第五話 高杉晋作
勝海舟の本意をわかってくれるひとは何人いるだろうか? 天下に有識者は何人いるだろうか?
勝海舟は辞職願をこめて書を提出した。
「こののち天下の体勢は、門望(声望)と名分に帰せず、かならず正に帰すであろう。
私に帰せずして、公に帰するにきまっている。これはわずかの疑いもいれないことである。
すみやかに天下の形勢が正に帰せざるは、国政にたずさわる要人が無学であることと、
鎖国の陋習が正しいと信じ込んでいるからである。
いま世界の諸国は従来が容易で、民衆は四方へ航行する。このため文明は日にさかんになり、従前の比ではない。
日本では下民が日々に世界の事情にあきらさまになっており、上層部の者が世情にくらい。このため紛争があいついでおこるのだ。
硬化した頭脳で旧来の陋法を守っていては、天下は治められない。最近の五、六年間はただ天朝と幕府の問題ばかりをあげつらい、諸候から土民に至るまで、京都と江戸のあいだを奔走し、その結果、朝廷はほしいままに国是を定めようとしている。
これは名分にこだわるのみで、真の国是を知らないからである。
政府は全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富ませ、奸者をおさえ、賢者を登用し、国民にそのむかうところを知らしめ、海外に真を失わず、民を水火のなかに救うのをもって、真の政府といえるだろう。
たとえばワシントンの国を建てるとき、天下に大功あってその職を私せず、国民を鎮静させることは、まことに羨望敬服するに堪えないところである。
支配者の威令がおこなわれないのは、政治に私ことがあるからである。奸邪を責めることが出来ないのは、おのれが正ではないからである。兵数の多少と貧富によって、ことが定まるものではない。
ここにおいていう。天下の大権はただひとつ、正に帰するのである。
当今、徳川家に奸者がいる。陋習者もいる。大いに私利をたくましくする者もいる。怨み憤る者もいる。徒党をつくるやからもいる。大盗賊もいる。
紛じょうして、その向かうところを知らない。これらの者は、廃することができないものか。私はその方途を知っているが、なにもいわない。
識者はかならず、これを察するだろう。
都下(江戸)の士は、両国の候伯に従わないことを憎み、あるいは疑って叛くことを恐れる。これは天下の大勢を知らないからである。両国の候伯が叛いたところで、決して志を達することはできない。
いわんやいま候伯のうちに俊傑がいない。皆小さな私心を壊き、公明正大を忘れている。いちど激して叛けば、その下僚もまた主候に叛くだろう。
大候伯が恐るるに足りないことは、私があきらかに知っている。然るに幕府はそれを察せず、群羊にひとしい小候を集め、これと戦おうとしている。自ら瓦解をうながすものである。なんともばかげたものだ。
大勢の味方を集めればそれだけ、いよいよ益のないことになる。ついに同胞あい争う原因をつくれば、下民を離散させるだけのことだ。人材はいずれ下民からでるであろう。
いまの大名武士は、人格にふさわしい待遇を受けているとはいえない。生まれたまま繭にかこまれたようなもので、まったく働かず、生活は下民をはたらかせ、重税を課して、
その膏血を吸っている。
国を宰いる者の面目は、どこにあるのか。
(中訳)天下に有識者はなく、区々として自説に酔い、醒めた者がいない。
今日にいたって、開国、鎖国をあげつらう者は、時代遅れとなってしまった。いまに至って、議会政治の議論がおこっている。
(中訳)こののち人民の識見が進歩すれば公明正大な政治がおこなわれなければならない。権謀によらず、誠実高明な政事をおこなえば、たやすく天下を一新できるだろう。
才能ある者が世に立ち、天子を奉じ、万民を撫育し、国家を鎮撫すれば、その任を果たすだろう。事情を察することなく戦えば、かならず敗北し、泰平の生活に慣れ、自らの棒禄をもって足りるとせず、重税を万民に課して苦しめ、なお市民にあわれみを乞うて、日を送るとは、武士といえようか。(中訳)
ねがわくば私心を去って、公平の政事を願うのみである。 海舟狂夫」
勝海舟は官軍と戦わずして日本を一新しようと思っていた。しかし、小栗上野介ら強行派は長州との戦の準備をしていた。勝海舟の意見はまったく届かず、また勝海舟のような存在は幕府にとって血祭りにあげられてもおかしくない、緊迫した形勢にあった。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。
