第四話 高杉晋作



 新選組の血の粛清は続いた。

 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。

「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」         

「新選組の土方である。中を調べたい!」                      

 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。

 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。


「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」

 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………


 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。

 元治元年(一八六四)六月、新選組は”長州のクーデター”の情報をキャッチした。     

 六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。

「トシサン、きいたか?」

 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」

「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。

「というと?」

「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」

「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」

「江戸の幕府に書状を出した」

 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。

 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。

「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」

「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」

 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。

 とにかく、近藤勇たちは決断した。


 池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。

 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。

 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。

 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。

 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。

 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。

 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。

 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にダンダラ染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。

「新選組だ! ご用改めである!」

 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。                         

「桂はん…新選組です」幾松が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。

(幾松は維新のとき桂の命を何度もたすけ、のちに結婚した。桂小五郎が木戸考允と名をかえた維新後、木戸松子と名乗り、維新三傑のひとりの妻となるのである)

 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。

 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。

「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。

 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。

「手むかうと斬る!」

 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。

 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。

 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。

 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。

 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。

 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。

 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。

 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。

 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、隊士をさらに増やすように資金まで送ってきたという。


「坂本はん、新選組知っていますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知っていることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。

「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。

「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」

「すごい人殺しですわねぇ?」

「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」

「まぁ! あなたはすごいこと考えているんやねぇ」おりょうは感心した。

 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。龍馬と晋作は馬が合った。共に開国や尊皇であり、高い志がふたりの若者を特別な存在にさせた。


 十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。

「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」

 勝海舟は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。

 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。

「なんてこった!」

 のちの勝海舟は嘆いた。




 渋沢は三菱の創始者・岩崎弥太郎と対立している。岩崎はひとりでどんどん事業を展開すべきだといい、渋沢は合本組織がいいという。

 渋沢は岩崎を憎まなかったが、友人の益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが猛烈に岩崎を批判するものだから、岩崎は反対派の大将が渋沢栄一だと思ってひどく憎んだという。 こうしてのちに明治十三年、仲直りもせず岩崎は五十二歳で死んだ。                             

         6 勝海舟








 勝海舟は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。

 勝海舟は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。

「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰に談ぜん。

 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」

 幕府の重役をになう象山と協力して、勝海舟は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。

 そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。

「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」


 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝海舟は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。勝海舟は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?

 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを勝海舟は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、勝海舟は感じた。

 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!

 そんななか、長いこと勝海舟を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。


 幕臣の中でキモがすわっている者といえば、勝海舟だけである。

 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。

 勝海舟は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。

「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。

 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」

 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、勝海舟は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。勝海舟はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。

「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」

 ……こいつもなかなかの者だな…勝海舟は内心そう思い苦笑した。

 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、白旗を上げさせたのである。

 だから、勝海舟は、長州藩は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。

「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」

 虫のいい話だな、といっている本人の勝海舟も感じた。

 兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。

 勝海舟は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。

 慶喜の対応は冷たかった。

 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。

 勝海舟は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。

 彼の書簡の内容は、勝海舟がかねて唱えていた内容と同じだった。              

「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。

 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。

 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。

 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。

 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。

 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。

 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」

 勝海舟は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、勝海舟はむなしく江戸に戻ることになった。

 勝海舟は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、勝海舟はそんなことはいっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。

 長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国のほうが大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。

 福沢諭吉もそのひとりだった。

 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。

 ……あれはもしかして英語か?

 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!

 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。

 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。

 九月二十二日、京都の勝海舟の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周)、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。

 慶応二年、勝海舟の次男、四郎が十三歳で死んだ。

 二十日には登営し、日記に記した。

「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」

 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と勝海舟は願書を出した。

  江戸へ帰った勝海舟は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。

 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。

 勝海舟の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に理由学することになった。勝海舟は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。勝海舟はこんなときのことを考えて蓄財していた。

 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。

 勝海舟は初めて英国公使パークスと交渉した。

 勝海舟は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。

 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」

 と強くいった。

 パークスは勝海舟の提言を承諾した。

 そして、勝海舟の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。

「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。

 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」

 勝海舟はするどく指摘していく。

「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」

 勝海舟はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、勝海舟がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?


 江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。勝海舟は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。勝海舟はのちにいっている。

「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。

 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。

 こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。

 俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。

 すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。

 こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。

 それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。

 甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。

 ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」




  禁門の変がわずか一日でやぶれ、敗戦の衝撃が長州藩を覆った。

 太平洋戦争で東京などが焦土と化し、敗戦の衝撃もすごかったらしいが、それと同じような心境だったのであろう。

 禁門の変で負けて、幕府と和平交渉するに先立ち、形だけでも軍備を整えなければ対等な交渉は出来ない。兵士の損失は千人を越えた。

 三百年続いた太平の世で、千というのは大変な数だった。

 侍の損失というのは、単純に当人ひとりの損失ではないという。

 つまり、その侍の遺族へ給料と同額の金を払い続け、世襲だから遺族の男の子が大きくなるまで遺族金を払い続けなければならないという。

 幕府は藩一万石当たり兵士百人と決めていた。

 それにひきかえ、長州藩の兵士は大勢いた。

 理由は簡単だ。

 関ケ原での合戦当時、石田三成の西軍についた毛利家は中国十ケ国の領地を有していた。しかし、東軍が勝ち、徳川家康によって毛利家は周防と長門の二ケ国に減封された。毛利家は侍の数を減らさない努力をしたため、家臣の数は異常に多かった。

