第41話 夏の夜に焦がれを


 わたしたちは近くの喫茶店に移動してきた。それぞれが注文を終え、改めてお互いを認識する。

 甘栗色の彼女はぱっちりとした愛嬌のある大きな瞳に全体的に均整された顔立ち、それに加えて座っているだけでまるで世界が違うかのような品がある。まるで聖母マリアの生まれ変わりと言われても納得してしまいそうな安心感や包容力、美貌が滲み出ている。黄金の林檎を想像してしまった。

 黒髪の彼女は恐ろしいほどの美貌を宿しながら切れ長の黒瞳に長いまつ毛。その眼に見つめられるだけで心を奪われかねない。日本刀に鋭く芯があるように思える。少し、綴琉に似た雰囲気がある。先ほどの歌を彼女が歌っていたと言われれば絶対にしっくりとくる。彼女自身が鋭く刃のようだ。

 思わず見とれていると、甘栗色の彼女が両手を合わせて提案をする。


「まずは自己紹介からしましょうか」

「そうね。私は日向ひなたレイナ。宮坂高校の一年よ。彼女は月森つきもり七歌なのか。同じ歳ね」

「初めまして」


 わたしはレイナの紹介に乗っかってペコリと頭を下げた。自分を紹介する内容が何もないので、これ以上は何も言わない。特に疑問を持たれなかったことなので、高校に進学していないことも、一日中音楽をしていることも言わない。

 丁度各々の飲み物が届き、みんなで一息をつく。冷房が効いている店内といえ、先ほどまで日光の真ん中にいたのだ。目の前に座る二人は演奏を全力でしていたので喉が渇いていたことだろう。

 カフェオレで喉と糖を潤した甘栗色の彼女が自己紹介をする。


「あたしは紫雨野しぐれのはなです。こっちの子が星永ほしながれい。あたしは宮益高校の二年生で、玲が一年だね」

「じゃあ、先輩なんですね」

「敬語じゃなくていいよ。呼び方も好きにして」

「じゃあ、花さんでいい?」

「はい。レイナちゃん」


 圧倒的コミュニケーション能力で会話が進んでいき、わたしは置いてけぼりにされてしまった。こういう所のレイナを見ると、やっぱり別世界の住人に見えてしまう。

 わたしとは違うんだって、音楽以外に証明されてしまう。だけど、友達と言ってくれる虚勢のない彼女がいるから、疑わずにいられる。

 ふと、視線を玲のほうに移すと眼があった。黒曜石よりも鋭く美しい瞳がわたしを見つめる。


「……よろしく」


 その声音は淡白でありながら、やっぱり綺麗だった。


「よろしく」


 わたしの声は彼女にどう聞こえたのだろうか?そんな益体のない疑問は、端的な玲の一句に被せられた。


「それで、さっきのはどういう意味?」


 直結的な刃はその意味だけをわたしに問いてくる。玲の瞳はわたしが怪しい人ではないかを見極める怜悧。

 レイナは言葉を噤み、紫雨野さんはじっとわたしと玲の成り行きを見守っている。きっと、こんな言葉じゃ伝わらないとわかりながらも、わたしは言葉にすることの重大さを今は知っている。だから、言葉にしなければ伝わらない。


「君の声が素敵だった。君の音が作り上げた世界に感動した。君の想いがわたしの心を揺さぶった。君を支える紫雨野さんの在り方が美しかった。二人の生き様に心から惚れたの」


