第17話 それは過去にして、呪い。繋げる今に

 わたしが物心をついて初めに感じた感触は、今も覚えている。意識に残る断片だとしても、それをはっきりと感じたんことに嘘はない。

 あれは妄想。あれは幻。あれは悪夢。

 そう言えればよかっただろう。そう認識して泡沫となれればよかっただろう。

 けれど、後の亀裂が事を語る。わたしが初めて心の真髄に感じた感触。

 それは——『殺意』だった。

 わたしが殺意を宿したわけでじゃない。わたしは殺意を浴びせられた。もっと言えば殺意でわたしの家庭は出来上がっり、崩されていった。

 たった一人の悪魔によって。


 ———————


 わたしは東へ上ったどこかの県境の住宅で生まれ育った。母親の月森七乃ななのと、名前も知らない父という肩書をもった男の間に生まれた。

 母から聞いた話では、わたしが生まれたことをきっかけに、お金への問題が発生し、イラつきと鬱憤から父は夜な夜なわたしと母を放りだして酒を狂うように飲み、女を幾らも愉しんだらしい。わたしが生まれるまでは極めて平凡で少々荒くとも優しい思いやりのある人だったと、母は常々擁護していた。それは信じていたい愛しさだったのだろう。


 けれど、お腹に宿ったわたしを降ろすという父に反抗して、母はわたしを生んだ。

 それが全ての始まりで終わりに等しかった。

 それが初めての父に対する母の反抗だった。


 そして、父は次第に虐待や暴力をなりふり構わず振るうようになり、酒癖や不倫を責めれば次の日には血だらけで蹲る母がいたのを何となく覚えている。

「どうしたの?」と恐る恐る訊ねる三歳未満の私に、母は何を抱いたのかを知る由はないが、それでも平然と「大丈夫よ」と言い続けていた。わたしの自我たる物心が確立するまでの三年から四年。母は密かに地獄だったと言っていたのを耳にしたこともあったが、当時のわたしには何がなんなのかわからなかった。子どもであることしか、わたしにはやることがなかった。

 碌に働かず汚い金でなりふり構わず遊び惚ける愛する人に、暴力を振るわれながら、泣き喚くわたしをあやす日々は苦痛で仕方なかった。母が直接そう言ったわけじゃないけど、今に考えればそう思っていたんじゃないかと罪悪感を感じてしまう。

 わたしの前では決して後悔はしていないと言ってくれるが、本当の所はわからない。怨み憎み、心の底では激しく憎悪で滾っているのかも知れない。それこそ殺意に満ちているのかもしれない。


 精神を磨り減らしていく日々の中、わたしが三歳になる日、幸福と不幸が重なった。


 母のお腹の中に赤ちゃんがいたのだ。


 病院に急げば週三十を既に超えており、降ろすことは不可能となった。母は帰ることが殆どない父のへそくりを使って、内緒で出産することを決意する。

 それからは早かった。

 一週間足らずでお腹がわかるほどに大きくなり、食欲も激減し痩せていくだけの母を覚えている。虚ろな記憶ながら母に「これはなに?」とか「いもうと?」とか訊ねていた。わたしにとっては新鮮でドキドキする瞬間だった。しかし、母の思慮を慮ることなど出来ないわたしの無邪気さに、母のドキドキはきっと違った意味を持っていたはずだ。

 そして唯一救いだったのが、父の不在とわたしの物心だ。散々見てきた父と母の騒動がトラウマとなっていたのか、三歳になると泣き喚くことはなかった。今でも淡く浮かぶ当時に恐怖は沁みついている。

 少ないお金で買ったブロックをずっとそれだけで遊んでいた。テレビもなければゲームもない。紙にボールペンでお絵かきすることもあれば、ゴミを丸めて投げるだけの日々もあった。父の帰って来ない家には、物という物が存在しない。いや、物があれどもそれは生活品ではなく、空き瓶やタバコの灰に片づけれていない割れた破片などの数多。その全てがゴミ同然で、父のそれだった。


 そしてスピード出産で病院の看護師さんと待つわたしは、扉の開放と共に目を覚ました。


「無事に生まれましたよ。女の子です」


 看護師さんが抱える命の尊さに初めて触れた。

 感情にしては残っていないが、記憶としては残っている。わたしの妹の誕生。

 荒々しい息をする母はやつれて苦しそうで、それでも本当に嬉しそうに微笑んでいた。後に母は本心から無事に生まれてきてくれて嬉しかったと、笑った。そして妹の名前は「七海ななみ」と決まり幸せな生活が始まるように思えた。

