第21話 その裸体に水滴は這う

 家に帰った私は直ぐにシャワーを浴びて冷え切った身体を温めた。無意識と無思考によるルーティンはいつも以上にレイナとの出来事を思い出させる。


『そんなの知らないわよ!何も話してくれないくせに、自分勝手なことを言ってるのはルナたちじゃない‼』

『私だって考えてるの。苦しんでるの!それでも前を見て歩きたいから笑ってるの!歌ってるの!叫んでるのっ!』

『——私はっ!……っルナとも綴琉とも、本当に関係性でいただけなのーっ‼……ルナと、友達でいたかっただけじゃダメなの⁉』


 レイナの心からの叫び。信じられなくて教えてくれないわたしたちに、閉じ込めていた本音。

 想像することもできなかった、自分とは違うんだと一線を引いていたレイナの本性に、今だ眩暈がしてしまいそうだ。彼女は社会に取り入れられた普遍な偽善者だと思っていた……何の死にたくなるような苦しみもなく、平凡に幸福に生きてきた花畑のお嬢様だと、言葉だけの関係性で生きてきた存在だと、わたしは押し付けて規定していた。それは単に自分の音楽を歌うための利用の駒でしかない。多くの人に少しでも、わたしの意志を示すためのプロセスでしかない。


 わたしにとってレイナは友達という関係性であって、どこにでも有り触れた利害関係のはずだった……。


 なのに、彼女は違う。わたしの想像して一線を引いた彼女は、全く違う色をしていた。

 苦しいことも嫌なことも嘘だらけな世の中に嫌気がさすこともあれ、だけれども、わたしや綴琉のような死にたいと思う存在じゃない。いや、それに真っ向から立ち向かっていける存在で、わたしなんかよりも数倍に強い太陽。伝えるのではなく、希望を与える存在。それがレイナの答えだ。それが、始めて知ったレイナという人間だ。だから……


「わたしとレイナを比べれば……きっと、また独りになる。結局わたしは、誰かを考えてあげることも、本心で語ることもできなかった。……ほんとに、死にたい。あーあ……」


 シャワーを止めてしたる水滴の落下が、やっぱり感情もなく映る。胸を這う雫も、髪から垂れる水滴も、頬を満たす涙水も、脚を流れる水玉も、浴室を残響させる波紋も、わたしという形をつくりながら落ちていく。

 硝子に映るわたしの裸体も、表情も、濡れそぼった桃色の髪も、蒼空には生きていなかった。右腕についた無数の傷跡が、わたしをわたしたらしめる。自分に触れるように、鏡のわたしも触れるように手を伸ばしてそっと撫でる。無機質な硝子の質感だけしか指を濡らさない。


「わたしは……音楽をやていいのかな?……できるのかな?なんて、未練ばっかりだ」


 そんな嘲笑を浮かべる鏡の向こう側の自分は、酷く歪み殺してやりたかった。

 ——もしも、わたしがもう一人いるというならば、わたしはわたしを殺すだろう。




 お風呂から上がって早速料理の支度をする。憂鬱な思考は無理矢理に日常へと一時帰還を余儀なくされる。それもこれも、わたしの親代わりたる沙百合のせいだ。当人はカレーをリクエストした後、埃かかっていたソファーに寝転がって目を瞑っている。床の下も綺麗になっているのから、掃除は一様したみたいだ。


 何も話さない。何も訊かない。沈黙に似た静寂の中、料理音だけの家庭音が響く。ほどなくして出来上がったカレーをお皿によそい、テーブルに運んだ。


「できたよ」

「うぅ~ん……今行く」


 眼を擦りながら起き上がる沙百合は鼻をくんくんさせて次には覚醒状態となって、席に着く。こういったところは律義ですっぽかすことはない。忙しい日なんかは後でとかを言うが、ほとんどの確率で一緒にご飯を頂く。そう言っても、沙百合が帰って来るのが少ないので独りの時が多い。だから、こういう日は特別な味がするもの。

 中辛のカレーに豚肉に人参、ジャガイモにリンゴ。ここでリンゴが入るのは沙百合の趣味みたいなものだ。わたしのリンゴ好きもこのカレーから始まったと思い出せば、なんとも言えない感慨に苦くなる。

 二人で向かい合わせに席について手を合わせる。


「「いただきまーす」」


 香ばしいカレーの匂いは胃袋を刺激して嫌な気分でも簡単に欲してしまう。欲望に抗う意味もないのでスパイシーな中辛と甘いリンゴの風味が混ざり合い、コクと爽やかな甘味がマッチングする。マリアージュとでも言えばいいのかな。