 その絶賛。その称賛。その祝詞。彼女たちの眼が大きく見開けられる。


「水の刃物みたいな叫びが、わたしの胸を刻み込むように傷をつけた。息を積まさせるアクアリウムがどこまでも透明で、玲の声と音楽でいっぱいなの」


 ここまでわたしを満たして驚愕させた音楽は、これで二度目。

 一つが言うまでもない母の忘れ形見『Arrivederci』。

 そして今日、わたしは再び運命に出逢ったんだ。


 この気持ちこの感慨に嘘偽りは存在しない。

 声の形はきっと正しくはないのだろう。それでも、燃え盛る焔を包んだアクアリウムを手放したくない。

 この言葉が意味をなすことを、彼女たちに一つ残らず届くことを、命の限り叫ぶことを、その抗いに手を伸ばすことを。


「わたしはこの世界に抗うために音楽を作って歌を歌っているの。〝夜明けより蒼の世界で生きる者たち〟に、わたしの生き様を示して生きるために」


 その断言。その雄壮に似た抗いの姿。誰かの胸に打つのは、鎚を打つときの焔だ。全身全霊を賭けた生涯の結晶。カンカン……と鎚が我らの胸を打つ。熱を打つ。鼓動に打つ。


 玲は夜明け前の蒼さに胸が惹かれた。

 花は抗いの意志に心臓を掴まれた。

 レイナはルナの音楽を改めて理解した。


 この時、世界は静寂と心音に満ちていた。


「だから、一緒に音楽をしない?わたしたちで作った抗いの生き様の歌を、わたしたちで届けたいんだ」


 わたしは全身全霊で頭を下げた。

 二人と音楽をする日々を夢に見た時、わたしの鼓動ははち切れた。熱に侵食されて燃やされた。音の滂沱に息すらもできなくなった。

 それでも、それこそがわたしの望む音楽の在りかただった。全身を傷つけ、逃げることなどせず己と他人と向き合う。

 痛いだろう。苦しいだろう。辛いだろう。怖いだろう。熱いだろう。冷たいだろう。死にたくなるだろう。消えたくなるだろう。忘れたくなって、泣きたくなって、走りたくなって、誰にも知らない人になりたくなって…………それでも、歌を歌いたくなる。存在を示したくなる。意義を見出したくなる。胸の穴を満たしたくなる。誰かに認めてもらいたくなる。やっぱり、音楽がしたくなる。


 玲と紫雨野は七歌と同じ想像をした。そして同じ感情を抱き、同じ鼓動に辿り着いた。わたしも玲も紫雨野さんも今すぐ音楽がしたくなった。その衝動に駆られた。


「私も、貴女のいる世界の住人だと思うわ。私は…………認めてほしかった人に認めてもらえなかったのよ」


 玲はそう吐き出した。悲愴というよりは悲痛に声の端が沈んでいく。


「あたしは死にたいとか消えたいとかは思わないけど……抗って生きたい。ずっと、そう思ってるかな」


 紫雨野さんは曖昧に苦い笑みを張り付けた。己に対する悔いなのか、それとも情けない憐憫の自傷か。

 わたしには二人の心情をわかってあげられない。同じ音楽を愛しても、同じ生き方に憧れても、成すべき世界の彩も形もきっと違う。

 わたしにはわたしの彩があり、それはわたしだけの形となってわたしを完成させていく。似ている形や色があれ、決して一緒ではない。だから、大事なことは歌で届ける。今のわたしにはそれしか方法がない。

 同情などクソくらい。できるのは共鳴か共感のみ。

 それでも、時として間違う。その可能性を知りながら、わたしは二人に手を伸ばすのだ。


「わたしたちはきっと似ている。この世の中とか周囲から抗いたい気持ちは共通している。自分の存在を示したいと苦しんでいる。だから、一緒にやろう。わたしたちだけの音楽で、共鳴してくれる人たちに証明しよう!——わたしたちはここで生きているんだって!」


 カランカランとアイスコーヒーの氷が転がった。冷房の効いた店内に英国のジャズホップな洋楽がBGMで流れだす。

 真夏の昼間の街路を往来する人々は汗を流し、口を開け、声を流し、脚を動かし、万華鏡のように流れていく。

 小さな雲が風に流され、大きな雲が風に流れてきた。光を咳止められ影が濃さを増して流れ出す。けれど、すぐに流れを再開した陽光が影をどこかへと流した。

 ああ、全てが流れていた。優雅にたどたどしく、愚かにせせらぎのように騒音と静寂に満ちている。

 けれど、わたしたちの空間だけは流れるものは時間以外に存在しなかった。

 流れるように言葉は口にでない。流れるように思考はスムーズに進まない。流れるように互いを理解し合えない。信じられない。だけど、その分流されない強さだけは誇れていた。


 世界が動きだす。いつか未来の誰かの日記にそう書かれている。

 先に口を開いたのは紫雨野さんだった。


「あたしは、お稽古とか勉強で参加できる日が少ないと思うけど、それでもいいの?」

「いいよ。時間をかけてでも、分かり合える人たちでいい曲を作って、歌いたいの」

「…………そうだよね。抗うなら、あたしももっと頑張らないとダメですよね」


 それは独りごとのようで、わたしはアイスティーに口をつけた。

 紫雨野さんは「よし」と、覚悟を決めてわたしの瞳を掴む。彼女の瞳はまるで大きなトパーズのようだ。


「あたしは一緒に音楽がしたいです」

「本当に!」

「はい。あたしも抗いたいですから」

「ありがとう!紫雨野さん」

「花でいいですよ」


 そう朗らかに微笑む彼女の表情には、スッキリとした強さが薔薇のように咲いていた。

 そして残るは後一人。玲に視線を向けるとぶつかり合う。黒曜石のような真っ黒な瞳。淡麗にして孤蝶のような凛とした玲花。

 思わずドキッとときめいてしまう。玲は一つ、その透明で怜悧な美しい声音で言い放った。


「貴女の音楽を聴かせてくれないかしら?」


 玲の懸念はまさにそこだった。自分たちと同じ音楽をするとして、今日知り合ったばかりのわたしの音楽を知らない。知らない音楽家の音楽を共にするなど、馬鹿げている。当たり前にして至極当然の事業。

 わたしは思わず口を抑えそうになって、寸前の所で留めた。その行為は弱り目だ。祟られない強い目こそが、玲を求められている心の部分。

 だから虚勢を張る。偽りじゃない。嘘じゃない。これは強がりと見栄だ。


「いいよ。わたしの作った音楽を聴かせてあげる」


 そう言って、スマホを操作して曲を選択する。イヤホンを玲と花さんに渡す。片方ずつ耳に繋げた二人を見て、適量な音量で再生ボタンを押した。

 彼女たちの表情が変化していく。それはきっと言葉にすることができない心の幾千で、感じた音の数多。わたしは歌が終わるのはただ待っていた。

 曲が終わり二人は静かにイヤホンを外す。余韻に浸っているとわかる惚けた玲と花さんに、わたしは胸を張る。


「この曲は『夜明けより蒼』。わたしともう一人のメンバーで作った、最初の歌だよ」

「…………これが、夜明けより蒼…………」

「すごいです。……言葉になんてできない。」

「言葉なんて要らないの。だって、これがわたしたちの生き方だから!」


 二人は瞠目し、感嘆を漏らし、余韻に息を噤む。これほどの音楽に関われる。そう思うと武者震いする二人。けれど、次に過るのは自分でいいのか、という不安だった。

 玲も花も表に出ても恥ずかしくはない程度の腕は持っていると思っている。けれど、これは別だ。七歌の音楽を共にやると言うなら、演奏以上のものをつぎ込まないとここまでの演奏はできない。ここまで本気の七歌について行けるのか、自信がなくなる。二人のとってそれほど大きな影響を及ぼした。

 沈黙してしまう二人にわたしは意味がわからなく、視線をあちこちと移動させる。そこで、ずっと会話を聞いていたレイナと視線が合い、わたしの戸惑いに「はー」とため息を付けられた。

 弄っていたスマホをテーブルに置いたレイナは身体を乗り出して、二人に話しかける。


「ねえ、玲、花さん」

「うん?」


 顔を上げた花と髪を弄る玲にレイナはある提案をする。


「この夏休みに海でライブコンサートがあるの」

「そうなんですか」

「ええ。そこに私が所属しているグループが出るんだけど、何かのトラブルで一枠空いたんだって」


 これは神の思し召し。そして試練なのかもしれない。そう、わたしは密かに拳を握った。


「そこに貴方たち出てみない?」

「え?あたしたちが⁉」

「ええそうよ」

「無理よそんなの。……覚悟も出来ていないのに」

「それでもいいよ。出ようみんな」


 首を横に振る玲の意見を無視してわたしはレイナに告げる。これは好機だ。わたしたちが音楽を一緒にやっていけるのかの試練なんだ。


「宿泊費諸々は主催側が負担してくれるわ。日程は八月七日。六日にインしてリハーサルを行うわ」


 と、レイナが詳細を細かく話していく。花は慌ててスマホでメモを取り、玲は事の成り行きを呆然と見ていた。やがて諦めに変わり、からからになっていた喉を潤す。

 結論を言うならば、二人の気持ちは傾いている。それゆえに反論はしない。けれど、不安があるのもまた真実。

 このひと夏の大冒険は彼女たちに何を与えるのだろうか。わたしも玲も花も、綴琉も知らない。けれど、抗う己を示せるのなら、きっと彼女らはどこであったも歌い続ける。


「そうとわかれば、早速水着を買いにいきましょう」

「ちょっと⁉そんなお金ない」

「大丈夫。後払いでいいわよ」

「あたしはカードがあるから大丈夫ですよ」

「カード⁉もしかしてお嬢様⁉」

「そんな、ただの一族です」

「一族⁉」


 こうして、わたしたちの高校生初めての夏が始まった。

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