 しかし、徳川幕府が三百年も続くと、侍の数も減り、毛利長州藩の兵士は六、七千人まで減っていたという。

 そのわずかな兵を一日で千も失った。


 晋作はその間、座敷牢で暮らした。

 京で帰国後に逮捕され、野山獄に投じられたときは晋作は、

 「讒言(ざんげん)された」と怒ったものの、この頃は落ち着いた気分になった。

 ……これは毛利公や周布政之助の配慮だ。

 そのまま京に残っていたら、池田屋事件か禁門の変かに巻き込まれ、松下村塾の学友の吉田捻磨や久坂玄瑞のように横死していただろう。

 それを救ったのが野山獄投獄だった。

 ……俺はひとの情けで、命ながら得ているが、仲間は次々と死んでいった。

 吉田捻磨、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、松下村塾の学友たちや京での勇士たちは幕府や新選組に虐殺された。

 それとは別に佐久間象山の横死も晋作にはショックだった。

 青二才と罵られた。

 あの時は頭にきたが、その通りだった。

 尊皇壤夷というのは血で血を洗う争いになり、大勢が死ぬことなのだ。

 ひとの人生はいずれ誰でも終わる。

 それが、牢獄の中で、晋作たちはわかってきた。

「お茶をおもちしました」

 雅が、ほのかな化粧の匂いをただよわせてきた。

「すまんのう」

 晋作はいった。

「こんをつめて何を読んでらっしゃるのですか?」

「これか? 万国公法だ。異人の書いた法律書だ」        

「法律? 掟みたいなものですか?」

「そうだ。貴重な時間だと思って牢獄で本をいっぱい読んで知識を身につけようと思う」 晋作は妙に神妙な顔でいった。

「そうですか。お体にさわりませぬか?」

「そんなやわではない」

 晋作はにやりとした。

「本もいいですけど、外で運動もしないと…」

 雅も笑った。

 牢とは名ばかりで、鍵もかかってなくて外には出られる。現に、雅は夜、晋作の牢に入って枕をともにする。

 ……そろそろ俺の出番がくる。そのときのために勉強だ!

 高杉はやがて牢を出て、山口の邸宅に戻った。                   

         7 怒濤






  

 毛利元徳は筆で   

 ……権道を以て講和す

 と書いた。

 これは、権謀術策の意味である。

 井上はあわてた。

「権道とはどういうことですか? 相手は人間ですぞ。その人間に向かい、一時和睦して、そののち幕府との戦争が済んでから次にお前らと戦う……そんな勝手が通るとお思いですか?!」

「まて、聞多」

 晋作はみかねて中に割り込んだ。

「もういい。それ以上ゆうな」

 元徳は、反省の意味を込めて、また書いた。

 ……審議を以て講和す

「もう変節しましたか。そのような頼りないことでどうして長州藩がやっていけましょうや」

 晋作は毛利の耳元で知恵を囁く。

「以後、長州藩は開国一筋でいく」

「こんどは変節なしですな?」

「しつこい。わかっておる!」

 藩主はいった。




 徳川慶喜の大政奉還の報をうけた江戸の幕臣たちは、前途暗澹となる思いだった。

 大政奉還をしたとしても、天下を治める実力があるのは幕府だけである。名を捨てて実をとったのだと楽観する者や、いよいよ薩長と戦だといきまく者、卑劣な薩長に屈したと激昴する者などが入り乱れたという。

 しかし何もしないまま、十数日が過ぎた。

 京都の情勢が、十二月になってやっとわかってきた。幕臣たちはさまざまな議論をした。 幕臣たちの中で良識ある者はいった。

「いったん将軍家が大政奉還し、将軍職を辞すれば、幕府を見捨てたようなもので、旧に回復することはむずかしい。このうえは将軍家みずから公卿、諸候、諸藩会議の制度をたて、その大統領となって政のすべてを支配すべきである。

 そうすれば、大政奉還の目的が達せられる。このように事が運ばなければ、ナポレオンのように名義は大統領であっても、実際は独裁権を掌握すべきである。

 いたずらに大政奉還して、公卿、長のなすところに任ずるのは、すぐれた計略とはいえない」

 小栗忠順(上野介)にこのような意見を差し出したのは、幕臣福地源一郎(桜痴)であったという。福地は続けた。「この儀にご同意ならば、閣老方へ申し上げられ、京都へのお使いは、拙者が承りとうございます」

