第二話 榎本武揚

      2 鳥羽伏見の戦い






 榎本武揚と妻・多津は初夜を向かえた。

 ふたりは寝間着になって向かい合って話していた。

「いやあ、十六才の多津とする訳にはいかんが……なにせ夫婦だからな」

 武揚は頭をかいた。

「釜次郎さま!」

「……なんだ?」

 多津は可愛い顔をして「誓ってくださる?」といった。

「何を?」

「生涯、女子はこの多津だけだと……」

 多津はどこまでも清純でうぶだった。男が外にでれば他の女も抱くのは当たり前の時代、夫・榎本武揚には「浮気」は許さん、という訳だ。

 もっとも初めての相手である武揚に、自分以外の女は抱いてくれるな、という思想は末通娘(お ぼ こ)の多津らしい考えではある。

 榎本は笑って、

「多津にはかなわんのう。わかった。誓おうじゃねぇか! 生涯、女子は多津だけだ!」「うれしい!」

 ふたりは抱き合った。

「じゃあ、指切りげんまんね」

「指切りげんまん?」

ふたりは小指を絡めた。

「♪指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲-ます。指きった」

ふたりは笑顔を交わした。

「指切りげんまんか…他人はあの釜次郎は英語でげんまんするんじゃねえか? と笑うかもしれん。他人は俺のことを西洋かぶれという。べらぼうめってんだ!」

「いわせておけばいいのです。釜次郎さまの凄さがやがてわかりますわ」

「凄さか……」

 武揚は苦笑した。「英国は蒸気機械の発明で産業革命を成し遂げ、世界に冠たる海洋艦隊をもって世界一になった。この日本も幕府をたてて英国においつき追い越せだ」

「まぁ! それはすごいことですわ」

「日本だってやればできるはずでぃ」

 榎本武揚は妻をぎゅっと抱き締めた。すると十六歳の若妻・多津はやはり華奢な体だと気付いた。まだ、子供だ………

「そうだ!」   

 武揚は何か閃いた。

「……なんですの?」

「これだ」 

 武揚は懐から小さな紙袋を取り出してあけた。それは石鹸だった。

「まあ、いい匂い」

「そいつを食べちゃ駄目だぞ。口の中が泡だらけになっちまう」

「これは……シャボン(石鹸)?」

 多津は可愛い笑顔になった。

「そう、シャボンだ。これを多津にやろう。結婚祝いだ」

「まあ! うれしい!」

 多津は石鹸を受け取ると、まるでお転婆娘のように武揚にもう一度抱きついた。まだ子供だ……。榎本武揚は笑顔になって「こんなんでよかったらまた俺がつくってやろう。シャボンつくりは得意じゃからのう」といった。

 多津は可愛く抱きついたままだ。……まだ子供だ……

 榎本武揚はしあわせな気分になった。

 しかし、そんな新婚生活もわずか五日間だけだった。

 榎本武揚は開陽丸艦長として品川沖にいた。艦隊のブリッジにクルー(乗組員)とともに緊張していた。官軍が江戸にせまってきているというのだ。

「われ、幕臣として官軍と戦う!」

佐藤泰然は「今は釜さんたちを賊軍と侮る風潮もあるだろう。じゃが、数十年後、五十年後にでも釜さんたちのことをわかって歴史が評価してくれるだろう。だが、百年後では遅すぎる」

「釜次郎さま」多津は去りゆく艦隊に手をふった。涙目になる。

「時代の風が吹いとるぞ。釜さんよ」

                            

 翌日、ひそかに麟太郎(勝海舟)は長州藩士桂小五郎(のちの木戸考允)に会った。

 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。

 桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。

 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。

 のちの海舟、勝麟太郎は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思っているのかい?」

 といった。

 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。

 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。

「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」

「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」

 数刻にわたり桂は勝海舟と話して、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

 勝海舟は、部下に内心をうちあけた。

「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。

 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけていたさ。幕臣は腐りきっているからな。

 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。

 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。

 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。

 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。

 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」

 三月六日、勝海舟は部下を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。

「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。                     

 勝海舟はこの年、安房守に出世した。安房とは現在の千葉県のことである。

 十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。

「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」

 勝麟太郎は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。

 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。

「なんてこった!」

 のちの勝海舟(麟太郎)は嘆いた。


 勝海舟は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。

 勝海舟は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。

「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。

 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」

 幕府の重役をになう象山と協力して、勝海舟は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。

 そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して部下たちにいった。

「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」

 文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長            

州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。

 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。

「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じゃっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」

 二心殿といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。


 勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。

 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。


  そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このままではわが国は外国の植民地になる!」

 勝海舟は危機感をもった。

「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。

「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。


 慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。

 それに対応したのが、高杉晋作だった。

「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」

 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分を問わず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。

「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。

 幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。

「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」

 その夜、『奇兵隊』に決起をうながした。                 

 ……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……

『奇兵隊』決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。

「これより、長州男児の意地をみせん!」

 こうして『奇兵隊』が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、『奇兵隊』三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。

(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)

 その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。


 幕臣の中でキモがすわっている者といえば、勝海舟だけである。

 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。

 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、勝海舟は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。勝海舟はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。

「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」

 ……こいつもなかなかの者だな…勝海舟は内心そう思い苦笑した。

 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。

 だから、勝海舟は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。

「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」

 虫のいい話だな、といっている本人の勝海舟も感じた。

 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。

 勝海舟は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。

 慶喜の対応は冷たかった。

 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。

 麟太郎(勝海舟)は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。

 彼の書簡の内容は、勝海舟がかねて唱えていた内容と同じだった。               

「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。

 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。

 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。

 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。

 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。

 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。

 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」

 勝海舟は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、勝海舟はむなしく江戸に戻ることになった。

 勝海舟は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、勝海舟はそんなことはいっこうに気にならない。

 長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国のほうが大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。

 福沢諭吉もそのひとりだった。

 江戸へ帰った勝海舟は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。

 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。

 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたというのは前述した。

 勝海舟は初めて英国公使パークスと交渉した。

 勝海舟は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。

 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」

 と強くいった。

 パークスは勝海舟の提言を承諾した。

 そして、勝海舟の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。

「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。

 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」

 勝海舟はするどく指摘していく。

「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」

 勝海舟はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、勝海舟がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?


 慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走し出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうでもよかったのである。坂本龍馬は将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」といった。 土佐藩は大政奉還建白書を提出した。慶喜は頷いた。慶喜の評判は幕臣たちのなかではよくなかった。ひとことでいえば、無能だ、ということである。

 勝海舟も”慶喜嫌い”であった。

 そして、勝海舟は、幕臣原市の「幕府とフランスを提携させ、薩長を倒す」というアイデアには反対だった。勝海舟は「インドの軼を踏む」といった。

 そんな原市も、腐った不貞なやからに暗殺されてしまう。

 慶喜は恐怖にふるえながら、城内で西周(にしあまね)に「西洋の議会制度」「民主主義」などを習って勉強した。しかし、それは無駄におわる。

 慶喜は決心する。

 慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。のちにゆう『大政奉還』である。勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、龍馬は感激で泣いたという。

 しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメだというのか?

 勝海舟(麟太郎)は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。

 徳川慶喜の大政奉還の報をうけた江戸の幕臣たちは、前途暗澹となる思いだった。

 大政奉還をしたとしても、天下を治める実力があるのは幕府だけである。名を捨てて実をとったのだと楽観する者や、いよいよ薩長と戦だといきまく者、卑劣な薩長に屈したと激昴する者などが入り乱れたという。

 しかし何もしないまま、十数日が過ぎた。

 京都の情勢が、十二月になってやっとわかってきた。幕臣たちはさまざまな議論をした。 幕臣たちの中で良識ある者はいった。

「いったん将軍家が大政奉還し、将軍職を辞すれば、幕府を見捨てたようなもので、旧に回復することはむずかしい。このうえは将軍家みずから公卿、諸候、諸藩会議の制度をたて、その大統領となって政のすべてを支配すべきである。

 そうすれば、大政奉還の目的が達せられる。このように事が運ばなければ、ナポレオンのように名義は大統領であっても、実際は独裁権を掌握すべきである。

 いたずらに大政奉還して、公卿、薩長のなすところに任するのは、すぐれた計略とはいえない」

 小栗忠順(上野介)にこのような意見を差し出したのは、幕臣福地源一郎(桜痴)であったという。福地は続けた。「この儀にご同意ならば、閣老方へ申し上げられ、京都へのお使いは、拙者が承りとうございます」

