第二話 高杉晋作
2 吉田松陰と久坂玄瑞
吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・寅之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義(ぎ)卿(けい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉寅次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。
「死にもの狂いで学ばなければこの日本国はもはや守れん!」松陰は貪欲に学んでいく。
文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、杉文の13歳年上の実の兄である。ちなみに兄の吉田松陰に塾を開くようにアドバイスしたのも文、「寅次郎兄やん、私塾をやるのはどげんと?」
「私塾? 僕が?」
「そうや。寅にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」
おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって松門の教え子たち(久坂や高杉や伊藤博文ら)を集め「皆さん兄の私塾で学びませんか?」
「はあ?!」
「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも文、
「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」
「おーっ! うまそうだ!」
「皆さんがこの長州、日本国を変える人材になるのです」
姉の寿の前に小田村(楫取)を好きになり
「お嫁さんにしてつかあさい!」と頼むが叶わず母の死に落ち込む楫取を励まし、のちに姉寿死後、楫取と再婚し、最後は鹿鳴館の花となるのも文、である。大河ドラマとは少し違うかも知れないがこの作品が上杉流「花燃ゆ」<高杉晋作篇>なのである。
松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか? といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部(みやべ)鼎蔵(ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉通り、売春が合法化されていて、いわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公・高杉晋作の親友・久坂玄瑞の妻・杉(すぎ)文(ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料やハッキリとした写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。
2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか? は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。
「文よ、お前はどう生きる?」寅にいこと松陰は妹に問う。
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者がキャスティング(配役)されていましたよね。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は滝子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。
NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念していた。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。
とにもかくにも美人なんだか醜女なんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではあった。大河ドラマ「篤姫」「西郷どん」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「八重の桜」では会津藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描いた。
大河ドラマ「江 姫たちの戦国」のような低視聴率になると決まった。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
だが、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」「マッサン」「あさが来た」「半分、青い」「まんぷく」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
話しを戻す。
長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五百文にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇文の値がついたという。
松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになった。
歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。
と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。
あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。
「地球儀やろう?」