龍馬は遅刻した。京都の薩摩藩邸に入ると「いやいや、おくれたきに。げにまっこと、すまんちゃ。同盟はなったがきにか?」龍馬は詫びた。
桂小五郎は「…いや。まだじゃ」と暗い顔していう。
「西郷さんが来てないんか?」
「いや。…西郷さんも大久保さんも小松さんもいる…」
「なら、なして?」
「長州藩は四面楚歌…じゃが、長州藩から薩摩藩に頭を下げるのは…無理…なんじゃ」
「じゃが、薩摩藩と同盟しなければ長州藩はおわりぜよ!」
「わかっている! だが、これじゃあ互角じゃない」
「長州藩から話をする以外ないじゃっどん」
「長州藩は会津藩や薩摩藩のせいで朝敵にされ、幕府からもすべての藩から敵視され、屈辱を味わった。天子さまに弓をひいた朝敵にされた」
「なにを情けないことをいうちゅう? 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か? 長州藩か? 日本人だろう! こうしている間にも外国は涎を垂らして日本を植民地にしようとねらっているがじゃぞ! 日本国が植民地にされたらおんしらは日本人らに何といってわびるがじゃ」
一同は沈黙した。一同は考えた。そして、歴史は動いた。
夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。「薩長同盟成立!」
龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬ずりじゃ。抱き合え」
「……頬ずり?」桂こと木戸は困惑した。
なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
……日本をいま一度洗濯いたし候事。
また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。
天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
龍馬は、寺田屋事件(暗殺されかけたが風呂から逃げた)で傷をうけ、その療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。
龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。
麟太郎はいよいよ忙しくなった。
”われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ”
一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。
江戸は治安が悪化していた。
また不景気と不作で、米価が鰻のぼりになり百姓一揆までおこる有様だった。盗賊も増え、十一月には貧民たちが豪商の館を取り囲み威嚇する。
民衆は、この不景気は幕府の”無能”のためだと思っていた。
幕府強行派の小栗上野介らは、京坂の地において、長州と幕府の衝突は避けられないと見ていたので、薩摩三田藩邸に強引でも措置をとるのは、やむを得ないと考えていた。
江戸にいる陸海軍士官らは、兵器の威力に訴え、藩邸を襲撃するのを上策として、小栗にすすめた。小栗はこれを受け、閣老に伝える。
小栗たち過激派は、長州の江戸藩邸を焼き討ちにすれば、大阪にいる閣老たちも、憤然として兵をあげるだろうと考えていた。しかし、朝比奈たちは「一時の愉快を得るために軽挙をなせば大事態を招く」と反対した。
慶喜は十二月、将軍の格式をもって、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア(ロシア)、オランダの、六カ国公使に謁見を許した。
慶喜は各大使に次のように挨拶した。
「あいかわらず親睦を続けたい」
六カ国公使たちに同じような言葉を発した。これをきいた大久保(利通)が、岩倉具視に書状を送り、徳川家の勢力を撲滅するのは武力しかない……と説いた。
そんな中、薩摩藩邸焼き討ち事件が起こったのである。
坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。
「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」
大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。
京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
