第29話 抗うことを自由とするべし


 掃除を終えた俺は速足で職員室へ向かったが、そこには案の定詠美先生はおらず、和希に教えてもらった別塔の国語準備室の前にやって来た。


 人通りが少なく閑散としている。上の階から吹奏楽部のトランペットやフルートの重圧な音が地面を貫いて聴こえる。

 奥の部屋の手前にある洗い場には、書道の道具らしき筆や硯が置きっぱなしだ。取られないのか心配になるが、取った所で一般人には扱いに困るだろう。書道道具の価値なんて俺にはわからない。

 階段の直ぐ前に図書室が聳え、外から見る限り、あんまり人はいないみたいだ。

 学校ではないような別塔のリノリウムを叩く足音は、無駄に大きく響く。この静けさが己の存在を影を取り除いた、裸体に思え、自分を認識できる不可解な感触を抱かされる。

 窓もないもない白一面のルービックキューブの中をコツコツと歩き、図書室と書道部の部屋の中間地点に位置する、プレートの名前のない入り口を上から下まで流し見て、そっと鍵を開けるようにドアを開いた。


 違う世界が見えた。


 全開の窓から吹き込む風が、無数の原稿用紙を舞散らし、夕日を目が痛むほどに染まってしまうほどに浴び、砂星のようにキラキラと紙が躍る。

 パラパラパラと捲れていく本は時間を遡っているかのよう、本の匂いが鼻を刺激して憑りついてくる。

 カタカタとなっていたペンを走らせている音が止まった。夕陽を浴び、踊る紙の中、その人はこちらを向く。

 五時を知らせる古時計の大鐘楼が鳴り響く。それは意識すらも揺らし、視界を歪ませる。

 その人の顔が、だんだんと見えなくなっていく。

 それが堪らなく怖くて、咄嗟に手を伸ばそうとした所で、俺を呼ぶ声が俺を現実に引き戻した。


「夜乃綴琉——」

「…………えっ……」


 気が付けば目の前には俺を心配そうに見ている詠美えみ先生がおり、その室内に紙は舞っておらず、夕日の先には誰もいない。

 もう薄れかけている幻想と目の前の現実に理解が及ばず、詠美先生の声に反応ができない。けれど、がしっと俺の肩を掴まれたことで意識がはっきりとする。


「夜乃君。夜乃君!」

「えっ……あ、はい……。大丈夫です。なんか、ボートしちゃって」


 僅かに記憶がないのは考え事をしていたからだろうか。

 申し訳ないと視線を下げると、先生は「……大丈夫ならそれでいいわ」と、別段怒ることもなく俺の肩から手を離す。

 今更ながらにその手に込められた力や熱、詠美先生の安心した表情に、本気で俺のことを心配してくれていたんだと思うと、どうしてか今まで抱いていた近づきたくないという感情が嘘のように解れていく。きっと、俺は単純なのだろう。


 詠美先生は自分の作業場に戻り、「座りなさい」と自分の横の椅子に視線を向ける。促されるままに「失礼します」と腰を下ろした。

 キャスターつきの椅子を回転させて、俺を真正面から見据えた。

 やはり、怜悧なまでに整った顔に決して諦めることのないような決意に満ちた瞳、胸まで伸びた黒髪が更に顔を小さく見せる。直角なまでに綺麗な姿勢に思わず俺も背筋を伸ばす。


「別に気楽にしていてもいいわよ。確かに携帯のことは怒ることであるわ。それでもこうも畏まれると私としても不安になるのよ」

「…………」


 相変わらず真面目な表情だが、その声音は柔らかく俺の胸が深呼吸の後に落ち着いていた。唖然とする俺に眉を寄せたが、何か言うわけでもなく引き出しから取り出したスマホを俺の目の前の机に置く。


「今日は返すけど、あまり授業中に他のことをしないように。貴方は他の教師から色々と言われているのだからね。引き締めなさいよ」


 詠美先生の言葉が意味わからず首を傾げると、先生は「知らないの?」と驚きと納得に頷いた。

 もしかして、先生たちに陰口でも言われてんのか?

