第42話 〝特別〟
「えー夏休みに入るわけですが、決して羽目を外さぬように。あなたたちは勉学が仕事であり、それを疎かにすることは仕事を全うする人間になれないということです。つまり————」
勉強が仕事なら給料と有給をくれ。学校生活まで仕事とかいうなよ。社会なめん。
終業式で長々しい校長のエピソードに異論をつけながら、俺は背中を丸めた。いよいよ明日から夏休み。高校生の夏休みとなればパーティーしてピーポーしてクルっとまわってワンと吼えるようなもの。違うな。
つまり、中学生では味わえなかった青春の味がラムネ瓶のビー玉を押し込んだように、炭酸の泡と透明な甘さが押し寄せてくる。
みんな、校長の一人演説をそっちのけで夏休みの計画にパラメーター五割増しで活発に話し込んでいる。彼らが見せる楽しそうな笑顔。学校という檻からの解放感。彼らはこれからきっと、炭酸のようにシュワっと弾けるだろう。
青い海に飛び込み、バーベキューの苦楽に笑い合い、カラオケで青春ソングの熱唱。夏限定のお買い物。お盆による帰省や遊園地に水族館に選り取り見取りの四十日間。
綿菓子のように膨らんでいく生徒たちの妄想は体育館を覆って破裂してしまいそうだ。きっと、和希も冬斗も美玖も夏菜もレイナも、七歌もこの夏を楽しみにしているのだろう。
でも、俺は楽しみ……だとは思えない。
それでも、速く夏休みに入りたいのは、学校が嫌いという一番の理由の除き、冬斗と和希に合わせる顔がないからだ。
俺は結局何も話さなかった。元々の関係性に甘んじてしまった。それ以上の変化を恐れてしまった。結局は和希のことも冬斗のことも信用してしなかったんだ。
憐れむような眼差しが目に浮かんだ。馬鹿にするような嗤いが鼓膜を震えさせた。取り残される孤独に今の形に縋ってしまった。結局は俺が招いた俺の弱さ。冬斗は帰りの時もずっと待っていてくれた。そして問うてくれた。その答えが沈黙なのだ。訊く価値もない。俺はまた逃げた。逃げた。
そして、今も逃げようとしている。
「はー……どうすればいいんだよ?」
あれから明日で一週間経つが、顔を合わせればあいさつをするくらい。今までの二割程度も会話をしていない。俺が避けてしまっているのと、冬斗の失望が俺たちの間に大きな溝を生み出した。和希だって、ずっと戸惑っている。何かフォローをと、色々考えてくれている。だけど、これはもう俺は胸の内を告げない限り、関係性が壊れることも戻ることも進むこともないのだろう。
「こんな世界さっさと終わればいいのに」
俺の悪態は、大量の泡に押しつぶされて誰もいない深海へと落とされていった。
終業式が終わり、最後のホームルームを終えるとみなそれぞれバラバラと教室を出て行く。
「どこに食べにいこっか?」
「あっ!あそこに美味しいパスタのお店できたらしいよ」
「俺今から彼女と遊ぶんだ」
「は⁉リヤ充かよー!」
「ボウリング!ボウリングだべな」
「は?カラオケでしょ」
「はい。カラオケだべな」
とあちこちで甘味のオンパレード。午前中で学校は終わりなので部活ある者とそうでない者にわかれて、それぞれの一生に一度の青春へ向けて謳歌の咆哮を吠えている。そんなうるさい教室を後眼に、俺は一人で出て行く。
ふと、視線の先に見えたレイナと夏菜の表情は、正しく甘味に満ちており、それだけで俺の心は安心感を覚えた。
「違うだろ。俺が侵した罪は、そんな簡単に償えるものじゃない。俺はレイナを傷つけたんだ」
そう念じて刻み込まなければ、どうにかなってしまいそうだ。この罪を勝手に赦した時、俺は大罪人となるだろう。せめて、彼女を俺の中で再び殺さないように、罪と罰だけは心臓を掴んでいろ。
