第三話 高杉晋作

         4 奇策謀策






『禁門の変』の数か月前、横浜にふたりのポルトガル人と称する人間がきていた。

「ハローハローフジヤマゲイシャお土産ね! 買ってちょうだい! フジヤマゲイシャ扇子ね、買ってくれんなんもし!」お土産屋の男がひとりでお土産のはいった箱を前にぶらさげ笑顔で外国人宿泊地にきたが、ふたりは布団蒸しにして追い出した。

ポルトガル人などではない。外国の西洋列強が長州藩を攻めることを知った伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が飛び急ぎ密かに戻ってきたのだ。

この当時はまだ幕府の鎖国令があったから、外国渡航は重罪である。

だから、密かに戻ってきたのだ。桂小五郎は遁走生活にはいっていた。

命を狙う新選組や見廻り組から逃げ回った。

井上聞多は江戸の長州藩にいき、「わしじゃ! 聞多じゃ! 取り急ぎの用がある。早く長州藩の御殿におしらせしたいことがある! 駕籠を頼む!」と我鳴った。

井上聞多は長州藩に戻った。

「おお! 聞多! 生きておったか!」

「殿! 西洋列強四カ国艦隊がこの長州藩にせまってきております! 御殿さまはいかがなさるおつもりですか?」

「戦う。おんしのいない間に浜の砲台を増やした。昔は負けたが今は負けん」

「いや。必ず負けます。わたしは嫌っていうほど外国の凄さをみてきた。大阪や江戸の何倍はあろうかという石作りの街、弾丸のように走る蒸気列車、空中を張った電線をつたって遠くから話せる電話、巨大な黒船…。あんな凄い国たちと戦って万に一つも勝てる訳はありません。必ず負けまする!」

「…ならどうせよと?」

「停戦交渉しかありません!」そんななか、禁門の変の訃報がはいる。

敗戦軍続々帰国。西洋列強が長州藩に迫るとの報もはいる。やはり、外国軍四境戦争は奇兵隊も頑張ったが、長州藩の大敗北だった。

「どうなさる? 殿!」井上がほら見ろといいたげに言った。平伏する。

「…そうじゃのう。うまいようにいいくるめて詭弁で誤魔化して…停戦交渉を…」

「何をいうとるのですか? 殿、相手は文明が発達した文明国ですよ! 近づいて来たら頭を小突いたろう、と思って手招きしたら犬だってよってきません。ちゃんとした交渉でこちらが懐を開かなくては事はなしません」

「ならどうせよ、と?」

「和平交渉です。すぐに四カ国と調停交渉をして講和をするべきです」

「しかし…誰がそれをする?」

「う~ん」井上聞多は困った。「こういうときは偉い家老の身分の方にでていただきたいんですが…この藩にはこういう交渉を出来る家老は誰もおりません。但し、ひとりだけ交渉できる男がおるのですが…」

「それは誰じゃ?」

「高杉…高杉晋作です」

「おお! 晋作か?」

「家老がいないならつくりましょう! 長州藩の家老宍戸備前さまのご養子の、宍戸刑(ぎょう)馬(ま)として高杉晋作を交渉役として使いましょう。いいですね、殿?」

「…ううん。おう。わかった、そうせい」

「ははっ」井上聞多は意気揚々と平伏した。

宍戸刑馬こと高杉晋作は烏帽子直垂姿で停戦交渉の艦隊に乗り込む。通訳班として裃姿の井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)も同行した。