 なんだか少々不安を抱く俺に詠美先生は説明してくれる。


「別に陰口なんてしょうもないものじゃないわ」

「ですよね……」

「まず、そのようなことをしていれば、私が教育委員会に殴りつけてやるわよ」


 その男気にいくら何でも冗談だろうと思ったが、やはり真面目な表情から本気なのか冗談なのかまったく読めない。

 上手く反応できない俺など構わず話を進める。


「夜乃君は真面目に授業を受けているつもりかもしれないけど、先生たちから見れば余所見にやる気のなさに遅刻やサボリが多いと嘆いているわけよ」

「うっ……」


 普通に心当たりだらけで反論がイマイチ出来ない。

 俺の表情を読み取ったのか、詠美先生は呆れたようにため息を吐いた。


「私の授業はちゃんと出ているから、過剰評価だと思っていたけど……そうではないらしいわね」

「いや、あの……そ、それは……」

「はぁー。差し詰め、私が怖くてちゃんとしていただけね」

「そ、そんなことはっ……」

「別に気を遣わなくていいわ。私も自分に愛想がないくらいわかっているもの」


 その事に俺は軽く驚いた。詠美先生は他人から何かを言われても、まったく気にしない性格だと思っていた。

 もっと言えば、あれこそが素であり、教育上の怖さとして受け入れているとばかり思っていた。けれど、詠美先生は言う。


「私はもともときつい性格でね、なんとか治そうとしたのだけれど、この通り。愛想笑いとか冗談とかが昔からできなくて、あまり周りとうまくいかないのよ」

「そうだったんですか……」

「ほんとはもっと仲良くしたいのよ。教師としても人としても、誰かに寄り添いたいとは思うもの」


 先生のそれは全くの欺瞞ではなく、本心からの羨望だった。

 仲良くしたい、楽しく過ごしたい、寄り添ってあげたい。そう本気で思っている先生など他にいるだろうか。

 勉強だの部活動だの友達だのと、社会一般の筋道を安全に渡らせるための教育しか、俺は知らない。それしか、教養されなかった。


 俺も昔はもっと愛想が悪く、詠美先生みたいに周りとうまくいかなくて何度も担任に呼び出されたことがある。その度にやえ笑えだとか、やえ相手の気持ちを考えろだとか、やえ社会で生きていけないだとか。

 思い出しただけでうんざりだ。

 だから、人間らしくも純粋な教師の姿を見て、些か感激してしまう。


「なによ?」


 黙り込んだ俺を訝しむように、もしくは恥じるように睨み付けてくる。

 その表情は怖いと思うものだが、決して怒っているわけでも不機嫌なわけでもない。声の抑揚や微かな頬の緩みや、瞬間的にだけでも現れる違う表情が、俺の中で新たな河合詠美の人物像が製造された。


