第30話 硝子に映る自分と異界の夕刻
夕焼けが沈んでいき、その紅い姿を球園の向かう側へと旅立った頃、赤羽の煽りが群青に差し掛かる空を通り過ぎた。
雲雲が反射、乱射、吸収と幾度の技を果てに己の色に染め上げ、神秘と呼ぶにあまりにも禍々しい、その宇宙は逢魔が時。魔物や悪魔、厄災が奇行する時の兆候の夜光。
この世界で誰が攫われ、誰が喰われ、誰が消えるのか、誰も知らない。
そんな不思議で、そんな不可思議で、そんな伝説。
分かっていようと、そう、信じてしまうほどに、今日の空は恐ろしく俺の内臓を圧迫させた。血管が寒さに震え心臓が縮こまる。
どこまでも冷静たる意識外へと持っていかれ、幻想に幻視して迷夢に息を詰まらせる。夏そのものが飲み込まれたかのような、幻想と現実の狭間。
雪が降ればそれは紅の羽衣。光が刺せば天使や悪魔の降臨。花に包まれれば宇宙が落とした涙。風の風吹は自傷のそれ。熱は悪心、冷気は無心、星々だけは得心と強心。
夜だけが化け物を受け入れる。暗さだけが密かに誘い知らない熱を与える。神が笑ったように感じた。悪魔の微笑みが聴こえた。天使の導きが逆光した。人間の甘い囁きが愚かに嘲笑する。
その世界の内側で、夜がやって来る。蒼の世界が俺らを迎える。ひとりぼっちに縋る世界の破片。硝子のような歪な透明が心の奥底を写し出す。
俺はそんな硝子のその向かう側を眺め続けた。吸い込まれて行く中、ふと、硝子に手を触れた瞬間、今までになかった音や気温や感覚が戻った。
俺は夢から覚めた。
硝子の向こう側は何ら変わらない景色の一片。先程までの歪んだ空想は存在しない。そして、暗闇が濃くなる景色は内側を硝子に反射する。
カタカタ。タイピングの音がどこか心地よいことに気づいたのは、その人が映ったからだ。
う〜ん、と背伸びをした彼女は俺の硝子ごしの視線に気づきこちらに振り返る。その瞳は何を映し、何に細めたのだろうか。
俺にはわからない。
「暗くなってきたわね」
「そうですね」
硝子を挟んで詠美先生に返事を返す。
「提出物の確認やってくれてありがとう。もう帰ってもいいのよ?」
「……景色が、綺麗だったので」
そんな曖昧な返答はさぞかし滑稽な言い訳であり、憂鬱な事実に目を背ける。
詠美先生は静かに頷いた。表情は硝子ごしじゃよくわからないけど、困っている様子も馬鹿にしている様子もない。気になる彼女の表情。だけど、振り向いた瞬間、このひとときが崩れる気がして、まだ少しだけ続けたくて、だから俺は硝子を凝視する。
「そう。……綺麗なのね」
「……はい。綺麗で夢みたいで、どこか落ち着きます」
「……だから、硝子を見ているのね」
「……そうじゃないと、消えてしまう気がするから」
夕焼けの乏しりは硝子を砕いた破片の残骸のよう。様々な方向に飛び散り無数の刃は傍らの盾の
ようで、見ている景色そのものを侵略してしまう。
俺という存在すらもあやふやに歪んでしまう。
意義や意志や意味や命が、憂いの夕焼けに呑まれ破片となり散らばっていく。
逢魔が時は魔物を俺の内へと侵入させた。
けれど、水面に撃つ波紋のような静かな音が、時を停止させる。静止した世界は宙に舞う硝子と景色と魔物の破片。
それは一つ、小さな小さな歌声だ。
視界が開け、今までに見えていなかったものが見える。
割れてなどいない硝子の向こうの黄昏が終わる薄暮も、暗くなった世界にほんのりと灯るパソコンのライトも、閉ざされた扉の向こう側から聴こえる綺麗な歌声も。
やっと、俺は振り返った。振り返ることができた。神秘や幻想、憂いや空虚たる悪魔から逃げることができた。心地よい時から現実へと帰って来れた。
「綺麗な歌声ね」
詠美先生はそっと呟き扉の方へと眼を向ける。俺はゆっくりと扉に近づき、取っ手に手をかけた。けれど、俺の手は一向に動こうとはせず、ただずっとドアの前に立ち止まったまま。
どうして?そう疑問に思えば直ぐに答えは出る。
怖いから。
それ以外に理由はなかった。
けれど、それは正体不明な恐怖だ。恐怖を抱いたゆえにドアの開けれれない、だけどその恐怖の理由はわからない。
論理的思考なんて端から存在しない。いや、考えたくない。これ以上の問いへ答えは、ずっと俺を弱くする気がする。やっと踏み出せた一歩がまた後退してしまう気がした。
ドアの向こう側から流れてくる細い声音は、壁や障壁を意図も簡単にすり抜ける。だから、耳に届いているのに、俺は歩むことができない。情けなくかっこ悪く弱く、惨めだ。
だから、彼女の声はよく耳朶を打った。
「行きなさい。貴方がやるべきことよ」
身体半分で振り返る俺に詠美先生は優し気に、見たことのないような慈しみで背中を押してくれた。
「自由が欲しいなら抗いなさい。恐怖からも茨からもしがらみからも、自分の意思からも」
「…………意思からも、ですか?」
「もっとはっきりと言えば、固定概念や固執思考よ。更に言えば偏見と諦観、それに現実と弱さ。……貴方がどう生きたいのか……自分で居たいのなら、考えることは止めたらダメよ。人間は腐っていくのよ」
その言葉たちは刃物だった。俺の胸を斬りつけ切り裂き、刻み抉る。無数の傷跡から真っ黒で真っ赤な血を流し、泥のように足元を満たした。それでも、痛みは感じない。虚無感には堕ちない。
先生の言葉が大切だと思った。今の俺には、未来の俺には必要なことだと思った。
だから、傷跡にして残す。
それは礎のようなもので諫めのようなもので戒めと同義で、それ以上に標だ。
俺の目標。新しい、俺が俺でいるためのできること。やるべきこと。
だから、傷。だから、血。これが、心意。
気付けないことの多さに反吐がでる。そう在れない事実に腹が立つ。理解できない言葉に反感を呼ぶ。俺はその心に救われた。詠美先生にそう思えたことを誇りに思えた。
「ありがとうございます」
そう少しだけ頭を下げて取っ手に力を加え、ドアを開ける。真っ暗な廊下は非常口の明かりや消防の明かりが怪し気にあるだけ。それでも、今までより鮮明に空気が澄んだ。
「ええ、いつでもいらっしゃい」
彼女の『またね』が酷く胸を浸し、俺は音が漏れないようにゆっくりとドアを閉めた。
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