「あっ! イトウさんにイノウエさん」

「あっ! アーネスト・サトウさん。よかった、おったのか?」

「えっ? イトウさんとイノウエさんの英語で交渉しようとしたのですか? おそろしい話だなあ。そちらのお方は?」

「こちらは…家老の…宍戸備前さまのご養子で宍戸刑馬さまです」

「どうも。長州藩家老宍戸備前の一子刑馬。父が高齢ゆえ拙者がまかりこした」

宍戸刑馬こと高杉晋作は歌舞伎役者のように唸る。交渉の席に着いた。攘夷など無理。じゃが、夷敵に敗れて血をひとたび浴びれば日本人も目を覚ます。

「われらは長州藩の代表で、こちらの方は長州藩家老宍戸備前さまのご養子の宍戸刑馬さまです。こちらの方が長州藩代表として講和条約を話し合います」

「ハロー!」宍戸刑馬こと高杉晋作は言った。

「この戦いは我々の勝利………認めますか?」

アーネスト・サトウは日本語に訳した。

宍戸刑馬こと高杉晋作は「イエース!」という。

井上聞多はひそひそ「最初から敗北を認めては…」

「全権は俺にある。黙っちゃれ」

「では講和の条件に入ります。よろしいですか?」

「イエース!」

「我々の要求は次の三点です。その一、あなた方が馬関海峡につくったすべての砲台をなくすこと」

「イエース!」

「その二、今後は海峡を渡る船に対して適正な価格で水や食糧を提供すること」

「イエース!」

井上と伊藤はひそひそ「お前イエス以外の英語を知らんのか?」とささやく。

「その三、これで最後です。賠償金として300万ドルを支払うこと」

「イエース!」

伊藤はささやく。「300ドルじゃない。300万ドルですよ。」

「わかっちょる。黙っとれ」

宍戸刑馬は言う。「ただし、支払うのは長州藩ではない。徳川幕府である。この国の代表は徳川幕府である。わが長州藩は徳川幕府の家臣に過ぎない。何故ならば徳川幕府がミカドに攘夷の約束をして長州藩は幕府の約束に従ったまで、である。よって、長州藩が支払ういわれはない」

「その理論には無理がある。戦ったのは長州藩ではないか! ならこうしよう。賠償金の件は江戸に持ち帰るとして海峡のはしにある彦島を租借したい」

宍戸刑馬は怒鳴るように「ノー!」といった。

「宍戸さん。あなたは始めに負けを認めた筈ですよ」

「負けたのは昨日の合戦まででござる。例え一つの島でも租借は断る。おのれの領土を渡せばどうなるか、僕は上海で嫌というほどみてきた。租借は断る!」

「ならばまた戦うのか?」

「長州藩は広い。三十六万石。陸に上がってこられよ。長州は最期の一兵になるまで戦う覚悟。貴殿らにそこまでの戦争ができるか?」

「……」総督たちは黙り込む。

これで勝負あり、である。

結局、賠償金を始めすべては江戸の徳川幕府にもちこまれることになり、伊藤が横浜までついていくことで決着した。

アーネスト・サトウが宍戸刑馬のことをきくと、伊藤俊輔は苦笑して「あのひとは忙しくて…」

「まあ、あれだけのひとだ。さぞ忙しいでしょうね。」ばれてはいないようだ。

高杉晋作の愛人おうのは下関の晋作の元にくるようになった。

宍戸刑馬さまにあいたい、等といって晋作を苦笑させた。

「…あの男は無茶苦茶忙しい。無理だ。がっかりしたか?」

「いいえ。うちは高望みすぎたんですけえ」

この後、高杉晋作は労咳(肺結核)の病気に冒されながらも奇兵隊で倒幕の血路を開く。

功山寺挙兵では、高杉晋作は「勝つ見込みがあるんですか?」ときかれて、

「ない! じゃが、黒船が来たとき、日本人に勝つ見込みがあったか?」

「無茶苦茶じゃないか! 勝算もないのに戦えと?」

「これは長州藩だけの話ではない。日本人ひとりひとりの戦いじゃ! まず、幕府頼みの保守派を叩き潰し、保守派を追放して長州藩を蘇えらせる! 保守派の椋梨藤太らを叩き潰し、倒幕の狼煙をあげるのじゃ! 日本がのるかそるかは長州藩のこの一手にかかっている。よく考えろ。卑怯者として幕府軍に投降するのか。それとも正義を貫いて挙兵するのか」

