第2話 無様な人間よ、弱さに負けた惰弱

 この高校一年生の夏が来る少し前のこと。


 中学でやっていたサッカーも続けずに、無味乾燥な生活を送っていた俺には欲がなかった。

 言うなれば高校生としての青春の謳歌や交際相手、友達、その他趣味。そう言ったものが何一つ魅力的に感じる事が出来なくなっていた。たった一つあったものも、今は喪ったままだ。

 兆候があったりはしない。そうなったきっかけが明確に存在するわけでもない。ただ、気づいた時にはモノクロに沈む世界が俺の意識を占めた。中学二年には完璧にそう感じていた。ほんとうに突然。友達と喧嘩したわけでもない。トラブルが起こったわけでもない。ただ何となく、世界がずっと味気なく感じおり、その結果が訪れただけだった。

 俺が見ていたあの輝かしく煌めきの謳歌する青春群像も、まるで張りぼての子供だましにしか思えない。偽りと虚勢のへりくだりが謙遜やマウント、自己主張や利己、恣意といった己のみの価値観から成り立っているようで、その日に俺は脱力感と共に冷めていった。いや、冷めきってしまった。氷よりも冷たく固く死んでいった。


 ほんとうに何故か、そう見えて感じて理解した。俺が望んだわけでも、物語の主人公になりきったわけでもない。環境や人間の変化が俺に一層、世界の在り方を訓えたのだろう。だから別段戸惑うことのなく、生活に馴染んで、サッカーを辞めた。唯一のやりがいであったサッカーを手放しは、更に激しく虚無に堕とした。それでも、そうしなくては俺の精神が保たなかった。

 俺はそのままに、高校生活を始めた。


 クラスの可愛い女の子にも、珍しい金髪碧眼の美人にも、明るく元気な可憐な子にも興味はわかなかった。新たな授業には、中学生にはない環境や範囲にも、彩とりどりな部活動にも、感心は抱かなかった。

 そんな俺を中学の同級生や友達は高校デビューだと言っていたけど、でもあながち間違えでもない気がする。中学までは自分でも確かに偽って生きていた。自分を殺して社会の枠に嵌め込んでいた。あぶれないように、はみ出さないように、失わないように。


 ある人と出会うまでは…………。


 けれど、その人との唯一の接点も、俺自身が逃げだした果てに霧散した。たった一つの希望であり寄る辺を、俺は弱さと情けなさに不甲斐なさに身を包んで逃げた。

 だから、周りから見えるように変わったのは高校生になってからだ。

 それは実にしっくりくるものだ。そんな俺を変わらず友達として接してくれる人もいるし、みんながみんな過去ではなく今を謳歌している。だから、俺はこれでいいんだと思った。嘘のような会話を最低限に、出来るだけ偽った笑みをつくらず、平穏に送る生活で、いいと思った。


 どれだけ死にたくても……消えたくても……怖くても。


 やる気がなくなったと言えばそう見える。けれど、実際は周りの欺瞞が俺にはくだらなく見えてならないだけ。そのくだらないものに成り下がるのも無様でしかない。


 だから、俺はほどほどにせめて偽らなくてもいい、俺の少しを許容してくれる人たちだけでいい。


 そうやって半分以上を諦めて、死にたい想いを抑え込んで虚無に生きていく。

 あの人と出会って始まった抗いの日々とは打って違う。

 本当に偽物の偽りの噓っぽっちの人生。大っ嫌いな人間に俺は抗うこともしていない。


 大っ嫌いだった、世界も社会も関係性も。


 醜く汚らしくそうなりたくなかった、偽りと虚勢で生きる群衆の豚共に。


 それなのに…………俺は、嫌いなそれに成り下がっている。本当の所はそんな自分なんだ。


 あの日の情熱も、苦しみの叫びも、抗いの歩みも、心の意志たる炎も、今はどこにもない。


 俺は死んだ。死にたくて消えたくて、『俺』は死んだ。


 虚無に生きている俺は自己を殺したも同然であろう。だから、今は俺が大っ嫌いだ。


 ——そうして、春は過ぎていく。矛盾を抱えてしこりを残して、後悔と諦観と燻りの念を傷にして、春が過ぎて夏がやって来る。



          *             * 



 そんな俺が『彼女』ときっかけをもったのは、五月の体育祭の日。


 スポーツは嫌いでも苦手でもない俺はそれとなくこなして、クラスの迷惑にだけはならないように競技に参加した。五月下旬にしてはとても暑く、何度ペットボトルの中が空になって買いに行ったことか。それは皆同じで、挙句に自販機が全て売り切れになって冷水器に人が並ぶほど。

