第四話 榎本武揚

         5 開陽丸





「これからどうなさりますの?」

 多津は大塚雀之丞(かくのじょう)に尋ねた。「やはり旦那さまとご一緒にいかれますの?」

 大塚は恐縮しながら、「榎本副総裁のお宅とは存じませんで…」

「よいのです」

「榎本副総裁が蝦夷(えぞ)にいくというので乗せてもらおうと…」

「えっ?!」

 多津は驚いた。「釜次郎さまたちは蝦夷(北海道)へいかれるのですか?」

「そうです。まず、仙台や青森を経て、最終的には蝦夷です」

「……蝦夷…」

 多津は言葉もなかった。

「江戸のかたきは蝦夷です!」大塚雀之丞はそういって、頭を下げて去った。

 義母の琴が、「どうしました? 多津さん。誰かきましたか?」と起きてきた。

「いいえ。……旦那さまかと思いましたが、違いましたわ」

 多津は動揺しながらいった。

「左様ですか」

 義母の琴が去ると、多津はひとりきりになって寂しくなった。

 涙が後から後から大きな瞳からこぼれた。

 ………釜次郎さま……このまま蝦夷へいっておしまいになるのですか? ……

 多津は号泣し、床に崩れおちた。

 …釜次郎さま! 釜次郎さま!

 すると、肩に黒のコートをかける者があった。それは榎本武揚だった。

「…か…釜次郎さま!」

「多津!」

 ふたりは抱き合った。多津は涙を流したままだった。

「旦那さまは……蝦夷にいかれるのですね?」

 武揚は頷いて「そうだ。蝦夷しかない」

「多津…も……蝦夷にいきとうござりまする…」

「多津! 頼みがある」榎本武揚は笑顔を無理につくり頼んだ。「おいらのまげを切ってくれい。もう武士の世はおわった」

「……わかりました」

 蝋燭の薄明りの中、多津は旦那・榎本武揚のちょんまげを鋏で少しずつ切り落とした。武揚の全身の血管の中を、なんともいえない感情が……ひとしれぬ感情が駆けめぐり、武揚は涙を流した。さまざまな思い出、すでに忘れたとおもっていた感情や風景が、頭の中に走馬燈のように駆けめぐり、一瞬、自分が誰なのかも忘れてしまった。

「多津! もう……いかねば…」

 最期の別れになる、武揚も多津もそう思った。

「おいらは幕臣数千人を食わせる責任がある。幕臣だって夢や希望があってもいい。賊軍などとべらぼうめ! ってんだ。まずは幕臣を連れて蝦夷へいく。蝦夷で共和国をつくり、その蝦夷共和国で理想郷をつくるのだ。蝦夷は広い。開拓すれば徳川幕府のかつての禄高にもなる。我ら幕臣がそこで夢を熱くする。まさに幕臣の夢なんだよ。幕臣が生きる最後の機会なんだ。これを逃したら最後まで薩長のいいなりだ」 

「旦那さま。…多津も蝦夷に行きとうございまする…」

「そうだな。蝦夷共和国がうまくいったらな」

「…はい」

「そしたらまたシャボンをつくってやろう」

「…ええ。」

ふたりは抱き合い、抱擁し、そして別れた。

 榎本が部下に与えたのは何も軍艦占領法や、航海術だけではなかった。開墾や鉱物、畜産など榎本にはそれらは得意分野だった。そこで、まだ新政府が開拓以前だった蝦夷つまり北海道にいき、「新天地」をつくり開拓し、「蝦夷共和国」をつくろうというアイデアに至ったのである。


 榎本らは船のデッキにいた将軍・徳川慶喜の前で平伏していた。

 徳川慶喜は謹慎中だった。

 幕府はいまや風前の灯……

 しかし、幕臣たちにとって徳川慶喜は絶対的な存在であった。

「和泉守(榎本武揚)、戦は余ののぞむところではない」

 慶喜は平伏している家臣たちにいった。涙声だった。

 榎本たちは平伏したままだ。

「路頭に迷う家臣たちのことを思うと……夜も寝れぬ」

 慶喜はめずらしく感情的になっていた。涙を流した。榎本らはさらに平伏した。

「和泉守、家臣たちの力になってやれ」

「上様!」

 榎本は声をあげた。

「なんだ? 和泉守」

「われら幕臣たちは『新天地』にいきとうござりまする!」

 平伏したまま武揚はいった。

「〝新天地〟とは? どこじゃ?」     

「蝦夷……にござりまする」

「蝦夷?」慶喜は足りない頭を回転させながら「蝦夷にいって何とする?」

 とやっときいた。

〝直感〟などの英雄的資質は持ちあわせていない。

「われら幕臣たちは『新天地』……〝蝦夷〟にいって共和国をつくり申しまする!」

 榎本武揚はいった。

「共和国?」

 慶喜の目が点になった。

「蝦夷共和国にござる!」

「……しかしのう、和泉守。幕府の姿勢は共順じゃ。新政府が許すか?」

 榎本は顔をあげた。

「われらの姿勢はあくまで幕府と同じ共順です。只、蝦夷で共和制の一翼になるだけにござりまする。いわば蝦夷藩といったところでしょうか…」

「蝦夷藩?」

「はっ!」

 榎本はまた顔を下げ、平伏した。

 慶喜は何がなんだかわからなくなり、「ええい。苦しゅうない。みな面をあげい」

 といった。急に平伏していた幕臣たちが顔を向けた。

 ぎょっ、とした。

 みな揚々たる顔である。

 みなの顔には『新天地』への希望がある。

「すぐに蝦夷へ向かうのか?」

 慶喜は是非とも答えがききたかった。

 武揚は「いえ。まずは仙台に立ち寄ります」と答えた。

「なるほどのう。仙台であるか…」

 慶喜がどこまで理解しているのか、榎本武揚には解明するすべもなかった。

「せ……仙台から蝦夷へか。それはよいな」

「はっ!」

 榎本武揚らは再び平伏した。

「とにかく達者でな。励め!」

「はっ!」

 慶喜はそういうと、船のタラップから降り、手をふった。

 蟠竜丸、慶応四年(一八六七)七月二十八日のことである。

「兄上! お達者で!」    

 榎本武揚は兄・榎本武与に手をふった。


 榎本武揚はさっそく筆をとる。

「王政復古の大号令が発せられるも、それは薩長が朝廷工作のために発せられたに過ぎない。当然ながら天子さま(天皇のこと)はお大事ではあるが、その天子さまを掲げて、官軍などといっては、これまで三百年も朝廷や天子さまをお守りしてきた徳川幕府はどうなるのか。さてさて、幕府以外にこの日本国を束ねる力があるだろうか。