「いや、先生でもそう思うことあるんだなーって」

「あるわよ。私も人間よ」

「俺、先生のこと誤解してたんですね」

「違うわよ。私がちゃんと話さないからそうなっているだけ。私の話を貴方のように信じる人もいれば、冗談だと笑う人もいるわ」

「それでも……俺の中で先生の印象が変わったのは……その、よかったと思います」

「それはどうして?」


 詠美先生の問いに、少し考えてからなるべく淀みないように答えを答えた。


「だって、先生のこと怖くなくなりましたし、これで授業中に気を抜けます」

「あら?私の中には経った今、夜乃綴琉はブラックリストに登録されたわよ」

「うそです⁉冗談ですから……⁉」


 慌てて頭と手を左右に振り、否定する俺。そんな俺を見て彼女は、くす、とほんの小さな笑みを漏らした。

 まるでこちらの手の内を読まれていたかのようで、それに苦手な冗談に付き合ってくれたもかもしれない。寧ろ、こういうことが詠美先生の冗談なんじゃないのだろうか。

 さっきまでの俺なら、今すぐ逃げ出したかったに違いない。

 けれど、少し踏み込んだ話をしたせいか、もう逃げたいとも怖いとも思わなかった。

 まーこちらを煽るような強者な構えは、多少ぞくりと背中に走るものがあるが……。

 組んでいた腕を解き、「それで」と俺に促す。

 訊かれたのであれば、答えないと。


 夕陽が差し込む本たちが陳列した古い世界は、黄昏を抱きしめていた。

 囁くような風が心地よい。グラウンドから僅かに聴こえる野球部の練習の掛け声が青春っぽい。吹奏楽部の知らないジャズが雲のように流れていく。

 決して広くはないこの教室の中、俺は河合詠美を見つめ、そして見つめられ、互いに胸の内を吐き出した。


「…………先生みたいな、『綺麗』な人がいてよかったです」

「…………」


 沈黙は多分気持ちの良い静けさ。互いのその奥底を見つめ合い、言葉の端から内まで全てを溶かす勢いで咀嚼し、その上で自分で思考する。

 五秒と経ち、十秒を過ぎ、三十秒が迎え、一分に差し掛かった。

 そして、やっと口を開く。俺よりも先に詠美先生が。


「——それは、私を口説いているの?」


 挑発的な返しに、俺は笑ってしまう。


「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」

「…………」

「俺は社会が嫌いです。偽って騙す行動が嫌いです。嘘や忖度の上で成り立つ関係性が、酷く馬鹿らしく、そんなものに意味がない……そんなものに俺は染まりたくない。俺は人間だけど、人間以下にはなりたくない。俺は逃げても滑稽でも罪を犯してでも、俺でありたい」

「…………」

「だから、先生が綺麗な人で嬉しいんです。だから口説いているかもしれないんですよ」


 俺は自分の胸の内を先生に吐露した。

 強要して縛り付ける社会が嫌いなことも、偽りや欺瞞、忖度によって疑似的に作られる人工の関係性が掃き捨てるほどの嫌いなことも、そんな世界で俺自身がどうしたいかも。

 たったこれだけの言葉できっと伝わらない。


 それでも言葉以上の感情で、感情以上の願いで、願い以上の綺麗な人だから、俺は託す。


 そうであって欲しいと、もしくはその上で俺を見てほしいと。


 託すなんて傲慢だ。そんな烏滸がましいことじゃない。

 もっと欲望的でエゴに酔った願望だ。

 認められたい、支えられたい、守りたい願望だ。


 七歌がいればきっと「人間らしい」というに違いない。

 レイナなら「それだけじゃダメ」と怒るのかもしれない。

 冬斗と和希は……想像できない。


 そんな願望は黄昏にはさぞ似合っていない。


 詠美先生の瞳が大きく開き、身体にいれていた無意識な力が解けていく。それは塞いでいた口がほんのり開くような出来事。それでも、彼女が驚いているのだけは如実に理解できて、少し嬉しかったりする。

