第18話 密かな嚙み合わせ

「ただいま」


 家の扉を開けていつも通りの挨拶をすると、案の定楓からの返事がある。


「お帰り綴琉。今日は早かったね」

「ああ。CDを借りにいっただけだから」

「そう。ごはん出来てるから早く着替えと手を洗ってきてね。お母さんも待ってるよ」

「わかった」


 リビングから流れるいつも通りニュース代わりの音楽は、五年前くらいのジャズバラードで、意識的に聴かないジャンルは不思議に脳内へ侵入してくる。また、音楽に混じって良い匂いが漂ってきたので、脳内を満たすのには十分だった。

 においから推測するに生姜焼き類だろう。


 直ぐに洗面所で手洗いを済ませ、二階の自室で部屋着たる半袖のパーカーと軽いパンツに履き替える。鞄から取り出した七歌のCDを誰かに取られることのないように、引き出しに仕舞う。仕舞っていないものは大切なものではないと判断され、無断で使用されたり貰われたりすることがこの家では多々ある。それでも、仕舞っているものには手を出さない。これは一つのルールだ。

 故に勉強机にもベッドの上やタンスなんかの上にも絶対に物はない。CDなんかはあっちへ行ったりこっちへ行ったりと行方不明も可笑しくない。父以外が音楽を好む家庭であるからだ。

 リビングに行くと、見事的中した生姜焼きにキャベツの千切り、多分気まぐれで作ったと思われえるスクランブルエッグが綺麗に並んでいる。

 席についてスマホを弄る楓と台所で使い終わったフライパンなんかを洗っている母の姿を確認して、何ら変わりない普遍的な日常にほっと胸を降ろす自分がいるのは、きっと七歌の話を聞いたからだろう。

 天と地ほどの差のある家庭環境で、俺が七歌の気持ちを汲み取り理解するなど烏滸がましく浅はかで嫌いな嫌われる同情でしかない。共鳴できないことを、共鳴、共感と見せかけるのはどうしようもない欺瞞だ。お茶碗に盛られた白米を見下ろしていると、ふと顔を上げた楓が口を開いた。


「あ!ねぇねぇ綴琉!」

「なに?」


 おもしろいものを見るような瞳で、楓は俺を見上げる。機嫌がよろしい楓の隣に腰を下ろした。そしてなんとなく察しながらも、耳を傾ける。楓の呼吸はいつも命を、生命の高鳴りを熱を感じさせる。


「あんたがルナちゃんとバンドやるって、ホントなの⁉」


 興奮しながらキラキラと熱を灯した瞳を向けられて、少しばかり嬉しくなる自分に羞恥する。自分のコップにお茶を入れる動作で平静を保ちながら頷いた。楓もちゃっかりとコップを俺の眼も前に置いている。


「うん。まだ活動方針とか決まってないけど、メンバー集めて曲創って歌うって感じだと思う」

「へー!楽しそうね!じゃあ、クレナの所は抜けるのは嘘じゃないようね」

「聞いたのか?」

「うん。一人抜けるから入らないかって誘われた」

「それで、どうしたんだ?」

「まだ入らないよ。今は他にもやりたい事あるし、まー来年かな」


 そう断言できる強さに俺は憧れる。だってそれは、それだけ自分には価値があるとわかっているからだ。来年にはクレナやヒロと一緒に音楽ができると疑わない実力や信頼があるからだ。俺には強さと在り方。楓はいつだって俺のずっと先を歩いている。決して届かない、並ぶことも触れ合うことも互いが互いを認識することもない。天才と非凡はどこまでいっても、交わることはない。


「……そうか。うん、抜けたんだ」


 俺とルナ、そしてレイナたちとでは音楽に込める思いも、作りたい歌いたい曲も違う。理解できないもの同士が一緒に今この時を励んでいくことはできない。

 死にたい思いに抗う異端者と明日に希望を掲げる正常者。正反対の矛盾で生きる、悪くいえば憎むべきどうし。

 だからぶつかって傷つけて、別れた。縁すらも切った。自分たちの道を歩くために。それが正しいことだって振り返らない。俺のエゴで俺の意思で俺の願望だから。それでも同時に胸を溺れさせるのは、俺なんかのためにルナがバンドを抜けたこと。そして……レイナの傷。

 ふと思い寄せる俺を見て、楓は「そっか」と優しく俺の頭を撫でてくる。

 それが無性にこそばゆく「やめろよっ」と払おうとするが、その嬉しそうな笑みと優しく姉らしい撫で方に本気で抵抗は出来ない。楓も「嬉しいくせに~!おりゃおりゃ!」と、髪をぐちゃぐちゃにされた。さすがに鬱陶しくなり頭から払いのけて視線を彷徨わせてしまう。けれど、視線をちらりち戻せば、どこまでも慈しむ楓の姿に胸が詰まる。