 私はないという。

 なぜならば、薩長には外交力も軍事力も欠けているからである。

錦切れどもは尊皇壤夷などといってはいるが、尊皇はいいとしても、壤夷などと本気でできると思っているのか。

 思っているとしたら救いがたい。

 今やらなければならないのは徳川家を中心とした共和制をつくり、軍備を整え、慶喜公がこの国の大統領となって「開国」することである。

 この国を外国にも誇れる国にすることである。

 そこで外国との窓口として「蝦夷共和国」が必要なのだ。

 国の礎は、経済である。あの広大な大地をもつ蝦夷なら、開拓すれば経済的に自立できる。そして、蝦夷藩ともいうべき「新天地」となるのである。

 新政府とわれらは争う気はない。

 われらの姿勢は幕府と同じ共順である。

 しかし、新政府が「蝦夷共和国」を認めないなら、一戦交える覚悟である」


 このような内容の激文を、榎本武揚は書き、二通は勝海舟のもとへ送った。

 勝海舟はそれを読み、深刻な顔をした。

 ……まだ戦う気でいやがるのか。救いようもねぇやつだ。……

 勝は大きな溜め息をもらした。

「とんでもねぇやつを海軍副総裁にしちまったもんだ」

 勝には、幕臣軍(今後は榎本脱走軍と呼ぶ)に勝ち目がないのがわかっていた。確かに、軍艦はある。大阪城から盗んだ軍資金もあるだろう。

 しかし、榎本脱走軍には勝ち目がない。

 錦切れどもは天子さまを掲げている。

 て、こたぁ官軍だ。榎本脱走軍は、賊軍、となるのだ。

 まだ会津藩らが戦っているらしいが、どうせすぐに負ける。

 ……わかりきったことじゃねぇか。

 維新最大の頭脳、勝海舟には榎本脱走軍の将来がみえていた。

 しかし、それは明るいものではなかった。



「お父上、釜次郎さまはもう蝦夷へいかれたのですか?」

 朝、多津は心配顔で父親にきいた。実家の父が榎本邸に訪ねてきていた。 

 多津の父・林洞海は、

「いや、まだ榎本副総裁の開陽丸は品川沖にあるそうだ」

 と答えた。

「まぁ!」

 多津は驚いた顔をした。

「まだ品川にいて官軍にやられないのですか?」

「今、大急ぎで、幕臣たちが舟で開陽丸に向かっているそうだ」

「……そうですの…」

 多津の不安は消えない。

 そんな中、大好きなおじいちゃま、こと佐藤泰然が供をつれて訪ねてきた。

「まぁ! おじいちゃま!」

 多津はお転婆娘のようにはしゃいだ。

「多津! 元気でおったか?!」

「はい」

 すると、青年がふたり頭を下げた。

 それは英国留学よりもどった林洞海の五男・英国留学生、林董三郎とその甥、パリ万博随行員・山内六三郎である。

「まぁ、董三郎。六ちゃんも」

 いよいよ多津はうれしくなった。

「姉上! 榎本釜次郎殿とご結婚なされたとか……おめでとう」

 董三郎は遅ればせながらお祝いを述べた。

 父・林洞海は浮かない顔をする。

「……どうしましたの? 父上」

「いやあ、董三郎たちが釜さんと一緒に蝦夷にいくってきかぬのだ」

「まぁ!」多津は驚いた。

「われらは蝦夷にいきます! こうして英国留学できたのも幕府のおかげです! 榎本さまがお金を送ってくださらなかったら、今頃ぼくらはマルセイユあたりで飢え死にしていました」

 董三郎たちは決起盛んな質である。

 それに若さも手伝っている。

「……しかし…蝦夷など…」林洞海は訝しがった。

「幕府がいま危ないからこそ、われわれが立ち上がるのです! 薩長だけで維新はなりません、蝦夷でこそ壤夷ができるのではないでしょうか? 父上は損得勘定より義を大事にせよ、といいました。今こそ義を示す時です。これが幕臣の義です!」

 佐藤泰然がハッとした。

「この連中のいう通りじゃ。幕府のおかげで留学までできた!」

 林洞海は「父上」と諫めた。

 すると泰然は涙声になって、土下座して「このふたりを開陽丸に乗せてやってくれ!」 と嘆願した。「……父上…」

 董三郎たちは「これは義の戦です! 幕府軍(榎本脱走軍)は多勢に武勢……薩長なんぞに負ける訳がありません。江戸のかたきは蝦夷です」

 と息巻いた。

 そして、土下座して父に許しを乞うた。

「勝手にせい!」

 林洞海は訝しい顔でいった。

 船着き場では小舟にのり、幕臣たちが海原に浮かぶ開陽丸に乗るために急いでいた。林董三郎とその甥、山内六三郎も舟にのった。

 そんな騒動の中、船着き場に白衣の医者が現れた。自分も乗せてくれ、という。

「あなたは?」

「わたしは元・幕府奥医師、高松凌(たかまつりょう)雲(うん)だ」 

 高松凌雲はいった。

 高松凌雲といえば幕府医師の中でも名医として知られ、フランスに留学して知識を得て、のちに日本赤十字運動の草分けとなる医者である。

「これは! 凌雲先生でしたか! 先生もわれらとともに行って頂けるとは…ありがたいかぎりです!」

 幕臣のひとりは笑顔になった。

 凌雲は「いっておくが、わたしは戦をしにいくんじゃない。負傷したひとたちをたすける、治療するためにいくのだ。その負傷者が例え幕臣でも薩長でも、差別なく治療する」

「……そうですか」

「それでもいいなら乗せてくれ!」

 高松凌雲は舟に乗り、海原に浮かぶ開陽丸に向かった。

 その頃、榎本武揚と勝海舟は江戸で会談していた。

「釜さんよ、どうしてもいくっていうのかい? 蝦夷くんだりまで?」

「勝さん、幕府軍(榎本脱走軍)を甘くみちゃいけねぇ。ぜったいに蝦夷で勝ちますよ」 いよいよ勝は激昴する。

「目を覚ませ! 榎本和泉守武揚! 歴史に愚をさらすだけだ」

「われらは勝つ」

「この……大馬鹿野郎!!」

 勝海舟は席を蹴って去った。「おいらの幕引は間違いじゃなかったな」

 しかし、勝はあの高松凌雲まで榎本脱走軍に合流したことを知って唖然としたという。 ……なんてこった!


  榎本武揚が開陽丸に戻ると、いよいよ一同はいき揚々たる顔になる。

 いよいよ『新天地』に向かうのだ!

