第34話 心臓の鼓動

 別に死んでもいいと本気で思っていた。

 むしろ、死にたかった。いや、消えてしまいたかった。

 誰にも覚えられずに忘れ去られたかった。俺自身もその全てを無に還したかった。自分が生きていることが間違えに思えた。

 レイナを傷つけた罪も、不甲斐なく中途半端な生き方も、今だ冬斗と和希に話せていない体たらくも、一度決めたやるべきことへの揺らぎも、その全てが俺の過ちで間違えで償わなければいけない刑罪なんだと思った。

 だから、雨に攫われたかった。風に切り裂かれたかった。雷に焼き尽くされたかった。白さに混ざっていきたかった。曇天に粉々にされたかった。冷たさに命と魂を切り離して欲しかった。この命が身体が、どうにでもなればよかった。


 なのに————


 俺が今いるのは屋敷というような日本家屋の畳の一室。

 ぐちゃぐちゃに濡れた服は脱がされ、脱衣所で「お風呂入って温まって」と言われ、反論する気力もないままヒノキ風呂の豪華に目もくれず、シャワーを浴びて沸かされた湯につかり、さっさと出てきて今ここにいる。

 その間の記憶も時間の経過も曖昧で、確か楓には連絡をしたような気がする。俺の服を乾燥機で乾かしているらしく、お父さんのと思われるシャツとぶかぶかのとパーカー一枚にジャージズボンの状態。自分の状態が確認できるくらいには落ち着いていた。

 けれど、虚脱したまま辺りを見渡し、高そうな兜や日本刀に浮世絵や造形物を目にしても、何一つ感慨が湧かない。

 ただ、どうして、俺はここにいるのだろうと、雑念のように浮かぶばかりで、それすらにも意味を持たせられない。


 だれかが囁いたような気がした。……お前は迷子のようだ。


 それは聖母マリアの導きか、悪魔サタンの囁きか、あるいはこの世界で俺を見る数多の人の憐れみか。だけど、反論ができなかった。俺自身が迷子のようだと自覚したからだ。


 迷霧に迷い込んだ俺は、ひたすらに歩くしかできない。歩いて歩いて、どこかいつかあると信じる答えを見つけ出さないと霧は晴れない。

 それをわかっていて、そう認識を改めて、だけど今の俺は蹲って諦めている。その場で足を止め、何にも逆らえないまま何にも突き動かされないまま腐った苗木のように死んでいく。俺という存在の風船は豪雨のそれだ。


 襖がシャァーと開き、誰かが背後からやって来る。その足音は静かで俺を気遣った配慮に思えて、一層に理解し難い。その人物はおぼんに乗せたウーロン茶を目の前のテーブルに乗せる。


「どうぞ」


 水滴が垂れた透明なグラスの屈折で俺の視界に彼女が入り込み、ゆっくりと見上げた。そこにいた彼女はにこりと優し気な笑みをつくってテーブルを挟んだ正面に自分用のグラスを置いて腰を下ろす。

 ピーンと伸びた本の側面のような姿勢は俺には出来ないようなものであり、それでも柔和さを滲みだしている。

 話しを聞きます、と言ってくれているようだ。

 甘栗色のセミロングの女性は訝しむ俺を見て、息を吐くように胸を撫でた。


「あたしがどうしてあなたを拾ったのか理解できないですよね」

「…………」

「そんなに睨まないでください。別に拉致監禁するわけでも、脅すようなこともしません」

「…………なら、どうして?」


 意識的に出した声は自分のものではないような、異質な声音に感じた。歪んでいるようなすっきりとしているような、岩石のような。

 声を出したことで戻って来る普遍が、自分を助けてくれた命の恩人を疑心してしまう。

 真っ先に言うべきことはお礼であり、追及ではないのだ。名前も知らない目の前の少女はどこか懐かしむ相貌で俺を見つめた。


「去年、あなたと同じことをしている人がいたんです」

「おれ、と……?」

「はい。あなたと同じように雨の中佇んで、消えようとする女の子がいたんです」


 その事実は衝撃的だった。まさかのまさかだ。俺と同じような心境を抱き、その果てに消えようとする人がいるだなんて、あまりにも現実味がなく信じられない。けれど同時に共感心を抱いてしまうのは愚かだった。