「やっと、少しは本気でやりたいと思うことが出来たのね……。——誰にも譲れない想いがあるのね」

「……そうだ、な。うん、そうなんだと……思う」


 詰まり詰まりに答えた俺に、楓は満足げに微笑んだ。

 それで今はいいよ……と。


「それでこそ私の弟よ!えらいわよ!」

「おい⁉また頭を撫でるなっ」


 そんな二人の戯れに中、にこりと微笑んだ母も席についた。


「じゃれあいはそこまでにしてね。ふふふっ。それじゃあ戴きましょうか」

「いっただきまーす」

「いただきます」


 ジャズからいつの間にか最近のホップ曲に変化した我が家の彩の中、母の作った夕食はいつもよりもおいしく感じた。それでも、喉を通す時に感じた痛みは引っかかった骨のよう。


「そうそう、来週の土日は私フェスに行ってくるわ」

「その日、私も友達の家で遊ぶ予定。帰って来るからわからないけど……綴琉は?」

「今のところは何も。多分、俺も家は開けると思う」

「そう。まー家のことは二人に任せるわ。ふふっ!待ちに待ったRANDフェス!楽しみだわ~」

「へー、ねえねえ。それって誰が出るの?」

「それはっね!」


 盛り上がる二人を脇に俺の意識は夕刻へと戻っていく。

 ルナの本当の名も、過去の出来事も、関係性も傷も……きっと知らないことはまだまだあるけれど、それでも初めて彼女を知れた。一緒に音楽をする仲間として俺に話してくれた。更に今なき母の形見を託してくれたのだ。

 その感慨は言葉になど表せやしないし、きっと表現する感情すらもまだ持ち合わせていない。

 これは一つ、夜空で生きる星であればいい。


 帰り際、彼女は言った。

『感じたことを踏まえて、わたしと音楽をやるのか決めてほしいの』

『大切な時間と世界を作るためだよ。生きるための標が欲しいからだよ。だから、省かれ者として生きるのか君が決めてね』


 俺よりも壮大に苦しく辛い思いをしてきた七歌。彼女に対して俺の悩みや葛藤なんて陳腐で滑稽で幼稚。ただの我儘に過ぎない。

 ただ、本当に規律正しい模範な社会に染まりたくないだけなんだ。ただ、目の前の才能に屈服して諦めただけなんだ。

 だから、本当に省かれ者、異端者として音楽で抗い続けるのであるならば、誰からも決定的な迫害を受けてもなお、異端者として名乗り、やり続ける覚悟はあるのか?


 それを七歌ルナは俺に問うている。

 わたしのように本気で一緒に伝えてくれるのか、と。


 彼女の人生は壮大だった。思っていた想像していた何倍もの、いやそれ以上に悲惨で残酷な人生だった。家庭内暴力による虐待の果ての殺意。

 大切な人のいたぶられる姿は当時の七歌にはどう映ったことか。どう感じたことか。

 俺には……他人には分かるはずがない。だから、同情はしない。慰めもダメ。せめて彼女を畏怖しないだけが出来る事だった。伝えてあげる言葉はない。

 初めて出会った時とはずいぶんに違う。知らなかったから言えたことも、知れば言えなくなることもある。俺はそれを始めて実感した。


 苦悩の奥深く、きっと深海で泡になれども光を浴びない黒粒と同じような可能性で正解。光を浴びるにはあまりにも遠く、存在を主張するにはあまりにも柔すぎる。揺蕩い、ゆっくりと昇ることの出来ない可能性たる未来は足掻く他ない。けれど、そこにその無限に思える虚無の世界に、ただ一音……深海が奏でる何でもない音が、たった一音でもあれば、それはきっとみちになるのだろう。奇跡ではない、揺さぶる音色は願望たる意志だ。


 だから、俺は七歌の支えとなった彼女の形見を聴かなければならない。

 それを聴いてやっと本気で答えを出せる。海に月光を射してあげることが、もしくはその深海に飛び込むことができる。

 それくらいしかできないけれど、それだけは出来る。だから、答えを出さないといけない。

 勢い任せの答えでも、消去法からの答えでも、激情からの答えでもなく、ちゃんと意思を持った伝わる答えで。


「そうだ……俺も始めないと……」


 決意を固める俺を楓は暖かな眼差しで見守っていた。俺がどんな決断をするのか、誰よりも弟のことを案じ、知っている楓だけは見守っていた。

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