俺は苦い唾を飲み込んで歩いていく。本校舎から別塔への渡り廊下を進み、二階のある部屋の前で立ち止まった。プレートも何もない質素なドアは重厚な機密への入り口のようで、俺は唾液を呑み込んで、夏なのに冷たい取っ手に手を掛けた。そしてゆっくりと開いて中を様子見る。
「先生?いますか?」
カーテンを閉め切った薄暗い教室に呼び掛けても、誰の返答も来ない。ガラガラとドアを開け放ち、教室内に踏み入れる。この前来た時と何も変わらない教室は薄暗いだけ。一応ドアを閉めてから奥へと進み、カーテンを開く。閃光弾のような夏の熱い陽光が俺を射し、思わず目を瞑って後退ってしまった。
「太陽まで俺に喧嘩売るのかよ」
「太陽は喧嘩なんて売らないわよ。売るのは太陽光発電よ」
当然の声に慌てて振り返れば、河合詠美先生が腰の手を置いて呆れていた。
「びっくりするじゃないですか」
「反応が可愛くないわね」
「男に可愛さはいりません」
「私は可愛げのある男は好きよ」
「それみんなの前で言ったら、みんな可愛くなるんじゃないですか……」
「それはあなたも?」
「……俺は不真面目なんで」
「そう。なら、女にはさぞ素敵に見えるでしょうね」
「それはどうして?」
「同じ人間性なんて面白くないわよ。誰しもが特別を欲しがり、特別に憧れるものよ」
「……先生も?」
「そうね。けれど、大人はその特別を地位や権力、お金と面白味もない現実に名をつけるのよ。だから、学生は青い出会いと別れの春を謳歌するのよ。特別を求めてね」
特別の意味合いは人それぞれであろう。
例えば才能。例えば運命の相手。例えば認められる幸福や共感。
だから、青い心で出会いと別れの季節たる春を謳歌する。
まったくその通りだ。俺たち子供はいつだってテレビや漫画の中のような出来事を欲している。運命の人との出会い。部活動での熱い戦い。生涯をかけた上への切符。深い絆の構築。見つけてもらえる喜びと定め。
詠美先生は言うのだ。それは今しか味わえない甘くほろ苦い味なんだと。
「貴方が欲する特別は何かしら?」
「……なんだと思います?」
きっと誰よりも欲深く、誰よりも罪深く、誰よりも浅はかなのだろう。
現実を知りながらも夢想に染まることなく、幻想に求めてしまうのわ。
詠美先生は俺の表情を見てため息を吐くように微笑んだ。彼女が自分の席に座るので、俺は真向いに今日は座る。
「?」
「横だと話しにくいだけです」
「私は何も言ってないけど……違うアングルから見る私の美貌に気が削がれてしまうということね」
「先生が言うとシャレにならいですよ」
「あら。嬉しいこと言ってくれるじゃない。なに?いい事でもあったの?」
いい事…………悪い事しかない。いや、いいも悪いもない。
全て俺の問題で、俺が歩むべき問題で、きっとまた間違えてしまった問題なのだ。
それを今更悔いた所で、伝えたいという気持ちは芽生えてこない。
謝罪を誤りだと理解している。多分正しい選択はもう一度だけなけなしのチャンスをもらい、心の底から本音をぶちまけること。それ以外に今は思い浮かばない。
そして、それをやろうとは、一切思わない。だって、俺は彼らを信用出来ていないから。
俺は誤魔化すようにこう答えた。
「夏休みがやってきます」
「……」
夏休みがやって来ることだけが、今の俺にとって一番の良い事であり、救いだ。けれど、俺の考えていることは全て先生に読まれていた。
「一つの長期休暇とは言わば人間関係のリセットでもあるわね。毎日のように会っている日々は近すぎて気づかないことが多い。だから、長らく会えない日に振り返った時、裏腹に隠していた感情が溢れてくもの。または見えていなかった相手の嫌な所を見つけ出してしまうわ」