 小栗は、申出を拒否した。

「貴公が意見はすこぶる妙計というべきだが、第一に、将軍家がいかが思し召しておられるかはかりがたい。

 第二に、京都における閣老その他の腰抜け役人には、とてもなしうることができないであろう。

 しかるに、なまじっかそのような説をいいたてては、かえって薩長に乗ずられることになり、ますます幕府滅亡の原因となるだろう。だから、この説はいいださないほうがよかろう」小栗は、福地がいったような穏やかな手段が薩長に受け入れられるとは思っていなかった。

 慶喜は、諸藩が朝廷に禄を出すのは別に悪いことではないが、幕府徳川家だけが二百万石も献上しなければならないのに納得いかなかった。

 閣老板倉伊賀守勝静は、慶喜とともに大坂城に入ったとき、情勢が逼迫しているのをみた。いつ薩長と一戦交える不測の事態ともなりかねないと思った。

「大坂にいる戦死たちは。お家の存亡を決する機は、もはやいまをおいてないと、いちずに思い込んでいる。

 今日のような事態に立ち至ったのは、薩藩の奸計によるもので、憎むべききわみであると思いつめ、憤怒はひとかたならないと有様である。会、桑二藩はいうに及ばず、陸軍、遊撃隊、新選組そのほか、いずれも薩をはじめとする奸藩を見殺しにする覚悟きめ、御命令の下りしだいに出兵すると、議論は沸騰している。

 上様(慶喜)も一時はご憤怒のあまり、ご出兵なさるところであったが、再三ご熟慮され、大坂に下ったしだいであった」

 江戸城の二の丸大奥広敷長局あたりより出火したのは、十二月二十三日早朝七つ半、(午前五時)過ぎのことであった。

 放火したのは三田薩摩屋敷にいる浪人組であった。

 のちに、二の丸に放火したのは浪人組の頭目、伊牟田尚平であるといわれた。尚平は火鉢を抱え、咎められることもなく二の丸にはいったという。

 途中、幕臣の小人とあったが逃げていった。

 将軍留守の間の警備手薄を狙っての犯行であった。

 薩摩藩の西郷(隆盛)と大久保(利通)は京で騒ぎがおこったとき、伊牟田を使い、江                     

戸で攪乱行動をおこさせ江戸の治安を不安定化することにした。

 家中の益満休之助と伊牟田とともに、慶応二年(一八六六)の秋に江戸藩邸におもむき、秘密の任務につくことにした。ふたりは江戸で食うものにも困っている不貞な浪人たちを集めて、飯を与え稽古をさせ、江戸で一大クーデターを起こすつもりだった。

 薩摩藩は平然と人数を集めた。

 江戸は治安が悪化していた。

 また不景気と不作で、米価が鰻のぼりになり百姓一揆までおこる有様だった。盗賊も増え、十一月には貧民たちが豪商の館を取り囲み威嚇する。

 民衆は、この不景気は幕府の”無能”のためだと思っていた。

 幕府強行派の小栗上野介らは、京坂の地において、薩長と幕府の衝突は避けられないと見ていたので、薩摩三田藩邸に強引でも措置をとるのは、やむをえないと考えていた。

 江戸にいる陸海軍士官らは、兵器の威力に訴え、藩邸を襲撃するのを上策として、小栗にすすめた。小栗はこれを受け、閣老に伝える。

 小栗たち過激派は、薩摩の江戸藩邸を焼き討ちにすれば、大阪にいる閣老たちも、憤然として兵をあげるだろうと考えていた。しかし、朝比奈たちは「一時の愉快を得るために軽挙をなせば大事態を招く」と反対した。

 だが、十二月二十五日、薩摩の江戸藩邸は何の前触れもなく、かたっぱしから大砲をどんどんと撃ちこまれた。たちまち出火し、藩邸は紅蓮の炎に包まれ、焼失した。

 砲撃家たちはまことに愉快な気持ちだった。八王子へと逃げた薩摩浪人三十人ほどは、その地で召し捕られた。相摸へ逃げた浪士たちは、相州萩野山中の大久保出雲守陣屋へ放火した。不意打ちをくらった陣屋では怪我人もでて、武器を奪われた。

