第32話 乙女邂逅
私は自分の気持ちにまだうまく向き合えていない。
確かに七歌と言い合って友達になれたことで、自分のことを今まで以上に考えられるようになった。七歌のことも、わからないと理解できないと切り捨てて、話してくれるのを待っていた彼女の心情も、知ることができた。
それでも、私は今だにぐるぐると迷っている。
希望を届ける歌を歌う。その在り方に異議はない。これは覆ることのない夢で理想で私が成すべき未来だ。
だから、歌に関する生き方に悩みは今のところない。どれだけその在り方が七歌たちと違っていようと、変わることはないと結論すら出せている。
だけれど、一緒に音楽をする仲間とじゃなくても、七歌と関わり続けたいと、私は心から望んだ。それはきっと綴琉としたような曖昧な関係じゃなく、もっと言葉にしても大切だということを確かめれるような、そんな本当の関係性でありたい。
そう叫んで、喧嘩してお互いの心の内を言い合って、だから友達になれた。誰も以上の限りない関係を築けた。
まだ手探り状態だけれど、その毎日を楽しいと感じている。
何気ないメッセージでのやりとりも、演奏終わりの喫茶店での会話も、路上でやった唐突なセッションも、本当に楽しい。
七歌の笑顔を見る度に私もつられて笑顔になっていることに気付いている。同じ気持ちなんだって、私は思う。
だから、七歌を改めて知った時、七歌と同じ生き方をすると決めた彼のことが脳裏を過る。
私を裏切り、この『恋心』を侮辱して穢し、時々夢に出てくる切り捨てられるあの瞬間が私の傷となって悪夢となる。
その度に過去のことだと割り切ろうとした。仕方なかったことだと消し去ろうとした。
だけど、出来ない。大っ嫌い大っ嫌い大っ嫌い。そう何度も呟いて呪っているはずなのに、どうしてかあの優し気な微笑みの姿を目に浮かぶのだ。
何度唱えても呪っても悪夢として出てくるくせに、心が痛いと泣いていたくせに、私は彼の笑顔や日常を手放せない。
そんな日が続いて、だからやっぱり綴琉のことがまだ好きなんだって、気づいた。
これが恋かと訊かれれば、よくわからないけれど、胸が鳴っていることを知った。受け入れきれない感情の起伏の中、それだけは確かなものとして私を私たらしめた。
まだ向き合えない自分の心の奥に、それでもたった一つの『好き』のために、もう一度関わることを選んだ。
好きだと伝えることを選んだ。
『夜明けより蒼』を歌って聴いてもらうこと選んだ。
「まさか、あんなに避けられているなんて思わなかったわ……」
私は露骨に肩をガクリと下げる。
確かに私は彼にとって傷つけた対象なのかもしれない。それを罪だと思っていると、私は考えている。だから、私の気持ちを受け取ってもらえなくても誠心誠意応えてくると覚悟していた。
だけど……
「どうして?綴琉はあんなにも怯えていたの?何があそこまで逃げさせるの……?」
今まで見てきた彼とはまったく異なり、本当に生気を失っているみたいで、虚無とも諦観とも違った。上手く言い表せない不甲斐なさに自分の語彙力を呪う。
モヤモヤしたしこりを残したまま、私は目的の家に辿り着いた。
「夜乃……ここで合ってるわよね」
表札を確認してから背負っていたリュックを右手に持ち帰る。その際に自分のバッグを丁寧に地面に置いた。そしていざ、私はインターホンを押した。
ピーポン。
普遍的な呼び出し音が響く。緊張な面持ちで待っているとガチャリと鍵が開く音がして私は更に唾を飲む。
異性の家に訊ねることが初めてな私の心臓は爆速の限りに鼓動していた。
変な汗かいてないないわよね?髪可笑しくないわよね?