「…ひとりでどうする気です?」

「誰も挙兵しなかったら萩の城門の前で切腹して訴える。真があるなら今月今宵、年明け過ぎでは遅すぎる! 義の戦を!」

と、檄をとばして、奇兵隊の功山寺挙兵は成功し、時代は薩長同盟、倒幕へ……とすすむのである。

「…高杉さん。われわれも連れてってください!」

「勝てる!勝てるぞ!…これは正義の戦いである! 萩の保守派と幕府を叩き潰せ!」

これぞ功山寺決起である。

そして遁走生活の桂小五郎は長州藩の外交・軍事面での家老として長州藩に帰ってきた。

桂小五郎(のちの木戸孝允)は長州藩軍事総督として村田蔵六(大村益次郎)を任命する。

こうして長州藩は勢いをとりもどした。

晋作はあいかわらず労咳(肺結核)でせきこんでいた。はじめて血を吐いて、驚いた。

何にしても武器が足りない。だが長州藩に売る武器商人はない。薩摩に頼むしかない。こうして坂本龍馬の取り成しで薩長同盟の奇跡、がなるのである。まさに奇跡的な歴史の動き、であった。

話を戻す。




 長州藩(山口県)に戻るとき、高杉晋作は歩くのではなく「駕籠」をつかった。

 歩くと疲れるからである。

 しかし、銭がかかる。

 が、銭はたんまりもっている。

 ここらあたりが高杉らしい。

 駕籠に乗り、しばらくいくと関所が見えてきた。

 晋作は駕籠を降りずに通過しようとして、

「長州藩士高杉晋作、藩命によりまかり通る!」

 と叫んで通過しかけた。

 関所での乗り打ちは大罪であり、小田原の関所はパニックになる。押し止めようとした。 晋作は駕籠の中で鯉口を切り、

「ここは天下の公道である。幕府の法こそ私法ではないか! そんな法には俺は従わなぬわ!」といって、関所を通過してしまった。

 晋作が京に到着したのは三月九日であった。

 ……学習院御用掛を命ずる。

 晋作のまっていたのはこの藩命だった。

「……なんで俺ばっかなんだ」

 晋作は愚痴った。

 同僚は「何がだ?」ときく。

「俺ばっかりコキ使われる。俺の論文はロクに読まなかったくせに…」

「まぁ、藩は高杉くんに期待しておるのだろう」

「期待? 冗談じゃない。幕府の顔色ばかり気にしているだけだよ」

 同僚は諫めた。

「あまり突出するのはいいことじゃないぞ。この国では出る杭は打たれるって諺もある」 とってつけたような同僚の言葉に、晋作は苦笑した。

 ……俺は出る杭なのだ。何もわかっちゃいねえ。

 徳川家茂は「公武合体」によって、京にいき天皇に拝謁しなければならなくなっていた。

 ……将軍に天皇を拝ませる。

 壤夷派は昴揚した。将軍が天皇に拝謁すれば、この国の一番上は天皇だと国民に知らしめることができる。

 それを万民に見せようと、行幸が企画された。

 晋作より先に京に入った久坂は、得意満面だったという。

 将軍上洛、行幸扈従は、長州藩の画策によりなったのである。いや、というより久坂の企画によって決まったのである。

 ……馬鹿らしい。

 晋作は冷ややかだった。

 学習院集議堂はうららかな春の暖かさに満ちている。

「もったいない。それだけ金を使う余裕があるなら軍艦が買えるじゃないか」

「お前に軍艦の話をされるとは思わなかった」

 久坂は苦笑した。晋作が船酔いするのを知っている。

 家茂上洛による朝廷の入費は長州藩の負担だった。計画したのが長州藩だから当然だが、その額は十万両を越えたという。

 久坂は、

「この行幸は無駄ではない」といい張る。

「義助よ、天子(天皇)にもうでただけで天下が動くか?」

「動くきっかけにはなる」

 久坂玄瑞は深く頷いた。


 行幸では、将軍の周りを旗本が続いた。天皇御座の車駕、関白は輿、公家は馬にのっていた。後陣が家茂である。十七歳の色白の貴公子は白馬の蒔絵鞍にまたがり、単衣冠姿で太刀を帯びた姿は華麗である。