 薩摩藩では、薩摩屋敷が焼き討ちされたとき、約五百人のうち邸内にいたのは百人ほどであったという。

 薩摩藩邸焼き討ちについては、幕府海軍局にはまったく知らされてなかった。当時軍艦             

奉行をつとめていた木村兵庫守(芥舟)は目を丸くして驚いたという。

 慶応三年(一八六七)京では、慶喜の立場が好転していた。尾張、土佐、越前諸藩の斡旋により、領地返上することもなく、新政府に参加する可能性が高くなっていった。

 しかし、十二月、上方にいる会津、桑名や幕府旗本たちに薩摩藩邸焼き討ち事件が知られるようになると、戦意は沸騰した。「薩長を倒せ! 佐幕だ!」いつ戦がおこってもおかしくない状況だった。蟠竜丸という艦船には榎本和泉守(武揚)が乗っており、戦をするしかない、というようなことを口を開くたびにいった。

 やがて、薩長と幕府の海軍は戦争状態になった。              

 もはや慶喜には、麾下将士の爆発をおさえられない。

 動乱を静めるような英雄的資質はもちあわせていない。

 だが、慶喜は元日に薩賊誅戮の上奉文をつくり、大目付滝川播磨守に持参させたという。つまり、只の傍観者ではなかったということだ。

「討薩表」と呼ばれる上奉文は、つぎのようなものだった。

「臣慶喜が、つつしんで去年九日(慶応三年十二月九日)以来の出来事を考えあわせれば、いちいち朝廷の御真意ではなく、松平修理太夫(薩摩藩主島津忠義)の奸臣どもの陰謀より出たことであるのは、天下衆知の所であります。(中訳)

 奸臣とは西郷、大久保らを指す」

 別紙には彼等の罪状を列挙した。

「薩摩藩奸党の罪状の事。

 一、大事件に衆議をつくすと仰せ出されましたが、去年九日、突然非常御改革を口実と                  

して、幼帝を侮り奉り、さまざまの御処置に私論を主張いたしたこと。

 一、先帝(考明天皇)が、幼帝のご後見をご依託された摂政殿下を廃し、参内を止めたこと。    

 一、私意をもって官、堂上方の役職をほしいままに動かしたこと。

 一、九門そのほかの警護と称して、他藩を煽動し、武器をもって御所に迫ったことは、朝廷をはばからない大不尊であること。

 一、家来どもが浮浪の徒を呼び集め、屋敷に寝泊まりさせ、江戸市内に押し込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉の部下屯所へ銃砲を撃ち込む乱暴をはたらき、そのほか野州、相州方々で焼き討ち強盗をした証拠はあきらかであること」

 当時、京も大坂も混乱の最中にあった。町には乞食や強盗があふれ、女どもは皆てごめにされ、男どもは殺され、さらに官軍が江戸へ向けて出発しつつある。

 しかも、”錦の御旗”(天皇家の家紋)を掲げて……

 京都に向かう幕府軍の総兵力は一万五千であった。伏見街道で直接実戦に参加したのはその半分にも満たない。薩長連合軍(官軍)は一万と称していたが、実際は二千から三千程度である。比較すると十対二、三である。

 幕府軍の総兵力一万五千の一部は、伏見街道で直接実戦に参加した。

 幕府軍の指揮者は、「何倍もの兵力をもつ幕府軍に薩長が戦をしかけてくるはずはない」とたかをくくっている。見廻組が薩長軍の偵察にいき、引き、また引きしているうちに幕府軍は撤退をよぎなくされた。幕府軍は脆かった。