そんなものを確認する暇もなくガシャンとゴシック様式の玄関が解放させた。
「はいはーい」
向こう側から姿を見せたのはキリッとした二重の綺麗な眼に女優のように洗練された精緻な顔立ち、モデルのようなスラットした体型でありながら出る所は出ている長身の美しい女性だった。齢二十歳前後と思われる彼女は私を見てキョトンと眼を丸くする。
見惚れている場合じゃない。私は緊張して上ずった声音でリュックを前に出した。
「は、初めまして!私、綴琉さんのクラスメイトの日向レイナと言います。綴琉さんの忘れ物を届けにきました!」
もう頭を下げてしまう勢いでリュックを差し出す私に、女性は落ち着いた足取りで私からリュックを受け取った。
「ありがとうね。綴琉の忘れ物届けてくれて」
「いえ」
「ていうか、リュック忘れるって何やってんのよあいつは」
もーと呆れる女性は神聖不可侵の衣からまるでどこにでもいるような取っつきやすさを纏っていた。コバルトブルーのパーカーと太腿までの短パン姿だというのに、ランウェイを歩いている姿が想像できてしまう。
にこりと微笑んだ姿は、男性女性違わず魅入られてしまう優美に満ちていた。
「せっかくだからお茶でもしていかない?」
自分とは住む世界がまるで違う彼女からのお誘いに、過剰なほどに首を振ってしまう。
「い、いえいえ!そんなご迷惑ですし」
「いいわよ。綴琉もまだ帰ってきてないし。私、暇で話し相手がほしかったのよ」
「綴琉……さん、まだ帰ってきてないんですか?」
「そうなの。だからね。帰って来るまでお話しない?」
どうかな?と懇願する彼女の妖艶さに私は断ることができなかった。
それによく考えれば、綴琉のことを訊けるチャンスでもあるのだ。私よりも先に帰って行った彼がどこで何をしているのかは気になる。七歌からの連絡からして彼女の方には行っていないことに、少しばかりの安堵をして馬鹿馬鹿しいと頭を振る。
様々な雑念を切り上げて、私はコクリと頷いた。
すると嬉しそうに微笑むその笑顔は、綴琉を想起させる。
「さあ入って入って」
私は促されるままに夜乃家へとお邪魔した。
「お邪魔します……」
その声はやはりびくびくしていて、彼女の顔がにやけていることに私は気づいていなかった。
普通の家というのが当てはまる夜乃家のリビングで少し居心地悪そうに私は身を縮こまらせていた。
誰も知り合いや友達もおらず、好きな異性が住んでいる家など、落ち着きようがない。
心臓のドキドキがいつ飛び出すかわかったもんじゃない。その緊張感の中、彼という人なりが少しだけでも知りたくて辺りをきょろきょろと見渡してしまう。
居間の壁や廊下などにはプロが取ったような写真が飾られており、夜景や新世界なんかに見入ってしまう。紅葉や海といった風景写真だけじゃなく、鳥や鹿に猫、後は少しだけ家族写真があり、十歳くらいの幼い綴琉を可愛いと声に出そうになった。
「今とは全然違うでしょう」
声に出てたのかと思って口を慌てて塞いだ私だが、目の前に座った彼女は冷たいアイスティーをストローで啜って少しだけはにかんだ。
「大丈夫。声には出てないからね」
それでも言い当てられたのだからどこに大丈夫な要素があるのだろうか。少しの羞恥と不満が出ていたのか、彼女はふふふと悪戯気に笑う。
どこか綴琉の面影がる彼女はクレナやヒロの同級生のお姉さんなんだろうか。見たことがないので確信はないが、年の差は当てはまる。けれど、誰もが言っていた破天荒ぶりや薬の成分のような人や変人には見えない。女性の憧れそのもの。
私が不思議に見ているとまたも可笑しそうに彼女は笑った。
「な、なんなのですか?」
「う~ん。うん!貴女、面白いわね」
「へ……?」
「残念ながら私は綴琉の四つ離れた姉の楓。クレナやヒロが喜々として話している奇人で変人で女神よ」
