第9話 夜の中、求め合う、彼女は美しい
会計を済ませて店の前で解散したメンバーはそれぞれの明かりへと帰っていく。クレナは用事を思い出したとかで走って帰り、レイナは迎えに来てくれた父親の車に乗っていった。残された俺とルナ、そしてヒロは手を振り終えて見合した。
「ヒロさん。……先ほどは、ありがとうございました」
律義に語尾を崩さず頭を下げたルナに一瞬驚いた後に、淡く笑みを浮かべた。
「別にいいよ。それに……僕は少しだけど、共感できる人間だからね」
共感……あの歌に、それともルナや俺の心に。
どれを指すのかはわからない。だけど、ヒロの人生は単に普遍だけで成り立っていないのだと知った。人一倍の苦渋と葛藤、精神汚染な問題と関係性。その果てに今が、もしくは未来があるのだろう。未熟で醜い俺たちとは違う。乗り越えた者なのかもしれない。
「あの曲がどういった経緯で出来上がったのかは知らない。でも、この曲はルナだけのものだろ?なら、歌い続けないと、自分を殺すはめになるよ」
瞠目して言葉を咀嚼するルナにヒロは優しく微笑んだ。懐かしむいつかの自分を想起させて。
「ルナが歌うことに意味があって、君が歌って始めて完成する。これは僕たちへのバトンじゃない。ルナともう一人の人が綴り続ける生き様の抗いだろ」
「…………」
「ルナがこの先どんな選択をするのかは知らないけど、この歌だけは手放したらダメだからね。きっと、待っている人はいるから」
まるで、この歌こそがルナの魂だと言っているように聴こえた。はたまた使命だと訓えているよう。
ヒロの意思はわからない。真意も到底心理学に疎い俺やルナじゃこの場で解き明かすのは不可能。
けれど、本心であることは頷けて、ルナの胸にも俺の胸にも確かに響いてきた。海底で流されながらも灯った小さな炎のよう。きっと、夜空に逢えない君を想った刹那の心炎のよう。
思い出す。ルナと出会って『夜明けより蒼』を創り上げた時のことを。それはどうやらルナも同じみたいで、呆れたように微かに口元を緩めた。そんな微細な変化であれ、ヒロはそっと胸を撫でおろし、邪魔者は帰るとする。
「僕はストリート上だから、また」
「ヒロさん……その、ありがとう」
「いいよ。僕はルナのファンだからね」
なんてスマイルするのだ。本当にどこまでも他人を見ている。そして、気遣うだけじゃなくて本心で元気を与えるのだ。
——理解されなくても、僕はルナが歌うあの歌が好きだよ。
僕だけは否定しないと、独りにしないと暗に伝えたのだ。こういったことに疎いわけでもないルナも俺もちゃんと理解して、だから「また」と手を振る。
ストリートの明るい祭道は百鬼夜行の猫の国だ。
二人になった世界に沈黙が降りる。冷たい囁き風のような静けさが俺たちを纏う。梅雨明けの夏入りにしては春の夜のような気温で、夜十時に迫る夜空は真っ暗。星の一つも見えやしない。
その星たちはきっと自由の街で輝いているのだ。
なら、あそこで輝くことの出来ない、迷い続ける叫び続ける人は夜空に輝けるだろうか。誰かに認めてもらえる星となることができるだろうか。星になることができないなら、輝くことも認めてもらうことも出来ないのなら、それは死んでいることとなんら変わりない。存在の消滅と一緒。
……そう、いつか誰かが言っていた。呟いていた。星空を見つめて悲し気な眼で泣いていた。その涙は星屑のようなのに、輝きも光もなく、悲し気で透明な雫だった。いるのにいない存在。故に透明。
これはいつかの記憶。今の星空とは見当違いに見間違えない、細く繊細で美しい儚いメモリー。
ルナは今どんなことを考えているのだろう。横から見る彼女の顔は綺麗で美しく強いのに儚い。そして、やはり無機質に虚無に夜空を見上げるだけ。こんな時、楓のようにルナの心の内だけでも読むことが出来たのなら、流れることのない自傷無色な一粒でも拭ってあげられるかもしれないのに。
唯一分かり合えてわかってくれる彼女に何かしてあげたい。自傷無色同士で傷の齧り合いでもしてあげたい。そんなもので彩はつきやしないのに、痛くしてほしい。愛の傷つけ合いでもしていたい。