話を少し戻す。慶応三年(一八六七)京では、慶喜の立場が好転していた。尾張、土佐、越前諸藩の斡旋により、領地返上することもなく、新政府に参加する可能性が高くなっていった。
蟠竜丸という艦船には榎本和泉守(武揚)が乗っており、戦をするしかない、というようなことを口を開くたびにいっていた。
風邪で元旦から寝込んでいた慶喜も、のんびりと横になっている訳にもいかなくなった。 寝ている彼のもとに板倉伊賀守がきて「このままでは済む訳はありません。結局上洛しなければ収拾はつかないでしょう」という。
慶喜は側にあった孫子の兵法をみて、
「彼を知り、己を知らば百戦危うからず、というのがある。そのほうに聞く、いま幕臣に西郷吉之助(隆盛)に匹敵する人材はおるか?」と尋ねた。
板倉はしばらく沈黙したのち「………おりませぬ」といった。
「では、大久保一蔵(利通)ほどの人材はおるか?」
「………おりませぬ」
「では、高杉晋作のような人材は?」
「…おりませぬ」
慶喜は薩長の有名人たちの名をあげたが、板倉はそれらに匹敵する幕臣はおりませんというばかりである。慶喜は殺されないだろうか? と怖くなった。
この板倉のいう通りだとすれば幕臣に名将がいないことになる。戦は負けるに決まっている。………なんということだ。
もはや慶喜には、麾下将士の爆発をおさえられない。
動乱を静めるような英雄的資質はもちあわせていない。
だが、慶喜は元日に薩賊誅戮の上奉文をつくり、大目付滝川播磨守に持参させたという。つまり、只の傍観者ではなかったということだ。
「討薩表」と呼ばれる上奉文は、つぎのようなものだった。
「臣慶喜が、つつしんで去年九日(慶応三年十二月九日)以来の出来事を考えあわせれば、いちいち朝廷の御真意ではなく、松平修理太夫(薩摩藩主島津忠義)の奸臣どもの陰謀より出たことであるのは、天下衆知の所であります。(中訳)
奸臣とは西郷、大久保らを指す」
別紙には彼等の罪状を列挙した。
「薩摩藩奸党の罪状の事。
一、大事件に衆議をつくすと仰せ出されましたが、去年九日、突然非常御改革を口実と
して、幼帝を侮り奉り、さまざまの御処置に私論を主張いたしたこと。
一、先帝(考明天皇)が、幼帝のご後見をご依託された摂政殿下を廃し、参内を止めたこと。
一、私意をもって官、堂上方の役職をほしいままに動かしたこと。
一、九門そのほかの警護と称して、他藩を煽動し、武器をもって御所に迫ったことは、朝廷をはばからない大不尊であること。
一、家来どもが浮浪の徒を呼び集め、屋敷に寝泊まりさせ、江戸市内に押し込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉の部下屯所へ銃砲を撃ち込む乱暴をはたらき、そのほか野州、相州方々で焼き討ち強盗をした証拠はあきらかであること」
当時、京も大坂も混乱の最中にあった。町には乞食や強盗があふれ、女どもは皆てごめにされ、男どもは殺された。
勝海舟は「このままではインドの軼を踏む。今はうちわで争っているときじゃねぇ。このままじゃすきを付かれ日本は外国の植民地になっちまう」と危惧した。
それは、杞憂ではないことを、勝海舟は誰よりもわかっていた。
『四国戦争』の謝罪のため、晋作が烏帽子姿でのぞんだというのは俗説である。また外国に対して(英国)もそのような格好では会談にいってはいない。
…関門海峡の英国船爆撃について、晋作は謝罪したが、すべては幕府によって沙汰がある、などというような意味のことをいったという。
「…なるほど。幕府に責任ありか?」
クーパー総督は苦々しくいった。
アーネスト・サトウが日本語に訳す。
「そういうことです」晋作は答えた。
「……ガッデム」
そんな汚い言葉が、クーパーの口からでかかった。
講和談判で英国が彦島の租借を申しいれたのは有名な話である。しかし、それは高杉がうやむやにしてしまう。そうしなかったら彦島は香港となり、馬関は九竜になっていただろう……とは伊東博文の回顧録での話である。
井上聞多は刺客に襲われた。
深夜だった。剣でばっさり斬られ、同志は次々と死んだ。のちの初代日本国外務大臣井上馨は斬られたが助かった。母親が看病し、たまたま自宅にいた医者が刀傷を畳針で急いで縫い合わせたという。
長州藩の保守派たちが、幕府を恐れて”開国派”の粛清に動いたのである。
……動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し……
晋作は危機を察知した。
……逃げよう!
またしても脱藩である。藩外に逃げるしかない。
……命あっての物種だ!
