風と奇兵隊と高杉晋作と
長尾景虎
風と奇兵隊と高杉晋作と
小説
風と奇兵隊と
高杉晋作と
たかすぎしんさく~三千世界の烏を殺し~
~開国へ! 奇兵隊!
高杉晋作の「明治維新」はいかにしてなったか。~
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
NAGAO Kagetora長尾 景虎
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
この物語のベースは池宮彰一郎氏著作『高杉晋作』と津本陽氏著作『私に帰せず 勝海舟』日本テレビ特別時代劇ドラマ『奇兵隊』(杉山義法氏原作)などです。池宮氏津本陽さん杉山義法氏のオマージュに感謝いたします。これで引用をどうかお許しください。
あらすじ
黒船来航…
幕末、高杉晋作は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちは明鏡止水の心だった。 おわり
1 立志
長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。
……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……
伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
英国の痛いところをつくものだ。
伊藤は感心するやら呆れるやらだった。
明治四十二年には吉田松陰の松下村塾門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。
松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死にをした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
文久二年春、上海にいく筈の幕府の艦船が二か月もこの長崎に釘付けになっていた。
ペリーの黒船来航から十年の月日が経っていたが、それまで二百年に渡って鎖国を貫いていた徳川幕府は所持万端にしてすべての動きが鈍く、動作が遅かった。
いわゆる役人の御役所仕事で二か月も徒労させられた数少ない幕臣ではない他藩士の中には高杉晋作青年の姿もあった。まだ、ちょんまげをしてざんばら頭ではない。
船の甲板の上に寝転がって蒼天を眺めていた。
「おい、やっぱりここにいたか」
幕府通訳の伊藤軍八が声をかけた。
「ああ、ダメだ駄目だ。また、上海行きは一か月遅れるそうだ。なんでもある藩の役人が藩主の許しをこうとかでまったく役人ってのは話がかたくていけねえや」
高杉は身を起こして刀を持ってどこかにいこうとした。
「おい! どこにいくんだよ?」
「こんな狭い街じゃあ、いくところは決まっているじゃろ」高杉はにやりとした。
「まっていました。そうこなくちゃあ」
軍八は笑った。
高杉晋作。長州藩士。百二十石。長州藩重役高杉小忠太のせがれで、藩校明倫館の教育には飽き足らず、吉田松陰の松下村塾にて学んだ逸材であり、変人である。
高杉晋作は自作の都々逸(どどいつ)を芸子たちに三味線を弾きながらきかせた。
♪三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい
軍八が焦ってやってきた。
「まずいぞ、晋作。どこでかぎつけたか役人がまた呑ませろといってきた」
「いつものように呑ませればいいじゃないか」
「それが役人っていうのはどんどんずうずうしくなっていけねえや。それがひとりじゃないんだ。数十人なんだ」
役人は「おい皆、遠慮はいらねえ。どんどん呑んで暴れろ」などといい、ずかずか酒屋の階段をあがり芸子を呼びどんちゃん騒ぎをやらかす。
幕府艦船に乗るのはほとんどが幕府の役人である。高杉晋作ら諸派の藩士は数人で、これらのものは海外渡航が禁止されているのでほとんどは幕府役人の家来扱いであった。
高杉らは幕府役人の放蕩に、飽きれた顔をした。
文久二年のこの頃は、薩摩藩・土佐藩の公武合体で皇女・和宮が徳川家将軍の徳川家茂の正室に降下した時期である。公武合体とは天皇家の御威光により、徳川幕府をすくいあげる策であったが、長州藩(現在の山口県)萩には公武合体をぜったいに認めない者たちがいた。松下村塾党の男たちである。長州藩の萩は当時の藩の拠点である。
長州藩の思想は吉田松陰(寅次郎)の思想である。安政の大獄で松陰自身は二年前に処刑されていたが、松陰の“草莽掘起”論が長州藩では勢いをましている時期でもあった。
………いけ! 若者たちよ! 一個の草莽の志士として時代をかえよ! いけ! いけ!
