第40話 水のような透明な刃物
日曜日、わたしはレイナと渋谷街へと来ていた。というのも、レイナのグループのライブ公演が決まり、そのために必要なあるものを買いに来た。
「わざわざ付き合ってくれてありがとう。お陰でいい買い物が出来たわ」
手に持つ紙袋を掲げて微笑むレイナにわたしも嬉しくなる。
「うんん。こっちこそ、誘ってくれてありがとう。わたし海に行くの初めてなんだ」
「そう言ってたわね。一日目はリハーサルだけだから、たっぷり遊べるわよ」
「何しようかな~。スイカ割りにビーチバレーにかき氷に焼きそばにあとは——」
「漫画の中にいるヒロインみたいね……」
そう微笑ましく見守るような表情をされると、急激に恥ずかしくなってくる。
でも、仕方ないじゃない、とも思う。交通の便が幾らでも効く東京に住んでいながら、他県にほとんど出た事がない。あるのは小学校の修学旅行の京都と、沙百合に拉致られて連れていかれた静岡のフルーツ天国だけだと思う。
小さい時は色々あって家から出ることがなかった。その後は施設での生活と成長しすぎた心で、友達といえる存在をつくらなかった。中学でもそう。
だから、わたしは今回一泊二日の海の旅行にわくわくが収まらない。
「でも、よかったの?わたしはライブに出るわけじゃないんだよ?」
そう何度目かのお尋ねをすると、やっぱりレイナは何の気後れもなしにすんなりと答える。
「いいのよ。無料で提供してくれる部屋が三人部屋だったんだから。ヒロと助っ人のジュンさんは別部屋で、クレナと二人じゃ広すぎるしつまらないなーって思っただけよ」
それは本心に気恥ずかしいに濁した淡さだろう。
レイナのつまらないは、わたしがいれば楽しいのにな、の比喩だ。
彼女はわたしに嘘をつかない。本心で本当であろうとしてくれる。ちゃんと真っ向から向き合う存在でいようとしてくれる。だから、わたしはレイナの友達であれることを好きだ。その濁し方も真剣な表情も、少しだけ抜けている所も、全部含めてわたしは笑みを浮かべてしまう。
それはわたしも知らなかったわたし自身。
きっと、今こうして普通の女の子で在れているのもレイナのお陰。レイナだから今のわたしがいる。
「そ、それよりもこれからどうする?どこかで一息でもする?」
「そうだね。じゃあ、どこか近場の店にでも——」
その時、わたしの声を掻き消す音楽が刻まれた。
それは大気を斬り刻み真空を青に染めるような純粋なまでの音楽の音色。
反射的に視線を向けると、センター街のストリートルームに観覧者が人だかりをつくっている。
「すごいわ……水の刃物みたい」
「……うん。でも凄く綺麗で、どこか似てる気がする」
ギターを掻き毟るかのようにピックで弦が弾かれ、激流の放射が散乱する。胸を穿ち、大地を透明に還し、雑踏は浮かび上がる浄化のような泡となる。放射が反射した泡を通して屈折して網膜を焼く。音が焼くのだ。それは炎とは違う透明な刃。
水槽が囲い込む。水が浸透する。ここら一帯全てを彼女たちの歌で沈めた。
透明な刃が胸を焼き、目を焦がし、鼓膜を撫で、聴覚を乗っ取る。誰かが脚を止めては憑りつかれる。誰かが耳を傾ければ脳が侵される。誰かが感嘆を零せば魚のように泳いで波紋を打つ。
強かった。かっこよかった。素敵だった。美しかった。透明だった。凄かった。そんな陳皮な言葉しか誰も表現できない。
黒髪の彼女がギターを荒々しく掻き毟る。全ての音を全身で抱きしめて己を音の一部に、叫ぶ叫ぶ叫ぶ。
脚を踏み込み喉を張り上げ、高音から低温まで自由自在に誰にも出せない透明で強烈な刃の声帯を轟かせる。
隣にいる甘栗色の彼女は黒髪の彼女に寄り添うようにギターを優し気にそれでも活気良く弾く。滑らせるように滑らかだ。黒髪の彼女の荒々しさを支え続けている。彼女が自由に歌えるように曲全体を支えている。
終盤に差し掛かった頃には息は雑踏を泳ぐ魚。網膜を揺らすのは水面から反射してくる光。
そこは水のなか。透明な水のなか。刃のような泡がわたしたち人間を捕まえて離さない。
そこは二人の少女によって創造された、新たな世界だった。
やがて演奏が終わると割れんばかりの喝采が水泡に針を刺したように、新世界が破裂した。歓声が上がる。喝采が割れる。空気が熱狂となる。わたしの脚は自然と彼女たちへと向かっていた。
「はぁ……はぁー……ありがとうございました」
その声はもう違う人のような声音。だけど、誰もが先ほどの異質に現実へと戻れない。
しかし、彼女たちが片付けを始めると、感動は過去となり期待は無惨となり何事もなかったかのように日常へと戻っていく。
だって、彼女たちの音楽は透明であり同時に刃の鋭さに焦がしていたから。
それでも、わたしの感慨も感嘆もドキドキも止まらない。もう目が離せない。歌が離れない。きっと永遠に剥がれ落ちない傷の彫刻の痕のようだ。
機材をまとめ終えた二人の少女に居てもたってもいられず、声をかけた。
「すいません!」
「はい?」
振り返った甘栗色の彼女は綺麗な笑顔を浮かべてわたしを見る。けれど、黒髪の彼女はわたしを訝しむように目を細めた。だけど、わたしはわたしの情動を抑えきれない。この激情をなかったことにできない。
後ろから追いかけてくるレイナの声は聞こえていない。わたしは吼えかかった。
きっと、これが全ての始まりだったのかもしれない。
「わたしと一緒に音楽をしませんか?」
雑音が染める街の中、わたしの言葉は混じり合うことなく硝子を鳴らすように良く響いた。
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