……なんて考えて馬鹿だと一蹴する。今そんなことをやったことで、虚空に彷徨いニヒリストを顕在させ死にたくなるだけだ。本当に馬鹿らしい考え。でも、俺の考えはきっとルナの考えと同じ。こちらに振り向いたルナの瞳は嗤った。
「馬鹿だね」
「お互いさまだよ」
「知ってる」
「俺も。……届いた?」
「うん……届いていたよ。多分、誰かにはきっと……」
「そうか……」
「……響いた?」
「響いていた。蒼かった……どこよりもどこよりも、負けてなかった。負けるなんて、なかった」
「…………そっか……」
「……」
この明るい夜空の下に俺たちの世界はない。ここは壊れていない人間が生きている人工の世界。
他者に左右され、己の真髄を歪められた、偽りだけで生きる者で完成した世界。
だから、この世界から省かれた異端者は足掻く他ない。足掻いてい足掻いて足掻いて足掻いて……藻掻いて蹲って蹴とばして殴って舐めて吐き出して耐えて抗いの咆哮をする。弱肉強食の自然界で生きる爪のないオオカミのようなもの。
夏の熱い夜のほとぼりの中、金木犀の綻びのように演奏するキリギリスの合唱団にも負ける、独りぼっちの無力なアリのよう。
だから、足掻くしかない。抗って立ち向かうしかない。ボロボロの剣を構え、傷だらけの身体を叱責し、死線だけは決して放してはならない。己の残る牙と雄叫びだけで吠えずらかかし、泥臭くても生きているんだと、存在して意義も意味も自分にはあるんだと演奏で壊す。熱よりも怏々しく零度よりも鋭く木漏れ日よりも激しく、闇は夜に光は灯に想いだけでも音にする。
それが異端者たる省かれ者の生き様だ。生きていくための生き方だ。
だから、ルナは音楽をする。
音から始まる自分の世界を見せつけて存在を証明してみせる。自分という存在はこういうものだと同族に訴えかけるのだ。今この生きずらい世界で抗っていると伝えるのだ。
だから、俺も音楽を聴く。
様々人たちの世界を通して、偽りと嘘と社会を嫌う己を信じるために。だから、歌を作った。ルナと一緒に『夜明けより蒼』を創造した。
夜中よりまだ薄い世界を歩き始める。車のエンジン音。店たちの活気音。楽し気な愉快音に新築した機械音。数多の音が溢れていた。人々の生活の営みが反響する。
それがどうしようもなく嫌で、路地を一つ奥に曲がるとルナも勝手についてくる。そして辿り着いた公園を横目に、ぐるりと回るように歩いた。
「まだ、続けるのか?」
振り返らず後ろを歩くルナに問う。ルナも自分の歩幅で追いつくことはせず、後ろから答えた。
「綴琉がまた書いてくれるまで。わたしは諦めないよ。誰に馬鹿にされてもこれしか出来ないから」
真摯な語気に喉の奥が痛くなった。臓腑が軋み心がか細くなる。
「……書けないよ」
そんな呟きは鮮明に赤薔薇の血のように散乱した。
「どうして?」
ルナはバラたちの中、棘だらけの蔦に囲まれながら蒼く在り続ける。蒼い瞳で俺を視続ける。
「俺は無力で、無知で無色だから。……俺には、何もない。誇れるものも強がれる思いも……何も……」
「怖いんだね」
「——知ってる。ルナだってそうだろ」
それはただの八つ当たりだと分かりながら、共感を欲しがっている愚かさに、反吐がでる。それでも、ルナは俺に寄り添う。たとえ同情の類だとしても、共鳴してくれる。堪らなく心が痛く己を殺したくなる。
「……うん。わたしも怖い。だから、辞めれない。怖くても、こんな所で辞められない」
そのたった一言に、俯いてしまう。そして隔ててしまう。彼女もまた持っている者で特別なんだと。
「俺は怖くて痛いからやめた。俺は逃げた。だから違うだろ。ルナは俺と違う」
「でも、感情は変わらないでしょ。君も足掻いていて、わたしも抗っている。小さくちいさく、でも大き、ね」
「結局、弱いんだ俺は。言葉にも、ならない。言葉になんて、今はしたくない」
「…………わたしも嫌い。この世界も人も夢も。
だけど、死にたいのに生きていたい。消えたいのに歌っていたい。
……やっぱり、わたしには音楽しかないんだよ。
だから、書いて。震える歌詞を綴って。抗う言の葉を見せつけて。
——夜明けより蒼の世界で生きる者たちへ示して」
脚を止めて振り返る。桜色の髪が風に囁かれ、大きな瞳がか細く灯の揺れを魅せる。引き締めた小さな唇も哀願の儚さも、握りしめている手の力もスカートから伸びる白く細い踏ん張っている脚も、桜が散って逝く切なき時に包まれている。
ルナは強いわけじゃない。知っているはずなのに、やっぱり強く見える。
ルナの吐息が震えていた。白い息にならない薄命の魂。
月光の射さない街は案外に昏かった。
彼女の願いに応えたい。俺を救ってくれたのは彼女だ。そして、俺もルナのような心情を抱いている。だから、俺もルナの作る音楽に言葉を乗せたい。求めてくれるなら尚更だ。
…………だけど、どうしても不安になる。怖くて恐ろしくて言葉になんてしたくない。俺でいいのかと……特別な人たちを僻んで堕ちて自信なんてもてやしない。
自分が抜き出て才能があるわけじゃない。寧ろ、その手の力は平凡も極まる所。いや、凡人の才すらもない。独特な世界観や発想の上を行く想像が出来るわけじゃない。
俺に出来るのは些細な物語を描くくらい。その程度、その普遍、その無能。楽器はほとんど何も使えない。歌だって普通だ。俺のどこかに特別なんてものは一切合切存在しない。才能の欠片もありやしない。
なのに、どうしてルナは俺に書いて欲しいと求める?
嬉しいさ、本当に感謝だ。堪らなく胸が震える。だけど、ルナには才能がある。認められないだけで、レイナにも勝る力がある。そんな彼女を俺の無責任な同情みたいな共感たる依存で、一時の迷いで潰してしまっていいのか。成功するなんて限られていない。失敗のほうが多い。
それでも、ルナは歌っている。チームにも入って歌っている。世界を音にして響かせている。
俺はそんなルナが好きだ。抱えているものがあって、辛い記憶があって、そして死にたくて消えたくて、それでも抗っている。そんな激情を絶やさない彼女が誇らしい。尊敬など言葉にして堪るものか。好きだなんて言葉以上で心以下で、愛や恋のように美しくない。
「俺には、ルナみたいに才能がない。俺には何もないんだよ!」
「それでも、わたしが生きているのは綴琉のお陰。綴琉の言葉がわたしは好きだよ。……だから、書いて」
揺らぎなかった。譲らなかった。諦めなかった。
ああ、美しい。ルナにはきっと桜が似合う。
けれど、俺はなんだ?俺とは何なんだ?
そんな答えを知りたくて……考えて考えて悩んで悩んで——そして、レイナとの同盟が浮かんだ。
本心で傍にいる、偽らない嘘をつかない他人であって無関係でない関係。名前のない関係性。ただの気まぐれで創った関係が、俺の心を掻き回す。
レイナとの同盟はひと時でも死にたくならないようにするための安静剤だ。大っ嫌いな世界にいるよりは心が安らぐ。そして生まれだした好奇心。レイナをからかいたいという熱情。ただの気まぐれ。恋もなければ好意もない。
それでも着火した熱情は、俺を火とならざるものにするようで、けれどだからこそルナの提案に揺らぐ心はなんだ?
今までになかった感情が、もしくは成し遂げた快感が叫喚するのだ。そして豪快に笑っているのだ。
本心の好奇心的な意味合いで言えば、やりたい。ルナと一緒に音楽を創りたい。
二律背反な御託が渦巻いて絡み衝突と激突が繰り返される。決められない答えに、知り得てない答えに情けなく俺は視線を逸らした。
「……もう少し……考えさせてくれ。……夏休みまでには、決めるから」
今回が最後の決断だ。高校一年生の夏に描く青春の選択だ。後三週間の期限つきに、ルナは嬉しそうに目じりを下げた。
「待ってる」
その一言だけを告げて、俺を追い抜いて歩いていく。その背中は小さく、だけど大きい。
子供で大人な彼女の白いワンピースが揺れた。桜色のツインテールが強い風に解き放たれる。背中下まで伸びた長い髪と揺れるワンピースの後ろ姿は、いつか消えていくさよならに、俺には見えた。
海の空は星がない。
夜空の大地に雑音だけが数多。
黒い風に誰も気づかない。
儚い君だけがいるだけの世界。
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