第43話 理想という名の醜さと矮小さ

 囚人のジレンマ……二者択一の板挟みとなること。

 例えば「自白をすれば軽罪にしてやる」と言われた二人の囚人。それぞれの部屋でこう問われるのだ。

「共犯者と協力して黙秘するのか、それとも共犯者を裏切り助かるのか」

 どう選択したところで幸福はない。何かを手に入れるためには、いつだって何か犠牲が必要なのだ。代償を払うことで、それに見合った欲望が叶えられる。

 いつだって人生は選択の連続だ。そこに運命は介入しない。なぜなら選択とは意志による決断。思考による結論。感情による情動。はたまた、逃げるための逃げ道。

 そうなのだ。だから囚人のジレンマは、きっと弱さへの選択だ。

 気持ちを七歌に伝えるべきだろうか。この罪を包み隠さず吐き出すべきだろうか。あの日の名前の知らない彼女だけに吐き出した思いを、七歌なのかにも言うべきなんだ。

 頭では理解している。心では拒絶している。

 ここに来る命題は一つ。「抗うための音楽を共にやりたいのなら、話しをするべき」。

 だけど迷いが生じる。それは冬斗ふゆと和希かずきに伝えられなかったがゆえだ。こわいがゆえだ。小学校からの付き合いの冬斗にさえ、あれだけ待たせたにも関わらず俺は甘えてしまった。きっと蜂蜜よりも甘く思考を奪う虚像の関係性に。

 そう思っているのは俺だけなのだろう。和希も冬斗も全力でサッカーに打ち込んでいる。俺に分け隔てなくずっと友達でいてくれている。

 その気持ちを信じ切れず拒絶したの誰だ。

 他の誰でもない。逃げ続けている愚かで矮小で浅はかな価値のない人間————夜乃よるの綴琉つづる。俺だ。

 だから再び何度でも問われる。ここに来て二者択一を迫られる。


「七歌と本気で音楽をするために、少しだけでも思いを言葉にして前に進む」

 それか——

「嘘をつき続け、七歌を裏切り続けながら、音楽をする」


 どちらを選んでも吉は出ない。そこに幸福は存在しない。ここに俺の意義も価値も見出されない。

 愚かを晒し、浅はかを認め、罪の痛みを味わう。

 滑稽だと笑われ、馬鹿だと罵られ、心の弱さに自傷する。

 そして見えるのは、俺を侮蔑する呆れる憐れむ歪な七歌の姿だ。

 奥底ではわかっているはずなのだ。七歌は決して誰かを憐れむことはない。侮蔑もしない。呆れたとしても嗤うことはない。同情を嫌い、侮蔑を味わい、嗤われた経験を持つ七歌が、その痛みを知る彼女が、そんなことをするはずがないとわかっているはずなのに……俺はどうしようもなく怖くなる。

 最後の寄る辺から見放されるなんじゃないかと。それでも、七歌が本音を本物を欲して求めていることを知っている。それを強要したのは俺なのだから。

 だから、想いを言葉にする選択こそが正しい。

 それが唯一逃げないで抗える術なのだ。


「わかっている。抗うんだ。抗え。大丈夫、大丈夫、大丈夫。逃げるな夜乃綴琉————」


 掌から零れ落ちた紅花のような雫は、決して誰にも気づかれることはない。その血の味でさえ苦いというのに。



 その声はいつだって綺麗だ。満天の青い夜に流れる一筋の星や雫のようで、やはり儚い。だけど、綺麗なのだ。俺の眼も思考も行動も息も制止して釘付けになる。彼女の歌声に惚れてしまう。

 アカペラは純粋だった。そこに紛れる不純物は存在しない。歌詞という言葉、音というメロディー。歌という想い。

 雲の合間から差し込む陽光は地平の彼方で光を注ぐ。そよいだ風が持ってたのは入道雲のように大きな雲で、それは太陽から遠ざける。ただそれだけで、俺から見える世界全てが新しく色づいて見えた。

