しみね」
「僕も今日は君たちの一員として心から叩くよ」
「よろしくねヒロさん。玲も花も証明しよう!少女の恋心を——」
そして、恋する少女が走りだした。
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