「……冷房で冷静になったんですね」
「そうよ。長期休暇は自分のことを見直す機関でもあり、相手のことを見つめ直す機関でもあるわけよ。だから、人は本当に心を許していない限り、その関係性を打算無くして続けていこうとは思わないわ」
あまりにも無慈悲な言い方に、けれどそうなんだろうと思う。一学期までよく一緒に遊んでいた友達は二学期に入ると俺のことなどどうでもよくなり、違う人と仲良くなっていることが多々あった。つまり、彼らは冷静に振り返った時、俺に利益はないと悟り利益や価値を共に確保できる利害一致の相手へと乗り返ったのだ。
「打算無くして価値や意味のない人間とは繋がらない。もしも、打算無く価値や意味のない人と繋がっていようとするならば、それこそが本物と言えるのよ。何ものにも代えられないかけがえのない大切だと、言える日が来るのよ」
俺はどうだっただろうか?冬斗とは小学校からの付き合いで離れるという選択枠が俺の中にはなかった。
だけど、冬斗の方はどうだったのだろう?冬斗は俺の何か意味や価値を見出してしたのだろうか。それともただの妥協や優しさからの気遣いだったのかもしれない。
和希はどうだろう。中学に知り合った和希は俺の意味を見出し価値にへこへこするような人間だろうか。どうにも繋がらない彼は、何も打算無く俺とつるんでいてくれたのだろうか。
俺は…………俺よりも何倍と優れた二人に心から付き合っていたのだろうか。そこに有益を得ようとする欲望はなかったのだろうか。
そんなの、わかるはずがない。
「…………わかりません」
口から零れた本音は暖かな人によって掬われる。
「なら、行動することね。待っているだけでは、物語のヒーローにはなれないわ。自分の意思で〝特別〟を探す旅に出て見なさい」
「旅って……インドにでも行きます?」
「新婚旅行はハワイって決めているのよ」
「婚約者が?」
「貴方は私が嫌い?」
その問いは小悪魔的で、思わずグッとくるものがある。詠美先生の美しさも重なって一般男子生徒さながら、視線を逸らして熱くなっている頬を日の光で隠した。
彼女はくすくすと楽し気に笑い、お菓子の包みを俺に掘り投げる。慌てて受け取って見て見ると、ブラックサンダーが輝いていた。
「私のことはいいわ。それよりも貴方が行動をしなくちゃダメってことよ」
「稲妻のように……ですか?」
「好きなだけよ」
包みから取り出したブラックサンダーを口の中に放り込む。口いっぱいに広がるチョコレートとクッキーの味は、青春の甘さとはまるで違った。
「これも一つの味よ。そして、多分だけど貴方はこの味を味わうのでしょう。苦くて痛くて重い味を」
「…………最悪ですね」
「でも、食べていれば最後には美味しかったって、思えるでしょ」
彼女の悪戯な微笑みはブラックではなく、ホワイトの方が似ていると思った。
俺は確かにおいしかったと脳内に刻み、席を立つ。先生は引き留めることもなくノートパソコンの電源をいれた。文庫本だらけの狭い部屋に、彼女は一人で今日も明日も仕事をするのだろうか。それはあんまりにも切なく見えて、気づいた時にはこう言葉にしていた。
「また……来てもいいですか?」
顔を上げた詠美先生は俺を穴が開くほど凝視して、ほんのりと口元を緩めた。
「ええ。いつでもいらっしゃい。貴方の欲しい“特別〟を手に入れに」
俺は軽く頭を下げて教室を後にした。廊下はもう違う世界のようで、聞こえてくる騒がしい部活動の音に浮かぶ上がる過去と彼らを問いに、俺は約束をした人に会いに行く。
俺は彼女の前で、普通にいられるのだろうか。
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