第12話 猫

 久々のギターは、怠けて柔らかくなってしまった指の腹に適度な痛み、手首のダルさと引き換えに、心を軽くしてくれた。しかし、思い返せばギターの状態は、良いとは言えないものであった。本体は全体的にくすんでおり、弦は錆が目立つ、いわゆる腐った弦の状態で、指板に至っては張りっぱなしの弦の張力で、反ってしまっていた。

 首を傾げながら弾いていましたよ、と岸田さんに指摘されたのは、久しぶりのギターに指が慣れていないからだと思ったが、どうやらギターの状態についても無意識に気にしていたらしい。次回、早速手入れや弦の張り替えについて提言してみようかな、と、自分の前向きな姿勢に少し驚いた。やはり音楽は、良い影響を私に与えてくれそうだと思いながら、ナースセンターを通りがかる。


 通りがかりのナースセンターで、看護師さんに呼び止められた。どうやら今日の17時半、担当医の田嶋先生の診察があるらしい。そういえば、今朝方診察予定の連絡がなかった気がしていた。どうやら何か問題が起こったらしく、巡回の看護師さんが連絡を忘れてしまっていたらしい。快く了解し、自室へと向かった。


 幾度か変わった自室だが、現在はちょうど角部屋にあたる位置に存在する。ドアを開け、2人部屋の左側へ続くカーテンを潜って帰室した。見慣れた物の配置を無意識に確認しながら、備え付けのテーブルに楽譜の入った袋を置く。ひと息ついて、愛用のプラスチックコップに麦茶を注ぎ、ひと息に飲み干しながら、椅子に座った。

 少しだけ、周辺を観察する心的余裕を取り戻した私は、二杯目の麦茶を注ぎながら、目の前に広がる病室の窓からの景色を観察した。


 南向きの窓から見える、真夏の14時半の空は、ギラギラとした太陽と突き抜けるような青空が眩しい。少し目線を下げると、これまた青々と繁る白樺の木が、わずかながらの木陰を提供してくれていた。その奥、約30メートル程には、住宅街が広がっており、手前には3階建てのアパートが数棟並んでいる。

 意外と健常な人々の暮らしに近い距離にいた事を、改めて意識して少し驚いた。それと、私は毎年秋に、白樺の花粉にやられるアレルギー性鼻炎持ちであるので、今から少し恐怖してしまった。

 そのとあるアパートの手前には、バンパーの壊れたトレーラーと、5名くらいの男女が難しい顔をして話し合っている様子が映る。そう言えばあのトレーラー、入院してからずっとあった気がするが、不法に放置されているのだろうか?


 窓の上から半ばまでは、天気や人々の暮らしがあった。また麦茶を一口含んで、今度は視線を下に下げてみる。

 緑だ。目に痛いくらいの鮮烈な、夏の命を謳歌する様な、イネ科の雑草が天を衝かんと繁茂していた。雑草に隠れてしまっているが、その奥にはどうやら小川が流れているようだ。冷房の効いた部屋から出る元気はないが、いつかその側に行って覗いてみたいと思った。


 ふと、その緑の波の中、ゆっくりと動く生物を発見した。

 猫だ。

 茶色のトラ猫だ。

 ふと、こちらをチラリと流し目で見てきた。中々にふてぶてしい顔つきである。

 そいつは、窓の左側からのっそのっそと小川の土手を歩き回り、やがてこちらに背を向けて、ゴロン、と横になった。

 恐らく、この小川は彼、もしくは彼女の縄張りで、ゆっくりとネズミでも待ち構えに来たのであろう。私は、漸くこの一帯のナワバリのヌシの一瞥に与れたのか。


 我が家にはかつて、犬と猫がいた事があったが、私は断然イヌ派であった。どうも私は猫にとって、構い過ぎる飼い主らしく、構っているとプイッとソッポを向かれる事が多かった。ツンデレは嫌いではないが、やはり構っても構ってもイヤな顔をしない犬が、私には相性が良かったようだ。


 さて、窓の外の件の彼、もしくは彼女は、どういった性格の持ち主なのか。戯れに、しばらくの間観察でも続けてみようと思った。

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