第19話 この気持ちが嘘でないように

 温もりが染める世界が俺を満たす。心を、真髄を、脳を、五臓六腑を。俺という存在の定義すらも条規すらも概念すらも満たした。

 人間として感じ思い描くのはきっと母親のお腹の中。自分自身が生命として確立する前のほんの一瞬たる温もりの海の中。

 外壁から聴こえる異国の言葉や音に文化と情愛。もしくは悲哀。

 陽光が黄金を纏い樹木の森を果てまでをも、神格に神秘する森の泡沫、遥かな恵の恩恵にも思えた。陽光に晒された草木は芽吹き、小さな枝をにょきにょきと伸ばし、葉を緑へと大樹にしていく。花々が誇り、木の実が実り、生まれた鳥の産声が、流れ始める川のせせらぎが、森を駆ける風の静音が、朝雫の波紋が、空を泳ぐ雲の胎生が、世界になった。

 生命の息吹き生命の誕生。

 その象徴たる温もりが染めていく。数多の景色を魅せて、幾度の芽吹きよ開花を瞳に焦がし、生命の源が包んでくれているよう。


 まるで、そう——生きているから、大丈夫よ。


 そう言ってくれているよう。今を生きている。苦しくても生きている。ただただ、生きている。


 それでも大丈夫。生きていれば大丈夫。

 満たされない、傷ついた、虚無で荒んだ心を癒してくれる。価値や意義などではなく、聖母の抱きしめが、誰もが欲しい言葉を与えてくれる。たった一言の『大丈夫』。

 俺が今こうやって情けなく生きている現実も、抗おうとルナと約束した夢も、数多の心情と選択で生きてきた過去も、全て大丈夫と俺を許してくれる。〝生きろ〟でも〝頑張れ〟でも〝負けないで〟でもない。ただただに、〝大丈夫〟と伝えてくれるのだ。俺が今から未来に行う選択を傍で見守ってくれているかのよう。

 俺は一つ、君が生きてきた言葉を知った。



              ——————



 それは命の叫び。絶叫にも近い生と死の叫びだった。

 傷だらけの身体で青昏い病室が浮かび上がる。まるでカッターナイフで切りつけたかのような痛々しい己の傷が、また一つ血を流していく。

 白い病的な肌に増えていく痛哭な赤の線。窓辺から見える青い世界で燥ぎ回る子供たちが目に映り、自分と他人との心情、現状、環境が激しく嘔吐に誘う。自分だけ疎外された痛みが傷よりも濃く、他人になれない己が気持ち悪く、誰もいない虚像の世界は逢魔が時よりもきっと恐ろしい。

 けれど、付け足していく痛みも吐き出す吐しゃも虚空な世界も、何故か美しく穢れを知らない。ものすごく落ち着くのはどうして。

 けれど、変わり映る世界の侵攻に、人間として扱われなくなった己に命が叫んでいる。

 命が叫び出している。

 畏怖、恐怖、忌避、忌憚、拒絶、不安、悲痛、慟哭、哀惜、哀悼、憎悪、嫌悪、虚無感……。やるせなさ、烏滸がましさ、浅ましさ、倫理に悖る偽りの正義感への憤怒。

 世界の全てが動くことも生きる事もままならない己を殺しにくる。

 省きに来る。

 魔女裁判を起こしに来る。

 決定的に己と他者の間に、拒絶よりももっと残酷な、死線を張られる。自分はもう人間ではないと人間もどきに定義される。


 数多の、幾度の、無限の激情が涙と絶叫に哭いた。


 だから、その全てを見返すために、足掻く。ぶつかる、駆ける。自分は駆け出した。

 どこまでもどこまでも傷を胸に痛みを噛みしめ、苦痛をを噛み千切り、走る走る走る。

 誰よりも遠くに、誰にも邪魔されないように、全てに存在を認識させ真正面から吼えるように。

 死にたくて消えたくて、だけれど生きるために。


 心の叫びは音色の千差万別にして以心伝心。深く青く激しい悲しい音色が染めていく。俺を侵食してくる。感情や感触を全て余すことなく伝えてくる。


 生きる。生きるっ。生きる——生きる!