 それでも、共感を抱き同情なんてしたくなく、ほんのりと胸の内が温かくなる。

 それを最低と理解しながら麻薬のように熱に浮かされる。

 そして彼女は続ける。


「あたしはその人に声をかけて、家に連れあげたんです。彼女は本当に消えようとしていて……あたしはそれを知っていたから、どうしてもあなたを見捨て、いえ、見離せなかったんです」


 真摯で淀みない純白で慮る精神で、俺の熱は一瞬にして冷める。

 夢から覚めるよりも冷酷に、理想を幻視と知るよりも酷に、現実に打ちのめされるよりも遥かに灼熱に、俺は覚める。迷夢という期待から覚める。

 同時に襲い掛かって来る俺の醜さやバカ加減、それに何も成長も理解も決意も出来ていない不甲斐な

 さと愚かさに、嫌気が刺す。結局は逃げているだけなんだ。

 沈痛な顔をしている俺に、彼女は痛そうのに眉を下げた。その彼女のことを思い出したからだろうか。


「…………あたしは別に何も強要はしません。話さなくても、あたしを理解できなくてもいいです。だけど、今日一日だけは泊っていってください」

「どうして?」


 消えようとしていたゴミ同然の俺をどうして。

 すると彼女は「ふふふ、全く一緒ですね」と笑ってから、まるで死ぬべきではないと天使が光を浴びせるような慈愛の籠った瞳で頷いた。


「あなたをこのまま帰してどこかで命を絶たれたら、あたしの気が滅入るからですよ」


 そう、からからとビー玉をラムネ瓶の中で転がすようにはにかんだ。そんなまるで偽りのない自分本位に思える言い分に、呆気に取られて、でも直ぐに笑いが込み上げてきた。


(おかしい……。おかしすぎる。こんな俺がどうなったところで、どうにもならないのに……。なんで、そんな風に笑えるんだ?どうして、俺なんかを拾ってくるんだ?ほんとうに……おかしい。あーあ……)


 興が削がれてしまう。もうこれじゃあ、消える勇気なんて掴めない。

 虚脱していた心が鼓動していることに気が付いた。胸の辺りいっぱいがお風呂で感じた熱を湯たんぽのように広げる。

 留飲が下がり冷静さが戻って来る。それと一緒に噛み締めた苦さもナイフで切りつけた痛さも、パチパチと弾ける虚ろな蛍光灯のような後悔と悔しさも、俺の一部と化する。


 きっと、ぽつぽつと話し出したのは、ほんの気まぐれで、多分縋った弱さと求めた助けだった。


「…………俺には何もなくて、才能とか能力とか、特別なことが何もなくて……諦めたんだ。それからずっと俺が俺でいられる生き方を望んでいて、それで見つけた。……でも、俺はそこからも逃げた。せっかく見つけた居場所だったのに、結局認められなかっただけで、一度だけで……逃げた。それなのに、俺はまた縋って次こそは本気でって、生き方を選んだ。……大事な人を傷つけてまで、その道を選んだはずなんだ。……でも、今はその選択が正しかったのか、わからない。レイナを傷つけたことを罪だと思っているのに、レイナは俺を……見捨てないでいてくれた。俺が傷つけたのに、俺は——彼女からも逃げ出したのにっ」


 幾重になく後悔を胸に焼いた。業火のように鮮烈に大焼炙だいしょうしゃの刑罰とする。

 チンワト橋で嘘の家へと押し込まれる。真っ暗な家で八寒地獄が更に俺を襲う。

 鳥肌が潰れ、異常な寒さに痛哭を叫び、舌も身体も神経が凍り、青い睡蓮のように凍傷によって全身がひび割れ、蓮華のように酷い寒さに皮膚が裂け流血が紅花のように、そして最後は自分自身の身体が紅色の蓮の花のように死を纏う。