 夏の草木が青空を泳ぐ。彼女のプリーツスカートが風に揺れた。白のブラウスの袖から白く細い腕が小さくリズムを取る。通り過ぎる自転車のベルが響き、俺は現実に引き戻る。七歌は俺に気付いていないようで、旋律を口遊んでいく。


 俺は迷った。迷う事なんてないはずなのに、逡巡してしまった。

 ここを一歩踏み込んだら最後。逃げることは出来なくなる。

 ああ、それでいい。それが正しい答えなんだから。

 だけど、情けなく臆してしまう俺がいる。だって、七歌とそう在りたいと思っている反面、俺は話したくはないんだ。事実として話したくない。

 自分の弱さを醜さを無様で滑稽な姿を自分から晒すなんて、そんなものは自分を貶めているかのよう。自分の未来を苦しめていることに違いない。

 もしも、受け入れられなかったら?

 もしも、馬鹿にされたら?

 もしも、見捨てられたら?

 俺は二度と立ち上がれないだろう。きっと部屋の中で腐っていく未来がありありと浮かぶ。それか、またこの身を雨に溶かして死ぬだけだ。


「ばか。七歌なら、大丈夫だってわかってる。大丈夫。だって七歌は向こうの人なんだから……だから」


 自分を晒すことがどうしようもなく怖いのはどうして?


 そんな問いに歯噛みして、やけくそに俺は一歩、七歌と出会った公園に踏み入れた。

 その足音はやけに雑草を掻き分け、やけに土に韻を踏む。俺は七歌に向かって下手くそに笑った。


「……ごめん。お待たせ」


 本当だ。五分も遅刻しているのだからもっと謝れ。謝れ。


「………ごめん」


 その謝罪には幾分もの意味が込められていた。

 LINEを返せなかったごめん。少し避けていたごめん。遅くなったごめん。逃げてばかりでごめん。何も言えなくてごめん。そんないっぱいいっぱいのごめんは、彼女に届くことはない。

 だって、言葉になんてしていないんだから。


「ううん。大丈夫だよ。それよりも体調大丈夫?辛かったら今日じゃなくてもいいんだよ」


 その優しさに涙が滲みそうになる。こんな俺に、そんな大層な優しさ。勿体ない。


「……大丈夫。大丈夫なんだ。ずっと会えなくて……ごめん」

「もー。謝ってばっかりだね」

「そう、だな」

「……どうしてそんなに謝るのかわからないけど、別にいいんだよ。謝らなくても」

「違う。違うんだっ。そうじゃ、ないんだ……」


 さあ言え。ここで言え。

 ルナを信用しきれていなかったことを。

 レイナを傷つけた真実を。

 抱えている死にたい理由を。

 中途半端な生き様の贖罪を。

 吐き出せ。告げろ。言葉にしろ。不確かな感情だけでなく、きっとほんの一部しか宿さない言葉という確かな形にして、喉を切り裂け。

 血を吐け。斬り刻め。


「俺は、ルナに……七歌に言いたいことがあって、それで今日来たんだ」

「言いたいこと?」


 掠れていた。極寒に沸いたマグマのように歪な声と張りと感情の起伏だ。

 彼女の眼が見れない。彼女の顔を窺えない。彼女がそこにいるんだって、認識できない。それでもたどたどしく綴っていく。


「その、えっと……俺」


 ふと、気になって顔を上げたその時、真摯な七歌の瞳に捕まえられた。

 少し琥珀色がかかった瞳が俺を見つめて見つめて離さない。

 心臓の音が消えた。呼吸の仕方を忘れた。靡く風が辻斬りのように冷気と共に俺を傷める。感覚がアンバランスへと誘い、瞬きすら許されない。

 からからに乾いた喉。生み出されるだけの唾を飲み込んで、無理矢理に乾きを潤す。

 握りしめていた指先にぬるっとした手汗の感覚が煩わしい。

 そして香って来る嫌な鉄の匂いが鼻孔から神経、脳髄を感電させる。それは覚醒たる痛みとなって臓器が蠢きだす。流れる血流が寄生虫みたいで気持ち悪い。

 俺は一歩後ずさりそうになった脚の太腿を抓って、彼女の瞳だけを見ていた。


(これが、最後の本当に最後のチャンスなんだ。言え!言え!言えぇッ!)