 最も俺とルナに近い感情にして、『夜明けより蒼』に似ている音楽。死にたくても消えたくても、生きるために足掻きそんな自分たちの泥臭さを伝えるための歌。

 生きると吠え続けることの歌とシンパシーが俺を更に刺激した。


 そうだ。ルナと共に音楽をするとなれば、絶対にどこかで俺は死にたくなる。消えたくなってどうしようもなくなる。確証ないけれど事実。

 だから、彼女と一緒に音楽をするという事は、俺はどんなに辛くなっても生きていかなければダメだってことだ。本気で死にたくなっても生きなきゃいけなくなる。生きることを拒絶して殺しに来る現実に抗って生きていかなければならない。

 そんな音楽。

 そんなメロディー。

 そんな歌詞。

 きっと、俺が永遠に憧れ続ける音楽だ。



              ———————



 そして最後の歌は——託す歌だった。

 天国に近いのに白光だけに染められた自分が生きる世界。白昼夢のようで、幻のような微睡みな世界。

 通り過ぎていく人のハートには様々な色が鮮やかに灯っている。滲むようで蜃気楼な世界なのに、その人たちの表情ははっきりと見えないのに、何故か心の彩だけは繊細に鮮明に瞳を奪った。

 自分のことに誰も気づかない。けれど、自分はその誰かを知ることができる。

 これは旅立ちの世界。旅へ出るあなたへ贈る託す音色。


『大丈夫』と包んだ。『生きる』と叫んだ。なら、後はあなたの世界を生きていきなさい。


 福音か、はたまた凱歌か。いや、宣託でもエンドロールでもない。

 これは——始まりだ。

 本当の人生の始まりだ。心の支えを貰った主人公が生きるための抗いに手を伸ばし、託された思いを胸に歩き始める人生の鳥居。

 まだ人生は始まったばっかり。いつ死にたくなるような消えたくなるような出来事があるかはわからない。辛い、悲しい、苦しいが重なることが幾度とあるはずだ。けれど、何度でも支えを見つけて抗い続けてほしい。生きる産声を咲かせて欲しい。


 この三曲は人生を表した限りない音楽。

 二十年前のデビューから数年経った彼らがレコーディング会社に取り合わせて、最後の我儘で世界に出した音楽。『Arrivederci』の最後のCD 。

 彼らは音楽を通して生きにくい省かれ者にして魔女裁判に曝されかねない異端者に告げたメッセージだ。

 生と死……そして人生を限りなく詰め込んだこの曲は、俺を……俺は————



              ——————



 全てを聴き終えた俺は永遠に脳内を巡り続ける彼らの音楽に胸を澄ませ、ゆっくりと立ち上がった。


 これは一つ、未来の話だ。

 きっと、ルナは俺に彼らのような歌を求めている。彼らのように誰かに届く伝わる涙させる音楽を求めている。己の生き様を示す音楽を望んでいる。共に抗うことを求めている。それに俺は何年、何十年懸かってでも、叶える意志はあるのか。迫害も疎外も拒絶も批判にも抗い続けて成し遂げる意志はあるのか。


 これは一つ、心の話だ。

 俺も七歌も死にたい存在同士。消えたい衝動を宿している。それでも、これから先に何があっても生きていけるのか。才能に潰され、価値観に殺され、孤独に塗り替えられても、その弱々しい心を奮い立たせて生きていくことが出来るのか。


 これは一つ、選択の話だ。

 誰かに示すための抗う歌を創り、どんなに苦しくても生きて歌い続ける——そんな未来を選び取り、彼らのように誰かに託すことができるのか。

 始まりを迎えるための歌を、いや……終わらない、足掻き続けて生き続けるための音楽を選ぶことが出来るのか。希望に縋ることも、奇跡を信じることも、生易しい微睡みに浸ることもせず、足掻いて藻掻いて苦しんで吐き出して叫んで駆ける。そんな抗う生き様を選択することが出来るのか。