 俺の犯した罪はそれほどだ。誰がなんといようと、閻魔が裁くほどの死罪なんだ。


 ただ、己の欲望でレイナを傷つけただけ。

 ただ、一度二度と逃げ出したことに縋りついただけ。

 ただ、それすらも迷走してしまうだけ。

 ただ、言葉以下に中途半端に生きているだけ。

 ただ、一番差別を認識の疎外をしていたのが、誰でもない、俺が嫌うそれをしていたのが、俺であっただけ……。

 その全てが、『ただ』なんて甘さで許されるはずがない罪というのだ。


 俺が俺を許せない。あの時の俺を殺してやりたい。あの日の俺を消え去りたい。あの瞬間の俺の心を殴り飛ばしたい。


「俺はわかっていたはずなんだッ!俺は人間以下のゴミ屑なんだって、知っていたはずなんだッ!それなのに——っっ!っレイナを踏み躙ったっ!七歌に嘘をついたっ!俺の勝手な現実逃避が、二人を……冬斗も和希も、もっといっぱいっ……沢山の人を傷つけたッッ!俺なんて生きているのが間違いだったッ!さっさと死んでおけばよかったッ!そうすれば——誰も傷つかずに、俺も苦しまずに済んだんだ——ッ!」


 吐き出す、吐き出す、吐き出す。

 涙が滂沱になるよりも遥かに多く、唾液が枯渇するよりも無様に愚かしく、俺の過去のフィルター全てにバッテンをつけて赤く黒く染める悪質なグラフィティーさながら。

 真っ黒な津波は怪物の顎。到来する稲妻は憎悪の呪い。突き刺されるナイフは魂の澱。巻き付いて離さない蔓は荊の瞋恚。崩落する大地は悪夢との怨嗟。

 吐き出す、吐き出す、吐き出す。

 もう独りじゃ耐えられない。死なないと、消えないと、耐えられない。

 だから、これは俺を助けた彼女への仇だ。


「俺が大っ嫌いな人間。——俺自身が、そうだったんだ」


 どうして自分に自信が持てる。

 どうして七歌に抗えと言い放てる。

 どうしてレイナの赦しを受け入れることができる。

 どうして七歌と一緒に音楽をすることができる。

 どうしてのうのうと生きていることができる。

 どうして冬斗と和希に本物を求めることができる。

 どうして彼らを否定することができる。

 どうして誰かを嘲笑うことができる。

 どうしてレイナを貶めることができる。

 どうして音楽ができる。

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして——————どうして、キミは怒っているんだ……?


 目の前の少女は怒っていた。それは怒りと理解できるほどに俺を睨み付けていた。悲愴もない歪んでもいない憐れみでもない慈愛でも慈悲でも得心でもない。

 彼女は——怒っていた。

 目じりが釣り上がり、眉間が狭くなり、俺を射貫く眼光が動く心臓を鷲掴む。それは無理矢理に生きている実感を与えてくるような圧迫感と威光に、今までに感じたいことのないくらいに、動悸が激しくなる。

 驀進する流血が熱い。浮かび上がる鳥肌が気持ち悪い。思考できる脳が鬱陶しい。動いてしまう腕も、痺れを感じる脚も、揺らしてしまった眼も意味がわからない。柔和な雰囲気の彼女の威圧が悪感が、無理矢理に命を刻み込んでくる。