晋作は、逃げた。
8 西郷隆盛
雨戸を叩く音がした。
「誰だ?」
我に返った晋作の声に、戸外の声が応じた。
「山県であります」
奇兵隊軍監の山県狂介(のちの有朋)であった。
秋のすずしい季節だったが、夜おとずれた山県は汗だくだった。しかし、顔色は蒼白であった。晋作の意中を、すでに察しているかのようだった。
晋作は自ら農民たちを集めて組織していた『奇兵隊』と縁が切れていた。禁門の変のあと、政務役新知百六十万石に登用されたのち、奇兵隊総監の座を河上弥市にゆずっていたのである。しかし、そんな河内も藩外にはなれた。三代目奇兵隊総監は赤根武人である。 しかし、奇兵隊士は晋作を慕っていた。
ちなみに松下村塾生の中で、久坂玄瑞は医者ながらも藩医であったため、二十五石の禄ながら身分は藩士だった。山県狂介は中間、赤根武人は百姓身分。伊東俊輔(のちの博文)
は百姓だったが、桂小五郎に気にいられ、「桂小五郎育」であった。
「おそうなってすんません」
襖が開いて、鮮やかな色彩の芸者がやってきて、晋作の目を奪った。年の頃は十七、八くらいか。「お糸どす」
京の芸者宿だった。
お糸は美貌だった。白い肌、痩体に長い手足、つぶらな大きな瞳、くっきりとした腰周り、豊かな胸、赤い可愛い唇……
「あら、うちお座敷まちごうたようどす」
晋作は笑って、
「お前、お糸というのか? いい女子だ。ここで酌をせい」
「……せやけど…」
「ここであったのも何かの縁だ」晋作はいった。
高杉晋作はお糸に一目惚れした。しかし、本心は打ち明けなかったという。
恋というものは、「片思い」のほうが素晴らしいものだ。
いったんつきあえば、飯の世話や銭、夜、いろいろやらねばならない。しかし「片思い」ならそんな余計なことはほっておける。
そんな中、徳川幕府は長州に追い討ちをかけるように、三ケ条の要求をつきつけた。
一、藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して待罰のこと。
一、長州藩が保護する五名の勤王派公家の身柄を九州に移すこと。
一、山口城を破毀すること。
どれも重い内容である。
この頃、幕府は第二次長州征伐軍を江戸より移動させていた。
その数は十五万だった。
島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
奈良原は答書を持参していた。
旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか」
どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
それもどうにも噛み合わない。
一、加害者は行方不明である。
二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。
幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。
幕府側陸海軍の有志たちは、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万五、六百人にも達したという。
大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
千代田形は十七メートル。大砲三門。
観光丸は五十八ルートル。
勝海舟は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。
勝海舟は『氷川清話』に次のように記す。
「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。
しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。
けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。
官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」
秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万は長州にむけて出陣した。
元政元年十一月二十一日、晋作はふたたび怒濤の海峡を越え、馬関(下関)に潜入し よしかつ
た。第二次長州征伐軍の総監は、尾張大納言慶勝である。
下関に潜入した晋作はよなよな遊郭にかよい、女を抱いた。
そして、作戦を練った。
……俺が奇兵隊の総監に戻れば、奇兵隊で幕府軍を叩きのめせる!