 けれど、直ぐに襲ってくるのは不安と焦りと恐怖であり、けれど、七歌と音楽をすると決めた今の俺は、その恐怖たちに立ち向かおうと奮闘する。

 交える瞳が綺麗だった。眼光の線が強くかった。互いの相貌が意志を如実に表現していた。ここで、二人は嘘をつくことを禁じる。


「……はぁー、夜乃君は案外に捻くれているのね」

「そうなっちゃったんだから、仕方ないでしょ」

「そうね。……私も集団とか規定だとか、ルールだとかは、よく嫌っていたわ」

「やっぱり」

「やっぱりってなによ……?」

「俺の見立て通りだなーて」

「あんまり調子に乗ってると、本気で怒るわよ」

「……すみません」


 素直に謝る俺に先生は「確かに厄介な生徒ね……」と吐き捨てた。厄介とは心外だ。

 けれど、よく体育の松本が俺のことを他の先生に尋ねたりしているらしいので、あいつが変なことを言いふらしているんじゃないかと思えてきた。

 一応、「誰から訊いたんですか?」と尋ねれば案の定、「体育の松本先生よ」とのこと。


 あいつ、なに人のことべらべら喋ってるんだよ……っ。


 松本に不満を覚える俺に詠美先生は咳払いを一つ。

 姿勢を崩し背もたれに背中を預けた格好は、どうしてか俺に心を許してくれている気になるのは、理想だろうか。

 彼女はある一点を見つめた。そこには一つの長机と椅子が置いてあるだけ。

 彼女の瞳は、そこにいるであろう誰かを見ていた。


「私は大学に行ってから、貴方のような人がいることを本当の意味で知ったわ。自殺、援助交際、家庭崩壊、悪行、鬱病などの歪み。私はたまたま乗り越えることが……いえ、諦めることができたの。でも、少しでも痛みを知っていたから、私は教師になったわ」

「そうだったんですか」

「ええ。だから、私は貴方を見捨てないわ。こんな言葉、貴方は信用できないかもしれないけど、私は夜乃君を認める」

「……⁉」

「人間には自由がないと言われているわ。選択も道も全てが運命に導かれているみたいよ」

「なんだよそれ……」

「私もバカバカしいとは思うけど、その事実としては私たちにはわからない。でも、それを前提にした時、私が思う自由があるの」


 力強い声音は俺の胸の奥を沸かせ、俺を見直した相貌に釘付けになる。

 離したくない。そう思うほどに。俺の心は支配されていた。

 呼吸の音は静かだった。無音の世界で本がパラパラと落ちるように捲れた。

 詠美先生は言う。


「その自由はきっと、貴方が運命から抗う時よ」


 ドクン。深海の眠る生物が眼を覚ますように、俺の心臓が眼を覚まし大きく鼓動した。


「選択でもなく、道に沿うのでもなく、反抗するの。対立して、自分が迷う先へ抗うのよ。それが本当の自由だと思わない?」

「抗いが……自由」

「運命は静かにそこへ導いてくれるわ。だから、自由は苦しみや痛みを伴うの。それが運命から逸脱した罪の重さ。それでも、自由は私たちを生きさせてくれる。貴方を貴方にしてくれるはずよ」

「俺を俺に……」


 だからなのか。だから、七歌は抗うことから逃げなかったのか。抗うことが自由だと知り、それこそが自分として生きる術だと理解していたから。だから、あんなにも抗うことに執着していたのか。

 運命に歯向かい、その罪を背負って罵倒や憐憫に耐えながら、それでも自由であるために。


 本当の所などわからない。これは詠美先生の持論であって、七歌の意思ではない。

 けれど、抗うことこそが自由。俺はその言葉が気に入った。

 俺の納得した表情を見て、詠美先生はどこか嬉しそうに微笑んだ。


「まー何かあればいつでも来ていいわよ」

「いいんですか?」

「ええ。私の喋り相手になってくれたら、授業は大目に見てあげる」

「それって、めっちゃ得だな」

「だから、はい」

「え?」


 俺の前の机に置かれた大量のプリントの山に唖然とする。

 よく見るとそれは英語の宿題のようで、俺のクラスと他二クラス分、合計百枚以上だ。

 意味のわからない俺に詠美先生はにこりと悪戯な笑みを浮かべる。

 この時、俺は間違えを侵したことに気付き、既に事遅し。

 その笑顔はやはり怖いと思ってしまった。


「てことで、携帯の罰として提出者の確認をよろしくお願いね」

「ちょっと⁉これは先生の仕事じゃ……!」

「丸付けしてない人がいたら、丸付けしましょうって書いておいて。これ名簿表よ。頼んだわ」


 そう勝手に押し付けた先生はノートパソコンに向き直り、仕事を再開した。そうなれば下手に駄々を捏ねることもできず、俺は渋々とプリントを手に取る以外に選択がない。


「悪魔かよ」


 すると、俺の足の爪先を詠美先生が踏んづけ、俺は小さな悲鳴を上げたのだった。

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