 一同は甲板の中央に立つ榎本武揚に注目している。

「冗談じゃねえ! この船を幕府の幕引につかわれちゃたまらねぇ」

 榎本はいう。すると沢が、「その通りだ! 冗談じゃねぇ」

 家臣たちも「榎本副総裁がまげを落としたなら、俺たちも…」

 といって、刀を抜き、ちょんまげを切りおとした。

「まずは奥州(東北)戦争を助けるために仙台にいく」

 榎本は激を飛ばす。

「そして、『新天地』に向かうのだ!」

 部下たちは揚々たる顔である。

「蝦夷に新しい国をつくる! 蝦夷共和国だ! 薩長の新政府なんぞ糞くらえだ! 共順など糞くらえだ! 我々は「新天地」に向けてジャンプする!」

 一同は歓声をあげた。

 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……

 高松凌雲も甲板でそんな幕臣たちを笑顔でみている。

「榎本さん。わたしは軍にはいったわけじゃない。赤十字の精神で治療や介護をしていく」「……凌雲先生! それでいいですよ」

 武揚は笑った。

 そんな中、フランス人ふたりが軍服のままやってきた。

 流暢な日本語で「榎本さん、わたしたちも仲間にいれてください」と嘆願した。

「しかし、フランス軍の兵士を乗せていく訳にはいかん」 

 榎本武揚は躊躇した。

「それでは旧幕府軍(榎本脱走軍)とフランス軍がふっついたことになる。蝦夷共和国そのものが朝敵にされかねない」

 フランス人のひとりカズヌーブは「わたしたちは仏軍抜けてきました」という。

 もうひとりのフランス人、ブリュネは、

「わたしたちあなたたちと同じサムライになります。フランスのサムライです。どうかお供させてください」と頭を下げた。

 榎本は笑顔になり、

「わかった! フランスのサムライもふくめて我々は「新天地」に向けてジャンプする!」 

……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……

 林董三郎、山内六三郎を英語方にした。

 慶応四年(一八六七)八月十八日、八隻の幕府艦隊を引き連れ、榎本武揚は「榎本脱走軍」を東京から仙台へと向かわせた。

 佐藤泰然はその艦隊を見送った。

 孫娘で、武揚の嫁である多津も涙で見送った。

「多津、釜さんたちは確かに賊軍になったが……歴史が、ふたたび釜さんたちを評価してくれる日がくる」

「……そうでしょうか?」

「何年後か、何十年後か……もしかしたら百年ののち釜さんたちの戦がけして無駄ではなかったということを日本人は知るのじゃ。そうでなきゃいかんのよ」

 多津は何も答えなかった。

 只、遠ざかる艦隊を見送っていた。

榎本釜次郎も「おいらたちのことを賊軍というものもいる。だが、数年後、数十年後、百年後、おいらたちの行動が間違いではなかったと歴史が証明してくれればいい。だが、百年後では遅すぎる。所詮は歴史の藻屑か?」と謎の言葉を残している。



 大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。

 艦隊が横に縦に揺れ続ける。

 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。

 いっぽう会津では八月二十五日、会津同新館(病院)で負傷者があいついで運ばれていた。会津では一応の戦闘は終了していて、会津藩や桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。

 会津同新館(病院)で治療にあたっているのは松本良順である。

「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」

 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。

 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。

「土方さま!」

 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。

「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」

「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」

 土方は沈黙した。

 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して”蝦夷共和国”をつくるとか……」と答えた。

 明治元年(一八六八)のことである。

 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。 土方はいう。

「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」

「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」

 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。

 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。


 榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。

「蝦夷は寒いのう」

 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。

 いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。

 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。

 深い雪の中の進軍であった。

 土方歳三は五稜郭に向かった。

 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。

 

 青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。

「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」

 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。

 しかし、そんなとき不運はおこる。

 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。

 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、

「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。

 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。

 土方がやってきた。

「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」

 武揚は涙声だった。

 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。

 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。

「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」

 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。

 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。

「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」

 榎本は涙を流して部下たちにわびた。

 土方は何もいわなかった。

 その頃、青森にまで官軍は迫っていた。

 蝦夷征伐軍参謀には山田市之丞(のちの山田顕(あき)義(よし)・法務大臣)と、同じく蝦夷征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が青森まで進軍していた。

 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。

「まずは飯じゃ! 飯! おお寒い。青森は薩摩と比べようもないほどさむいのう」

 山田はそういうと弘前城で暖をとった。

「この餓鬼が……当たり前じゃっどん。薩摩と青森では天気がちがうでごわそ!」

 参謀・黒田了介は、まだ若い二十五歳の山田市之丞と同じ位なのが我慢がならない。

「おいどんだけで蝦夷にいった幕府残党を征伐ばするでごわす!」

 黒田はいったが受け入れられなかった。

 その間も、山田の若造は「飯じゃっどん! 温こう飯じゃっどん!」

 とさわいでいる。

 ……この糞餓鬼が……

 参謀・黒田了介は舌打ちした。


「来るならこい!」

 崖から海原を見渡し、榎本武揚はそう呟いた。

 官軍なにするものぞ、榎本旧幕府艦隊の力みせてくれようぞ!

