第31話 咎を知り、他者を拒む。それは罪である。
歌声が聞こえるほうへ誘われるように俺の脚は進んで行く。
だんだんとはっきりしていくその声音を俺は知っていた。
いつもと違う儚さや弱さが流れる音色。
暗闇の中で仄かな魂のような弱々しい光を抱きしめているかのような、そんな歌声。
俺は今更に惹かれた。
子守歌に似た淡さ。繊細な風の吹雪。何か一つだけに想いを込めた切なく心音のような慈愛と嘆き。
俺は聴き惚れた。その全てに惹かれていた。もう目が離せない。声を離せない。逃げたい心の内側で、それでも聴き続けたと願っている。一心に願っている。
だから、中庭のベンチに座り、薄暮の空を見上げながら口ずさむ君を、俺はずっと見続けていた。
鮮明になる歌に俺は驚愕する。
だってそれは……彼女が理解できない、俺とルナが作った始まりの歌——『夜明けより蒼』だった。
消えたいと嘆き、死にたいと叫び、逃げたいと訴え、虚無に哭く。
それでも、生きるために、この生き辛い世界で抗い、足掻き、藻掻き、存在を示そうとする歌。
希望なんてどこにもなく、奇跡なんて信じない。自分の力と意思と生き様だけで運命に抗う。そんな証明する歌。
けれど、彼女が歌う『夜明けより蒼』はまるで違う歌のよう。
私はこう生きているんだ。こんなに苦しんで嘆いて抗って、大っ嫌いな世界で生きているんだ。だから、誰か見てよ。誰か、私を見つけてよ。——私はここにいるんだから——
そうな風にどうして聴こえる。
同じ曲で同じ歌詞で同じメロディーのはずなのに。
薄暮に紛れる彼女の顔は、わからないはずなのに泣いているように見えた。
それは……俺が流させた涙なのだろうか。
歌い終わった彼女はベンチから立ち上がり、まるではじめから知っていたかのように俺を見つめた。
————————————————
色のわからない唇が開く。
「七歌に本気で向き合ったの」
「…………」
それ以外の音を風が攫って行く。
「私とは違う、七歌や、貴方のような人たちの心がどんなものなのか、私は考えてみたわ。まー考えた所で多くはわからないのだけれどね」
「…………」
薄暮の空に日食のような金輪に包まれた真っ黒な星が世界を見つめる。
「それでも、私は七歌と友達でいたかったわ。偽りのない本心で付き合っていたいの」
「だから、歌ったのか?」
金輪に照らされた彼女——レイナは微笑みを湛えていた。
「……私はね。七歌の声が好きなの。必死に抗っている姿を尊敬しているの。それで、最近見せてくれる笑顔が好きなの。知らないものを知った時の驚いた顔が好き。音楽に闘志を燃やすあの眼差しが好き。もっと、もーっと、沢山あるわ。彼女を知って話て、だからこんなにも気持ちが晴れているの。私は七歌を本当に好きなんだって、心から思えてるわ」
「————っ」
胸に手を当てて嬉しそうに微笑むレイナは綺麗だった。
それと同時に、俺なんかよりもずっと強く歩みだしていることに、七歌を俺なんかよりもずっと好きなことに、嫉妬や羨望、妬みが浮かび上がり思わず俯いてしまう。
どこかで独占していたのかもしれない。同じ心意気で音楽を共にする彼女は、俺にとっても彼女にとっても唯一無二であると、俺は勝手に妄執していたのかもしれない。
だから、レイナが七歌を好きという度に、俺の知らない七歌を口にする度に苛立ちやドス黒い靄が湧き上がってくる。
レイナはそんな俯き歯を噛む俺を見て、寂し気に悲し気に痛々し気に哭きそうに眼を細め、それを俺に見られないように空を仰いだ。
「…………」
「…………」
決別した日の前までは、二人の沈黙は心地よいものだった。嘘をつかない偽りのない関係性は特別で甘く豊だった。隣にいるだけで安心感が自分を満たしていた。
それなのに……一度決別した今、沈黙は密閉された監獄のように重苦しい。重力の全てが悪心の全てがのしかかってきているかのようで、吐き出しそうになる。