「このまま腐りきった徳川幕府の世が続けば、やがてオロシヤ(ロシア)が壱岐・対馬を奪い、オランダは長崎、エゲレス(イギリス)は彦島、大阪の堺あたりを租借する。フランスは三浦三崎から浦賀、メリケン(アメリカ)は下田を占領するだろう。
薩摩と土佐と同盟を結ばなければだめだ」
晋作の策は、のちに龍馬のやった薩長同盟そのものだった。
高杉晋作はよくお糸のところへ通うようになっていた。
「旦那はん、なに弾きましょ?」
「好きなものをひけ」
……三千世界の烏を殺し
お主と一晩寝てみたい…
後年、晋作作、と伝えられた都々逸である。
薩摩の西郷吉之助(隆盛)は長州にきて、
「さて、桂どんに会わせてほしいでごわす」といった。
あの巨体の巨眼の男である。
しかし、桂小五郎は今、長州にはいなかった。
禁門の変や池田屋事件のあと、乞食や按摩の姿をして、暗殺者から逃げていた。
消息不明だというと、
今度は、「なら、高杉どんにあわせてほしいでごわす」と太い眉を動かしていう。
晋作は二番手だった。
「高杉さん、大変です!」
「どうした?」
高杉は酔っていた。
「西郷さんがきています。会いたいそうです」
「なに? 西郷? 薩摩の西郷吉之助か?」
高杉は驚いた。こののち坂本龍馬によって『薩長同盟』が成るが、現時点では薩摩は長州の敵である。幕府や会津と組んでいる。
「あの西郷が何で馬関にいるのだ?」
「知りません。でも、高杉さんに会いたいと申しております」
高杉は苦笑して、
「あの西郷吉之助がのう。あの目玉のどでかいという巨体の男が…?」
「あいますか? それとも斬り殺しますか?」
「いや」
高杉は続けた。「西郷の側に”人斬り半次郎”(中村半次郎のちの桐野利秋)がいるだろう。めったなことをすれば俺たちは皆殺しだぜ」
「じゃあ会いますか?」
「いや。あわぬ」
高杉ははっきりいってやった。
「あげなやつにあっても意味がない。幕府の犬になりさがった奴だ。ヘドが出る」
一同は笑った。
そんな中、事件がおこる。
英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。
なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
……日本をいま一度洗濯いたし候事。
また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。この縁で龍馬とおりょうは結婚する。そして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。
グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。
長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。
当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。
でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。
「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」
晋作はそういうのみである。そして、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。
龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。
この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。
療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。
のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。
龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。
麟太郎はいよいよ忙しくなった。
幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
龍馬は笑いながらいった。
この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。話を過去に戻す。
慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。
それに対応したのが、高杉晋作だった。
「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分を問わず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人………
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。
幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。
「このまま保守派や幕府をのさばらせていては、日本は危ない」