 行列が後陣に差し掛かったとき、晋作が

「いよっ! 征夷大将軍!」                    

 と囃して、並いる長州藩士たちの顔色を蒼白にさせた……

 というのは俗説である。

 いかに壤夷の敵であってもあの松陰門下の晋作が天子行幸の将軍を野次る訳がない。

 もし、野次ったのなら捕りおさえられるだろうし、幕府が発声者の主を詮議しないはずがない。しかし、そうした事実はない。

 京にきて、晋作は予想以上に自分の名が有名になっていることを知った。有名なだけでなく、期待と人望も集まっていた。米国公使暗殺未遂、吉田松陰の改葬、御殿山焼討ち、壤夷派は晋作に期待していた。

 学習院ではみな開国とか壤夷とか佐幕とかいろいろいっているが、何の力もない。

 しかし、晋作とてこの頃、口だけで何も出来ない藩士であった。

 この頃、西郷吉之助(隆盛)は薩摩と会津をふっつけて薩会同盟をつくり、長州藩追い落としにかかる。長州藩の大楽源太郎は「異人が嫌い」という人種差別で壤夷に走った狂人で、のちに勝海舟や村田蔵六(大村益次郎)や西郷隆盛や大久保一蔵(利道)らを狙い、晋作や井上聞多まで殺そうとしたことがある。

 大楽は頭が悪いうえに単純な性格で、藩からも「人斬り」として恐れられた。

 維新後までかれは生き残るが、明治政府警察に捕まり、横死している。

 晋作は何もできない。好きでもない酒に溺れるしかなかった。

 晋作は将軍家茂暗殺の計画を練るが、またも失敗した。

 要するに、手詰まり状態になった。

「誰だ?」

 廊下に人の気配があった。

「晋作です」

「そうか、はいれ」     

 説教してやらねばならぬ。そう思っていた周布はぎょっとした。

「なんだその様は?!」

 晋作は入ってきたが、頭は剃髪していて、黒い袈裟姿である。

「坊主になりました。名は西行法師にあやかって……東行法師とはどうでしょう?」

「馬鹿らしい。お前は馬鹿だ」

 周布は呆れていった。


「晋作どうすればいい。長州は手詰まり状態だ」

 久坂はいった。

 すると晋作はにやりと笑って、

「戦の一字、あるのみ。戦いを始めろ」

「幕府とか?」

「違う」晋作は首を横にふった。「外国とだ」

 この停滞した時局を打破するには、外国と戦うしかない。

「しかし……勝てる訳がない」

「勝てなくてよい。すぐに負けて幕府に責任をとらせろ」

「……悪知恵の働くやつだな、お前は」

 久坂は唖然としていった。

「おれは悪人だよ」晋作は笑った。


 晋作は新妻・雅に目をやり、今日初めてまともに彼女をみた。俺の女子。俺のものだ。俺は糸のきれた凧だ。今のうちに仕込んでやらねばなるまい。今夜はうんといい思いをさ               

せてやろう。といっても雅はまだ末通娘だから痛がるだけだろうが……

 晋作の目がまだあどけない雅の小柄な体をうっとりと眺めまわした。可愛い娘だ。

  


 大阪より勝海舟の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。

 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。

 何事であろうか? と勝海舟は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。

「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」

 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。

「図書頭殿は、何の用できたのかい?」

「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」

 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。

「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」

「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」

「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持っているって話さ」

「何を考えているんだか」

 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。


 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。

 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。

 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。

 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。

 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。

 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。

 勝海舟は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。

「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。

 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。

 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」

 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。

「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」

「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」

「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」

 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。

 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。


 由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。

 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。

「今夜中に出航してはどうか?」

「いいね。ななめに伊豆に向かおう」

 勝海舟は家茂に言上した。

「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。

 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。

 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………

 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。

 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。

 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。

 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。

 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。

 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。

 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。        その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。

 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。

 ニールは応じなかったという。

「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」


 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。

「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」

 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛                 

門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。

 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。

 奈良原は答書を持参していた。

 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。

「あなた方はどのような用件でこられたのか?」

「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」

 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。

「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」

 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」

 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。

 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。

 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。

 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。

「いいでしょう。全員乗りなさい」

 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。

 薩摩藩士らは強くいった。

「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」

 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。

「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか」

 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。

 それもどうにも噛み合わない。

 一、加害者は行方不明である。

 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。

 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。


      