 黙々と二人揃って食べる久しぶりの食事は、懐かしくやっぱり少しは暖かい。半分以上食べ終わったところで、沙百合はやっと本題に入る。


「……で、何があったんだ?」


 親としてか、好奇心か……まー何でもいい。どんな時でもどんな理由であっても、沙百合はわたしを見捨てない。今までだってそうだ。だから、今回も口を滑らせるのだ。例え、親に甘える子供のようで、それが依存的だとしても、わたしは縋ってしまう。


「……入っていたバンドを辞めて、ある人と一緒に音楽をすることにしたの」

「ほーお、それで?」

「うん。わたしは生きることが辛い人たちに、抗っている、死にたくても足掻いて生きている。そんなことを、わたし自身を刻んで証明する音楽がしたいの。もう一人の子も同じ思いなの」

「あの曲ってことか?」

「うん。あの曲もその子と一緒に作ったからね。……でも、今日たまたま抜けたバンドの子のライブがあって、わたしのことを友達と思っていてくれた女の子が話かけてきてくれたの」


 完全にスプーンを置いて俯く。沙百合は腕を組んでずっとわたしの話を聞いていた。


「希望を届ける歌を歌うんだって。わたしたちを後悔させてあげるって……その子は言ったの。……それが無性に腹立たしくて、勢いのままに怒鳴っちゃった。理解できないのに勝手なことを言わないでって……」


 あの時のレイナの顔は覚えていない。どんな風にどんな感情を持っていたのか、わたしは知らない。……知りたくない。

 けれど、話していると蘇ってくる気がして思わず頭を横に振る。


「それで、レイナは……苦しいことがあっても諦めたくないから笑って、希望を届ける歌を歌うんだって……何も話してくれないのに、勝手なことを言ってるのは、わたしなんだって……。実際、そうなんだと思うよ。やっぱり、わたしさ……ダメなんだ、ダメなんだよ。…………ねぇ……わたしって死んでるのかな?」


 ああ、それはもう酷く現実逃避のそれでしかなった。もしくは、諦めだ。沙百合は端的に言う。わたしの瞳を逃さず、鋭く奥深く見つめ続けながら。


「物理的に言えば生きてるぞ」

「……わたしは結局、誰も信じてなくて、押し付けて、醜い欲望だけしかなくて……人間で……。————小百合」

「…………」

「わたしに…………音楽をやる、資格ってあるのかな?」


 独りぼっちだったわたしは母の愛がちゃんとあったから生きてこれた。たとえ、母と妹がわたしの眼の前から消えたとしても、捨てられて裏切られたとしても、母が残してくれた音楽という宝物があったから、だから走ることができた。

『Arrivederci』の人生があり、それに助けられて憧れたから音楽に触れている。この死にたく消えたい想いに抗う歯向かう藻掻く世界を示して届けたいから、伝えて『生きろ』と吠えたいから、歌を歌っている。

 たった一人でもわたしの歌が生きる糧になるように。わたし自身を証明するために。


 だけど、今のわたしはそんな高尚で立派な志があるのか?他人に理解されない省かれ者でありながら、わたしもレイナを理解しようとしなかった。ましてやステージに上ることすらしなかった。平行線の偽る大っ嫌いな社会たる交友の檻で甘んじていた。


 振り返って見れば、レイナからのコンタクトは多い。わたしの事情に踏み入れるような会話もしていた。だけれど、当人のわたしが、歌で伝えると宣っているわたしが、結局は偽って彼女を受け入れなかった。相手のことなんか碌に知らず、勝手な妄想と哀れな現実に苛まれた眼と思考で、わたしとは違う人間だとレッテルを張り付けていた。

 楽天家であると現実を知らないと、甘んじた世界で気兼ねに生き、わたしたちのような異端者を魔女裁判する新人類なんだと。

 本当は全くもって違うのに……。


 本当に嫌になる。たった一人の本当の関係性を望んでくれていた少女にも、本気で向き合う事が出来なかったのだから。

 こんなわたしが本当に音楽で伝えられるのかわからない。わからない。

 …………音楽をやっていていいのか?

 あの憧れた母の形見たる『Arrivederci』に憧れ続けていいのか?


 苦渋は次に絶望たる奈落へ撃ち落とす。ぽっこりと穴の開いた虚無に勝る永遠のような暗澹へと呑み込まれていく。昏く深く悍ましく何もない無のような空間が押し寄せる。

 疑問という疑問。

 嫌悪という嫌悪。

 迷いという迷宮。

 彼女の去っていく背中。

 思い出せない表情。

 ああ、死にたい。

 そんな私をやっぱり、沙百合だけは見捨てない。


「はぁー……面倒くさいな」


 そんな悪態をつく沙百合はやっぱり沙百合で、同情も叱咤もしない。事実だけしか言わない。けれど、そのことに期待している自分が垣間見えて、うんざりする。本当に救えない。わかっていながら、どうしてわたしは甘えてしまうのだろうか?

 沙百合の声音はいつも通りでありながら、慧眼がわたしをわたし以上に曝け出す。

 灰の埋もれた海に、塵で出来上がった月が、それでも暗闇を照らすかのように夜光虫ノクチルカのような粉雪が降り注ぐ。腐敗して崩れ去った廃墟な世界を綺麗に瞳を淡くする。


「つまり、後悔してるってことだろ?」

「…………なにに?」


 首を傾げるわたしに盛大なため息は微笑に変わる。


「可愛いね」

「ふざけないでよ」

「はいはい。で、お前は自分の誠実さの無さに後悔している」

「誠実……」


 沙百合は「わかってるだろうにな」とお茶で喉を潤す、いつもは酒のはずなのに、今日は珍しくお茶なんだと、今更ながら気が付いた。

 沙百合はうーんと背伸びをしてテーブルに肘をついて前のめりになる。


「言葉にすれば何となくわかるだろ。つまり、お前はちゃんと向き合わなかったことを後悔してる。いや、この場合七歌が掲げる音楽に対する想いを貫けなかったことに対してだろうけどな」


 いつもの癖でコップを缶ビールを持つように持つが、酒でないとわかると小さく嘆息した。彼女の口から出た『後悔』の一言……その言葉と感情はわたしを落ち着かせる。その意味もわたしという存在を定義する。


(わたしは後悔している?レイナに……音楽に……わたしの心情に。……確かに最初っからとか、もっととか、情けないとか、感じることはある。でも…………)


 しっくりとくるのに、意味はあっているはずなのに、どこか離れていく感触に湿気のようで鬱陶しい。ジグソーパズルが上手く嵌らない時のようで、何度考えてもわからない。


(後悔はきっとそうなんだと思う。過去に対しても音楽に対しても、レイナに対しても後悔はしているんだと、思うの。でも、どうしてもしっくりこない。なんかが反発しているようで、それが何かわからない)


 そんな迷えるわたしを見る沙百合の瞳は親のそれだった。わたしは知らない。彼女がどれほどわたしをその瞳で見つめているのか。

 ゆっくりと放たれる沙百合の声音は案外に優しいものだと、今更に気づいた。だから、直ぐにわかった。彼女にわたしが甘えている理由が。けれど、そんなものは些細で、放たれた言葉に理由は波に呑まれ、代わりに白く光る貝殻が流れ着いた。


「なるほどね。それはあれだ。しっくりこないのは、————後悔したくないからだ」


 雄弁な口振りは灰を風で曝し、夜光虫ノクチルカで基盤を作り上げる。塵で出来上がった月すらも綺麗な景色となるような、芽吹きだ。

 けれどわたしは首を傾げる。


「……後悔したくない?後悔をしているのに?」

「まーそうなるな。けど、この答えは私の口からは言えない」


 含んで言い淀む沙百合に不審を抱く。けれど、彼女は笑う。笑うのだ。楽し気に嬉し気に、最愛の娘を見るように。ただ一つ、花畑を描くように。


「葛藤しろ。迷え、抗え、叫べ。その困難も違った関係性も、初めての感情も、きっとお前の糧になる。どんだけ間違えても、苦しんでも、泣いたっていい。最後は笑っとけ。誇りを抱け。それが成長ってことだ」


 立ち上がってわたしの頭を優しく撫でるその手つき。髪を梳く指のせせらぎ。第二の母は娘の旅立ちを見守る。呆然とするわたしのおでこに一つ、唇を送った。


「————それが、生きるってことで青春ってもんだ」


 部屋から出て行った沙百合の言葉を何度も何度も余すことなく咀嚼して、反芻して、意味を思考して、何分と経った後、わたしは立ち上がった。

 綺麗に食べ終わった沙百合とわたしのお皿を持って台所に向かう。本当に綺麗に食べてくれたのは美味しかったからだろう。沙百合はわたしの料理が好きなんだって、この瞬間だけは彼女を母親と同義してしまう。

 きっと悪い事じゃない。本当でなくてもわたしは沙百合に助けられてばかりで、母親だと心では思っている。思っている。

 だからだから、だから————考えよう。葛藤して悩んで苦しもう。

 母親にいつまでも甘えないように、依存しないように、歩き出して背中を見送れるようにするために。

 そして、いつかわたし自身が大好きになって、笑えるように。


 彼女の残した言葉は音楽のようで、彼に一つメッセージを送った。



 ≫明日会える?相談したいことがあるの。

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