 滝川播磨守は、幕軍縦隊を前進させると、薩長は合図のラッパを吹き、街道に設置しておいた大砲が火を噴いた。左右から幕府軍はたたかれた。

 滝川は大目付で、軍隊の指揮能力に欠ける。彼は大砲の轟音にびくつき馬で遁走した。 指揮者がこの調子だから、勝てる戦ではない。砲弾で幕府軍たちは殺されたり、怪我し                      

たりして皆遁走(逃走)しだす。兵数は五倍の幕府軍はびくつき混乱しながら逃げた。

 幕府軍は大損害を受け、下鳥羽へ退いた。

 江戸にいる勝海舟は、九日に、鳥羽、伏見の戦の情報をはじめて知った。

 勝海舟は日記に記す。

「正月の何日だったか、急に海軍局の奴がきて、偉い方が軍艦でおつきになったという。俺は上様だろうと何だろうと関係ねぇ。今はでる幕じゃねぇといってやったさ。しかし、勝安房守を呼び出せとしきりにいう。いけないといって出なかった。

 それでも安房をよべとうるさい。俺を呼ぶ前にもっとやることがあるだろうに、こんなんだから薩長に負けるんだ」

 慶喜が大坂を放棄したことで幕府の運命がまた暗転した。

 勝海舟は「このままではインドの軼を踏む。今はうちわで争っているときじゃねぇ。このままじゃすきを付かれ日本は外国の植民地になっちまう」と危惧した。

 それは、杞憂ではないことを、勝海舟は誰よりもわかっていた。           

         3 勝海舟





 兵庫沖に開陽丸があり、江戸に向かっていた。

 艦長は榎本武揚である。年末暮れ二十五日……

「艦長! 薩艦でしょうか?」

 榎本の部下が双眼鏡でみていった。

「なにっ?」沢太郎左衛門は双眼鏡を取りだした。遠くに、一隻の艦船がみえる。

「ありゃ! 釜さん、船だぜ」

「どれ! 薩艦か?」

 榎本武揚は双眼鏡で覗いた。確かに、遠くに艦船がみえる。

 薩艦であれば敵だから撃沈させなければならない。

「よし!」

 武揚は命じた。「警告の空砲を三発撃て!」

 空砲が三発放たれる。轟音が鳴る。すると、薩艦は全速力で逃げ出した。

「やっぱり敵艦か! 撃て! 撃て!」

 今度は空砲ではない。砲弾が薩艦に向けて撃たれる。しかし、敵艦は運がいい。撃沈されることなく、逃げ去った。

 ……てやんでい! 逃げられたか……

 後日、榎本武揚らと薩摩海軍要人は対談した。

「どげんこってごわす?!」

 薩摩の和田彦兵衛は榎本に文句をいった。「幕府と薩長が対立しているとばいえ、わが艦は攻撃せんかったんでごわすぞ」

 薩摩の有川藤太も「どげんこってわが艦を攻撃したとでごわす?」

 と、口々に文句をいった。

「こげんこつ許されてよかばってんか?」

 榎本武揚は苦笑して、

「艦砲弾で撃沈されなかっただけありがたいと思え!」と喝破した。

「どげんこつ……」

 それからは話しにならなかった。

「万国法で三発空砲を打ち、のちに実弾…万国法にのっとっての作戦だった」

「しかし、幕府は大政奉還したではごわさんがか?」

「幕府は幕府! 大政奉還は万国法に違反していねえ」

そうである。慶応三年(一八六七)七月十日徳川慶喜は大政奉還をしたのである。

その後の庄内藩などの江戸薩摩藩邸焼き討ちで戊辰戦争が始まった。

 鳥羽伏見では怪我で動けない新選組の近藤勇にかわって、副長・土方歳三が官軍と戦った。しかし、圧倒的な官軍の兵力と銃により、土方は敗れる。

 土方の腕の中で、銃弾が飛び交う中、新選組の井上源三郎は死んだ。

「くそったれめ!」土方は遁走した。

 翌年一月十四日……

 榎本武揚は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、艦隊のある大阪沖へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。

 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。

 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」

 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。

「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」

「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」

「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」


 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。

 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。

 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。

 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。

 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。

 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。

 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。        

その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。

 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。

 ニールは応じなかったという。

「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」


      

 榎本武揚は薩摩藩の春日丸の汽船を拿捕することにした。

 四つ(午前十時)頃、空砲三発発射。それに薩摩艦が報復攻撃、それぞれつれだっていた汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。

