第4話 知っている日常
何だか懐かしい夢の感触と共に目が覚めた。
日差しを遮ったカーテンから零れる温かみが木漏れ日のようで、泡沫な現実に引き戻す。けれど、泡沫なので微睡みは激しく、しゅぱしゅぱする眼を擦れども眠気は去ることはない。見ていた夢の欠片はどこかへ飛んでいき、誘惑に落ちていく。意識も瞼も落ちていく。
カーテンの間から入り込む風がさらりと髪を撫でた。そして完全に意識が離れて……。ドンッと激しい音と共にドアが蹴り開けられて誰かが俺に向かって大声で叫んだ。
「いい加減に起きなさい!」
毎日の繰り返しのような家族の声。四つ歳の離れた姉——
「ほらさっさと起きる。あんたまた遅刻するわよ」
「姉さん……もうちょっとぉ、だけぇ……ねかせてぇ……」
布団を頭の天辺から被って反抗する俺をイラつきの表情でずかずかと眼の前まで入って来る。
「お姉えちゃんのいう事聞けないの!さっさと起きる!」
楓は俺のタオルケットを剝ぎ取って、ついでに枕まで奪ってしまう。枕が取られたことによって打ち付けられる頭の首筋が悲鳴を上げた。
「ぐふぇ」
情けない声を漏らす俺を見て悪戯に笑う。
「毎日思うけど、何変な声出してるのよ。あんたの朝はほんと大変ね。主に私が」
「だって……眠い。……姉さん枕返して。あとそれも」
「私の手ならいいわよ」
「……」
つまり返して欲しければ今すぐ起きろという事だ。こういった場面で楓に勝てたことは一度もないので、渋々起きるしかない。家の仲で楓が最強だと思う俺には反抗する術も実力もない。けれど、そんな楓を慕ってはいるし、尊敬も愛おしさももっている。ただ、朝だけは優しくしてほしい。
「あんたが今何を考えているのか手に取るようにわかるわ」
「じゃあ、言ってみて」
瞼を擦り欠伸を一つ。携帯で時間や連絡を確認しながらノロノロとベッドを脱出する。楓は俺を見守り(監視)ながら唇の下に人差し指を当ててにへらに微笑んだ。
「尊敬しているし、大好きだけど起床だけは優しくしてほしい、かな」
「……大好きとは思ってない」
「ふーん。昔はことあるごとにお姉ちゃんお姉ちゃんってすり寄ってきたのにな~。誰かに言おうかな~」
「ぐっ⁉……ボスキャラはチートってふざけてるよな」
「あんたの方がふざけてるけど、まー私に勝つなんて無理よ。何年あんたを見守ってきたと思ってるのよ」
確かにそうだ。俺は所謂お姉ちゃん子。母よりも父よりも祖父母よりも楓に懐いていた。教わるのは何でも知っていて何でも出来る楓だけで、小学校高学年までは楓と同じ部屋で寝たいとぐずっていたほど。
まーそれによって楓が俺を起こすという習慣が出来上がったのだけど……それはいいとして。
とにかく、家ではお姉ちゃんお姉ちゃんと金魚のフンレベルだったことは今でもよく覚えている。今でも続いていたのなら立派なシスコンだろう。そして普通に黒歴史なので思い出させてほしくない。恥ずかしいです。
母曰く、楓は俺に教えるために何でも必死に勉強や運動を影でしていたとのことだ。それを知ったのは去年で、ずっと天才と思っていたので拍子抜け……なんてなく直ぐに理解した。けれど、そんなものは些細なことで、今でも俺にとって楓は憧れの姉に違いない。
そして誰よりも俺を理解してくれている人と言っても過言じゃない。
背中まで伸びた長い黒髪につり上がった綺麗な眼。モデルのように容姿にクールなのに取っつきやすい性格。一緒に学校に通ったことはなかったが、先輩たちから楓の噂はよく耳にするほどには人気だった。今じゃ市街の大学で心理学なんかを選考している。
「ほらさっさと顔を洗ってご飯食べなさい。私朝の講義だから先に行くわね」
「ああ。いってらっしゃい」
「……はぁーいってきます」
そう言って、楓は俺の部屋から出て行った。もうすっかり覚醒した意識で眼を擦りカーテンを開けてから同じく部屋を出た。
* *
梅雨というものは大慌てで終わる一種の大掃除みたいなものだと思っている。ある一定の期間にだけ訪れる空の移り変わり。そして季節の終わりと始まり。それは終業式前の大掃除と一緒。櫛目や区切り、終わりと始まりを示すそう言ったものだと俺は毎年梅雨を感じて思う。そして、今年の素早く去っていった梅雨は早く夏休みに入りたい学生の気持ちの模写のようで、その分むしむしと暑苦しい熱気が太陽の光を背中に人間を痛みつける。