 立ち上がった彼女は俺のすぐ横で膝をついて、そっと最も触られたくない胸——心臓に手を伸ばす。

 それを拒むように赤子のように首を振り、痺れる脚を懸命に動かして逃げようとするが、天使の手、あるいは悪魔の手が心臓に触れた。


 ドクン——ッ


 この感覚を言葉なんかに、気持ちなんかにできや……しない。できる、わけがない。


 俺を見上げる瞳は地平線の光のようだった。


「——あなたの心臓は、ちゃんと動いている」


 その声音はラムネ瓶から取り出したビー玉のよう。


「懸命に血を巡らせて生命を繋いでいる。死にたいと願うあなたを生きさせている」


 俺の胸にそっと耳を当て、生きるというものを教えてくれる。


「ほら、こんなにもドクドクしている。こんなにも温かくてあたしに伝えてくれている」


 伝わってくる彼女が熱が、哭いてしまうほどに生命を感じさせてくる。


「あなたの抱えるその罪がどれだけ重くても、あなたのこころは生きたいと望んでいる」


「そんなの……」


 それすらも今の俺には間違えにしか思えない。

 だって、それは立派なエゴで欲望の怨嗟にしか思えない。これが逃亡だとわかっていても、それでも罪には罰で報い入れなければダメなんだ。


 なのに……そう、わかっているはずの君はどうして————微笑むんだよ——。


「————大丈夫。あなたは罪を知っている。大丈夫。あなたは苦しみも痛みも知っている。大丈夫。あなたとの絆はまだ途切れていませんよ」

「————っ!」


 そんなものは詭弁だ……そう、言えたならどれだけよかっただろうか。


 大丈夫なんて保証はどこにもない……そう、薙ぎ払えたならどれだけ安心しただろうか。


 そんなこと、命を感じた今の状態で俺は言えるわけがない。生きることを感じてしまった俺に、生きることを侮辱することはできやしない。

 だってそれは、俺自身への侮辱だから。


 俺は身勝手で利己的で恣意的な人間なんだ。苦しみたくない、辛い思いをしたくない、痛みを味わいたくない。そんな浅はかなまでの赤子のような駄々で逃げているんだ。

 結局は誰かのためだなんて欠片もない。

 だから現実なんて知りたくもない。知ってしまえば、もう死ぬことを躊躇わなければいけなくなるから。

 だけど、彼女は現実を俺に刻み込んでくる。灯火と業火の要を。


「やめ——っ!」


 俺の停止は無惨に呆気なく潰される。現実たる業火に。


「————あなたが死んでしまうことで、悲しむ人がいるのですよ」


 ……………………


「————————————————————————————————————————————————っっっっっっっっっ!!!」


 声が出ないまま口を大きく開けて、叫ぶように、両手で耳を塞ぎ腰を折って蹲るように、現実と彼女を視界から認識から遮断するように息だけを吐きまくった。

 声になんてなりようがない。言葉になんてしようがない。感情も追いつかない。心臓がうるさい。全身の感覚が弾丸に撃たれたかのような痛みを伴う。

 頭も天辺から足裏の親指の先端まで、冷気と熱に侵略される。ぐちゃぐちゃに粉々に穢されていくように。

 このまま何も聴かず、何も得ず、何もなくなればいい。全て吐き出して灯火と業火の魂を吐き出してしまえばいい。足りなくなればいい。


 けれど……そんな醜い生物の頭を彼女が抱き寄せる。

 ぎゅっと包み込んで彼女の胸の熱を与えられる。

 誰かが生きている実感を示される。


 ドクドク。


 少しだけ速い鼓動は一定間隔で、息をする。

 その音が俺を落ち着かせていく。

 叫ぶ喉は息を吸い込み、耳を塞ぐ手から力が抜けていく。

 意味のわからない俺の眼には彼女の中で動く魂だけが映りこむ。


「大丈夫。————あたしはあなたの味方だから、大丈夫。あなたの本音をあたしは知っているから、あなたは独りじゃないよ。きっと、その人たちもあなたを助けてくれるから」


 俺は涙を流した。嗚咽を漏らすのを耐えるように唇を噛んで、それでも漏れてしまう泣き声が嫌で、ずっとずっと歯を食いしばって彼女に縋りついた。

 そんな俺をぎゅっと力一杯に抱きしめた彼女は、俺の意識が途絶えるまでずっとずっと俺に温もりを与え続けてくれていた。

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