第36話 せめてそうであるために


 ふと、目が覚めた。

 酷い夢を見ていたような暗雲感がするが、顔を上げればそれはもう泡沫。

 レースカーテンの後ろで見える景色は黄昏を終えた群青の夜。いつの前にか今日という一日は夜を迎え入れようとしていた。

 なんの感慨も覚えない。一昨日まで必死に練習していたシンセサイザーに眼もくれない。散らばっている楽譜を目障りだと立ち上がって蹴り飛ばす。ただひらりと舞うだけで、何にもならない。

 勉強机にないと思っていた俺のリュックが置いてある。誰かが届けてくれたのだろうか。誰だろうと想像するのは、二秒程度で破裂する。別に誰であっても構わない。別にどうでもいいと投げた。


 ベッドに腰を下ろすと、お尻の下に違和感を覚え手探りする。イヤホンの先端があり、イヤホンに繋がっているウォークマンは電源が切れたのか、イヤホンから音は一切しない。

 詰まらないとどこか癇癪してほり投げる。ベッドの上で跳ねるイヤホン両端でぶつかって擦れる音がした。


 呆然とカーテン越しに見える闇を眺めながら思い浮かぶのは二人の少女。


 今から彼女たちは行動を始める。限られた時間の中、在りたい音楽を目指すために汗を流し、歌を歌い、メロディーを奏でる。ここからでは見る事の出来ないストリート街が命を灯す時間だ。

 今までの俺なら飛び跳ねるくらいにこの時を待ちわびていたことだろう。大好きな音楽に染まり、やりたい在りたい音楽を共感者と共に生み出す。その過程や結果の全てを楽しみで仕方なかったことだろう。そう他人事に思えるほどに、俺には過去の出来事と感情に思えた。


 今この時が死にたいと悩み、消えたいと苦しみ、認められないことに足掻いている者たちの生きる時だというのに。社会や組織から省かれた者——異端者が叫ぶ時だというのに。


 夜明けより蒼の世界がやって来るというのに、俺は部屋で眺めているだけ。


 あそこに俺の居場所はない。

 抗うこともできず、死にたくても生きていると示せる叫びも持たず、あろうことか死んでしまおうとして、それをたまたま彼女に生かされただけ。

 逃げてばかりの俺は、夜明けより蒼の世界で生きる者には相応しくない。


 二枚目のカーテンを閉めようとした時、こつんと脚に何かがぶつかった。

 視線を落として見ると、電源を切りっぱなしの携帯が寂し気に佇んでいる。ずっと電源を切っていて気にならなかったが、誰かからのメッセージが来ていると思うと怖い。酷く狼狽えてしまう。

 当然、昨日逃げ出したことを知っているレイナからの言葉が来ているはずだ。それに、七歌にもちゃんと返信をしていない。眠る前に冬斗と和希からも連絡が来ていたことを思い出して、更に陰鬱になる。


「なんで、こんな気持ちにならなきゃいけないんだよ」


 そんな悪態はブーメランで自分自身に帰って来るだけ。こんな気持ちを招いたのは俺の失態と罪の重責だ。


「わかってる。……もう、逃げちゃダメなんだろ。わかってる。わかってる……。LINEを見るだけなんだから」


 そう自分を叱咤してスマホに電源を入れた。

 これくらいで逃げるな。これくらいはせめて向き合え。何度も何度も傷跡にするくらいに刻み込む。

 起動したスマホはやけに明るい気がしてならない。目線を逸らしながらLINEのアプリを開く。

 恐る恐る視線を移すと、想像していた通りのメッセージ数や人から届いていた。レイナに七歌に冬斗に和希、それと楓からもだ。

 俺は恐怖を振り払い、一番下から順に開いていった。


 レイナからは俺への心配の言葉と昨日の謝罪があり、彼女に吐露した時のような地獄が襲い掛かって来る。息が詰まり目の前が点滅する。吐き気に唸りながら『大丈夫、謝るのは俺のほうだから』と、濁した返ししかできない。それ以上に言葉が浮かばず返信をしてトーク画面から消える。

 途端に息がしやすくなり、吐き気が収まった。その事に笑えてくる。


「ふふふっあぁははは……馬鹿じゃねーかよ。糞かよ……」


 次に七歌にちゃんとした返信を返し、そそくさに画面を切り替える。それを冬斗と和希にも同じことをして、やっとのことで上手く息が吐けた。バクバクと五月蠅い心音はまったく心地よくない。