その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。
……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……
「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。
「これより、長州男児の意地をみせん!」
奇兵隊の農民・商人あがりの隊士たちが「しかし……相手は何倍の敵。勝てる勝算はござりましょうか…総裁?」とオドオド訊くと晋作は、
「無理なもんか!じゃあ、お前たち攘夷を唱えた時勝算はあったか?!今こそ好機だ!長州だけでなく、日本国の為に日本人の為にこれより、長州男児の志みせん!」
「おおっ!」歓声が上がった。
こうして「奇兵隊」が決起した。
9 小倉戦争/晋作よ永遠に!
旧・幕府軍は東北、会津、蝦夷までいったが瓦解……こうして薩摩長州土佐などによる明治新政府ができた。
しかし、民主主義も経済発展も産業新興もおうおうにして進まない。
すべては金融システムのなさであるが誰も考えつかない。
しかし、それをわかっている人間がいた。
他ならぬ渋沢栄一である。
「戊辰戦争(いわゆる明治維新による官軍(薩摩長州軍)対徳川幕府軍による戦争)」後、桂小五郎改木戸孝允(木戸貫治)や大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、岩倉具視らが明治新政府の屋台骨になった。渋沢栄一も元・幕臣仲間の勝海舟(麟太郎)とともに役人となった。だが、枢軸は「維新三傑」といわれた西郷吉之助(隆盛)、木戸孝允(桂小五郎改)、大久保利通(一蔵)である。三傑は日本国家の参謀であり、参与・大臣という存在である。
そんな中、渋沢の気に食わないのは大久保利通である。渋沢にとって大久保利通は「嫌いな人物」で、大久保のほうも渋沢は「嫌いな人物」で、あった。
大久保は白亜の豪邸に住み、相当の贅沢な暮らしをしていた。どうも政党助成金や税金を着服・搾取していたようだが、生真面目な渋沢栄一にとっては「とんでもない事」と映る。
「貴公は贅沢が過ぎる! あの白亜の豪邸に毎日洋食フルコースを食っているそうだな?」
渋沢が苦い顔をしても、大久保は、
「おいどんは此の国の参与で働いて偉いのでごわす。少しばかり贅沢してもバチは当たらんでごわすぞ」
「それは違う」渋沢栄一は言った。「人間はみな「誰よりも自分が偉い」と思っている。だが「誰よりも偉い」人間などいない」
「綺麗事じゃっとなあ」
「貴公は「ノブレス・オブリージュ」という言葉を知っているのか?」
「知りもさん」
「「ノブレス・オブリージュ」とは金持ちや社会的地位の高い者には「社会に貢献する責任」があるということじゃ。貴公は論語すら馬鹿にしてよまない。いずれバチがあたるぞ」
「ふん、なんとでもいえ渋沢どん。おいはおいの生き方があるでな」
「官僚などとしょうして宦官みたいな試験馬鹿の役人をつくる人生か?」
「なんとでもいわばよかじゃっどん。此の国はおいと官僚の頭脳でいきている」
「あんさんは呆れたひとじゃ」渋沢は呆れた。
まだ自分が偉い気になってやがる。救いようもない天狗だ。
しかし、大久保と渋沢は「水と油」のような関係である。交わることはない。それは「価値観の違い」でもある。「論語と算盤」の渋沢栄一と「権威と独裁」の大久保利通では土台合う筈はない。話を戻す。
……動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し……
高杉晋作は決起した。
「小倉戦争」は慶応二(一八六六)年、今から二百年くらい前のことである。
六月七日に二十五万の幕府軍が長州に攻めてくる。
村田蔵六(のちの大村益次郎)の計画通り、幕府軍は、石州口(山陰)、芸州口(山陽)、小倉口(関門海峡)、大島口(海)から侵攻を計った。故に長州では「四境戦争」と称した。
徳川幕府の『第二次長州討伐令』が発せられた。
長州藩への攻撃ルートは四方向からである。まず、山陽道、山陰道、小倉口、西南海、である。長州藩防衛・幕府軍壊滅の軍略を練ったのは村田蔵六ことのちの大村益次郎である。
幕府の軍隊はまるで戦国時代のような鎧に旗指物に刀に槍や馬ぞろえ…一方の長州軍・奇兵隊は黒い軍服に、最新銃で、軽武装の騎兵である。
逃げては罠にはめ、配置していた兵隊に幕府軍隊を散々に討ち負かす。
大村益次郎は茅葺屋根の上にのぼり、双眼鏡で兵隊の軍列を見ながら軍略の指示をだす。
こことこことを攻撃してこの方向に誘い込み、一網打尽にせよ!
紐でぶらさげた石版に白いチョークで軍略図を描く!
確かに幕府軍は数は多い。だが、銃は旧式であり、兵隊の質も悪い。
確かに幕府軍は数だけなら強大であった。だが、益次郎の軍略の前には敵ではない。
高杉晋作も噴気して戦った。喀血してもそのまま進軍する。俺にかまうな!進軍!
幕府軍数万を、高杉晋作は二千の兵で討ち負かす。
「腐った幕府をぶっつぶせ!」
晋作の号令とともに銃砲が鳴り響く。
鎧に刀や槍の幕府軍は惨々にやられてしまう。
その頃、長州では幕府に「白旗」をあげて降伏しよう、などという保守派が高杉の命を狙っていたという。
「高杉さんを殺してはいかん!」
伊藤博文は怒りをあらわにした。
そんな中、夜、駆ける男があった。
高杉晋作である。
奇兵隊決起!