 しかし、それは直ぐに終わりを迎える。


 暫くの入院生活から家に戻ると、そこには見たこともないほどに激情の瞋恚を滾らせた父が待ち構えていた。それは殺人者がターゲットを待ち伏せするかのように。爬虫類のような瞳は鬼を想起させる。

 そして、瞬時に悟った母はわたしの小さな身体に生まれて間もない妹を託して、守るように前に憚った。

 わたしはその日、母の言っていた〝地獄〟を知った。目の前でわたしは地獄を見た。そして、知ることのない殺意を浴びた。血の破片を偽らない脳裏の定かで留めた。

 へそくりの無断使用と勝手な出産。家に誰もいない孤独と腹いせの数々。気に入らない。それは父ではなくもはや『化け物』だった。


「貴様ッ!どういうつもりだァ!」

「違うのっ!これは……っ!」

「違うも何もあるかァ‼俺のいう事を利けないのかァ‼勝手に金を使いやがって、餓鬼まで生みやがってッ!糞がァ。貴様は俺の奴隷だろうがァ‼俺の言う事だけを利いてればいいんだよッ‼」

「きゃっ⁉」


 母を蹴り飛ばした父は鼻息を荒く、何度も母を踏みつけて蹴りつけて殴りつけた。


「そいつの時もそうだァ‼俺の意見を無視して生みやがって!そのお陰でどれだけの金がかかると思う。アァ!グダグダ一人前みたいに調子越えた生活してっから、金が余計にかかるんだろうがァ‼誰のお金だ?お前のらの金は俺のだろ‼俺の所有物がいっちょ前に人間ずらするなァ‼」


 骨の軋む音。唾や吐しゃ物と共に吐き出される血。泣くように喚くようにか細く呻吟する母。その痛々しい光景にわたしは我を忘れて震えていることしかできなかった。せめて、妹の視界を遮ることしか。

 そして、逃げることの出来ない恐怖に支配されたわたしたちに矛の死線が向く。

 きっと虎よりも鬼よりも龍よりも凄まじい瞋恚。わたしの意識を狩り獲るには十分だった。そして迫る化け物に震えて喉を喘鳴させるわたしへの行く末を、なけなしの力で母が化け物の脚を掴んだ。


「や……めぇ、て……てを……はぁはぁ……っ、ださない、で……っ!」


 最後ばかりの母親としての意地は、心を持たぬ化け物の溝内への蹴りによって意味なきものにされる。そして、母の逆らいは化け物を更なる激怒に曝し、そして完全な殺意となった。


「貴様はァ‼どれだけ俺に歯向かうつもりだァアアアアアアアアアアアアッッ‼」


 そこらじゅうに落ちている酒缶のゴミや弁当のゴミなんかを蹴り散らす。粉砕、荒れ狂い、破壊に激震。まるでこの部屋だけ世界の終わりに感じた。

 七海が泣き始め、わたしはギョッとして一生懸命にあやすが、男は「うるせぇぇ!さっさと黙らせろやァ」と、わたしに向かってゴミ袋を投げつけてくる。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 何度も謝ってゴミに埋もれ七海を抱きしめる。あやしかたなんて当時のわたしは知らない。

 そして、遂に瓶を持ち上げた父は意識を失っている母に向かって歩き出す。途轍もない抑えきれない殺意を宿して。


 そう、わたしは初めて感じた感触。


 この瞬間、わたしの自我は確立さた物心の中、誰かが大切な母を殺すのだと……それだけを悟った。

 灼熱に炙られるような瞋恚。絶冷の無数の刃に刺されるような冷酷無比。穢れ汚れ堕ちた存在であるのに、何よりも純粋な情緒ない心情。それら全てが『殺意』。


 三歳のわたしの目の前で——父は母を〝殺そう〟とした。


 瓶を持ち上げて血を流す母の頭部を狙って。それが、それがどうしようもなくわたしには怖くて仕方なく、同時に嫌だという初めの感情に走りだした。


「だ、だっ……はぁ、だれかぁ……たすっけてぇ——‼」


 小さな身体で妹を抱きしめて、出来る限りの速さで部屋から飛び出した。助けてと、助けてと叫びながら。


「オイッ!」


 すぐさま追いかけてくる父に捕まるのはすぐだった。投げつけられた靴がわたしの頭を激しく穿ち、本能的に妹を守るように肩から倒れる。感じたことのない激痛が涙を誘い、灼熱が炙るようにわたしを殺しにくる。声にならない悲鳴を上げながら、滲む視界の端からやって来る化け物。そして、知るはずのない。知らない言葉が浮かぶ。


