第13話 こうして1日は終わっていく。

 猫の観察をしながら、私はスマートフォンでAliceの「遠くで汽笛を聞きながら」の歌詞とコードを検索し、それをノートに写す、写経の様な真似事をし始めた。先ほどのギターの作業療法で、急に歌いたくなった歌だ。どちらかと言うとピアノの方が合っている気もするが、ギターでも全く違和感もないし、間違いなく名曲だ。


 最近の歌詞とコードを載せたサイトは、タップすると自動でゆっくり下に下がり、演奏に合わせて表示してくれるのだが、いかんせん文字が小さいので自分には合わなかった。私はド近眼と乱視が混ざって、割と視覚障害者手前くらいに目が悪いのだ。


 文字を書くという事は、リハビリにも繋がるのでは無いかという、淡い期待もあった。自分を見つめ直すノートには、ミミズののたくった様な下手な時で書いていたが、歌詞はしっかり読めないと間違ってしまうので、自分的な他所行きの文字で書いて行った。件の猫は、ゴロンと横になって日光浴をしている。しかし暑いのか、すぐに木陰へと引き揚げて、また涼しくなったら陽射しの下へと戻る、という行動を繰り返している。


 やはり野に生きるモノとしての本能なのか、自分を天日干しして、ノミやシラミと言った寄生虫の予防の為の行為なのだろう。コロコロと行動が変わる猫に癒されながら、私は歌詞の書き写しを進めた。


 歌詞が3番に入る頃、猫は小川を西へ辿って何処かへと消えて行った。帰宅したのだろうか。私は、猫のコロコロ変わる行動から、心の中でコロ助と命名した。恐らく直接触れ合うことも無いだろうが、せめて目の合った仲だ、勝手に心の中で名前くらいつけてもバチはあたるまい。


 それにしても、文字を書くという事は、こんなにも疲れる事であったろうか。最近ではほとんど自分の名前や、グチャグチャと思った事を書き出すくらいだが、しっかりと書く日本語というのは、意外と疲れるものだ。しょっちゅう休憩を入れ、放り投げそうになりながらも、コロ助や窓の外の放置トレーラーを巡るゴタゴタを観察しつつ、無事に書き上げた。どうやらトレーラーは、大人6人がかりで相談するも、結局撤去しないで終わるようであった。何の為の集まりだったのだろうか。


 歌詞を書き写した後は、コードを書き写す。比較的簡単なコードなので、書き写しながらもきっと弾く時はすぐに弾けるだろうと思っていた。次回のギターが楽しみだ。


 一通りの作業を終わらせて、後片付けを終わらせたところで、17時20分を回っていた。私は最低限の身嗜みを整えて、診察室へ向かった。


 担当医の田島先生は、眼鏡にふくよかな体型、少し白髪の混じった50代の温厚な男性の先生だ。常に笑顔を絶やさない印象で、きっとこの笑顔でこれまで数多の患者を救って来たに違いないと思わせる貫禄があった。診察室の扉の向こうには、いつもと変わらない先生の姿がある。


 さぁ、どうぞ、と促され、椅子へ掛ける。先生は目の前のパソコンの電子カルテを見ながら、私の最近の気分や出来事を聞いていく。これまで、全く自身の裡に囚われていたが、ようやっと少しだけ周りを見る余裕が出てきた気がする事や、例えば今日のギターや、コロ助の事などを、少しずつ、辿々しくも思った事を先生に伝えていった。いつもなら、私が話し出すまで時間がかかり、先生が根気強く待ってくれるというのが常であったがら今日はすぐに語り出した私に、先生も一瞬でも、驚いた様であった。


 やがて、五郎先生の話に及び、彼との思い出話などを披露した。すると先生も、実は学会や研修などで会ったことがあって、治したい人がいるという志のある若い先生だなと好感を持っていたら、その治したい人が貴方だったとは、大変驚きました、と、エピソードを語ってくれた。


 今後は、五郎先生のカウンセリングと、田嶋先生の診察を1日おきに交代でやっていくという事になった。薬も変わらず、夕食後の安定剤のみで様子をみる事とした。


 診察が終わったのは30分後の18時で、ちょうど夕食の時間であった。病室への帰りがけに列へ並び、お盆を受け取って部屋へ帰る。今日はご飯、お吸い物、きんぴらごぼうに白身魚の焼き物であった。あっという間に平らげ、お盆を下げる。ナースステーションへ行き、夕方の薬を飲み、その足で洗面室で歯を磨いた。


 部屋へ帰り、身の回りの片付けをしていると、スマートフォンが着信音を鳴らす。発信元の名前を見ると、「結城」とある。もう、26年来の友人の名前であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る