 早すぎる夏を感じさせる体育祭日和の天候は、些かこの時期には厳し過ぎた。仕方なく日陰で休んで我慢するかと、その場を離れて運動場が見える建物の影に腰を下ろそうとして、後ろから誰かが俺の首に腕を回して飛びついてきた。


「元気か綴琉!」


 視線を横に見ると、短髪で笑顔が眩しい少年が元気よく汗を流していた。程よく焼けた肌に鍛えられた腕の筋肉が俺を圧迫する。


「熱い、和希かずき

「まーまあ。そういうなよ。夏はもっとあちいんだぜ」

「……そうだな。それよりもどいて。重い」


 げっそりと言うと、深山ふかやま和希の後ろからもう一人の男子生徒が顔を覗かせる。


「和希離してやれ。熱さには弱いんだから綴琉は」


 そう促す朝倉冬斗あさくらふゆとは茶色に染めたさらさらの髪を目先から払った。整った顔立ちにコミュニケーションの化け物にしてサッカー部の次期エース。爽やかなイケメンとして女性陣から好物件とされている彼は、和希の肩を叩く。


「そうだったな。よくそれでサッカーなんてできてたもんだな?」

「あれは、熱さに慣れてたからかな?引退してからはもうダメダメ」

「そうか。……俺としてはもう一度一緒にやりたいけど……綴琉のプライベートにどうこう言うつもりはないし、俺は今も友達でいれているだけで十分だよ」


 爽やかに言ってのけるイケメンに軽く感動の涙を流してもいい気がする。この二人は中学で一緒にサッカーをしていたチームメイトにして一番の友達だ。冬斗とは小学校からの付き合いで和希は中学からだ。

 俺がサッカーを続けなくても友達として一緒にいてくれる。休日なんかも一緒に遊んだりもするような仲だ。

 建前かもしれないと考えたことはあるが、それは考えないようにしている。信じることは決して悪いことではないと思いたいから。自分を甘やかし諫める。

 そんな冬斗に対してため息を吐く和希は「これがイケメンかよ」とぼやいた。二人ともサッカー部で上級生に負けず劣らぬ実力を持っているが、モテ度は和希の全敗だ。冬斗は高校生になって一ヶ月半でもう三回は告られている。勉強、運動、品性、親しみ、等々。その全てが器用で和希の上をいく。それが憎たらしいようで和希は唇を尖らせる。


「俺はぜってーっ冬斗に負けねぇーからな!」

「それよりもこんな所でどうしたんだ?体調でも悪い?」

「ううん。飲み物がなくなって買いに行ったんだけど、売り切れで。冷水機も一杯だったから終わるまでなるべく日陰に居とこうと思って」

「それなら、俺の水を上げるよ」

「いいのか?」

「ああ。今日は多めに持って来ているから気にしなくていいよ」

「ありがとう。今度何かで返すな」

「ああ。じゃあ、行くよ」


 そう言って歩き出そうとする冬斗に改進の突っ込みが一つ。


「俺を無視しないでぇぇえー⁉」

 

 そんな和希のギャクに俺と冬斗はクスクスと笑った。そんな俺たちに不満げに「これネタじゃねーから」と不服そうにまた唇を尖らした。本当に素直な和希は諦めたように笑う。三人の笑い声は体育祭として十分な活気だった。