 薩摩藩は三隻が榎本軍に拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。

 天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。

 榎本たちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。

 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、榎本たちは驚いて飛び上がった。

 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。

 榎本艦隊も砲弾の嵐で応戦した。

 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如く榎本艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。

 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。

 榎本艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。

 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシャンパンで祝った。

 勝海舟はいう。

「薩摩は開国を望んでいる国だから、榎本がおだやかに接すればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみていたから火傷させられたのさ。

 しかし、薩摩が負けるとは俺は思わなかったね。薩摩と榎本海軍では装備が違う。

 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわっていねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからの榎本の対応が見物だぜ」

 鹿児島では榎本艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。

 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

 薩長軍は天皇を掲げて、官軍となった。

 いままでの歴史になかった「錦の御旗」(天皇の旗)を掲げた。それをみた幕府は「われらは賊軍となる!」とあせった。

有名な話だが、鳥羽伏見の戦いなどで大坂城にいた最後の将軍・慶喜は大坂城よりひそかに脱出。艦長・榎本武揚不在の中、開陽丸にのりこんで沢を艦長に指示して江戸に逃げ帰った。大坂城内にいた榎本や歩兵大将の松平太郎らは驚愕の事実だったことだろう。

「永井尚志さま。将軍閣下はどこにおられる?」

「それが…」

「大坂城の近くで錦旗があがったとか。まだ兵は鳥羽伏見あたりで戦っております」

「そうです。早めのご命令をうかがいたい」

永井は苦渋の顔をして、「いやあ。慶喜さまはもう大坂城にはおられん」

「どこぞに出陣あそばされたのですか? なれば幕軍の士気もあがりましょう?」

「いや」永井は吐き捨てるように言った。「お逃げになされた…」

榎本も松平も驚愕した。「な? なんと! 逃げた…」

「慶喜さまは総大将! まだ幕軍が鳥羽伏見で薩長軍と戦っているのに…逃げた?」

「まさか…」

「そのまさかよ。恐怖でお逃げになられた」

「……」一同は沈黙するしかない。「しかし、敵陣には錦の御旗が…これでは幕軍が全滅いたしまするぞ。まだ味方が戦っている最中に総大将が逃げるとは…」

「仕方ねぇ。われらも江戸に帰るしかない」

永井はそういって城からでた。

しばらくして、榎本武揚はハッとした。「大坂城には幕府の金銀がある。火事場泥棒じゃあねえが、頂いてまいろう。幕府のためにも銭は必要だ」

「そうじゃのう。釜さん。全部幕府艦に積み込んで戦費にいたそう。薩長なんぞに渡すか!」

荷車で大坂城の蔵から金銀の銭箱を部下に夜中運ばせていると新選組たちがきた。

「まった! おぬし等は何者ぞ?」

「われらは会津藩お預かり新選組だ」土方歳三はいった。

「おう。あんたがたが新選組か。そうするとあんたが土方くんだね?」

「そうだ。幕臣の者か?」

「そうだ」

「総大将はどうした? あたりに幕臣の姿もないが…?」

「う~ん」榎本は困った顔をしてから、「我ら幕軍は江戸にひきそこで薩長軍と戦うことに決まった。この銭は戦に必要なんだ。新選組で守ってくれ! これからの軍費や幕臣の留学生たちの費用もある。頼むぞ」

「わかりました。あなたはもしや榎本さまでしょうか?」

「そうだ。土方くん。幕臣のこれからの為にもこの銭は必要だ。頼んだよ。幕臣数千人が路頭に迷わないようにするのが幕府の重臣の務めだ」

土方は「まかしてください」と頭をさげた。




 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。  

……死ぬのが怖かったのであろう。

 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。


 大阪に逃げてきた徳川慶喜は城で、「よし出陣せん! みな用意いたせ!」と激を飛ばした。すわ決戦か……と思いきや、かれの行動は異常だった。それからわすが十時間後、徳川慶喜はのちに船で江戸へと遁走しだす。