  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。

 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。

 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。

 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。

 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。

 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。

 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。

 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。

 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から 

砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。

 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。

 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。

 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。

 イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみていたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。

 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわっていねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」


 幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。

 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。

 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


 毛利藩(長州藩)藩主らは「そうせい候」と仇名を残した。

 幕政改革案をだしてくると、「ようろう。そうせい」という。また、勤皇派弾圧意見をいっても「そうせい」という。

 だが、毛利敬親・元徳が愚か者だった訳ではないという。

 幕末の混乱期の長州藩は、他藩とは事情がことなっていた。長州藩の「日本改革思想」というのは幕府を改革するだけで、倒幕までは考えていなかった。しかし、晋作や久坂やらが暴走し、「そうせい」としかいえなかった。

 佐幕の会津松平や桑名松平や水戸の徳川斉昭にしても倒幕までは考えていなかった。

 薩摩の島津斉彬にしても、越前福井の松平春嶽、土佐の山内容堂にしても口では壤夷とはいうが、倒幕までは考えていなかった。

 しかし、長州藩には吉田松陰という思想家がつくりあげた画期的な政治思想が劇的に藩内に広がり倒幕派になってしまった。

 松陰の思想は、

「天下万人は天皇の臣である。幕府は天皇より御委任をうけた政治代表者であり、任に適さなければ、ただちに大政奉還すべきである」

 という、尊皇壤夷、大政奉還、であった。

 そんな中、井上聞多と伊東博文が長州藩留学生としてロンドンにいくことになった。 晋作もいきたいと思ったが、晋作は長州藩の「知恵袋」である。

 いかせる訳にはいかない。


 山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだったという。

 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。

「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」

 毛利敬(たか)親(ちか)はそう命じた。

「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」

「お暇はいずれやる。今は非常の時である」

 元徳(もとのり)はいう。

「うけたまわりました」

 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうち                             

にはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。

 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していたという。

 …周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……

 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。


「俺は洋式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行        

軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。

 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」

 ……小倉白石家をつぶす気か…?

「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。

たった長州一藩で『尊皇攘夷』の攘夷決行をして、夷狄艦隊に大砲で攻撃したのは久坂玄瑞をリーダーとする長州藩士である。だが、“尊皇攘夷”など荒唐無稽であった。

すぐに武器弾薬軍艦で勝る外国艦船隊による報復の雨あられのアームストロング砲の報復攻撃を受けて、長州藩の領地・下関は火の海にされ焼野原と化す。外国をみてきた高杉晋作は久坂玄瑞の攘夷をこころよく思っていなかった。そこで身分を問わず百姓・商人や下級武士や漁民、力士、町人などで『奇兵隊』を結成する。結成場は小倉白石家の豪邸。

「ここに奇兵隊を結成する! 君たちに身分の差は関係ない。だが、僕は例え百姓だろうが町人だろうが侍の操り人形になれというのではない。自らの知恵と志で最新銃で松陰先生の志を貫徹するのじゃ」

高杉晋作は奇兵隊の総裁だった。銃・大砲や剣の訓練をする。軍規を制定した。

一方の久坂は長州藩巻き返しの為に京都の三条実美らと『もう一度の攘夷決行』『今度は全藩での攘夷決行』を謀ろうとする。

「危険です! 久坂さんが今、京に出れば長州下関の大敗で勢いづいている開国派やら勤皇攘夷反対派に命を狙われますよ」しかし久坂は「この国を変える為に尊皇攘夷が必要なんだ! 俺の命などくれてやる! 攘夷を天子さまにもう一度お考え頂くのだ!」