俯いていると狭くなった視界はより重圧に嘔吐を醸し出す。命乞いのように顔を上げる。そんな自分を情けないと泣きそうになる。
そんな弱くなった心に負けそうになった時、そっとレイナの声音と言葉が何よりも七歌の音楽のように、俺の体内を新たな空気で抱きしめた。
俺はその言葉と香りと彩と声音と表情を、きっとずっと忘れられない。
「——私は今でも綴琉のことが、好きよ」
「……な、なんで……?」
「さーなんでかしら?私もわからないの」
「……なんで、だよ……っなんでっ⁉お、俺はっ⁉君を侮辱したんだぞ!君を裏切ったんだぞ!俺の勝手なエゴで……っっ君を傷つけたっ!なのに……どうして……?なんで……?そっそんなこと、言えるんだよっ!」
俺はレイナを裏切った。自分から偽りのない関係性を結んでおきながら、他の生き方を見つけては彼女ごと切り離した。
俺はレイナを侮辱した。勝手に決めつけて、レイナの想いなんて何を考えずに恣意的な意思で彼女の心を穢した。
俺はレイナを傷つけた。裏切りと侮辱に加え、彼女自身を否定した。レイナが掲げる意思を、知らないとはいえ勝手な思い込みで否定して拒絶して、言葉というナイフで突き刺した。絶対に消えることのない傷を刻んでしまった。
その全てが俺のエゴ。欲望のままに、生きたいがために、七歌を言い訳に俺は最期まで関係性という悪魔を使ってレイナを殺した。俺の中から殺した。
なのに……どうして……?
困惑、驚愕、混乱、理解不能。もうわからない、わからないっ!どうして、そんな瞳で俺がみれる……?どうして、そんなに切なそうに憐れむような、温かい瞳を俺に向けれるんだよっ⁉
圧倒されたかのように、または逃げるように一歩、脚が下がる。途端にレイナの表情は憂いに濃くなり、今の無意識な俺の行動が彼女を再び傷つけたのだと、また胸の奥が血を吐くように鼓動する。それは鈍器に殴られた以上の感じたことのない痛みで苦痛で辛さだ。
「私が『夜明けより蒼』にどんな思いを込めて歌ったのかわかる?」
そんな問いなどに俺の思考は回らない。首を振り続ける俺をやはり悲しそうにレイナは「そっか……」と呟いた。
またも意味のわからない痛みが襲い痛哭しそうになる。逃げだしたい。誰もいないどこかへ行きたい。ルナの音楽が聴きたい。
レイナの声音は俺を離さない。そして、俺も衝動的に動けない。再びレイナを傷つけることが、逃げることよりもずっと怖いから。
そして、レイナは俺への問いの答えを口にする。
「私はここにいるんだよ」
「…………」
「私はあなたの傍にいるのよ」
「…………っ」
「これが私の生き様。これが私の抗う未来で示したいこと。私が、私の心を否定しないで受け入れる。綴琉に描いた想いは嘘なんかじゃないわ。貴方のことが大っ嫌い。それでもやっぱり、好き……なの。どうしようもなく私の傍にいてほしいのよ。貴方の傍にいたいの。七歌と本気で向き合って、私の心の内側を真剣に考えて、それでこの結論に辿りついたわ。われながら笑っちゃったわよ」
「…………」
言葉が出なかった。息すらも忘れていた。思考など極限の彼方。レイナの言葉がグルグルと廻り、何度も何度もその意味を咀嚼しては、何度も何度も彼女を見つめ続ける。
そして、レイナは笑うのだ。儚げに微笑を浮かべる。
「信じられない?」
「あ……ああ」
「だと思ったわ。でも、事実なの。私は綴琉に振り向いてほしいの」
最早疑うことなど出来ない。彼女を眼を見て「冗談だろ?」なんて、言えるはずがない。
論理なんて超えている。推論なんて意味がない。それら全て考えて生み出される意義や意味は、その想いの後付けにしかならない。
これは感情の問題。レイナが俺をどう思い、俺がレイナをどう思っているのか。今となればお互いの手の内は全て曝け出されている。