「太陽が俺を虐めてくる」という言葉を使っている人が前にいたけれど、あながち間違いでもない。熱さに弱い俺は正しく虐められているのだろう。
純白な日光が気温よりも昂揚的な灼熱を前振りもなく浴びせてくる。影を伝いながら己を守れども、朝は昼など関係なくアスファルトからの攻撃も抜けがない。
「あづい……」
汗水が噴きだしエネルギーをどんどん奪われていく。普段通学は約徒歩三十分、自転車なら一九、二十分程度であるが、こんな日はバズを使わざる得ない。家からバス停までおよそ五分。
汗だくになって通り過ぎていくサラリーマン。日傘を差して歩くマダム。夏の訪れに走り回る少年少女。ホースで水を撒くおじいちゃんにこの天気と気温をネタに話を咲かせるおばあちゃん。同じく汗水垂らしてバズ停に向かう同じ学校の生徒たち。日常を無意識に視線に入れながらゆったり歩いていると、不意に肩を叩かれた。
「おはよう綴琉」
金色の優流な髪は日差しに負けないくらいに美しく、碧眼は熱さに負けることのない輝きを宿していた少女がそこにはいました。俺に声を掛けた少女の名前は美しさと高潔を尊ぶ女王のような麗しき女子高校生。
「……おはようレイナ」
名前のない同盟を組んだお互いに唯一無二の理解者。レイナは手をうちわのように扇ぐ。別に涼しくなるわけではないが、こうでもしてないとやってられなのは誰もが頷く所作。汗一つないがそれでも熱さに顰めるレイナは俺をみて更に顔を顰めた。
「熱に溶けたゾンビみたいになってるわよ」
「それって人型のアイスの頭からだんだん溶けていくようなものか?」
「凄く具体的な補足をありがとう。あと知らないわよ。じゃなくて」
回転が鈍いので変なボケをかましてしまった。そんなバカなボケに丁寧に乗って突っ込んでくれるレイナ。こんなんが本当に落ち着いて騒めく。
「大丈夫?昨日より暑いってテレビで言ってたわよ」
「……今日は俺の命日かな」
「お願いだから死なないでね!ほら、保冷剤一応多めに持ってきたから使いなさい。熱中症にならないように水分補給もすること」
「なんだか……お母さんか彼女みたいだな」
「なっ⁉そ、そんなつもりじゃないから!あと私まだ若いし……その、かっかか彼女とかなら……」
「?大丈夫だよ。熱中症なんてならないから」
「……昨日、熱中症になって保健室で寝てたのは誰でしたっけ?」
目を細めてぎろりと睨むレイナ。ぼやけるような脳内で昨日を振り返り、保冷剤の冷たさが伝わる心地よさと共に思い出した。あーと、気まずく首に当てた保冷剤をおでこに当てて視界を遮る俺の前に、レイナは回り込んで見上げてきた。これが普通の仕草であれば可愛らしい。けれど、少しばかり怒気を含んだ視線の凝視は些か居たたまれなくする。その大きな碧眼の瞳に負けて脱力した。
「……俺です」
罪を認める犯罪者のような気分でいる俺と違って、レイナは呆れてため息を吐いた。梅雨上がりの風はじめっとしており、涼しさの欠片もない。更に俺の体力を奪っていくのだから正に追い撃ち。ポケモンのげきりんと同じだ。気温がバグっているから混乱にならない無敵の追撃。それにあれってけっこう攻撃力が高くて嫌いなんだよなーと、熱さにやられている俺の思考回路はハチャメチャだ。
「変なこと考えているでしょ?」
横からのジト目が俺の混乱状態を解く。けれど、状態異常の思考は治らない。見上げた青空に金魚みたいな雲。キラキラ光る太陽の脇を飛ぶ飛行機。何だか、空を泳いでいるようで。
「……海に行きたい」
「海?」
「ああ。太陽がない世界の海で沈みたい」
「貴方……今日は相当バグってるわね。この前、朝倉君から聞いていなかったらもっと混乱してたわ。いや、今でも十分混乱してるのだけれど……」
一週間前の冬斗に感謝してなお混乱を隠せないレイナ。俺は暫く暑さに慣れないとダメな人。だから初夏とかは本当に死ぬレベル。それも聞いていたレイナはやっと見えてきたバス停に安心する。
「ほら、バス停よ。バスも丁度来たところだし、乗るわよ」
「え?海は?」
「まー貴方が行きたいなら、別にいってあげてもいいわよ……」