そう怏々しく宣ったその人は全ての人を屈服させるほどの自信と威勢と美貌を持ち合わせていた。
呆気に取られている私は信じられず次々と質問してしまう。
「高校生の時に伝説的なバンドをしたって……」
「あークレナたちのバンドに乱入して即興で演奏したやつね」
「じゃ、じゃあ。暴力団を占めていたのって……」
「暴力団?かは知らないけど、私の友達を脅してた奴らを蹴散らして逆らえないようにしただけよ。なんでもないわよそんなこと」
「…………言葉で人を洗脳するのは」
「洗脳はしないわよ。誰よそんなこと言ったの」
「クレナです」
「あー私が二年の時に催眠術の実験、いや遊びなんだけど……教壇の前でやったらクラスメイト全員が罹っちゃってね。あの時は大変だったわ」
懐かしむその表情は柔らかだが、聞いている私の身からすれば身震いものだ。
女性の楓さんが男性の暴力団を逆らえないようにしただなんて、信じられるわけがない。そしてをそれを何でもないとばかりに退屈な楓さんに頬が引き攣ってしまう。極めつけにはまじの洗脳たる催眠術の実話に、慄くまで。感想なんてすごいしか抱けないし、その上生徒会長を担い学年一位をキープし芸能界からのスカウトが数多。クレナがいっていた通り楓さんは超人なんだと今更に理解した。
「こわい?」
「え……?」
またも私の心の中を読んだ楓さんにむっとしてしまう。
確かに怖いとは思った。それでも、目の前の女性は美しくスタイルがよく音楽が出来て天才で、誰しもの憧れの人。
クレナやヒロが彼女の惹かれたように、私も楓さんにもう惹かれている。
それに、楓さんは綴琉のお姉さんなんだからここでさようならだなんて絶対に嫌よ。
私は心が読まれる前にたくし上げるように言い放った。だって、話さないときっと後悔するから。
「その話を聞いて、少し怖いと思いました。それでも、楓さんは綺麗だと思いますし、女性の魅力があって話しやすくて私の気持ちとかも察してくれて、まだ何を知らないけど……憧れました。だから怖くなんてありません。クレナの言う通り素敵な人で優しい女性なんだって、私は信じてます」
これは本心だ。心が読める楓さんなら絶対にわかるはずだ。
私が貴女に憧れていることを。
でも、それ以上のことは知られたくなくて、恥ずかしくて眼を逸らしてしまう。
どうしてかいつものように強く出れない。それでもこれだけはと、彼女の眼をもう一度見据えて言い放った。
「私の胸の内を読まないでください。……話さないときっと分かり合えないと、私は思うから」
その啖呵だ。四つ上の今日初めて出逢った楓さんに、貴女とはこうありたい、と愚直なまでに蛮勇紛いに提案したことだ。これを啖呵を切ったと言わずしてどうなる。もしくは侵略とも言い換えられる。
私はそれほどまでに彼女に望んだ。
もう後悔はしたくないから。これからも付き合っていく中で、間違えて離れ離れになりたくないから。何より誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることも、どちらももう嫌だから。
ずっとずっと悪化した綴琉との関係性を修正か再築しようとすることは罪だろうか。
そのために自分を在り方を変えようとすることは愚かだろうか。
今もずっと迷い続けている。何が正しくて何が間違えでどうすればいいのか、よかったのか。わからないから、せめて揺らぎない私でいるために私は女王に啖呵を切った。
その姿勢、その決意、その熱情、その後悔、その数多。
楓さんがみている私はどんな色をしているのだろう。その綺麗で凛とした瞳の奥にどんな私が映っているのだろうか。
再びの緊張は秒針の音をより鮮明に重たく染め上げた。
自動車が通り過ぎる音があまりに異質に耳朶を打った。