長州藩では藩士の井上聞多(馨・のちの外務大臣)が「高杉さんはおるかー?」と、高杉晋作を呼びに高杉邸にきた。
すると高杉の妻の雅が「井上さま。高杉なら今、長崎ですが…」
井上ははっとして「そうじゃった。高杉さんは長崎じゃった。馬鹿じゃのう俺は」と気付いて頭を自分でぽかりとやった。井上はそのまま走り去った。雅は微笑んだ。
藩所で、井上聞多は長井(ながい)雅楽(う た)を探していた。
長井は藩内でも有名な開国論者で、井上聞多も長州藩士も反発を抱いていた。
長州藩では過激な攘夷論(外国を討ち果たす)が幅を利かせていた。
「長井先生! 長井先生―つ! おられぬか? どうしても面会を拒絶なさるなら私にも覚悟がある!」
歩いてきた来嶋又兵衛(のちの長州藩遊撃隊隊長)が呆れた顔をした。
「来嶋さーん!」
「どげんした? 聞(ぶん)多(た)?」
「長州藩は長井雅楽先生の主張する開国論で一致したっちゅう話は本当ですか? まさか来嶋さんも賛成されたのですか?」
「しちゃ悪いか? 黒船以来、文明の進んだ軍艦が外国から度々くるようになった。諸外国のことを考えれば開国してすすんだ文明や産業や教育を学ばなければどうしようもないという長井の策はまさに上策じゃ」
「冗談じゃありません! 現にロシアは蝦夷地の島国をどんどん侵略している。伊豆大島や琉球(沖縄県)も同じです! 外国に門戸を開くっちゅう事は侵略行為も受け入れるっていうことです! いまやるべきことは攘夷です! 私は長井を斬りますよ! いいんですか」
「ふん。長井雅楽なら江戸じゃ。江戸に数か月前に旅だった。どうしてもまつならそこで一年まっとれ。一年後に帰る予定じゃからなあ(笑)」
井上聞多は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
長州藩江戸屋敷では藩士重役・長井雅楽に長州藩士の久坂玄瑞が議論をふっかけているところだった。「長井先生、お待ちください!」
「なんだ? 久坂。お前のような書生論者に用はない」
「そんなに書生論が怖いですか?」
「ああ。怖いねえ。議論が青くって無駄だからな」
「攘夷はいらないと?」
「外国の船をすべて打ち払うべきというのは書生論であり、お前らの感情論に過ぎない。この長井の論は藩で採用されたからには藩論である。去れ、書生!」
「長井先生! このまま開国しては貿易も何もかも外国のいいように決められて搾取され、清国のような奴隷国家と日本国がなります。その前に外国に日本の武力を見せつけて畏怖させねば舐められる。攘夷こそ必要なんです!」
「それが書生論だっていうんだ。馬鹿たれ! 道場の太刀ならひと太刀ですむが、外交のひと太刀で国は亡びる。書生論や綺麗ごとでは国は動かせないぞ」
長井雅楽は去った。
長州藩士・桂小五郎が久坂玄瑞を諌めた。
「馬鹿もんが! 長井雅楽にたてつけばおんしの首が飛ぶぞ! 松陰先生の教えを忘れたか? いいか玄瑞、僕は長井雅楽を殺す。だが、刀じゃない。奴は持論をもってこれから上京し朝廷工作を行うだろう。だが、公家の中には攘夷派も多い。これは頭で外交で謀略で長井雅楽を殺す策じゃ。いいか、久坂玄瑞。頭でもひとは斬れるんじゃ」
「……桂さん。わたしは未熟でした」久坂は反省した。
そこに上司の長州藩士重役・周布正之助がきた。
「さわぎがあったというからきてみれば久坂、お主か。未熟などと反省するでもないぞ。お前は誰よりも頭がいい。攘夷論が過激だがのう。お前と同じ過激な輩がいたんで上海留学という餌をやったら飛びついた。過激なのは困る。長州藩自体がおかしく思われる」
桂は「あれほどいうていたのにまた酒を呑んじょるんですか?あれほど…」
「〝先生はわれらの優れた上司であられるのだから…〟と続くのじゃろうがもう騙されないぞ(笑)寅次郎はとんだ弟子ばかりを残しおって」
「先生!」
桂小五郎と久坂玄瑞は呆れた。すると伊藤俊輔(のちの博文・初代内閣総理大臣)や長州藩士たちがきた。「どげんした? うるさいぞ!」
「長崎の高杉さんから文です!」
そこには長崎からやっと出航した事と小さい軍艦が一隻買えるほどのムダ金をつかったということが書いてあった。フランスは陸軍が強い。イギリスは海軍が強い。借金はお願い。
周布正之助は怒った。
長州藩の周布正之助は松下村塾党に理解がある人物であったという。
上海への幕府艦船は荒波にゆられた。皆、船酔いする。
だが、晋作だけは酔わなかった。
清国がアヘン戦争で英国にやぶれて植民地化されて十年が経過していた。
晋作は上海で中国人が奴隷の如く扱われているのに驚いた。
……あれが日本の未来だ。こうなっちゃおしまいだ。
やはり、攘夷論しかないのか?