 ——わたしは、死ぬんだ。


 死?死がなにかはわからない。先ほどの殺意も自分ではわかっていない。それでも、この感じた感触は決して宿してはいけないものだという結論だけは導き出せた。だから、起こりうる未来は想像し難い地獄なんだと、わたしは泣きそうになった。


「ザマァないな‼ウハハハハハハハハハハハッッ‼」

「おギャァああ……ギャァァっぁぁギャぁぁぁぁーー」


 狂った声で嗤う化け物には周囲など気にする余地はない。邪魔な目の前のわたしと妹、そして逆らった奴隷たる母を殺すこと以外毛頭ない。

 七海の泣き声が地割れを起こす感覚に似ていて、目の前の殺しに来る化け物と胸の中で泣き続ける妹の板挟みが、わたしの意識を無意味に踏みとどまらせる。


 けれど、それがせめてもの救いだった。


 化け物の狂言ぶりが周囲の人に異変を知らせ、集まって来る人たちの眼には狂気に嗤う男とその足元で血を流して倒れるわたし、そして抱えられて泣き喚く小さな子供。

 それだけで事は直ぐにわかった。父親の虐待だと。もしくは通り魔の殺人現場だと。


 誰かが救急車を呼ぶ声。誰かが化け物に叫ぶ声。歩き出す声。けれど、化け物の耳には届くことなく、真っ先に自分の手で化け物を抑えようとする人はおらず、化け物はわたしを踏みつけて背中をサッカーボールのように蹴った。閉じかけていた意識が覚醒させられて、閻魔の炎で焼かれるよりも遥かにヤバイ業火は背中を消す。

 がむしゃらに妹だけを、初めて感動したわたしと繋がるその命だけを必死に抱えて、額を打ち付けて脚の骨の嫌な感触と音を無音の世界に耳にして、果てしない激痛の永遠に私は音もなく死ぬように泣いた。——哭いた。


 ……そして、意識を手放した。


 目を覚ませば見知らぬ白い天井が視界を埋めて、どこかで嗅いだ懐かしい嫌なかおりに眼を覚ます。

 そして、誰かの懐かしい声と共にまた目を瞑った。


 ————————


「それから半年近く眠り続けたわたしは、一年近くのリハビリで奇跡的に後遺症もなく退院することができたの。母も妹も無事だったけど、二人ともわたしを置いて出て行った」


 そう、目を覚ました時にはもう二人はいなかった。朧げな過去の記憶のなか、最初に眼を覚ました時の呼び声は盲目的に震撼する。何度も何度も一時も忘れず毎日夢に見る。


 わたしを呼ぶ大切で大好きな朧げな声音。


 お茶を啜ったわたしは俯いていた顔を上げる。目の前には、様々な感情の混沌させてなお、怒りや悲しみをわたし以上に露わにしている綴琉が視界を奪った。意識すらも奪われる。


 どうして?なんで?……本気で怒って、悲しんでいるの?


 息を吐き切った彼は戸惑いながら訊く。


「……それは、どうして?」


 切なげで怒りを抑えきれないような抑揚はわたしの言葉を引っ張り出す。


「……わたしたち二人を育てるお金がなかったんだって」

「……」

「父は捕まったし賠償金や国からの免除みたいなのも出たんだけど、母の方の親はどっちももう亡くなってたみたい。それで頼れる宛もなくて、母親一人で二人を育てるのは厳しいって判断したらしいよ。妹よりも眠り続けていたわたしは施設に預けられて、十歳の時にこの家の人に引き取られたの」

「どうして?」


 何度も質問する綴琉にわたしは何度も真相を答える。秘密でも何でもない、過去のそれらを。


「家事をする子供が欲しかったって言ってたよ。家事をして家を保つための誰かが欲しかったんだって。それで、わたしに目が留まって給料的なお金とか、家と引き換えにこの家を守ってるの。

 わたしを引き取ってくれた人——沙百合さゆりさんって言うんだけど……なんかのどっかの会社の社長らしくて、女性なんだけど女好きで滅多に帰って来ないんだ。あ、別に見捨てられているとかじゃなくて、帰ってきたらわたしのこと可愛がってくれるし、ただ好きなことをしていたんだって。だから、家を守ってくれている人が欲しいんだよ」


 意味も分からずリハビリだけの退屈な日々とそれからの施設でのまるで監視生活。いつまでも迎えに来てくれない母と妹の話を聞きながらも、わたしはずっと待ち続けた。

 それはさぞかし無垢な子供の悲劇に涙したことだろう。泣くこともできず、待ち続ける、受け入れられない日々。大人たちにはそう見えたらしい。

 けれど、違う。わたしにとって心の傷など些細。声を上げないのは、化け物のような誰かが誰かを襲うかも知れないという恐怖から。もうこの時には、人間を醜い生物だと改めていた。

