第三話 榎本武揚
勝海舟が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、勝海舟は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。
閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。
「勝安房守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」
結局、勝海舟の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。
正月十八日、勝海舟は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、”長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか”という意味の書を送った。
一月二十三日の夜中に、勝海舟は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
勝海舟は慶喜にいう。
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
勝海舟は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
勝海舟は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
勝海舟の危惧していたことがおこった。
大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。
二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。
(大山伯著『戊辰役戦士』)
薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
勝海舟は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
なかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」
西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
……”わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する”………
官軍は江戸へ迫っていた。
慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。
慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。 江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。
「もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
まもなく、勝海舟が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が勝海舟の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら勝海舟は警戒した。
勝海舟は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいっているのだと疑いを深くするばかりだ。
外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
慶喜は涙声だったという。
勝海舟は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。
勝海舟は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
西郷吉之助は五つの条件を出してきた。
一、慶喜を備前藩にお預かり
一、江戸城明け渡し
一、武器・軍艦の没収
一、関係者の厳重処罰
西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。
まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。勝海舟は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。
官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は勝海舟に集まった。
しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
勝海舟は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
勝海舟はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。
官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(勝海舟)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。
一、慶喜を備前藩にお預かり
一、江戸城明け渡し
一、武器・軍艦の没収
一、関係者の厳重処罰
いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
勝は沈黙する。
しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では”共順する相手を攻撃するのは違法”ときいていた。
つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
彼は私から公になったのだ。もうひとりの”偉人”、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ!、と歓声をあげたという。
(勝海舟は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
こうして、一八六八年四月十三日、江戸城無血開城が実現する。
西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。勝海舟の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。
江戸あらため東京は物騒で治安が悪化していた。
榎本武揚は「旗本六万騎の家族は三十万人もいる。それらをこれからやしなっていくた
めには新天地しかない。蝦夷(北海道)にいこう!」と部下にいった。
幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
千代田形は十七メートル。大砲三門。
観光丸は五十八ルートル。
これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。
勝は「釜さんよ、軍艦をすべて官軍に渡してくれねぇか?」という。
しかし、榎本武揚は「俺は幕府海軍副総裁として最後まで新政府軍と戦い申す」というだけだった。どこまでも主戦派だ。
案の定、近藤たちが道草を食っている間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
三月二十七日、土方や永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい、去った。
近藤勇はひとり取り残されていった。
近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
と怒鳴った。
その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ」
近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
歳三はいった。
こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。
四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。しかし、正体がバレる。
近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨
てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
近藤勇の首は江戸と京でさらされた。
官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…勝海舟は榎本の内心を知っていた。
大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。
四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。
官軍との戦闘になった。
秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊、加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風(そうふう)隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。
脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。
彼等は桑名藩、会津藩と連携した。
江戸では、脱走兵が絶え間なかった。
海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは勝海舟との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。勝海舟は頭を抱えた。
いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」勝海舟は呟いた。
榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしい筈だ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。
勝海舟には榎本の気持ちがしれなかった。
江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。
西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。
「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」
勝海舟が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。
官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。
江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。
彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。
彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名の血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきたという。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。
上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。
すべては彰義隊の戦略だった。
江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。
彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。
二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。
彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えたという。西郷は、”彰義隊を解散させなければならぬ”と思っていた。
一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。
「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」勝海舟は激昴した。
榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。
江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。
さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。
彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。
江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。
江戸では、彰義隊を動かしているのが勝海舟で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も勝海舟が命令しているという噂が高まった。もちろんそんなものはデマである。
勝海舟は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。
しかし、それは阻止できそうもなかった。
ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。
薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。そしてたちまちまた六人を殺した。
彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。
彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。
西郷隆盛はいう。
「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。故に条理をもって説論できなんだ」
勝海舟は日記に記す。
「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」
大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいたという。 かれらは勝海舟や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。
彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。
官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。
上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。
やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。
午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。
彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。
西郷は書類をみてからしばらくして、
「彰義隊をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。
大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、
「さようであります」と答えたという。福沢諭吉は「慶応義塾」で高見の見物だった。
官軍が東京の路地を歩いているのが見えた。多津は動揺していた。
「釜次郎さまはご無事でしょうか?」誰にもきける訳がない。
その夜、雨が激しく降った。
彰義隊士たちの死骸が横たわる場所で、榎本は勝海舟にせまった。勝は傘をさしている。「これが……これがあんたの幕引か?!」榎本は雨にずぶ濡れになりながら怒鳴った。
「おいらの汚点だ。……だが戦はもうおわりだ」
「おわっちゃねぇ! 慶喜公は七〇万石にされ 水戸に下ったが、幕臣たちは会津でも奥州でも戦っている! 幕府はまだ戦をやめた訳じゃねぇぜ!」
「一日でも早くこの国をよい国にするために戦はおわらせねばならん」
榎本は激昴して「幕府は負けん!」と怒鳴った。
勝は「いっときの情で人生をあやまるなよ」と諭した。榎本は去った。
そんなおり、坊主姿で官軍から逃れていた元彰義隊の大塚雀之丞が、榎本武揚の屋敷に逃げ込んできた。
「すまぬ。三日前からなにも食っとらん。飯をくれ」という。
多津は飯を出してやった。
大塚は「どこの家のひとか知りませんがありがとう」と礼をのべた。
「いいえ、こまっているときはお互いさまです。これもどうぞ」多津は財布を渡した。
「なにかあったら旦那さま、榎本釜次郎さまを頼りになって下さい」
「ではあなた様は榎本副総裁の奥さんですか?」大塚は驚いた。
多津は、旦那さまを頼ってください、といい大塚は礼を述べた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます