第35話 覚めた現実
気を失うように眠りについた彼の顔は決して幼くはない。けれど、涙を浮かべて寝息をたてるその相貌をかわいいと思った。頬を伝う涙を指先で拭ってそっと膝の上に頭を乗せる。
あたしと同歳に見える彼の抱える心境に、あたし自身しんみりとしてしまう。最初は本当に見ていられなかっただけ。彼の背中が彼女と重なった、それだけだった。
だけど、話してくれた彼の苦しみや葛藤や痛みがすごく伝わってきて、立ち直ってほしいと願ってしまった。
もしかしたらおせっかいだったのかもしれないけど、生きてほしくて少しだけ意地悪に説得した。説得なんていうほど綺麗なものじゃなかったけど、こうしてあたしの前で泣いてくれたことによかったと安堵できる。
「ほんとうに玲にそっくり」
スマホからメッセージ音が響き、確認してみるとお母さんから「雨が強くて交通機関が遅延渋滞しているから、今日は帰れない」とのこと。あたしは「わかりました。気を付けてください」と、メッセージを返す。
母が帰って来ないことに安堵の息を吐くのを見計らったように、メッセージ音が再び鳴る。その母から内容に心がどんよりと重くなった。
≫私がいなくてもちゃんと華道と習字、琴の練習をしっかりやるのよ。でも、勉学も疎かにしないように気を付けなさい
それ、いつ寝たらいいですか?
なんては勿論返さず、「頑張ります」と返信した。
「ふぅー……あたしはお母さんの道具じゃないだけど……」
代々日本の習わしごとで功名を上げてきた一家らしい。
あたしはよく知らないけど、父方の先祖たちは習字の師範であったり、華道の天才であったり、琴の演者であったり、と名跡を残してきた。父は特別才能がなかったが、勉学に光があり今じゃ大企業の課長を勤めている。
母はそんな家の仕来りと父の優秀さにあたしと姉にも紫雨野家として継がせようとした。
だけど、姉は反発して家との縁を切り、母の指導は一層にあたしに圧し掛かった。
自分で言うのもなんだけど、あたしは何でもそつなくこなせる器用なほうだった。だから、母はあたしに期待を持ち、あらゆる習い事を強制した。その上父の優秀さまでもあたしに妄執している。
あたしはその期待に応えようと頑張った。頑張って頑張って、その頑張りが凶として出来た。
母は妄執を通り越して、あたしをマリオネットのように規制と強制、利己的な押し付けを厳しくした。
あたしはあたしの意思じゃなく、操り人形のように生きている。
だから、これは嫉妬なんだと思う。自分の意思で抗い嘆き葛藤する彼を羨んでしまったんだ。楔に雁字搦めに繋がれたあたしから見た彼は、どこまでも自由だった。
今はまだない翼で、あたしの変わりに羽ばたいてほしい。
「あたしは優しくなんてないんですよ。今だ、逆らえないで従って生きている人形なんですから」
真っ暗になっていく部屋の中で、あたしの囁きは悪魔の囁きにしか思えなかった。
朝、目を覚ました俺は昨日の失態に羞恥していた。
名前も知らない女の子の家に泣きついて泊まり込んだようなもの。かけてくれたであろうとタオルケットを畳んでその場に置く。見渡すテーブルの上に一通の紙が置かれていた。
——おはようございます。あたしは学校があるのであなたが起きた時にはもういないと思います。リビングに家政婦さんがいますので、帰る時は声をかけてください。裏面に簡単な大通りまでの地図を書いてあります。今日もこれからもあなたが生きてくれることを願ってします。
名前のない文通を読み終えた俺は早速リビングにいる家政婦さんに声をかけた。家政婦さんは事情を彼女から聞いているようで、直ぐに俺の制服を用意してくれて何度も頭を下げたが、気のいいその人は微笑みで迎えてくれた。
少しばかり後ろ髪を引かれる思いで、それでも与えられ、気づかされた現実の灯火と業火をせめて守るように、命の恩人の家を後にした。
結局彼女の名前はわからず仕舞いだけど、昨日の出来事は忘れることはないだろう。
まだ罪の重さに憂鬱になるし、誰かの視線を怖く感じる。中途半端で不甲斐ない体たらくな自分を嫌いだし、どうやってレイナや七歌、冬斗や和希たちに向き合ったらいいのかわからない。
でも、命の温かさを感じられているのは、彼女のお陰なんだ。
「もう少し……もう少しだけでも生きていようかな。強くなりたい。逃げないで立ち向かえる人になりたい。……せめて嘘だけは、ないように……。罪を償って向き合えるようになりたい」
豪雨が通り過ぎた空は眩しすぎるほどの晴天だ。その青さは俺のどんよりとした心とはまったく正反対だけど、綺麗だと思えた。
歩く脚は重い。コンクリートに減り込んでしまうのでは、と思うほどに疲弊する。
夏だというのに吸い込んだ空気は冷たく、内臓を撫でてくるのが痛い。
朝の九時を回り学校は既に始まっている。そこにいない俺を心配するレイナや冬斗や和希を想像すると、格段に身体が怠くなる。
そんなものは自意識過剰だとわかっていても、彼女が教えてくれた現実が耳にこびりついて何度も反芻して身体を重くする。吐き出した息は二酸化炭素ではなくメタル窒素のよう。
ピロンピロンと何度と鳴る携帯をポケットにしまったまま、家までの道のりを死人のように彷徨った。
結局、家についた俺は学校を欠席してシャワーを軽く浴びて自室のベッドに潜り込んだ。
母は心配気に色々と訊いてきたが、まともに答えることすらできない有り様。
俺は彼女の生かされただけで、またも逃げてしまった。
もう怖くて怖くて堪らない。何度も響く携帯に苛立ち電源を切ってカーペットに掘り捨てる。
世界が沈黙したような静寂が罪悪感を駆り立て、堪らなくイヤホンで耳を塞ぎノイズしか聞こえない音楽を身体に染めていった。
沈黙からも現実からも罪からも逃げ出した俺は、ノイズに塗れるように深く深く潜っていく。
それでも、ノイズの海の中にある心音は月のようで、俺は彼女の姿を永遠に幻視して暗闇に沈んでいった。
それでも鼓動する心音はどこか心地よかった。
———————————
誰かが俺を追い抜いていく。それが堪らなく悔しくて今まで以上に足掻いて足掻いて足掻いて————だけど、その差は一向に縮まらない。それ以上にまたも誰かに追い抜かれた。それから津波のように俺をみんなが追い抜いていく。
手を伸ばした、脚を廻した、一生懸命足掻いた。けれど、振り返る彼らの眼は嗤っていた。嘲笑だ。爆笑だ。憐れみだ。見下しだ。失望だった。
どれだけ走っても、どれだけ叫んでも、どれだけ手を伸ばしても、それは虚空を彷徨うだけ。決して追いつけやしない。追いつくことはなかった。
今までの努力を疑った。目の前の人間を疑った。これまでの過去を疑った。
俺がしてきた努力は才能と天才の前に無駄でしかなかった。彼らを振り向かせるだけの技量は存在しなかった。
そんな俺を嘲笑う彼らはもう別人だった。俺と一緒に高め合って競い合っていたあの頃のそいつらとはまるで似ても似つかない。あっという間に、俺は独りになった。
ゆえに、これまでの俺の人生が何だったのか、わからなくなった。俺の全てが無駄になり、俺の信じていた人が俺を裏切り、夜乃綴琉という存在がわからなかくなった。
真っ暗闇の中、足元が波紋するだけの孤独な世界。
がむしゃらに走る。必死に藻掻く。何か何かに縋りつきたい一心に手を伸ばす。
————だけど、俺という存在は認められなかった。
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