         6 甲鉄艦





 蟠竜丸の甲板で、榎本武揚は激をとばした。

「日本の近代化は俺たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」

 一同からは拍手喝采がおこる。

 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……

 榎本脱走軍三千余名、蝦夷でのことである。

 明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。

 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。

 選挙の結果は左のとおりである。


 総裁      榎本武揚

 副総裁     松平太郎

 海軍奉行    荒井郁之助

 陸軍奉行    大鳥圭助

 箱館奉行    永井玄蕃

 開拓奉行    沢太郎左衛門

 陸軍奉行並   土方歳三


 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。

 一同はひとりずつ写真をとった。

 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。

 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。

 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。

 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。



 明治二年(一八六七)二月昼頃、江戸の官軍による収容所に訪ねる一行があった。

 多津とその父・林洞海と兄である。

「良順おじさまにあえないわ」

 多津はいった。「良順おじさまは賊軍ではないわ。だってお医者さまだもの」

 だが、加賀藩用人・深沢右衛門は「松本良順は賊軍、面会は駄目じゃ」というばかりだ。 林洞海は「今何時かわかりまするか?」とにやりといった。

 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。

 すると、洞海は最新式の懐中時計を取りだして、

「……この時計はスイス製品で最新型です。よかったらどうぞ」と賄賂を渡した。

「しかし……」

「どうぞ」

 深沢はついに誘惑におれた。

「三十分だけだぞ。実は俺の時計はときどき針がとまるんだ」

「ははは。それこそ都合がいい」

 多津とその父・林洞海と兄は刑務所の檻に入れられた松本良順と再会した。

「おお! 多津! それに林殿も…」

 松本良順は歓喜の声をあげた。

 松本良順は仙台で土方歳三らと合流するつもりだったが、持病のリウマチが悪化し神奈川に帰ったところを官軍に捕らえられていた。

「……お元気でしたか?」

 多津は気遣った。

 すると良順は「わしはとくになんともない。それより……」

 と何かいいかけた。

「…なんですの?」

「官軍が青森まで到達したそうじゃ。釜さんたちを倒すために蝦夷征伐隊などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」

「まぁ!」多津は驚いた。

「釜さんは蝦夷を貸してほしいと明治政府に嘆願しておるという」

「蝦夷は旦那さまにとって思い出の地、十五歳の頃に蝦夷を視察して以来ずっと蝦夷のことを考えてきたそうです」

 多津の兄は、

「釜さんは夢を食うバクだ」と皮肉をいった。

 多津は「釜次郎さまは確かにバクですわ。でも、食べるのは夢ばかりではありません。明治政府をも食べておしまいになられますわ」

「これ! 多津、官軍にきかれたらただじゃおさまらん。物騒なこというな!」

 父は諫めた。

 榎本武揚の蝦夷処理を岩倉具視は拒否し、榎本の『蝦夷共和国』ひいては『榎本脱走軍』は正式に〝賊軍〟となった。

 同年三月七日、政府海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で品川沖を出港した。

 同年三月二十日、榎本脱走軍は軍儀をこらし、政府軍の甲鉄艦を奪取する計画を練った。アイデアは榎本が出したとも土方がだしたともいわれ、よくわからない。


「さぁ、君達はもう自由だ。青森にいる官軍までもどしてあげよう」

 榎本たちは捕らえた薩摩藩士たちを逃がしてやった。

 もう三月だが、蝦夷は雪の中である。

 薩摩藩士・田島圭蔵の姿もその中にあった。

 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。

 榎本たちにとって薩摩藩士らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。万国法にのっとった、なんとも太っ腹な榎本武揚であった。