 走馬灯のように流れ出す。過去と想い出と、繋がりに言の葉たち。

 日常や周囲との関係性から虚無感に陥った。自分の空っぽな力に価値を見出せなくなった。……そんな俺を助けてくれたのが、音楽とルナだった。

 ルナの音楽に焦がれ情熱に激情に燃やされ、俺は大っ嫌いな世界から知らない世界を知ることができた。そして、出会ったルナは、同じような心情を抱える彼女であり、ただ一つの抗い行為を実行した。

 そして出来上がったそれは、本当に俺とルナの叫びだった。

 けれど、誹謗中傷の嵐が俺を曲作りから遠ざけた。本気で本心で行った結果すら嘲笑れ、穢されたのだ。逃げる俺とは違い、ルナはずっと独りで『夜明けより蒼』を歌い続けた。叩かれ、罵倒され、踏み躙られても歌い続けた。

 だから、俺も成長するためにレイナと嘘偽りのない関係を築いた。もしもそこで本気になれたなら、あの頃の気持ちを取り戻すことが、何かを得ることが出来たのなら、ルナの下に戻れるような気がしたからだ。

 そしてきっとただの気まぐれ。今までのフラストレーションを発散するように一つ歌詞を書いた。

 そして、俺は再び君の音楽惚れた。

 だから、大切なものを喪ってでも、もう一度ルナと音楽をしたかった。レイナを傷つけて利己的で恣意な考えで関係を一方的に破壊した。悔やむことはない。けれど、それは一生の傷だ。決して手放してはいけない血刃だ。

 そして、七歌を知り、彼女の人生を知った。その支えとなった形見も俺の中で音を鳴らしている。


「これが……俺なんだ」


 もっと数多にも及ぶ日常は、きっと尊くて手放したくない。それでも俺が選択して選んできた秘め事だ。だから、覚悟を…………どうか、この気持ちが嘘ではないように。




 自分の部屋を出て隣の部屋の扉をノックした。「は~い」という返事に緊張が生まれるも、意を決して彼女の名を呼ぶ。


「姉さん。……ちょっといい?」


 暫くの沈黙は長いようでけれど短い。唾を飲んだのと同時にドアが開く。目の前には「待ってたわ」と嬉しそうに微笑む楓がいた。


 女性らしい部屋はきっと信じ切れないほどの努力と間違えて零すことのない己で出来上がっているのだろう。大きな本棚に入りきらなくなった、参考書や料理本、文庫や音楽本。もっと色々ある。綺麗に整頓された部屋なのに、どこまでも色々なもので溢れかえっている錯覚が襲う。


「そんなにじろじろ見ても、私の下着はないわよ」

「姉さんの下着なんて興味ない」

「私ね。部屋は下着姿で過ごしたいんだけど…………」

「やめろ!それはさすがにダメだ!」


 Tシャツを脱ぎ始めようとする楓を慌てて止める。きっと少し赤くなった俺を見て、胸下まで手繰り上げた服から「ざんねん」と手を離す。いくら姉弟であれ、男性と女性に違いはない。別に興奮するなんてことはないが、羞恥を覚えるのは当たり前だ。ちゃかしてからかう楓はやっと本題に入る姿勢をつくった。だから、俺も彼女をしっかりと見つめて、この嘘がない、本心であると信じた答えを彼女に提示する。


「姉さん」

「なあに?」

「——俺に、音楽を教えてくれないか」

「——」


 その一言に楓は瞠目も少しに、やっぱり嬉しそうに微笑んだ。きっと、それは大きくなった弟の始めての我儘であり、愛ゆえなのだろう。そして、ずっと心彷徨い、死に焦がれていた虚無な弟の始めてのやりたいことだったからだ。

 だから、楓は笑顔を本心から絶やさない。

 俺はそんな姉を見て泣きそうなくらいに強く彼女を見つめた。


 これはちょっとしたきっかけで、ちゃんとした始まり。

 そう、異端者としてルナの……七歌の共にいることを決めた証明だ。


 楓は言う。姉として最愛の弟の願いに。


「いいわよ!いくらでも付き合ってあげる‼」


 七歌と音楽をするために、夜明けより蒼の世界で生きるために、俺は音楽を始めた。

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