 小栗は、申出を拒否した。

「貴公が意見はすこぶる妙計というべきだが、第一に、将軍家がいかが思し召しておられるかはかりがたい。

 第二に、京都における閣老その他の腰抜け役人には、とてもなしうることができないであろう。

 しかるに、なまじっかそのような説をいいたてては、かえって薩長に乗ずられることになり、ますます幕府滅亡の原因となるだろう。だから、この説はいいださないほうがよかろう」小栗は、福地がいったような穏やかな手段が薩長に受け入れられるとは思っていなかった。

 彼は、薩長と一戦交えるしかないという強行派だったのだ。

 官軍(薩長)の朝廷工作により、徳川幕府の官位をとりあげられ領地も四百万石から二百万石に取り下げられた。これは徳川家滅亡に等しい内容であったという。

 慶喜はいう。

「朝命に異存はないが、近頃旗本らの慷概はいかにもおさえがたい。幕府の石高は、四百万石といわれているが、実際には二百万石に過ぎない。

 そのすべてを献上すれば、徳川家としてさしつかえることははなはだしいことになる。いちおうは老中以下諸役人へその旨をきかせ、人心鎮定のうえ、お請けいたす。その旨、両人より執秦いたすべし」

 慶喜は、諸藩が朝廷に禄を出すのは別に悪いことではないが、幕府徳川家だけが二百万石も献上しなければならないのに納得いかなかった。

 閣老板倉伊賀守勝静は、慶喜とともに大坂城に入ったとき、情勢が逼迫しているのをみた。いつ長州と一戦交える不測の事態ともなりかねないと思った。

「大坂にいる戦死たちは。お家の存亡を決する機は、もはやいまをおいてないと、いちずに思い込んでいる。

 今日のような事態に立ち至ったのは、長藩の奸計によるもので、憎むべき極みであると思いつめ、憤怒はひとかたならないと有様である。会、桑二藩はいうに及ばず、陸軍、遊撃隊、新選組そのほか、いずれも薩をはじめとする奸藩を見殺しにする覚悟きめ、御命令の下りしだいに出兵すると、議論は沸騰している。

 上様(慶喜)も一時はご憤怒のあまり、ご出兵なさるところであったが、再三ご熟慮され、大坂に下ったしだいであった」           

 幕府の敵は、長州と岩倉具視という公家であった。

 *アーネスト・サトウは、イギリス公使パークスに従い大坂いたとき、京都から遁走して大坂に入る慶喜を見た。彼は、幕府部隊司令官のひとりと道端で立っていた。

 そのときの様子を記している。

「私たちが、ちょうど城の壕に沿っている従来の端まできたとき、進軍ラッパが鳴り響いて、洋式訓練部隊が長い列をつくって行進しているのに会った。

 部隊が通過するまで、私たちは華美な赤い陣羽織を着た男のたっている、反対側の一隅にたたずんでいた。(中訳)

 それは慶喜と、その供奉の人々だった。私たちは、この転落の偉人に向かって脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、ふつうの軍帽をかぶっていた。

 見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。彼は私たちには気付かなかった様子だ。 これにひきかえ、その後に従った老中の伊賀守と備前守は、私たちの敬礼に答えて快活に会釈した。

 会津候や桑名候も、そのなかにいた。そのあとからまた、遊撃隊がつづいた。そして、行列のしんがりには、さらに多数の洋式訓練部隊がつづいた」*

 (坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』岩波書店)


 長州に膝をまげてまで平和は望まないが、幕府の方から戦をしかけるのは愚策である。 と、勝海舟はみていた。戦乱を望まずに静かに事がすすめばよし。慶喜が新政府の首相になればよし。

 勝海舟は日記に記す。

「私は今後の方針についての書付を、閣老稲葉殿に差し出し、上様に上呈されるよう乞うた。

 しかし諸官はわが心を疑い、一切の事情をあかさず、私の意見書が上達されたか否かもわからない。

 江戸の諸候は憤怒するばかりで、戦をはじめようとするばかり。

 ここに至ってばかどもと同じ説などうたえるものか」

 江戸城の二の丸大奥広敷長局あたりより出火したのは、十二月二十三日早朝七つ半(午前五時)過ぎのことであった。

 放火したのは三田薩摩屋敷にいる浪人組であった。

 のちに、二の丸に放火したのは浪人組の頭目、伊牟田尚平であるといわれた。尚平は火鉢を抱え、咎められることもなく二の丸にはいったという。

 途中、幕臣の小人とあったが逃げていった。

 将軍留守の間の警備手薄を狙っての犯行であった。

 薩摩藩の西郷(隆盛)と大久保(利通)は京で騒ぎがおこったとき、伊牟田を使い、江戸で攪乱行動をおこさせ江戸の治安を不安定化することにした。

 家中の益満休之助と伊牟田とともに、慶応二年(一八六六)の秋に江戸藩邸におもむき、秘密の任務につくことにした。ふたりは江戸で食うものにも困っている不貞な浪人たちを集めて、飯を与え稽古をさせ、江戸で一大クーデターを起こすつもりだった。

 薩摩藩は平然と人数を集めた。

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