レイナが俺を好きだという事実。信じられなくても疑いたくても冗談にしたくても、それは彼女への冒涜だと嫌というほど傷つけた俺は恐れる。
俺がレイナを好きという認識がなく、そして逃げだしたいという事実。
俺は傷つけたレイナに向き合うのが怖い。あの時の選択が間違いだったと変換させられるのが、どうしようもなく罪の断罪に思えて一歩後退してしまう。
「俺は……俺は……おれはっ……」
息が苦しい。循環していた清い空気がベノムのようにドロドロとへばりついてくる。蛇のように悪感を走らせ、金縛りのように諫める。ベノムが体温を奪い冷熱の汗を弗化させる。必死に取り込もうとする空気は苦く、それでも見つめ続けてレイナの瞳の純粋さに、咎を知った。
「ぁ……っぁ……———はぁはぁ……っ⁉」
俺は逃げ出した。彼女からも事実からも向き合うべき抗いからも。
「綴琉——っ!」
レイナの呼ぶ声が聞こえる。それでも、俺を今でも好きと言ってくれる彼女の声も、今はずっと苦しく苦しく苦しくて堪らない。
俺は走った。どこかもわからないどこかをずっとずっと、このドキドキする鼓動がただの疲れになるまで走り続けた。
誰もいない独りになれるどこかへ。
もう何分、何十分と走ったのかわからない。ずっと遠く遠くへとやって来たそこは住宅街から離れた道路の脇であり、小さなデッキが迎え入れた。
「はぁ……はぁはぁ……っはぁーはぁっぁぁ……」
膝を折り曲げて手を付いて粗々しく呼吸をする。息は整うのにどうしてもドキドキが収まらない。目の前の手すりにしがみ付くように倒れ込んだ。
気付けば雲行きが怪しくなり夏なのに冷たい突風が俺の罪を咎めるように吹き付ける。責められている実感にどこか安心していた。
そのことに嫌悪を抱き強烈な吐き気にその場で蹲る。
「うぅぅ~っ……ぁっぁぁっっ!はぁ……はぁ……はぁ……ぅっ……」
吐き出したいのに、どうしても吐き出せない。身体の中にある全てをこの苦しみと一緒に流しだしたいのに、身体が心が何かが邪魔をする。出てくるのは唾液ばかり。
そんな葛藤と五分と続けていると、唐突にバカバカしくなってきて、俺は笑った。馬鹿みたいに情けなくへたり込んで声を上げた。
「ふふふっハハハハハハハハ————っっ!」
止まらなかった。やめられなかった。その笑い声に涙が滲んでいようと、嗚咽混じりな無様であろうと、生気すら感じないような淡白な笑いだろうと、俺は笑い続けた。
そうすることしか、誤魔化せなかった。
「おっかしい……なぁ。間違いじゃ、ないはずなのに……どこで……間違えたんだろうな……?なんで、一歩踏み出せたはずなのに、なんでっ⁉……俺は、逃げてんだよ——っっ⁉抗うんじゃなかったのかよ——っ!」
ヘタレた泣き声交じりの無様な叫びだ。
自嘲したと思えば、己の不甲斐なさと情けなさに嘆き。あまつさえ自分の身体すら支えられず柵に凭れかかって顔をぐしゃぐしゃに歪にしているのだ。
こんな姿で、志でルナと一緒に音楽をしていけるわけがない。
あの日の誓いが嘘のように霧がかかる。それは神隠しのようで、俺から奪い去っていく。なのに、止められない。手を伸ばすことも立ち上がることも叫ぶこともできない。俺はどこまでも弱かった。
ピロン。
鳴り響いたLINEのメッセージ音に顔を上げて、のそのそとスマホを立ち上げる。そこには七歌からの大量のメッセージが届いていた。
≫もしも~し?返事は? 12:15
≫あっもし用事があるとかならちゃんと言ってね。遠慮とかは要らないからね 13:45
≫つづるぅ~ 15:40
≫どうしたの?あっ、宿題忘れてたんじゃないの。ドジだね。宿題終わってからでも返事してね! 16:16
≫少女のスタンプ×7 16:42
≫返事ください 16:59
≫何でもいいから 17:10
≫スタンプ×30 17:18