『箱館戦争』の命運をわけたのが、甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。

 官軍最強の艦船であった。

 それらが蝦夷にせまっていた。

 榎本たちは焦りを隠せない。

 ……いまさらながら惜しい。開陽丸が沈まなければ……


 箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。

 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。

 土方は龍造という病人をつれてきた。

「凌雲先生、頼みます!」

 土方歳三は凌雲に頭をさげた。

「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」

 龍造はベットで暴れた。

 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」

 とかれをとめた。龍造は喀血した。

 高松凌雲は病室を出てから、

「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。

 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。

「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」

「……そうですか…」

 土方は廊下を歩いた。すると土方はハッとした。

 箱館の病院にあの井上ちか子がいたからである。看護婦として働いている。

「……ちか子さん!」

 土方は珍しく声をあげた。

「ひ、土方さま!」

 ちか子は笑顔をつくった。

 土方は苛立った。なんで、ここにちか子がいるのだ?!

「土方さま。おしさしゅうござります」

 井上ちか子はくったくもない顔で頭を下げた。

「すぐここを出たほうがいい! 会津に帰りなさい。ここはじきに戦場になる!」

「会津はもうありません。戦にやぶれて官軍のものとなっております。もういくところがないのです」

 ちか子は不満を吐露した。落ち込んでもいた。

 そんな彼女を励ませるのは土方しかいない。しかし、土方にはそうした感情が理解できない。歳三がどうしようか迷っていると、

「官軍の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。

「なにっ?!」

 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。

 歳三には、ちか子を励ますだけの余裕もなかったのである。


 すぐに榎本たちは軍儀を開いた。

 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。

 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。

 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」

 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。

 土方はきっと怖い顔をして、

「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。

 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」と、にやりとした。

「……どうやってですか?」

 一同の目が武揚に集まった。

「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」

 榎本は決起した。「アボルダージだ!」

 アボルダージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。

 荒井郁之助は「アボルダージですか! それはいい!」と同感した。

 家臣たちからは、

「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」

 と心配の声があがった。

 榎本は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルダージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」

「それはそうですが……」

 土方は無用な議論はしない主義である。

「それには私がいきましょう!」

 土方は提案した。

 榎本は躊躇して、

「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」

 といった。声がうわずった。

「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」

「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」

「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」

「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」

 土方は沈黙した。

「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」

 やっと、土方は声を出した。

「……土方くん………」

 榎本は感激している様子だった。

「よし! 回天と蟠竜でやろう!」

 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。

 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」

 と決起した。

「よし! よし!」

 榎本は満足して何度も頷いた。

 そして、

「アボルダージだ!」と激を飛ばした。

 ……アボルダージ! アボルダージ! アボルダージ! アボルダージ! ……


 さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。

 みな、かなり若い。

 土方歳三も乗り込んだ。

 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。

 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルダージを!」

「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」

 大塚雀之丞は白い歯を見せた。

 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。

「アボルダージだ!」

 若さゆえか、決起だけは盛んだ。

 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。

「私も戦に参加させてください!」

 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。

 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。

「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうござりまする!」

 林董三郎はやりきれない思いだった。

 高松凌雲がそんなかれをとめた。

「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」

「君も男ならききわけなさい!」

 董三郎を高松凌雲は説得した。

 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。


「官軍がせめて……きたのでしょう?!」

 病院のベットで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、

「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。

 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。

「龍造のことを頼みます、ちか子さん」

 船に乗り込む前に土方は病院により、井上ちか子に頼んでいた。看護のことである。

 病院に榎本総裁がきた。

「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」

 榎本は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。

 ……いやらしい気持ちはない。

「はい。京と会津で一緒でした。しかし、もう会津はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」

 井上ちか子の言葉を、榎本は多津の声のようにきこえてたまらなくなった。

「井上さん」

「はい」

「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」

「しかし……」

「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……蝦夷は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」

 榎本自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。

「誰か! 誰かきて!」

 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」

「……す、すいません!」

 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。

 榎本はひとり取り残された。

 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! べらぼうめ!

「……多津、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」

 榎本武揚は、深い溜め息とともに呟いた。

「…多津……」榎本は沈んだ気持ちだった。

釜次郎には多津の声が心できこえる気がした。

「旦那さまの大切なものは何でしょう?」

「そりゃあ、多津だ」

「ぶー、外れ。正解は開陽丸! おほほほ」

多津の笑い声が聞こえた気がした。だが、もう開陽丸は海に沈んでしまった。

宮古湾には官軍の艦隊が迫ってくる。

 榎本脱走軍艦隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。

 それは、榎本脱走軍の未来を暗示しているかのよう、であった。

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