「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう? 日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
「へ~つ、こげな小さかと?」
「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」
「わからん。何故イギリスは強いと?」
松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
「この国を守るにはどうすればいいとか? 寅次郎にいやん」
「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
徳川泰平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか? と思っていた。
だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
と母親につげた。
すると母親は「せわぁない」と笑った。
松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
星がきれいだった。
……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
吉田松陰は、遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。
父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。「学ぶのは何の為か? 自分の為たい! 自分を、己を、人間を磨くためばい!」
久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
「〝兵学〟の吉田(松陰)、〝儒学〟の小田村(伊之助)がいれば長州藩も安泰じゃ」
のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとりもとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉(すぎ)寿(ひさ)と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう)(恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。最初、杉文は尊兄・吉田松陰の親友の小田村伊之助(楫取素彦)に恋い焦がれていた。しかし、あえなく失恋。小田村が杉文の姉・杉寿と祝言をあげたためだ。
そして久坂玄瑞との運命。
若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。久坂玄瑞は神社でおみくじを引けば大凶ばかりでる“貧乏・親の借金・低い身分”の不幸人・苦労人であった。
しかし、文が励ました。
「大凶がでても何度でも何回でも引けば必ず吉が出ます。人生も同じです! おみくじ箱には大吉も必ずはいっているんじゃけえ。さあ、何度もおみくじをひきなされ」
「あんたになにがわかるんや?! おみくじだけじゃない! 僕はいつも人生で不幸ばかりする! 貧乏で、運が悪い、不幸な星の生まれなんや、僕は!」
癇癪を起こす久坂に文は「いいや! あなたは才能がある! 私にはわかります。きっとこの長州を、日本国を回天させる人物やと思うとうとですよ、あたしは」
「せやけど、文さんの尊兄・松陰先生に「出て来い国賊・吉田寅次郎!この久坂が斬り捨ててやる!」と抜刀して騒動を起こしたのはただならぬ僕ですよ?」
「それは寅にい、が国禁を犯したための怒り……日本人なら当然やわ」
「日本人?」
「そうや! 日本人や! 長州でも徳川幕府でも薩摩でもない、これからは日本です!」
こうして杉文と久坂玄瑞の中は急接近してゆく。そしていずれ夫婦に、そして悲劇の別れ、が待ち受けているのだ。
文や寅次郎や寿(ひさ)の母親・杉瀧子(杉滝)が病気になり病床の身になる。
「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
「……は…はい。わかっとう」
母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
杉家の邸宅の近くに吉田家と入江家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の吉田稔麿の妹・吉田ふさや入江九一の妹・入江すみらの御嬢さんで親友であった。
近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百閒は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか? 先生」
あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい? せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。
「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか? 先生」
さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
吉田松陰は「外国にいきたい!」
という欲望をおさえきれなくなった。
そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
だが、吉田松陰は密航に失敗したものの黒船に載れなかった訳でもない。松陰が密航しようとした黒船はぺルリ(ペリー)らの黒船であったというから驚く。そこで甲板上で松陰と弟子の金子重輔は“佐久間象山より書いてもらった英文の密航の嘆願書”を見せて外国人船員たちに渡した。だが、それでも答えは「ノー」だったのだ。そして、その行動ののちにペリーは「あの日本人の知識への貪欲さにはいささか驚いた。ああした日本人が大半になれば日本国は間違いなく大国になれるであろう」と感想を述べている。
とにかく松陰と弟子の金子は囹圄のひととなった。その報はすぐに長州藩萩の杉家にも伝えられた。父親の杉百合之助らが畑を耕していると飛脚が文をもってきた。というか、長男の杉梅太郎(民(みん)治(じ))が急いでやってきて父・百合之助や母・滝らにしらせた。
「な、なにっ?! 寅次郎が黒船で密航しようとして幕府に捕えられた」一同は驚愕するしかない。妹の杉文も驚愕のあまりへたり込んでしまった。「……何でや? 寅にい…」
吉田松陰は武士だから“侍用の監獄”『野山獄(ひとりに一部屋)』にいれられたが、弟子の金子重輔は“足軽・百姓用の監獄”『岩倉獄(雑居房)』にいれられた。金子はそこで獄死してしまう。松陰は『野山獄』で二十一回孟子(二十一回戦うひと)と称して「孟子」の講義を始める。いかつい罪人や牢獄の美女・高須久子らも吉田寅次郎(松陰)を先生と呼んで慕うようになる。そののち獄を出て蟄居中に開いた私塾が「松下村塾」である。
山口県萩市に現在も塾施設が大切に保存されている。「松下村塾」の半径数十キロメートル以内に九十人の人材を輩出したという。だが、罪人である吉田松陰に自分の子供を任せるのに難色を示す親も多かったという。高杉晋作の両親もそうしたひとりであったが、晋作が「どうしても吉田松陰先生に学びたい」と隠れて通塾したともいう。
松陰は『徳川幕府は天下の賊(ぞく・悪人)』と建白書をしたためる。また、幕府の老中らを暗殺するべきとも。大河ドラマ『花燃ゆ』「さらば青春」の話では、吉田寅次郎(松陰)が塾生たちをそそのかし(あくまで救国の志のためだが)、幕府の井伊直弼大老の世にゆう“安政の大獄”に反発して、塾生たちに建白書(血判書)を書かせる。
「僕らは井伊大老よりも、まずは京の徳川幕府の窓口である間部(まなべ)老中を暗殺するのです!そうすれば幕府に、奸賊・井伊大老に、強烈な一撃を食らわすことが出来ます! 国の為に行動するのは今です!」と主張する。
ドラマではその暗殺密談を、妹の文が盗み聴いてしまう。
“建白書”は塾生・吉田稔麿が預かり
「長州藩の家老周布さまにわたくしが渡します」と約束する。
だが、吉田稔麿は世情に明るく、これは無謀な計画、と分かっていた。が、尊敬する松陰先生のいうことである。死を覚悟して稔麿は周布政之助に建白書を提出する。
「馬鹿野郎!」
「国の為です!」
「国の為ではなく師匠の寅次郎の為ではないのか?」
「………師匠がいう以上仕方ありません」
周布も小田村伊之助(のちの楫取素彦)も、もう庇いきれなくなった。
考え悩んだ挙句、文は叔父上・玉木文之進と父母に寅次郎の計画を知らせた。寅次郎の叔父は烈火の如く怒り、寅次郎を殴りつける。馬鹿者! 馬鹿者! 寅次郎の父親・杉百合之助も「お前は国の為に死ぬというが…お前の狂った行動で、弟子の塾生たちがどうなるか! 考えたことがあるのか?! 国の為に立派に死ぬより…生き続けろ! 馬鹿者! 人を殺して救国になるがか?!」と号泣して松陰を殴り続けた。
そして、大河ドラマでは、父は抜刀し、刀を寅次郎に渡し、「父を斬ってから行動をおこしなさい! ………父を斬れ!」と迫る。
「国が…よくならねば長州も幕府もない! 僕は腐った幕府を……愚かな幕府の政を…変えたいのです! 行動をおこさない藩や藩主なら…なくてもいい。長州じゃなく……日本国です! 違いますか?!」松陰は泣き崩れる。
文は「この松下村塾は何の為の…塾なんなん? 寅にい。人殺しの算段の塾なん? 学問のためじゃろう?!」
だが、すべてはおわった。
“安政の大獄”で吉田寅次郎は塾を閉鎖させられ、再び囹圄のひとになった。
よりによって幕府の家老を暗殺しようと計画した、松陰。
当然、幕府も長州藩もカンカンになって怒った。長州藩の重臣・椋(むく)梨(なし)藤(とう)太(た)や周布政之(すふまさの)助(すけ)も吉田松陰の罪を藩主・毛利敬親公にあげつらった。
こうして松陰は遺言書『留魂録(志をしたためた書)』を書いてのち処刑される。
弟子の高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞らが松陰の遺髪を奉じて墓を建てた。墓には“二十一回孟子”とも掘られたということである。(NHK番組内『歴史秘話ヒストリア』より)
大河ドラマ『花燃ゆ』の第十五回「塾を守れ!」篇・第十六回「最後の食卓」篇では、ふたたび野山獄につながれた吉田寅次郎(松陰)と元・塾生たちの仲に亀裂が入りはじめる。塾生と松陰との仲は絶交状態にまで悪化、入江九一・野村靖兄弟も松陰の幕臣叛逆策を、つまり松陰の主張する「尊皇攘夷」を実行しようとする。だが、所詮は草莽掘起、尊皇攘夷など荒唐無稽である。
しだいに孤立する松陰。久坂の嫁となっていた久坂(旧姓・杉)文は獄にいって、号泣しながら、
「寅にい! ………英雄なんかにならんでええから…生きてつかあさい! 危険なことを考えんと………ご自分を、弟子たちを…皆を守って、おとなしゅう生きてつかあさい!」
小田村伊之助(楫取素彦)も「寅次郎! お前の死に場所はこげな獄じゃない! 目を覚ませ!」
だが、松陰は、「……僕は………死にたいんじゃ、文。…僕は死ぬ事によって、日本国中の志士達が立ち上がるんじゃ! ……僕は今、死あるのみ!」等という。
小田村は泣きながら「お前、まだそんなことをいうとるんか! 死んだらおわりじゃろうが?!」
松陰は号泣して、
「行動しないものにはわからん! …主張しないもの、大志のない、負けたことのないものには……わからんのじゃ! 至誠を持って動かざるものいまもってあらざるなりじゃ!