≫着信×3 17:25
≫ホントにどうしたの?メッセージ届いてるよね?電話も繋がらないなんだけど…… 17:29
≫大丈夫⁉大丈夫だよね⁉返事なんでもいいからちょうだい! 17:36
≫綴琉!綴琉⁉ 17:42
≫着信 17:48
≫着信
≫着信×16
・
・
・
≫さっき、レイナから連絡もらったよ。学校で体調悪くなって寝込んでたんだってね。大丈夫?ごめんに、うるさくして。曲創りの件はいつでもいから。あと、治ったら一言だけでもいいから返事ちょうだい。じゃあ、お大事に。(看病している少女のスタンプ) 18:10
レイナ——
≫七歌には体長悪くなって寝込んだって言っといたわよ。本当に心配してたみたいだから、後で謝りなさいよ。……それと、今日はごめんなさい。 現時間 18:15
「はは……っ」
まさかこんなにも七歌に心配をかけていただなんて、知る由もなかった。
それに、今の今まで七歌からの連絡を忘れていた事実に怒りが湧いてくる。
七歌と一緒に音楽活動する連絡事項だったのに、どうして忘れていた?
なんで、詠美先生からスマホを受け取った時に返事を返さなかった?
どこまでも自分の不甲斐なさに中途半端な生き方に嫌気がさす。
自分に何も才能がないことに打ちのめされた。偽りに妥協することができなかった。だからサッカーを辞めて頑張ることをしなくなって、それなのに……普遍的と特徴のない歌詞しか書けないくせに、七歌を理由にまた始めた。才能がないとわかっているのに。
偽る姿が嫌い嘘が嫌いと宣っておきながら、俺は平気で嘘を吐いてめんどくさいことには偽りの姿で接している。所詮、一人になりきれない人形だ。
社会性が嫌い、学校などの押し付ける環境が嫌い。なのに、レイナの心を決めつけて俺の内を押し付けて、独り芝居で勝手に傷つけた。
俺は中途半端で何をしてもダメで、もう無理だ。
「ああ……死にたい。誰か、俺を殺してくれよ。誰でもいいから俺を消してくれよ!誰も俺のことを知らない世界にしてくれよッ⁉なんでッ⁉……まだ、生きてるんだよ……」
俺は身勝手な行動で七歌に心配をかえ、レイナに謝らせ傷つけた。俺は人間よりもずっと遥かに醜い化け物だ。誰かを考えることのできない化け物なんだ。
もう、七歌とレイナに返事を返す気力はなく、立ち上がり家に帰ることすらもうできない。
やがて強まりだした風が雨水を連れてきた。それは忽ち豪雨となり、俺から見える世界を遮断した。
それが心地よかった。雨に奪われていく熱も命が消えていくような感覚も全ての感情を流してくれる水滴も、その全てが心地よく、もうどうでもよかった。このまま凍死してもいい。別に生き残ってもいい。
この豪雨だけが俺の罪を断罪してくれている。俺に罰を与えてくれている。そのことに安心感を覚えた。
そして、またも嫌悪感に苛まれ、やがて思考は放棄する。
豪雨と俺の境界線がわからなくなり、視界には灰色の雨模様しか映らない。
誰もいない、俺を咎める、心地よい世界。
俺はずっと雨の中にいた。
夏の暑さなど微塵も感じない痺れた感覚。本能的に息をするだけの体たらく。思考を廻すこともできない廃れたゴミのような姿。
走馬灯は見えなかった。過去の情景は何も過ぎらなかった。代わりに、誰かがデッキの前の立ち止まったのが見えた。
膝下しかわからないその足の主は、傘をほり出すような勢いで俺の前に駆け寄ってくる。
そして——
「風引きますよ」
ゆっくりと見上げたその人は、甘栗色の髪を揺らし俺に真っ赤な傘を被せた。
そのせいで自分の背中や肩が塗れている。
ゆっくりと手を伸ばした彼女は可愛らしい相貌で明一杯に微笑んだ。
「見捨てられないだけですから」
彼女はそう言った。
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