雲が大きく動くような飛行機の進行が大気を震わせる。
強くなった風が窓を打ち付けて飛んできた緑葉がぶつかった。
夜を迎える世界で、この家の中はほんのりとどこまでも温かかった。
「わかったわ」
表情を崩した楓さんは慈しみの笑みで私を迎え入れた。
「色々なお喋りをしましょうか」
「——っ。は、はい!」
嬉しかった。認めてもらえたことも見放されなかったことも。私はその強さに優しさに憧れと尊敬を抱き、きっと永遠に追いかける存在なんだと理解した。
この弾む心は一人っ子の私に姉のような人が出来た感慨か、憧れの人と対面した感慨か、そのどちらでもであってそれ以上に。
「LINE交換しましょ」
「LINEですか?」
「そうよ。これで気兼ねなく連絡を取り得るわね」
これからも関わり続けると言ってくれたことに、どこまでも胸が温かくなった。そして私と楓さんはお喋りをした。
「へーレイナちゃんはクォーターなのかー。後、敬語は使わなくていいからね」
「は、はい。えーええそうなの、です?……お母さんはもっと茶色っぽいんですけどね」
「いいじゃない。よく似合ってて綺麗と思うわよ」
「そ、そうですか……なんか、私よりもずっと綺麗な楓さんに言われると、どこか照れます」
「そう?じゃあ、こんど買い物一緒に行かない。私の美の探求をしっかりレクチャーしてあげるわよ」
「いいんですか⁉是非お願いします!」
「任せておいて!あーああ。私の妹みたいで可愛いな~。いや、将来は実質私の妹になるのよね」
「ちょっ⁉ななななっなにいって……⁉」
「かっわいいぃぃ~~!」
そんな、どこか友達のようで先輩後輩のようで姉妹のような会話は、誰が聴いていても家族団欒と変わりのない眩しさだった。
慈愛の女神が微笑むようなひと時にして始まりの繋がりだった。
やがて「ただいまー」という声に私も楓さんも現実に引き戻される。時計を見るともう十八時三〇を廻っている。
「わぁ!帰らないとっ」急いで帰る支度をしていると、リビングのドアが開いて若々しい女性が買い物袋を手に持って入ってきた。
綴琉の面影がより一層ある女性を見て楓さんは「お帰りお母さん」と言ったので、綴琉の母親だと認識した。
急展開にあわあわと緊張に頭を下げて挨拶をしようとする私にお母さんはくすりと口元を手で押さえた。
「そんなに慌てなくてもいいわよ」
「いえ、あの……私っ」
「もう外は凄い雨だし、今日は家に泊まっていきなさい」
「…………へ……?」
「わぁーほんと。台風並みじゃない」
カーテンを開けて外を見た楓さんの視線を追って、外を見れば家の外に出るのが危険と思えるほどの豪雨だった。風も強く安い傘じゃ直ぐに折れてしまうだろう。
お父さんに迎えに来てもらおうと携帯の電源を入れてアプリを開こうとして、メッセージを送るより前にお母さんの声が留まらせる。
「この雨と風じゃあ、迎えも大変なんじゃない?」
「うっ……そう、ですね……」
「だから今日は家に泊まっていきなさい」
「えっでも迷惑じゃ……」
「別にいいわよ。今日、綴琉の奴帰って来ないらしいから」
「え?」
まさか家出⁉私の顔に現れていたのか、楓さんは「友達の家で止まるそうよ」と伝え、私は安心する。
綴琉も私と同じような状況なのかな。そんなことを考えていると楓さんとお母さんの間に話がどんどんと先に行き、最早私の異論は挟めない状態だった。
「というわけで、今日一日よろしくねレイナちゃん」
優し気に迎え入れてくれるお母さんに私は慌てて頭を下げた。
「よっよろしくお願いします!」
「あっ忘れてたわ。親御さんに連絡だけはしておいてね」
こうして何故か好きな異性の住む家で女子だけのお泊り会が開かれた。
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