功山寺に集まれ「決起するなら今月今宵、年明けからでは遅すぎる」
こうして、奇兵隊は八〇名~五百名へと増えて「決起」した。
幕府軍は思わぬ近代戦でやぶれ、敗走した。
しかし、諦めず、その年の十二月、五万の長州征伐軍を小倉に布陣させた。
幕府軍五万に対して、高杉の奇兵隊はわずか五百人だった。
「高杉さん、数が違いすぎます!」
伊藤は泣きそうにいった。
晋作は咳き込んでから、
「まぁ焦るな。軍儀を開こう」といった。
軍儀ではこちら側の兵力を同じくらいに見せかけて対峙することが決まった。
となれば、あとは情報である。
高杉は、
「小倉の幕府軍に間者(スパイ)を潜入させよ」と命じた。
その間者(スパイ)は”諸所商売”といい、漁師を使って情報を集めるものだった。
……大砲は八門程度
……小倉軍のうち幕臣は八千名、他は九州諸藩からの寄せ集め
高杉の元に、次々と情報が入ってきた。
「なるほどな」
晋作は情報の力を知るはじめての日本人だった。
晋作は情報を得て、しきりに頷く。
慶応二(一八六六)年六月三日、小倉に幕府司令官として老中・小笠原長行が派遣されてきたという情報がはいった。
「……小笠原か。あの外交官の…」
晋作は苦笑した。
小笠原長行は幕府きっての天才の頭脳をもつ。
しかし、戦の経験がまるでなかった。専門は”外交”である。
小倉幕府軍と高杉奇兵隊は互いに姿を現さず(といっても奇兵隊は五百で幕府軍は五万だから姿が知られれば、奇兵隊に勝ち目がないのだが)、十日間対峙したままだ。
高杉はその弱味も知り尽くしていた。
だから、幕府軍と正面衝突はしない。
数が違い過ぎて負けるのがわかっているからだ。長州軍、奇兵隊はひとたまりもない。「幕府軍の側面から討つのはどうですか?」
と、ある夜、伊藤がいった。
すると、山県は、
「いや、奇襲でしょう。織田信長ですよ。桶狭間です」という。
高杉は呆れて、
「お前たち黙ってみておれ!」と喝破した。
幕府軍は九州諸藩からの寄せ集めだということがわかった。
そんなおり、高杉に情報がまた入ってきた。
……幕府軍が攻めてくる。
五十倍もの敵と戦えば勝ち目なし。
晋作は筆をとり、小笠原にしたためる。
……”寄する上国の宰相、早に書をながって急ぐべし”
挑発である。
六月十七日、高杉は長州船で田野浦に。そこから艦砲射撃を開始した。
幕府軍は大混乱に陥った。
午前六時、長手に上陸。長州軍は幕府の艦隊を焼き討ちにした。
「よし! このまま小倉まで攻めのぼろう!」
長州軍は意気揚々だった。
が、晋作がとめた。
「まずは馬席(下関)に戻れ!」
「……なぜ? このまま戦おう」
晋作はいった。
「兵力が違い過ぎる。ここは戻っては叩き、戻っては叩き……木の枝をきりおとすように倒すのがよい」
こうして、奇兵隊と長州軍は下関に陣をひいた。
晋作は、体調の変化に気付いていた。
体力も衰え、咳がつづくかと思ったら、朝になって口を拭いた手が真っ赤な血で染まっていた。……病気らしい。
微熱が出て、躰がだるい。足もだるい。
……この大事な時に!
……俺はもう長くないかも知れん。
予感が全身に広がった。恐怖は不思議となかった。むしろ安らぎがあった。
……死ねば楽になる。
楽な人生ではなかった。それが、楽になるということで恐怖はなかったのである。
幕府軍の小笠原長行は富士山丸という艦船を瀬戸内海から呼び寄せることにした。幕府艦隊の巨大な船である。
地上の幕府軍は猛暑でくたくただ。小倉軍だけ孤立している。
幕臣は小倉城にバラバラといるだけだ。
六月二十九日、富士山丸迫る。
「くそう! 富士山丸がこられたんじゃこっちはひとたまりもない!」
高杉は珍しく焦った。
……しかし、そこは戦略家である。”奇襲”を考えた。
まず”石炭舟”に大砲を隠し、富士山丸に近付かせて、そこで砲撃するのだ。
富士山丸に”石炭舟”が近付いたが、富士山丸は敵とは気付かない。そんな中、至近距離から砲撃を受けた。…うあぁあつ!