 リーダーが逃げてしまっては戦にならない。

 新選組の局長近藤勇はいう。「いたしかたなし」

 それに対して土方は「しかし、近藤さん。わずか二~三百の兵の前でひれ伏すのは末代までの恥だ。たとえ数名しかいなくなっても戦って割腹して果てよう!」といった。

「いや」近藤はその考えをとめた。「まだ死ぬときじゃない。俺たちの仕事は上様を守ること。上様が江戸にいったのならわれら新選組も江戸にいくべきだ」

「しかし…逃げたんだぜ」

 近藤は沈黙した。そして、新選組は一月十日、船で江戸へと向かった。

 江戸に到着したとき、新選組隊士は百十人に減っていた。


「開陽丸で江戸へいけ!」

 徳川慶喜は開陽丸に乗り込んだ。しかし、艦長の榎本武揚はいなかった。

 沢が「しかし、榎本艦長がおりませぬ」

「かまわぬ。余の命をまもるため沢、おぬしが艦長となり江戸へいけ!」

「……しかし…」

「いけ!」

 こうして徳川慶喜は江戸へ遁走した。

 十二日、開陽丸を徳川慶喜に乗り逃げ去れた榎本武揚はあっけにとられながらも、気をとりなおし、薩長の砲弾の中をかいくぐり主のいなくなった大阪城へとはいった。

「やあ! 釜さんじゃないか!」

 永井は声をあげた。まだ新選組が大阪城にいるときだった。

 榎本は「上様が逃げたって?」と呆れた。

 城の幕臣たちはパニックになっていた。

 新選組がきた。「榎本さん!」土方はいった。

「これからどうします?」

「そうだな……そうだ! 城の物全部もっていこう! どうせそのうちこの城は薩長の手に陥ちる。蔵から全部銭を頂こう!」

 土方は「いいんですか? そんなことして…」と動揺した。

「なに、どうせ幕府の銭だ! かまうもんか! 薩長にくれてやるこたぁねえ!」

 榎本は部下に命じて、城の蔵から書類、刀剣、古銭(約二十万両)などを運びださせた。「全軍に撤退命令を!」

 榎本武揚は永井に嘆願した。「わかった」永井は承諾する。

「幕府にはまだ海軍があります」

 榎本はどこまでも強気だった。                           

 武揚の兄・榎本武与は感心して「釜次郎! お前のことを誇りに思うぞ」といった。

「兄上!」

 ふたりは肩をよせた。

 残留の新選組と銭などを乗せて、榎本武揚は富士山丸で江戸へと戻った。

「わたしは幕府のためならひとりとなっても戦います」

 土方はいった。榎本も感心して「俺もだ。薩長なんぞに負けるもんか!」と頷いた。

 江戸は慶喜が逃げてきて大パニックに陥った。

 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。

「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。

 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。

 そして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。

 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」

 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。

 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)

 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。

 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(安房・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」

 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。

「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。

 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでいる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。

 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えていませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。

 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。

 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」



  幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!


 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」


 江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。勝海舟は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。勝海舟はのちにいっている。

「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。

 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。

 こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。

 俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。

 すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。

 こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。

 それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。

 甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。

 ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」



  慶応四年(一八六八年)、勝海舟は幕府閣僚名簿を筆した。

 陸軍総裁   勝安房守(勝海舟)

 陸軍副総裁  藤沢次謙

 海軍総裁   矢田堀鴻

 海軍副総裁  榎本武揚

 会計総裁   大久保一翁

 会計副総裁  成嶋弘

  他 ………

 勝海舟は共順派閥をつくる。

 しかし、主戦派の榎本を閣僚に入れたのも、勝海舟の頭脳だった。

「釜さんよ、なぜおぬしを閣僚に入れ、しかも海軍副総裁においらがしたのは何故だと思う?」

 勝は江戸で榎本武揚にきいた。

「いや。わかりません」

 榎本は正直に答えた。「なぜです?」

 勝海舟は笑った。

「おぬしが危険分子だからさ」

「いや。そうではないでしょう? 勝さん外国の……フランスが幕府に手を貸してもいいといってくれている。幕府軍とフランス軍が組めば新政府軍だか官軍だかには負けはしません。勝さんはそれを俺にやらせるつもりなのでしょう?」