死ねば…死ぬことで…僕が死ぬことで、国が志士たちの魂が動くのじゃ! 僕は……死ぬことで国を動かしたいのじゃ」
松陰がそういう覚悟ならもうなにも言えない。文も伊之助も松陰自身も号泣し尽くすのみである。そして、まるでキリストの“最後の晩餐”のように野山獄の役人の“武士の情け”で、松陰は杉家で“最後の食卓”を囲み、風呂に入って母とも家族、愛するものたちとも涙の別れをし、
「父上、母上叔父上文敏兄さん亀義姉さん、申し訳ありません。これで僕は…あの世に行きます。お世話になりました」松陰は五右衛門風呂に入りながら泣いた。
「思えば…僕は、なんちゃあ、まともな親孝行もせず、恩をあだでかえすような人間でありました。………そして、なんちゃあ、親孝行もせぬまま、僕はもうすぐ首をば刎ねられ…死んでしまうでしょう。親より先に死ぬ、それが情けない、だけどそれが今の僕です。ですが、…いままで本当にありがとうござりました。僕はこの家の恥さらし…です。すみません!」
「寅…あなたはあなたなりに立派に生き、行動しました。何も母も父上も叔父上も文も敏三郎梅太郎亀もお弟子さん達………誰も寅を憎んだり蔑んだり恥に思うたりはしません」
「………母上、すみませ…ん! 僕は…僕は…」
母親の瀧は「せ………世話あぁない」と頬の涙をぬぐった。
家族は明るく振る舞い、寅次郎に笑顔で接したが心の中で号泣していた。
「寅にい、………うちとお弟子さんたちに約束してつかあさい。寅にいが死ぬそのまさに刹那までその立派な志をつらぬきとおすと!」
松陰は「ああ、約束…する。文、久坂くん、高杉くん、母上父上叔父上、みんな………すべてはこれからじゃ! 僕は最後まで志を捨てん! これより長州男児の意地を、誇りを、志を見せん! 尊皇攘夷、草莽掘起じゃ! 至誠を持って動かざる者今もってあらざるなり」
松陰は萩を後にし、大いなる至誠を持って、井伊大老と対峙した。
そして、松陰は幕府・井伊直弼大老の『安政の大獄』で江戸で処刑されるので、ある。
伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から四ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという(この小説の設定。井上馨は伊藤博文の哈爾浜遭難事件後、病気を抱えながら享年八十歳で死ぬ。死ぬのは伊藤博文の方が先である。死ぬ、というより伊藤は暗殺だが)。
彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や渋沢栄一や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
尊皇攘夷など荒唐無稽である。
観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。
坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
話を少し戻す。
若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると明倫館に入学した。
ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
しかし、いくらやっても強くならない。
桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
……俺は詩人にでもなりたい。
……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
と、玄瑞にきいたことがある。
久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
久坂は正直にいった。
「なに?!」
晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
晋作は興味をもった。
しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもっ
て吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
晋作はにやにやしている。
……俺の才能を知るがいい。
吉田松陰は「わかりました」
といってかなりの時間をかけて読んでいく。
晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
といった。
高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
……審美眼がないのではないか?
人間とは、自分中心に考えるものだ。
自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようが受け入れられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。
長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
しかし、感覚と学問は相反するものではない。
きみには才能がある」
……この人は神人か。
後年、晋作はそう述懐しているという。
*黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。周防(すおう)の僧、月性は親友である。
黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。
実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。
しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。
「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」
そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。
松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めたという。
そして松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下(しょうか)村塾(そんじゅく)」を受け継いだ。萩の実家の隣にある二間の家だ。
長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。吉田栄太郎(稔(とし)麿(まろ)・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。
高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。
だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。
晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」
久坂は訊ねた。
「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。
「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」
晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。
「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の“はしくれ役人”にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」
「草莽でなければ人物なし」
松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。
斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。
「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」
「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」*
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛葉英治(しんば・えいじ)氏著、プレジデント社刊120~136ページ参考引用
大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。
*ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。
「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」
松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。
松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷敵殺戮」主義を捨てなかった。
長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。
それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木(まき)和泉(いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂! もうちと考えろ! 異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国(米、英、仏、蘭)に降伏して、 講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。
伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。*
****
桂小五郎のちの木戸孝允は新選組から『逃げの小五郎』と呼ばれるほどおこも(乞食)や夜鷹(売春婦)や商人などに化けて京で新選組ら反長州藩士派らの凶刃から逃げていた。
坂本龍馬は京で指名手配されたが、才谷梅太郎という変名で逃げていた。
指名手配の似顔絵が似てなかったのも幸いした。
龍馬は夜鷹に化けた桂小五郎と話した。
桂小五郎は「長州藩が追い込まれ、朝敵になったのもすべては奸族・会津・薩摩のせいだ! 久坂らの死も憎っくき薩摩のせいなんだ!僕がこんな姿で逃げなければならなかったのか? すべての元凶は薩摩だ」
「じゃきに桂さん! このままじゃあ長州藩は滅びるぜよ! そこでその薩摩と同盟を結び、薩長同盟で徳川幕府を倒さねば長州は滅びるぜよ」
「あの薩摩と同盟? 馬鹿なのか? 坂本君! あんな腐れ外道の薩摩と」
「そうじゃ! その腐れ外道とじゃ! 薩摩と同盟を結ばねば幕府軍の総攻撃を受けて長州藩はおわる。長州藩がおわってもいいきにか?」
「確かに長州藩はもはや風前の灯じゃ。だが、薩摩と結んで長州藩は助かるだろうか?」
「ああ、間違いない! 長州藩はにほんそのものだ! 奇兵隊とやらも使える。あとは武器じゃ! 今、長州藩は幕府に睨まれて武器を外国から買えん。そこでわしらカンパニー亀山社中の出番じゃ! 薩摩藩払いで武器を買い長州へ、長州藩は薩摩に足らんコメや食糧を薩摩にやればあいこじゃ!」
「僕は…長州藩が助かるなら薩摩とあわない訳ではない。あくまで長州藩の為ならだ」
「ホントきにか? 桂さん」
「ああ、じゃが僕がよくとも高杉や奇兵隊や長州藩のご家老お殿様はわからんぞ」
「じゃが、桂さんは薩摩と結んでもええんじゃろう? 同盟を!」
「薩長同盟か? 無理じゃないか? 両藩とも親の仇のように憎み合っている」
「それはわしが何とかするき! よし、後は高杉さんじゃ」
「無理だ! 僕は恥を忍んで薩摩とあうかも知れんが、晋作は薩摩に頼るくらいなら滅亡を選ぶだろう! そういう男だ」
「だが、薩長同盟が軽挙妄動ではないとわかる。高杉さんは馬鹿ではない!」
「だが、高杉が一番薩摩を恨んでいるんだ! 松陰先生や久坂玄瑞らが死んだのも薩摩のせいだからな」
「高杉さんを説得するぜよ! 今、長州は孤立している。幕府軍に攻められたら実は次は薩摩討伐なんじゃ」
「なにっ」
「薩摩もそれはわかっちぅ。だから西郷さんもわかるはずじゃ! 薩長同盟がなければ長州藩も薩摩藩も滅びるがぜよ! 薩長同盟で徳川幕府を倒さなければ日本は外国の植民地ぜよ」
こうして龍馬は高杉晋作を説得した。
最初、高杉晋作や奇兵隊は激しく抵抗した。いや激昂した。「長州藩のためにあの薩摩に助けを求めろというか? 龍馬」
「そうじゃ! しかし、薩摩に頭をさげるのじゃないき! 利用するんじゃ」
「利用?」
「長州藩を滅びさせない為に薩摩を利用すればいいきに! 薩摩は武器をぎょうさん持っちゅう! 長州藩の大村益次郎(村田蔵六)さんの話じゃあ、あとミニェー銃二千から三千挺の鉄砲がなければ長州藩は幕府軍に必ず負けるいうちょった。負けたら長州藩はおわりぜよ」
「わしらは薩摩を憎んでいる! みろ! 草履の裏に薩摩・西郷・薩奸と書いて毎日踏みつけるほどじゃ! これが我ら長州の憎悪じゃ」
「……じゃが! 長州藩がたすかるには薩摩と同盟を結んで幕府を倒すしかないがじゃ!このままでは四民平等の国が、維新が成らん! 日本の夜明けが成らんがじゃ」
「しかし…」
「おまんがやらんで誰がやるがじゃ? 高杉さん、長州藩は日本の為に働くんじゃなかったきにか? 所詮は長州藩か」
「………わかった」
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。
そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。
文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。
「お文さん………何故ここに?」
「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」
「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」
「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」
桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。
文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。
そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。
彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。
坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。
しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」
「同盟はなんもなっとらん」
「え?西郷さんが来てないんか?」
「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」
龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?! 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か? 長州藩か? 日本人じゃろう! こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙っているんじゃ! 薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。
話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」*晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろずの国を見んとしぞおもふ」 *
長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。
七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替え、長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。
「勝さん、あんたは大丈夫ですか? 長州に尻尾をふった裏切り者! と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」
「てやんでぃ! 古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」