富士山丸は炎を上げながら針路を傾け、引き返していった。
”奇襲”が成功したのだ。
長州軍が小倉軍を倒し、城まで七キロに迫る。
しかし、高杉はここでも深追いをさせず、下関に軍を戻している。
熊本軍と対峙、約一ケ月。そんなおり高杉はとうとう喀血した。
高杉への情報で、久留米、肥後、熊本の諸藩軍が撤退を幕府に要求していることを晋作は知る。これはいい瓦解策になる。
晋作の病気は最近まで不治の病とされていた労咳、つまり肺結核だった。
多年の苦労と不摂生がわざわいした。病気は進み、喀血は度重なった。
回復の望みはなかった。
……せめて幕府が倒れるまで。
維新回天の業が成るのをこの目でみたい。それが願いだった。
おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり
晋作は句をよんだ。
かれは妻・雅に金を渡し、父親の家を修繕してくれと頼んだ。これが、晋作の最後の親孝行となった。坂本竜馬が「高杉さん、しっかりしとうせ!おんしがいればこその維新じゃ!倒幕じゃきに!」と病床の高杉晋作を励ましたのはどうやら事実のようである。
桂小五郎は「討幕の密勅が下った。倒幕じゃ!新しい世の中がくるんじゃ、まだ死ぬな!」
妻・雅は晋作の愛人・妾・おのうに挨拶をし、親切に接して、おのうと晋作にあった。
七月二十七日(一八六六)慶応二年、長州軍、熊本軍の近代兵器に圧倒され、百二十の兵を失う。
高杉はいう。
「正面からの攻撃は無理だ。今は威嚇して戦意を消失させるべきだ!」
砲台を沢山と敵の見えるところに設置し(当然ダミーもある)、夜は篝火をこうこうとたかせた。長州の兵力を多くみせかけた。
熊本軍はたちまち戦意を消失させ、撤退したいと幕府にいう。
そして、熊本軍は地元にもどってしまう。
「くそったれめ! 長州め! どれだけ兵士がいるのか」
小倉城の小笠原は、ストレスでまいっていた。
そんな中、七月三十日に将軍・家茂が死んだのである。小笠原長行たちは焦って江戸へ戻った。幕府軍は指揮者を失い、遁走しだす。
それに乗じて、長州は小倉城に火をかけ、小倉城は炎上した。
奇兵隊と長州軍合わせてたった千人で何万もの大軍をやぶった。
晋作の”天才”というほかはない。
高杉晋作は病をおして、小倉城が紅蓮の炎に包まれるのを見たという。
肌はやつれ、痩せて、骨まで痛むようになった。
しかし、晋作は春を楽しんだという。
晋作は病の床にあった。
慶応三(一八六七)年、四月十四日、晋作は死を迎える。
彼が愛してやまなかった奇兵隊の隊士たちは「俺がかわってやりたい」と泣いた。
……おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり……
晋作の死は朝まで気付く者がいなかったという。
若さゆえか、一進一退の病魔が晋作の躰を襲った。
その夜、晋作は目が覚めた。
不思議と躰が軽い。
……もうおわりだから最後に軽くなったか。
晋作は気力をふりしぼってようやく起き上がり、負けじと気力を奮いたたせた。
……まだ死ぬ訳にはいかぬ。
……まだ維新回天をみてはおらぬ。みるまで死ねぬ。
晋作は不敵な笑みを浮かべた。壁をつたって歩いた。
……俺はまだ…死……ね…ない。まだやることがある…
……松陰先生、まだせめてもう一度回天をさ…せてください…
襖を開けて夜空を見上げると満天の星空がみえた。
走馬燈のように懐かしい顔が浮かんだ。
吉田松陰の顔。
竹馬の友、久坂玄瑞の顔。 その他の顔、顔……
高杉晋作なくして、明治維新はあり得なかったはずだ…この俺が…回天して…
晋作は喀血し、倒れた。そして、その血により溺れ死んだ。
長州の犯した攘夷戦争・四境戦争・外国人洋館焼き討ち、禁門の変、高山寺決起と奇兵隊、薩長連合……高杉晋作の暴挙ははっきりいえばテロリズムである。
だが、著者はあるひとみたいに「明治維新はペテンだ」とかいうことではない。
晋作がテロリストだったのか? 今となっては謎のままだ。そして高杉晋作は死んだ。
享年二十七歳と八ケ月……最後の言葉は「…吉田へ」であったという。
師匠吉田松陰の墓の隣の墓に? それとも奇兵隊の発足地吉田へ墓を?
いずれにしても、あまりにも早いすぎる死、で、あった。
おわり
<参考文献>
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
風と奇兵隊と高杉晋作と 長尾景虎 @garyou999
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