 泣かないのは誰かを傷つけるだけだと知っているから。

 待ち続けるのは、こんなわたしでも母の大切な何かであったから。

 植え付けられた恐怖と、悟りつくした悲劇と、淡く妄執的な価値観。

 それがわたしを独りにした。

 誰とも喋らない生活。誰とも心重ねない生活。誰も信じない生活。偽り、無感情に、迷惑をかけず、ただ亡霊のように生きているだけ。


 ——人間は等しく醜く、酷く愚かで身勝手だ。


 小学校に入学しても同じこと。無口で感情の振れ幅のないわたしは直ぐに疎外された。


「大丈夫よ。ここには貴方を傷つけるような人はいないわ」——じゃあ、わたしのせいで誰かが傷つくことはないの?


「ここにいるみんなは貴方のことを大切にしてくれるわ」——わたしの母の方が優しかった。ここにいる誰もが騒いでるだけのバカばっかり。能無し。


「辛い事があったのね。貴方の辛さ私には分かるわ。でも、辛いことをいつまでも引っ張ってちゃ前に進めないの。それはきっとお母様も喜ばないはずよ。だから、みんなと遊びましょ。元気な姿でいましょ」——分かるはずがない。誰かに分かれるはずがない。この痛みも虚しさも怒りも激情も、全て誰かに委ねていいものじゃない。わたしが背負い生きていく枷で戒めだ。母を知った風に言うな。母を語るな!誰かの勝手な妄想で母を穢すな!その全部が忘れろと言っているようなものじゃないのッ‼


 全ての大人の言葉は綺麗ごとばかりだった。同年代の子供は頭の成り立たないバカばっかりだった。同情なんてくそくらい。励ましなんてゴミ以下。綺麗ごとなんて汚い。知ったかぶりなんて無様で大っ嫌い。

 嫌いだ。誰もかも、何もかも、全てが嫌いだ。



 そして、施設に預けられてから四年生になった頃に、小百合に引き取られてわたしはわたしで在り続けた。母と妹、そして施設で出会ったかけがえのないある一人の兄のような人に誇るために。

 リフレインする当時に歯痒く、先ほど部屋から取ってきたあるものをポケットから取り出す。それがきっと繋がりとなる。


「でも、これがあったからわたしは生きてきたんだと思う」


 リフレインをする過去はきっと、この遺書なる形見からの言葉だろう。綴琉の前に置いたのは一枚のCDと手紙。母がわたしに残していった形見だ。


「この音楽——『Arrivederci《アリヴェデルチ》』がわたしをわたしとして音楽を教えてくれた最初の歌で、世界なの」


 これは母が唯一持っていた宝物。CDプレイヤーのない家じゃ聴くことが出来なかったただ一枚の音楽。

 どういう思いでわたしに託したのかは知らない。けれど、これにわたしは救われた。だから、母を恨むこともないし、きっと本気で捨てたわけじゃないのだと思う。

 この音楽に救われたわたしだけが信じないとダメだ。今も残る前髪に隠れた額の傷跡は、誇り高き愛おしい母を忘れず、罪の果ての哀れで醜い父の生き様を知るっておくための戒め。いや、礎。疼くような痛いような額の傷をそっとなぞった。


「手紙は見せられないけど……このCDを貸してあげるよ」

「えっ?いや、これはお母さんの形見なんだろ!俺なんかに貸すなんて⁉」


 断る綴琉の腕を掴んで、その掌に無理矢理握らせた。わたしの過去を彼に見せるように。同じ世界で生きていくためのバントンであるかのように。


「わたしと一緒にとかじゃなくて、綴琉一人で聴いてね。そして、教えて。何を感じて、どう思って、何を得たのか。わたしと一緒に音楽をする覚悟があるのか——」


 わたしのエゴに言葉に真意に心情に激情に、彼は…………そっと呟くようにわたしを見つめて離さない。離さなかった。離さないでいてくれた。


「——わかった。俺もいつか話すよ。俺の死にたい滑稽な理由を」


 完全に夜に染まった蒼空。人口の光に支配される闇夜は異端者の心に似ている。輝くことも在ることも許されないようで、存在自体を捻じ曲げられるような悲愴と激憤。

 賑わうストリートが今だけは煩わしい。

 今だけは静かにしてほしい。

 君との約束をたった一枚の音楽にのせて、奏でるメロディーは夏の彩にはまだ遠い。


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