 色々思う事、考えなければいけないことはある。十分に理解している。だけど、今日はできない。昨日の夜から何も食べていないお腹はエネルギーを脳に与えない。

 それを一つの言い訳に、再びスマホの画面に視線を落とした。そこであることに気付く。

 俺と和希と冬斗のグループLINEの方にメッセージが来ていることに。俺は生唾を嫌な予感がするとばかりに呑み込み、大丈夫だと暗示をかけて開いた。


 ≫明日、朝の11時にセンター街駅前に集合 冬斗

 ≫了解 和希

 ≫それと、このLINEを見た奴は強制参加なのでお忘れなく。来なかったら夏新作のエメラルドバックだからな 冬斗

 ≫なにそれ!俺めっちゃほしいんだけど!冬斗が忘れてくれるのか! 和希

 ≫忘れるわけないだろ。後、このバッグ五千以上はするからね 冬斗

 ≫いや、高すぎだろー⁉


 そんな二人のやり取りが続いている。そして俺は理解した。彼らの策にまんまと嵌ったことを。


「いや、待て。別に強制とか言っても、行かなくてバッグも先延ばしにすれば」


 そんなせこく浅はかな考えは彼らの策によって当然潰されている。


 ≫もしも、バッグを先延ばしにして忘れさせようとするなら、このグループは消滅だからな 冬斗

 ≫まーいいんじゃねー。来ればいいんだし 和希

 ≫ってわけだ。明日来いよ綴琉。返事はしなくてもいいから 冬斗

 ≫絶対に来いよ!あと、お姉さんにお前の都合とか訊いて、諸々頼んであるからよろしく~! 和希


 直ぐに楓のメッセージを確認したら


 ≫明日あんた暇って和希君に言っといたから。あと、逃げれると思わない事ね。私明日バイトは休みで朝から家にいるからね(⋈◍>◡<◍)。✧♡


 やられた!


 心理学を専攻している楓だ。俺の負の感情に気づいていたに違いない。やたら先週からピアノの練習に付き合ってくれると思っていたけど、俺の悩みを読み取るのが目的だったのか。

 この急な予定も俺を逃がさない提案も全部楓の指金に違いない。俺が最も裏切れない、縁を切りたくないと思っている二人を逆手に取ったのだ。


「お節介かよ」


 それでも、悪魔と思えないのは俺がするべきことを知っているからだ。

 何度も憎むほどに死にたくなるほどに濁らせている中途半端な態度と逃げの姿勢。

 ダメだと思っているのに、やはり逃げてしまう。

 理想と本能がぶつかり合って、向き合おうと思えているのに向き合うことが怖くて仕方がない。

 楓にどんな心境の変化があったのかは知らないけど、それでもこうしてチャンスをくれたのだ。四方八方を塞いだ強硬なやり口でも、俺にとってはチャンスで逃げ出せない脅しが覚悟を決めさせる。

 楓のことだから俺の弱さも知っているに違いない。だからこうも心根を揺さぶる攻撃をしてきたに違いない。


「なんなんだよ。……お見通しかよ」


 ドヤ顔で「当たり前でしょ。なんたって私はあんたの姉よ」と、腕を組んでいる姿がありありと眼に浮かぶ。俺は心の中で「うるさい」と、返事をしてから画面に視線を戻した。


 冬斗の何でもないような気遣いと、和希の重圧を感じさせない和みの雰囲気が俺をずっと軽くする。

 グループの消滅というあたり、本当にこちらを気にかけているのがしみじみと理解できた。それと同時に俺の決断を待っていてくれているのだと涙が浮かんでくる。

 友達や親友といった個人的な関わりでなく、グループといった大きな集まり。暗にグループの消滅は関係性の消滅と同義に聞こえるが、俺の自惚れかもしれないが、これは関わり自体は消えないよ、と安心感を与えてくれているのだ。

 俺の精神状態を鑑みて、それでも試練を与え、だけど優しさを裏に忍ばせて見守ってくれている。


 そう気づいた時には、もうどうしようもなかった。


 俺の罪は俺のもの。いずれ償わなければいけない死罪に値する有罪。

 制裁の名は向き合うこと。

 俺が描いたそうでありたい理想たる現実にするために、いや、せめて分かり合って偽ることもなく嘘もなく本当で在りたいがために、制裁を実行しなければ俺は人間以下の化け物となって死ぬ。生きたまま死んでしまう。

 今はまだ、レイナや七歌に向き合う事ができなくても、小中からの付き合いのある冬斗と和希ならできるのかもしれない。


「大丈夫だ。大丈夫なんだ。……はー問題ない。少しだけでも、サッカーのことだけでも言おう」


 返事は返さなかった。でもそれでいい。インターネット内の不明な会話じゃ足りない。行動で俺の口から、せめて目を見て。

 ベッドから立ち上がてエアコンの冷房を消し、窓を開けた。

 少しジメッとした空気の中を爽やかな風が通り過ぎる。

 来週の終わりから夏休み。だからこれが最期のチャンスだと俺は風に呑まれた。

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