だが、武力は、海軍力は西洋諸国のほうがうえだ。勝てる訳はない。
高杉は「軍艦やアームストロング砲が欲しいと思った。西洋銃も欲しい。いつまでも種子島(火縄銃)ではだめだ」とおもった。高杉は薩摩藩士・五代才助(のちの友厚・大阪発展の父となる)と出会った。五代は攘夷論に反対だったが、勝算はあるでごわすか?ときいてきた。
「攘夷しかないんです。攘夷で日本がかわる」
「ひとたび血を浴びれば日本がよくなると?」
「そうです!」
「……できもはん。薩摩の誠忠組が京の寺田屋(薩摩寺田屋事件)で大勢殺された。もうできもさん」
「五代さん」晋作は無言になった。
晋作は無念のまま帰国した。晋作の留学はわずか半年だったが、そのあいだに日本の情勢はめまぐるしく変わっていた。開国論をひっさげて登場した長井雅楽は公家の三条実美らの反対にあい、無念のまま長州の地に帰り、切腹して果てた。
桂小五郎らの調停工作の成功であり、朝廷は攘夷一色になった。
一橋慶喜は攘夷論に反対であり、上洛するべきではない、と覚悟を決めた。
まだ、将軍は徳川家茂の時代である。
長州は攘夷である。だが、晋作も久坂も“手詰まり”であった。
伊藤俊輔や井上聞多らも酒でくだをまくのみ。
伊藤俊輔やらと高杉晋作は品川の異人館を深夜、焼き討ちにした。
「ざまあみさらせ!」紅蓮の炎を遠くから見た。
これは建設中の異人館で、負傷者はゼロであったが晋作たちの“攘夷の狼煙”であった。
久坂は将軍家に攘夷決行を約束させたが、「青臭い書生論!」と高杉と周布は怒った。
この時期、将軍巡幸で、高杉晋作が「よっ! 征夷大将軍」と馬上の家茂を囃した、というのは俗論であり、フィクションである。
のちの日本国軍部指揮官となり、日本軍の父となる村田蔵六(のちの大村益次郎)も長州に帰参していた。
伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)がイギリス留学したのはまさにこの頃である。
不貞藩士とみられていた伊藤や井上は周布を脅した。幕府に密告するというのだ。
「馬鹿たれ! お前らが外国に行ってもおんなを学ぶだけじゃろ?(笑)まあいい。」
ある夜、ごろつきが酒席で幾松にからみ、桂小五郎がたすけた。
ごろつきの不貞浪士たちは剣豪・桂小五郎(のちの木戸孝允)の名前を知るとびびって逃げたという。
晋作は久坂たちに攘夷決行はやめろ、攘夷など無理、と説くが焼石に水であった。
「長州の回天の為に攘夷です!」
「この久坂の馬鹿たれ!」
高杉は怒号で制しようとした。しかし、ムダ、であった。
話を戻す。
ご存知ですか? 五月十七日は高杉晋作の命日です
幕末の長州にあって「奇兵隊」を組織するなど活躍した高杉晋作は、慶応三年四月十四日、数えで二十九歳(満二十七歳)にして亡くなった。この日は西暦では一八六七年五月十七日、いまからちょうど百五十年前のことである。
その前年、晋作は幕府の第二次長州征伐に際し、奇兵隊を率いて幕府軍を撃破すると、関門海峡を渡って小倉城攻撃を指揮した。だが、この間、風邪をこじらせて肺患を悪化させ、落城後にはとうとう療養を余儀なくされる。
その臨終のまぎわ、晋作は辞世の句を書こうと筆と紙を所望したものの、「おもしろきこともなき世をおもしろく」としたためたところで力尽きた。これを見かねて、集まっていた知友のひとり野村望(ぼう)東尼(とうに)が「すみなすものは心なりけり」とまとめると、晋作は「面白いのお」と笑って目を閉じたという。
晋作は死後、奇兵隊の本営のあった吉田郷に埋葬され、そこにはただ「東行墓」と号だけが刻まれた墓石が置かれた。余談ながら、晋作には「おうの」という愛妾がいた。友人の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は、彼女のことを心配して晋作の墓守りの尼にしたと伝えられ、ときには美談として語られる。だが作家の山田風太郎は、これについて「両人とも、自分のことは棚にあげて(中略)いい気なものである」と評し、長州の志士たちがそろいもそろって愛人を囲っていたことを、さりげなく皮肉ってみせた(山田風太郎『人間臨終図巻1』徳間書店、電子書籍版)。
吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生! 先生!」「下がれ! 下がれ!」長州藩の例の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です! どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります! 狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
唐(とう)丸籠(まるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ! 幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい! この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ! 異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ! 若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ! この日の本を守る、熱き志士となれ」
またも役人は棒で松陰をボコボコにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆! 我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。
江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生! 先生!」「兄やーん! 兄やーん!」
座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
吉田松陰の首は落ちた。
雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。
高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ! 先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ! 松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると! 聞け―幕府! きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ! この高杉晋作がきっと後悔させてやる」
雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。
坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは、長州は倒幕でいきますよ」
竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
竜馬はにやりとした。「それ坂本さん、唄え踊れ。わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう」
坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。
竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかじかだ、と説明した。
晋作は呆れた。「なにーい?! 勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ! 君はまんまとだまされたんだ! 目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ」
同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない! こいつは我々の敵になった! 俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
高杉は考えてから「わかっていた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
勝海舟に越前福井藩の三岡(みつおか)八郎(はちろう)(のちの由利(ゆり)公正(きみまさ))と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人? ほう」
坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?! あんたさんに関係あらしません!」
興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか? 袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
おりょうは激高して「うちはおこも(乞食)やあらしまへん! 金はうちが……何とか工面するよって…黙りや」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが? 幾らぜ? 三両か? 五両かへ?」
「……うちは…うちは……おこも(乞食)やあらへん」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんはおこも(乞食)にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう? お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
おりょうは答えなかった。
ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
半平太はそういって連行された。
吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。
この禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池(い)内蔵(け)太(くらた)もいた。そして中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(いんしゅう)(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。
「御所御門に発砲するとは何ごとか?! そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ」
「そんな話があるかー!」
鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります」
武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。
「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」
入江(いりえ)九一(くいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。
右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。
「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」
「ああ」
「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」