 俺は笑えていた。……笑っていた。




「じゃあな」と和希と冬斗を見送って段差に腰を下ろす。


 鳴り響くピストル。空砲と共に応援の熱気が膨れ上がる。誰かを呼ぶ声。誰かを励ます声。誰かを褒める声。


 数多の声が声音をもって青空の下に渦巻いている。アンカー対決の火花は激しく盛り上がり、喝采が鳴り響く。それに驚いた鳥たちが羽ばたき、小さな雲を乗せる風に倣って飛んでいく。草木の靡き騒音の時代音。励まし称え合い支え合う青春の一頁。


 その全てが輝いていた。眩しく誇らしく煌めいていた。それが少し羨ましくも、やはり彼らのようには演じなければできないなと、俺は悲観的に嘲笑する。


 これが大人になった感覚だと言うならば、悲しいでしかない。何もいいことはないと俺は思う。まるで俺と彼らを隔て分けられているみたいだ。別の世界の住人として改めて認識させられそうだ。

 こんなものを大人と呼ぶなら、大層大人とはくだらなく諦観に憑りつかれて貪られた生き物だろうか。


 そうなってしまうのが嫌で、俺は盛り上がる祭りのフィナーレを後ろにその場を立ち去る。

 けれど、その思考の端で、俺はここにいる人間と違う人種でもいいんじゃないかと、笑みが漏れた。大人とも違う、理解されない存在。俺はそれなんだろう。染まらない染められない染まりたくない省かれ者。

 それはあの人が教えてくれた在り方で、生き様。彼女は言っていた。

 ——夜明けより蒼の世界で生きる者たちに、わたしの生き様を示してみせる。

 そう……彼女は誇っていた。抗っていた。

 それが好きだった。彼女の在り方に救われた。そう、在りたいと心の底から思えた。


 ……けれど、その意思を今も貫けているのだろうか?

 そんな疑問にまた、自分を嘲笑するだけだ。




 とぼとぼと何気なしに歩いていると、中庭への曲がり角から出て来た女の子と接触しそうになって慌てて後ろに避ける。


「あ!ごめんね!」


 びくっ身体を跳ねさせた茶髪でセミロングの女の子は直ぐに俺に気付いて謝罪をする。


「俺のほうもごめん。怪我とかない?」

「あはは。大丈夫だよ!」

「そう。よかった。じゃあ……」


 そう言って彼女の横を通り過ぎようとして、「ねえ!」と横から声が掛かり裾を引っ張られる。何事かと思って彼女を見れば、どこか複雑な心情で俺とその先を見て逡巡している。


(この先に何かあるのか?)


 気になるが、彼女の様子から迂闊には訊くことを躊躇われる。困り果てる俺に彼女は視線を合わせた。一七〇の俺を見上げる形で彼女のパッチリした大きな瞳が吸い込んでくる。


「えーと……夜乃君、だよね?」

「あ、うん。そうだけど……」


 俺のことを知っている驚きと、どこかで見たことのある彼女がモヤのように頭に浮かんで。


「あたしは夏菜。有邨ありむら夏菜かなだよ。一応夜乃君のクラスメイトなんだけど」


 そう言われれば、記憶の端で甦る。モヤが急速に名を結び付けて、関係を定義して、その確かな姿を幻想ではなく実像として記憶の内に現れた。


 (そうだ。確か、金髪碧眼の女の子と一緒にいた人だ)


 あーと、一人勝手に納得していると、夏菜は訝しむというよりは呆れたようにため息を吐いた。バトミントン部の夏菜は細身で在りながらも、身体は引き締まっており、意志の強そうでパッチリとした瞳の佳麗な少女。身長は一五七くらいだろうか。一七〇の俺とは頭一個分くらいは違う。普通にカーストトップなんかに君臨してそうな可愛らしい夏菜に名前を覚えられていることに戸惑うが、よく考えたらクラスメイトなので戸惑う意味がない。これは単に俺が人の名前を覚えるが苦手だからだろう。