「俺は————っ!——————————…………っ………………」


(どうして……?なんで……?なんで言えないんだよッ!言えよ!叫べよッ!俺は糞ゴミみたいな存在なんだって、吐き捨てろよ!中途半端で君のことも信じていなかった、無責任な人間なんだって言えよ!君の友達のレイナを傷つけて、それでものうのうと欲望に従った醜い人間だって、無様になれよ!…………逃げてばっかりだって、嗤えよッ!俺はずっと前からゴミ屑で糞な人間だろうがァ!)


 なのに…………なのにっ、言葉は一滴たりとも出てこない。頭の中じゃいくらでも言葉に出来ているのに、なんで口に出せないの⁉七歌に伝えられないんだよ⁉


「ぁ…………お、俺はッ…………」


 もう泣きたかった。涙を滂沱したかった。声を出したかった。言葉にするならしたかった。

 真摯に受け止めようと覚悟を決めてくれている七歌を再び見て、その意思が一瞬にして揺らぎ崩壊してしまう。ずっとずっと叫んでいた懸念が胸の叫びをも鎌の一振りで霧散させた。

 奈落の闇へと落ちていく。遠ざかっていく光にいくら手を伸ばしても届かない。誰もこの手を取ってはくれない。

 俺は臆してしまった。不確実な未来に恐怖を抱き、七歌を信じ切れなかった真実だけが俺を闇へと堕とす。


(はっ…………バカ、かよ。糞だろ……?今更になって、なんで怖気づいてる?そんな、未来の、わからない話しだろ⁉なのになんで⁉…………諦めるんだよ…………)



 いつの間にか俺はへらりと笑っていた。それが気持ち悪い笑みで、気色悪い誤魔化しで、大っ嫌いな偽りだと、主観と客観の狭間で心臓を握りつぶす。

 その笑みは薄く崩れ、曖昧に開いた口が息を呑み込む。


 理解と現実は違った。理想と事実は重ならない。想いと想いはどこまでも二律背反ですれ違って傷つけ合う。

 俺はもう、何も言えなかった。


 そんな憔悴した俺から何かを感じたのか、七歌は見つめていた視線を外して公園を見渡す。その相貌に陰りが出来上がったことなど、俯いてしまった俺には知る由もない。

 気まずい沈黙が流れる。言いたいことがあると言いながら、何一つとして話せなかった俺に七歌は何を思っているのだろうか。

 それとも今もずっと待っていてくれている?そうなら。最後だけでも少しだけでも言葉を形に————なんて、窺えも出来ないくせに、考えだけはいっちょまえに出来るのだから、腹立たしい。

 握り潰した心臓が抗うことをしない。そのことにうんざりする。

 結局俺は自分からじゃ何も出来ない、世界に要らない存在なんだ。ゴミと変わらない。カス以下の醜い怪物。


(死ねよ、俺)


 自己嫌悪なんかじゃ足りない悪循環の自傷が無制限に死ねと吠えずる。それが適切で妥当で歪んでなどいない答えだから、本当に俺は死ねばいいと思う。その時、一つ明るい声音が聴覚を癒した。


「じゃあ、わたしのお願い聞いてくれない?」


 手を合わせた七歌の微笑みは、優し過ぎた。

 優しさは時として刃となる。自分が惨めな存在だとまざまざと見せつけられ、優しさに救われるだけの何もない卑小な人間だと、なんの他意もなく立証される。それを刃と言わずして何という。ただ優しさ。それがゆえに憐れみと同化して矮小だと蔑まれている感覚に陥る。それだけで、価値のない救えない弱い人間だと自己暗示されるのだ。