久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。
やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。
竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
すべては日本の国の為に、である。
長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。
若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。
しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。
話しを前に戻す。
天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。
天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。
当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。
一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざる得なくなった。
しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。
城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。
彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。
この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。
父はいろいろなところに借金をしていたという。
そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。
渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。
本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
あるとき、本屋で新刊の孔子の『論語』を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」渋沢は主人に尋ねた。
「五百文にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
主人はまけてはくれない。そこで渋沢は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五百文をもって本屋に駆け込んだ。が、孔子の『論語』はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら渋沢はきいた。
「大番町にお住まいの与力某様でござります」
渋沢は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
与力某は断った。すると栄一は「では貸してくだされ」という。
それもダメだというと、渋沢は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い渋沢栄一でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
渋沢は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
渋沢の住んでいるのは本所江戸王子で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、渋沢は写本に通った。
あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。渋沢は断った。
「すでに写本があります」
しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。渋沢は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇文の値がついたという。栄一は売らなかった。その栄一による「論語の写し」は渋沢栄一記念館に現存している。
渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。
徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
渋沢はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。
だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。
しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。
俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。
誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?
薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。
渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。
頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。
一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。
だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。
「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」
「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」
歴史的敗北者だ、というのだ。だが、なら自分が慶喜の立場だったら?ああやる以外どうせよというのだ?官軍と幕府軍で全面内戦状態になれば「清国の二の舞」だったではないか。
あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。
まあ、「結果」よければすべてよし、である。
坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さんが演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。
文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。
「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」
「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」
「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんは、もしかして松陰先生の身内かえ?」
「はい。妹の久坂文です」
「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」
「さ…桜田門外の変?」
「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」
「えっ?!」
「まずは維新へ一歩前進ぜよ」
「…維新?」
桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。
龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」
桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」
龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」
龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええんじゃと思うとるのじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
話を過去に戻す。
桂小五郎は万廻元年(一八六○年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。
攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか? 坂本龍馬とやら」
木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でなくどいつを叩くのだ?」
高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」
坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。
「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。
「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。
滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。
今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。
天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。
天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
この頃、文久二年(一八六二年)三月十六日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
家茂は妻・和宮と話した。
小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取りがなければ徳川はほろびまする」
家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる」
ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
話しを少し戻す。
長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
当然、晋作も長崎に滞在して、出発をまった。
藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
…それにしてもまたされる。
窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
……自分のことしか考えられないのである。
しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
晋作は上海にいって衝撃を受ける。
吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
……壤夷鎖国など馬鹿げている!
それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
しかし、すぐに捕まって処刑される。犬ころのように異人に暴行を受ける。
日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
……俺には回天(革命)の才がある。
……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
高杉晋作は革命の志を抱いた。
それはまだ維新夜明け前のことで、ある。
(池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』より引用)
強い風が吹いている。
文久二年(一八六二)、暴風雨の中東シナ海をいく艦船があった。
黒い雲と強い雨風が海面すれすれに走る。
嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
高杉晋作はこの船に乗っていた。
外国人艦長は部下に「面舵いっぱい!」といった。
「海路は間違いないだろうな?!」
外国人船長は部下にそれぞれ指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
船長は、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
引退して、このあとは隠居するのだという。
「イエス・サー」
「取り舵十五度!」
「イエス・サー」
英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。船長のいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
部下は返事をして命令に従った。
船長は、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
船長は笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
それが、夜になると時化になり、大きく船は揺れ出した。
乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
船長はまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
船長はにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしているかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
岩崎は思わず口走ってしまったのを、船長は聞き逃さなかった。
長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ・テロ活動もしている。
岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
船長は深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいれば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と感心していった。
極東は西洋にとってはフロンティアだった。
英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。
(池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』より引用)
観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚
志を任命した。
長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
短期間で命を落とす乾性コレラであった。
カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。
コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。
幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
全身の発疹がおさまりかけていた。
その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
江戸から派遣された使節団は占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
ひとは晋作を酔狂という。
そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔いのあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
中牟田が感心していった。
すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
五代が笑った。
中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
五代がまた笑った。
高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
晋作は憂欝そうにいった。
「てことは、高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
という高杉の都々逸はここからきている。
(池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』より引用)
昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
なんとも神秘的な風景である。
上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどげな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。
(池宮彰一郎著作同)
長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
当然、晋作も長崎に滞在して、出発をまった。
藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
…それにしてもまたされる。
窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
……自分のことしか考えられないのである。
しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
晋作は上海にいって衝撃を受ける。
吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
……壤夷鎖国など馬鹿げている!
それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
しかし、すぐに捕まって処刑される。
日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
……俺には回天(革命)の才がある。
……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
高杉晋作は革命の志を抱いた。
それはまだ維新夜明け前のことで、ある。
****小説『高杉晋作』池宮彰一郎著作参照
久坂玄瑞と高杉晋作は話をしていた。
久坂は「天下は天下の天下也。攘夷とは天皇陛下・天子さまのためなんじゃ!」
「久坂、甘いんじゃ! 開国にしても攘夷にしてもミカドをとらねばならん。天子さまがなければ攘夷も無理なんじゃ! 甘いぞ、久坂」
この頃、晋作は同郷の芸子・おうのと出会っている。のちの晋作の愛人である。
久坂は「たとえ甘くても、馬鹿でも、過激でも、僕はうつくしく戦ってうつくしく死にたい!」などという。
「死んだらおわりじゃ! ひとの死にうつくしいも醜いもない! 考え直せ」
だが、晋作は久坂玄瑞らの武装蜂起の停止に失敗した。
高杉晋作は剃髪をして東行和尚としょうして謹慎した。
晋作は久坂玄瑞らの『攘夷決行』も『禁門の変』も『七卿落ち』『幕府の長州征伐令』も止められない。西郷隆盛が会津藩と薩摩藩で秘策を繰り出した。長州藩は朝敵になる。「くそったれめ!」晋作は周布正之助に野山獄にいれられて下唇を噛んだ。「あれは偽勅じゃ」
奇兵隊結成はまさにこの頃である。
松陰先生の言う草莽掘起…武士も商人も百姓も関係ない。奇兵隊じゃ!
(『攘夷決行』『禁門の変』『七卿落ち』等は別のページで言及しているので参照してください)
「攘夷をやめろ? 晋作何を言う」
「今の攘夷は流行熱じゃ。攘夷を叫ぶ連中は糞じゃ。攘夷など無理だ」
「天皇陛下のための攘夷じゃ!」
「天子さまが攘夷しろといった訳じゃあるまい?」
「この久坂玄瑞、天皇陛下、天子さまを信じている! 僕は信じる! 信じる!」
「…久坂! 頭を冷やせ!」
だが、無理だった。
桂小五郎は「久坂玄瑞はすごい。頭がいい。流石は松下村塾の筆頭だ。だが、攘夷だけではならん。ミカドを天子さまをまつらねばならん。そして倒幕…」
「日本を清国のようにしてはならない。それが攘夷であり、倒幕である。駆け引きはいらん。僕は倒幕…倒幕ですよ、桂さん。」
晋作は去った。
「流石は〝松陰門下の暴れ牛〟じゃ」桂小五郎は苦笑した。
これより長州藩は冬の時代に入る。そしてアメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が長州藩を滅ぼすために迫っていた。誰が想像しただろう。これでは多勢に武勢。
話を戻す。
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