「それで夜乃君は何しているの?」

「?俺は熱いから避難してきただけ。飲み物もないし」

「?あるじゃんそれ?」


 そう言って夏菜が指で刺すのは、冬斗から貰った水だ。けれど、その中身は既に半分を下回る水量しか残されていない。半分以下の水が太陽を反射して凄く透明に揺れた。


「これは冬斗に貰ったやつ。これを飲みきったらほんとに最後。だから、冷水機が空くまで中庭で待とうと思ったんだけど……」


 今、校舎は施錠されており校舎内で休ことはできない。けれど、中庭は校舎の影になっているので、燦々たる太陽の陽光を浴びなくていい休憩スポット。

 まーここに逃げてきた理由はそれだけじゃないけど、それを始めて喋った夏菜に言うのは困らせるだけだろ。

 なんの意味もなく必要ない自己満足でしかない。だから、ここくらいは諫めていたい。

 俺の言葉を聞いた夏菜は「冬斗君の……」とペットボトルを凝視していたので、俺の不自然な沈黙は意識の外であったようで安心する。その熱を浮かべた彼女の表情を不思議に思いながらも、少し振り返る行動や今までを見て——


「もしかして、冬斗のこと好きなのか?」


 と、純粋に訊いてみた所、夏菜はチューリップに負けないほどに真っ赤に顔を赤らめて、糸で垂れた蛹のようにあわあわと手振り身振りを急がせた。


「ちっ違~う!どうしてそうなるの⁉」

「別に、冬斗の近くに有邨さんがいるなーて思っただけ。それに俺の名前も覚えていたら点数高いもんな」

「~~~っ‼なっななな⁉……仮にそうだとしてっ!あ、あたしのことなんだから、何でもいいでしょ!」

「好きって認めるんだ」

「うぅぅぅ~~っ‼……もー最悪ぅ。……一目惚れなの……」


 そう語りだす恥じらいのある夏菜は可愛らしく、こんな子が冬斗の彼女になると思うと何だかにやけてしまう。しかし、その熱の裏はどこまでも冷めていることに、気付かないように声すらも漏らす。

 にやける俺にからかわれていると勘違いした夏菜は「にやけないでっ!」と叫んで下から睨み付けた。少し小動物的な夏菜。愛嬌や表情の変化が面白く、少しばかりからかいたくもなるが、それよりも先に夏菜が質問をする。


「だから!……冬斗君の好きなものとか、その、タイプ……とか教えてくれない?」


 くぅーと鳴く子犬のような夏菜は愛玩的で俺は直ぐに頷いた。人間は犬や猫に弱いと相場は決まっている。かわいい子には協力しましょう。


「別にいいよ。冬斗に有邨さんみたいな彼女が出来たら俺も嬉しいからな」


 なんて、言葉が喉をせり上がり、笑みが表情筋を乗っ取る。


「ほ、ほんと!なら連絡先を交換しとこ。また帰ってからでも連絡するから!」

「わかったわかった。それとこれ欲しい?俺はまだ飲んでないけど」


 携帯のアドレスを交換した俺はふと思いついて残り少ないペットボトルを掲げる。飲んでいないのは嘘であるが、なんだか面白そうなのでそう訊いてみると、それを見た夏菜は生唾を飲んで、すぐに羞恥に赤くなり憤慨した。


「そんな変態なことはしないから!もうぅー!あたし行くねっ!」

「あ、ああ。……じゃあ」


 手を振って別れを告げたが、去り際に夏菜は俺の方に振り向いてこう残した。


「後はよろしくね」


 訊き返す暇もなく、疑問で埋まる俺を残して去っていく。その背中ははつらつとしていて青春を楽しむ女の子の姿であった。恋に悩み、好きな人を想い、胸の鼓動や彼の一動一手に熱を孕む、そんな恋する彼女を想像して、俺は俺に嗤う。


 何が嬉しいだ。何がからかいたいだ。何が手伝いたいだ。

 また偽った。また繕った。また嘯いた。お前は——偽善者。


 こんな小さなコミュニティすら俺でいられないなら、やっぱり俺から見える世界に彩りはつかない。

 今の俺に生きる価値は何もない。意味も意義もやはりない。ずっとないとわかっている。わかっていた。

 だから……俺を知る唯一の彼女は、今の俺を見て、何を感じどう思いどんな言葉と音で——俺を殺してくれるだろうか。


 そんな考えをまたも封じ込めて中庭へと向かった。

 そして、花壇の横にあるベンチに座っている麗しき少女が、俺の瞳を奪った。

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