 もともと、卑小で惨めな存在だと受け入れていても、堪えるものはある。己でそうなんだと決めつける分より、他者からそうなんだよと、証明されることの方が胸は痛い。

 七歌のその優しさが、ただの許しだとしても。俺の心情など関係なしに七歌はある話しを持ち込んだ。


「八月の頭にね。神奈川のどこだったかな?どこか忘れちゃったけど、海に一泊二日で遊びに行く予定なんだ。レイナのバンドがそこでライブをやるみたいでね、一組穴が開いたらしいの。それで、わたしが助っ人で出る事になったんだ」


 そう話す七歌は凄く楽しそうだ。


「それで、主催側がホテル代を出してくれるみたいで、それで綴琉も行かない?」

「……俺も、演奏するってことなら」

「ううん。演奏するのはわたしと街で出会ってスカウトした女の子二人。ドラムはヒロさんが受け持ってくれるみたいなんだ」

「なら、俺が行く理由なんて————」


 正直気が進まない。まだ一言も胸の内を誰にも言えていないのに、七歌たちと遊びに行くだなんて拷問以上の何ものでもない。

 それに新メンバーまでいて、レイナもいるんだ。

 傷つけた果てに、それでも好きだと言ってくれた彼女にどう向き合えばいいのか、わからない。正直まともに会話できる気がしない。

 だから、逃げよう。もう、全てから逃げてしまおう。

 決意など遠い存在で、覚悟など出来ない泡方で、理想など現実の前に砕かれた。意志すら保てない俺に生きている意味はない。迷惑なだけなんだ。

 だから逃げよう。逃げてしまおう。人間そうそう変わることなんてできやしないなんだから。

 頭を振った俺は理由ではなく逃げる言葉を口にしようとして、その前に七歌が言葉にした。


「綴琉————わたしたちの音楽を聴きに来て」

「…………」

「きみが何を言いたいのかわからないけど、きみはわたしの共鳴者なんだよ。だから、聴いて。見て。知って。きみが死にたいと消えたいと思っているなら…………きみが夜明けより蒼の世界で生きる異端者なら、わたしが、わたしたちがきみの胸に歌うよ。抗って生きる生き様を示すよ」

「——————————」


 小さな温もりだけが灯った。それは彩がない。それは形がない。それは意味すらない。だけど、心臓の鼓動と一体化したその温もりが、恋しくてほしくなって手を伸ばしてしまって。

 ただ、君が示すだけの音楽に無性に心が突き動かされる。


 求めているものがあるのだろうか?否だ。

 俺を導いてくれるのだろうか?否だ。

 それは逃げる以外の勇気を与えてくれるのだろうか?絶対の否だ。

 違う。七歌が目指す音楽はそんなものじゃない。

 いつだって答えを見つけて動き出すのは自分自身だ。彼女は独りじゃないと、死にたくても生きているんだと、この不条理で不義理な世界に抗っているんだと星になってくれているだけなんだ。それ自体がルナの音楽で求める歌で叶える音。

 だから履き違える。だから考えろ。だから意味を見出せ。俺はどうしてルナの音楽に惚れた?

 そう考えれば答えはあっさりと見つかった。けれど、それとこれとは話が違う。七歌たちの音楽を聴きに行くということは、四面楚歌になる可能性もあり孤独になる可能性もあるということ。

 だから————


「わたしは綴琉に救われたの。綴琉がわたしの音楽の意味を見つけてくれたから、今もこうやって歌を歌えてる。レイナと友達になれた。だから、今度はわたしが綴琉の音楽をみつけてあげたいの」

「……………………」


 俺はもうどうしようもなかった。俺は逃げていても、誰かを傷つけたいわけじゃない。もう、レイナのように誰かを殺したくない。俺はあまりに歪な心情でそっと頷いた。


「…………わかった」

「ありがとう!」


 そう微笑む君は純白で、なし崩し的に受け入れてしまった俺は、やっぱり中途半端で醜い怪物だ。

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