長州の志士たちの予想は的中した。幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。
だが、幕府の暴発は続く。薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用
松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…
高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
安政五年、晋作は十九歳になった。
そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
松陰は思う。
……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
松陰もまた高杉に甘えきった。
かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
晋作は獄中の師匠に文をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、
おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
晋作は官僚の息子である。
そういう環境からは革命はできない。
晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
松陰は晋作に期待していなかった。
幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「留魂録(草奔掘起)」である。
かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
晋作は反発した。
回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
……しかし、まだ嫁はいらぬ。
「萩軍艦教授所に入学を命ず」
そういう藩命が晋作に下った。
幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙(へい)辰(しん)丸という。
小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
松島は帆をかかげて、船を動かした。
航海中、船は揺れに揺れた。
晋作は船酔いで吐きつづけた。
品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
……俺は船乗りにもなれん。
晋作の人生は暗澹たるものになった。
品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
……疲れているからいい。
と、晋作は断ったが、おきんは服を脱ぎ、丸裸となって晋作を誘惑する。
晋作も男である。
疲労困憊ながらも、”一物”だけはビンビンになっている。
「まぁ! どこがつかれていますの?」
おきんは笑った。
晋作はおきんを抱くことにした。
愛の行為は今までにないほどすばらしいものになった。晋作の疲れがひどすぎて、丁寧にゆっくりやるしかなかったためか、それはわからない。
ふたりは丸裸のままふとんにぐったりと横になった。
……また藩にもどらねば。
晋作には快感に酔っている暇はなかった。
この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、 その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。
嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海 防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。
勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
老中の罵声が背後からきこえた。
勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なっていたところへ、国際問題が起こった。
文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しい というが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。
井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と感心した。
しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
しかし、何の返答もない。
大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
一同の目が勝海舟に集まった。
”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しいと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
もしも海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。
長州藩の「このひとあり」という男がいた。
長井雅楽である。
長井雅楽は根っからの保守派で、聡明、弁舌に長じ、見識もあり、優れた人物だったという。尊皇壤夷思想の吉田松陰でさえ、
「長井は、家中屈指の人物である」と認めている。
長州藩の失敗は吉田松陰を死においやったことだ。
だが、悪気があった訳ではない。長井も悩み、松陰を遠くの牢に閉じ込めていたのだが、幕府に命令されて江戸に檻送し、殺された……ということである。
しかし、長州藩士は「長井は思想を違うとする松陰を死においやった!」ととった。
長井は、文久元年、「航海遠略策」という政策案をつくり、藩主に献上した。
……開国か鎖国かと日本人が議論に紛糾しているあいだに、外敵がそれにつけこんで、術中におとし入れてしまう……
と、長井は説く。
江戸にいた久坂玄瑞や井上聞多、伊藤俊輔(のちの博文)などが、過激分子としてあった。高杉晋作などもそのひとりで、
「長井雅楽を斬る!」
といって憚らなかった。本気で暗殺しようとしたかはわからない。
しかし、その暗殺計画が有名になり、桂がやめさせるために上海に晋作を送ったのであ
る。だが、長井雅楽は、晋作が上海に向かっているあいだに失脚してしまった。
3 艱難辛苦
上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
高杉は思考が明瞭である。
…ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
即座に手にいれた。
もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
高杉の二十三歳の若さがみえる。
奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
……壤夷以外になにがあるというのだ!
といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。
蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
藩命は冷ややかなものだった。
江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
といって晋作の話しをとめた。
「は?」
晋作は唖然とする。
敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
……長州は口舌だが、実がない!
こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけだ!」
といった。
そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
晋作は江戸についた。
長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけです。
……壤夷で富国強兵をすべし!
……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
……この国を回天(革命)させるのだ!