高杉は「くだらん! 久坂、現実をみろ! 長州藩、いやお前は負けたんじゃ! これから我らは長州の為にふたりでいかねば! その為の奇兵隊なんじゃ」

「それはお前がやればいい」

「久坂! 攘夷など成らん! 外国とは戦をしてはならんのだ。僕は奇兵隊で長州を救う為に働く覚悟じゃ! その為に松下村塾の双璧の僕と久坂、お前が必要なんじゃ!」

「わかっている。ああ、俺は外国に完膚なきまでに敗北した。下関は火の海と化し、焦土と化した。大勢の同志も死んだ。だが、だから、攘夷なんだ!」

「異国にあれだけ負けたんだ。他藩は動かん。奇兵隊こそ長州藩に必要なんだ。僕は必ず奇兵隊で歴史を動かす大業を遂げるつもりだ! 一緒にやろう、久坂」

「俺は京で朝廷工作だ。俺は死ぬかもしれんが後の戸締りは頼んだぞ、晋作」

「死して大業が成るなら死すべし、生きて大業が成るなら生きるべし! ……松陰先生のおっしゃったことだ! 久坂、無駄死にはするなよ」

「ああ、当たり前だ」久坂はひとり、京へ向かった。

そして薩摩会津藩同盟軍からの屈辱の『八月十八日の政変』『七卿落ち』である。

もはや長州藩は、久坂玄瑞は、追い込まれていた。


         5 禁門の変







 のちに『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。     

 吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。

「……伊藤くん。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」

「先生! せ…先生!」

 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……

 かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。

「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」

 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

 文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。

 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。

 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。

 久坂玄瑞は奮起した。

 文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長       

州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。

 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。

「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」

 『二心公』といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。

 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。

 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。

 元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。

 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。

 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。

 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。

 久坂玄瑞は沈黙した。

 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。

 七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。        

「長州の不貞な輩を斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。

 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、

「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 

しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。

 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。

 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。

 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。

 勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。

 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。


 会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。

 銭はあればあっただけよい。

 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。

 まず、局長は近藤勇、副長は、土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。

 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。

 そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このままではわが国は外国の植民地になる」

 勝海舟は危機感をもった。

「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。

「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。


「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」

 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。

 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。

「よし! これで侍どもを倒すんだ!」

「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。

「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」


 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。

 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。

 桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がとも綱を結び、長州へむけ数発砲いたせし故、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。

 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。

 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思っているのかい?」

 といった。

 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。

 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。

「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」

「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」

 数刻にわたり桂は勝海舟と話して、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。


 十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸に曳かれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。

 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」

 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州藩奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主の詫び状とともに幕府に返されていたという。         

 浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。

 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。

 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。

 さっそく余を供にしていけ」といった。

 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。

「余の供はせぬのか?」

「そうですねぇ。そういうことになり申す」

「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」

 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。

「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」

「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」

「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」

「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」

 勝海舟は答えた。

 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…



 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。

 勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。

「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。

 小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。

 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。

 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。

 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」


 勝海舟は相撲好きである。

 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。

 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。

 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。

 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」

 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。

 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。

 慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。

 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。

 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。

 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。

 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。

 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。

 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。

 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。

「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」

 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」

「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」

「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」

 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。

 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。

「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。

 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけていたさ。幕臣は腐りきっているからな。

 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。

 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。

 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。

 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。

 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」



 三月六日、勝海舟は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。

「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。

 その後、勝海舟は龍馬たちにもらした。

「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」

「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。

「アジアの中で日本が褒められるのは国人同しが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いていんのにさ。他の国は国人同しが争って駄目になっている。

 確かに、今までは戦国時代からは日本人同しは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」

 勝海舟は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき勝海舟の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。

 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。

 勝海舟は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。

「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。

 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」

 四月十八日、勝海舟は家茂の御前へ呼び出された。

 家茂は、勝海舟が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。勝海舟はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。

「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」

「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」

「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」

「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」

「およそ八、九町にござりまする」

「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」

 家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」

 四月二十日、勝海舟は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は勝海舟の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。そして、知識人として知られていた。

 龍馬は、勝海舟が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。勝海舟からの贈物である。

「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。

「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」

 勝海舟は「西洋と東洋のいいところを知っているけい?」と問うた。

 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。

「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」

 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。

「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。

 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る