「べらぼうめ!」

 勝は榎本を叱った。

「戦争は終らせなきゃならねぇ。徳川を生かすために幕府をつぶすのさ」

「しかし……」

「こっち(幕府)がフランスなら、あっち(薩長)はイギリスだ。ろくなことにならねぇ。インドや清国(中国)の二の舞だぜ」

「しかし、幕府軍のほうが兵力は大きい。軍艦の数だって勝っている。幕府軍とフランス軍が組めば新政府軍だか官軍だかには負けはしません!」

「あきれたやつだな。釜さんよ、幕府はあくまで”共順”だ。それを忘れなさんなよ」

「……共順?」

「そうさな!」

 勝海舟は念を押した。勝の元にはフランス人陸軍派遣のブリュネとカズヌーブという将校が制服のまま来た。

「勝さん、フランスの与力あります。幕府軍にフランスが与力します」

「そうです。幕府軍負けないね。フランスが必ず勝たせます」

勝海舟は「いやあ。もう、ここからは日本人たちだけで。内戦になりますから」

「いや、勝さん。幕府軍のほうが武器も軍艦も多いね。必ず勝つのことね」

「そうです。フランス信じてください。必ず勝つね」

勝は苦笑して「いやあ、幕府も徳川さまも恭順ですから。」というのがやっとだった。


話を少し戻す。

”われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ”

 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。

 そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。

 敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。


「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」

 勝安房守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。

「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」

 勝は沈黙した。

 ……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…

 言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。

 勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。

「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」

 近藤たちは決起した。

 やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤はいう。

「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」

 新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。

 皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。

 甲陽鎮部隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。

「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」

 近藤はいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。

 勝海舟(麟太郎)にとっては、もう新選組など”邪魔者”でしかなかった。

 かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?

 とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!

 そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!

「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」 勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。

 そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。

 近藤たちは故郷に錦をかざった。

 どうせなら多摩の故郷にたちよって、自慢したい……近藤勇も土方歳三もそう思った。それが、のちに仇となる。しかし、かれらにはそんなことさえわからなくなっていた。

 只、若年寄格に、寄合席格に、と無邪気に喜んでいた。

 近藤は「左肩はまだ痛むが、こっちの手なら」とグイグイ酒を呑んだという。

 数が減った新選組には、多摩の農民たちも加わった。

 多摩の農民たちは、近藤が試衛館の出張稽古で剣術を教えた仲である。

 土方歳三は姉に、「出世しました!」と勝利の報告をした。

「やりましたね、トシさん」姉は涙ぐんだ。

「それにしても近藤先生」農民のひとりがいった。「薩長が新政府をつくったって? 幕府は勝てるのですか?」

 近藤は沈黙した。

 そして、やっと「勝たねばなるまい!」とたどたどしくいった。「今こそ、多摩の魂を見せん!」

 といった。

 勝は榎本武揚にいった。

「江戸を丸裸にするしかねぇ。でなければ江戸に火をかけちまうしかねぇぜ」

「しかし…勝さん。それでは幕府はどうなっちまう?」

 勝は「幕府? へん! 知ったこっちゃねえ!」と鼻で笑った。

 榎本は不快に、思った。

         4 江戸城無血開城





「勝さんは本気で幕府をつぶす気ですか?」

 ある席で、榎本武揚は問うた。

「そうだ」

 勝海舟は頷いた。「幕府は腐りきっている。つぶさなければ日本は外国の植民地になる」「しかし……幕府は三百年も続いたのですぞ? その咸厳たるや…」

「釜さん」勝は戒めた。「腐ったのもその三百年も続いたからだ。徳川家康から慶喜までで腐りきった。もう幕府にこの国をまかせちゃおけねぇんだ」

「では……勝さんは「裏切り者」をかってでると?」

「そうだ」

 勝は頷いた。「すべてはこの国のためだ。俺が裏切り者になってもかまわねぇ」

 榎本は沈黙した。

「おいらの”幕引”が気にいらねぇなら遠慮なく斬ってくれ」

「……そうするぜ」

「おいらは今度、西郷吉之助(隆盛)とあう」

「え?!」榎本武揚は仰天した。「あの薩摩の西郷と?! なぜ?」

「江戸を、徳川を守るためだ」

「しかし、そんなことでいいんですけぃ?」

「もう一度いうよ、釜さん。おいらの”幕引”が気にいらねぇなら遠慮なく斬ってくれ」 

勝海舟は強くいった。


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