晋作は血気盛んだった。
が、藩世子は頷いただけであった。
「 貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
そういっただけだ。
続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
たしかにその通りだった。
晋作は早すぎた天才であった。
誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
……わかってない!
高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
晋作はよく女を抱いた。
そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
晋作は走った。
しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
……ちくしょう!
晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。
薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけだ!」
といった。
そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
晋作は江戸についた。
長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけです。
……壤夷で富国強兵をすべし!
……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
……この国を回天(革命)させるのだ!
晋作は血気盛んだった。
が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
そういっただけだ。
続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
たしかにその通りだった。
晋作は早すぎた天才であった。
誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
……わかってない!
高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
晋作はよく女を抱いた。
そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
晋作は走った。
しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
……ちくしょう!
晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。
天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。勝海舟は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を勝海舟は思った。勝海舟は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士
気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
勝海舟は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
勝海舟は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
勝海舟は、幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝海舟は悔しい顔で頭を振った。
赤坂の勝海舟の屋敷には本妻のたみ(民子)と十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、勝海舟の傍らにつきっきりで世話をやく。勝海舟は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも勝海舟には妾がいた。勝海舟は絶倫である。
当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。
京は物騒で、治安が極端に悪化していた。
京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。
なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、
天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。
「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」勝海舟はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。
そんな時、「生麦事件」が起こる。
「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。
「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」
勝海舟は幕府の無能さを説く。
「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」
五日には大阪の宿にもどった勝海舟は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。
宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、勝海舟は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。
「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」
龍馬はにやりと笑って、
「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」
岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、
「喜んでいきますきに!」といった。
勝海舟は幕府への不満を打ち明ける。
「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」
「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。
勝海舟は「そうだ」と深く頷いた。
「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」
「その通りだ」
「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」
「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」
「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。
京で、勝海舟は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
桂たちは、勝海舟の意見にことごとく同意した。
勝海舟はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、勝海舟は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動しているんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。
「暗殺か…」
晋作は苦い顔をする。
壤夷のために行動する晋作であったが、暗殺という陰湿な行為は好きではなかった。
そのくせ、長井雅楽を暗殺する!、といいだしたりしたのも晋作である。
しかし、計画企画はするが、実行はしていない。
いつも言い出すのは晋作だったが、暗殺を成功させたことはない。一件も遂行に至っていない。
「よし、俺たちも生麦やろう!」
大和弥八郎が甲高い声をあげた。
……高杉は江戸で豪遊している。
血気盛んな者たちが、集まってくる。寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人……
計画だけは着々とすすんでいた。
暗殺目標は米国公使タウンゼント・ハリス、場所は横浜、決行日は十一月十三日と決めた。その日は日曜日で、ハリスはピクニックにいくことになっていたという。
「井上、百両用意してくれ。軍資金だ」
「しかし……」
「なんだ?」
井上聞多は困った顔をして「百両などという大金は俺には用意できん。どうすればいいのだ?」という。
高杉は渋い顔になり、
「それは俺もわからん」といった。
だが、その暗殺計画も瓦解してしまう。
しかし、「外国の公使を殺せば国が滅びる」といわれていた時代に公使暗殺を思いつく晋作は、ずばぬけていたともいえる。
久坂は晋作が暗殺犯とならなかったのを見てほっとした。
と、同時に「俺が暗殺する。公使の館を焼き討ちするのだ」と心の中で思った。
久坂玄瑞は盟約書を作成した。
長州藩士たちの革命分子をひとつにまとめる規則とリストである。
その数は二十二人……
高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義、野村和作、白井小助、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、滝鴻二郎、佐々木次郎四郎……
長州藩の中核を担う連中が名をつらねた。
「藩内に三十人の死士が得れば、長州藩を掌握できる。長州藩を握れば天下の事は成る」 晋作の持論だという。
しかし、晋作の思い通りになるほど世の中は簡単には動かない。
「晋作は何を始める気だ?」
久坂玄瑞は晋作に疑問をもった。
吉田松陰が死罪になってから三年がたつ。
晋作は江戸を発して長州にもどっていった。師の墓に手をあわせ、涙した。
以後、晋作は死ぬまで江戸の地を踏むことはなかった。
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