髪をくるくると弄りながらそっぽを向いて恥ずかしく返事するレイナを見て、冷静な脳が俺を微笑ませた。
「じゃあ、約束」
「……ええ。太陽はあるけど、行きましょう」
そうして二人の世界でいると、バスの到着を知らせる音が耳朶を踏んだ。俺と同じようなことを考えている学生が一斉にバスに乗り込む。俺たちの脇を走り抜いていく人たちを見て、もしやと嫌な予感が保冷剤によって覚まされた頭の片隅で過った。
「乗れなかったら元も子もないわよ!走るわよ綴琉!」
「……もう、あそこの喫茶店に入らない?」
「何馬鹿なことを言ってるの⁉ほら、急いでっ!」
「ちょっと⁉レイナ⁉」
諦めの境地に落ちた俺の手をとって走りだすレイナ。その背中は夏の青空の下を駆ける青春少女の壁画みたいだな、なんて思った。
少し焦ってそれでも楽しそうな彼女の横顔はきっと誰がみてもキラキラしている。彼女という存在に夏は似合うと、青と白と緑のオレンジと黄色のパレットで色づいていた。
「ほら早く!」
レイナの笑顔は俺に向けるには勿体ない夏の煌めくを描いていた。
「それで、どうして今日は遅刻して来たの?」
「別に、ただバスに乗り遅れただけよ」
「夜乃君と一緒に?」
「それは……だって、綴琉がしんどそうだったからよ」
「つまり、夜乃君の彼女として付き合っててことね」
「かっ彼女じゃないわよっ!それに仕方ないじゃない!バスの中で倒れられでもしたらそっちのほうが困るし……」
「自分のことより彼の方が大切と」
「~~っ!夏菜のバカ!」
ふんっと拗ねて見せる私に「ごめんごめん」とお弁当のりんごを一つ私のお弁当に移す。リンゴ好きな私はそんな些細なことで許してしまうのだ。ちょっぴり情けなく思いながらもリンゴを直ぐに口に入れる。
「う~ん!おいしい!」
「ほんと単純」
苦笑いする夏菜は残りもパクパクと食べてしまう。
今日の朝は結局バスに乗れず、更に綴琉のエネルギーが切れてショートしたロボットみたいになってしまった。仕方なく近くの喫茶店で綴琉を冷やし、稼働できるようになったのが更にバスを一本見逃した九時十分ごろ。それからバスに乗ってニ十分かけて学校に到着。教室に入室したのは二限目開始の直前だった。
ちらりと綴琉の方を見れば、冬斗や和希と仲良さげに談笑している。エアコンのかかる教室ですっかり元通りに戻った綴琉に安心をしながら、途切れ途切れに聴こえる会話が変に聴覚を侵入してくる。
「どうしたのレイナ?」
「別になんでもないわ」
振り切って夏菜に視線を合わせるも、すれ違いに夏菜が先ほどまで私が見ていたほうを見て薄い笑みをつくった。
「夜乃君?」
「違う」
「じゃあ、深山?」
「違う」
「もしかして、冬斗君⁉」
「違うわ!別に見てないわよ」
辟易とお茶を飲む私は夏菜の真意を知らず、訝しむ夏菜だけど、諦めたようにため息を吐いて、綴琉たちを見つめる。その瞳は情熱的で感慨的。どこか不安で切情的。その意味するところは私にはわからない。
何かあるのかと振り向けば、丁度こちらに振り向いた綴琉がめんどくさそうに夏菜に手を振っている所だった。それに釣られるように冬斗と和希も手を振り、少しばかり嬉しそうに夏菜は笑って胸の前で小さく手を振った。その光景をポカンと見つめる私に夏菜は首を傾げる。
「どうしたの?」
どうしてこんなに心がざわついているのだろうか。落ち着かない。先ほどの光景が何度もリフレインする。表情も仕草も応える彼女の笑みも。酷くざわついた感情を押し込めて、私は親友に笑って見せた。綴琉には見せることのない偽りの笑顔。
「何でもないわ」
食事に戻る私を見て思い出したように夏菜は昨日のドラマの話を持ち掛けた。先ほどの空気や感情から逃げるように私も話に乗った。他愛無いお喋り。どうでもいい噂話。部活動に梅雨の話に授業の話。あらゆる話題の傍ら、やはり私の意識は先ほどの一件に留まってばかり。
そして同時に改める。こんな感情を持ってはいけない。
まだ、私は彼と対等な立場じゃないのだから。
——本当の私なんて、私も知らないのだから
それでも、この感情に名前はついていた。
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