五稜郭と榎本武揚と北風と
長尾龍虎
五稜郭と榎本武揚と北風と
小説五稜郭と
榎本武揚と北風と
えのもとたけあき~男たちの選択~
え ぞ
~蝦夷へ! 幻の蝦夷共和国。
榎本武揚の「箱館戦争」はいかにしてなったか。~
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
NAGAO Kagetora長尾 景虎
this novel is a dramatic interpretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
この物語は日本テレビドラマ『五稜郭』(杉山義法氏原作・脚本)から引用しています。よって杉山義法氏にオマージュを感謝いたします。
あらすじ
黒船来航…
幕末、榎本武揚は幕府の海軍副奉行に抜擢された。オランダ帰りの学識者である。奮起して開陽丸という船にのってオランダに留学して知識を得た。先進国を視察した武揚にとって当時の日本はいびつにみえた。彼は幕府を批判していく。だが勝は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。 勝海舟に不満をもつ武揚は海軍を保持するが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
そして箱館戦争勃発。榎本武揚の「蝦夷(北海道)共和国」は五ケ月で官軍につぶされる。切腹しようとしてとめられた榎本は官軍に投降、やがて投獄されるがあまりの知識をもっていたため新政府の要職へ。土方たちの死をもとに榎本は明鏡止水の心だった。
今から百数十年前、北海道・蝦夷、戊辰戦争は箱館戦争終結の明治二年夏までまたなくてはならない。その蝦夷に共和国をつくったのが榎本武揚である。
「蝦夷には新天地がある! ジャンプしよう!」
幕府海軍副総裁の榎本は薩長官軍に反発して、奥州(東北)、そして蝦夷(北海道)まで旧幕臣「榎本脱走兵」たちとともにいく。そこで共和国をつくるが、わずか五ケ月で滅ぼされてしまう。
幻の「蝦夷共和国」とは何だったのか? 榎本武揚の戦略とは何だったのか?
それを拙書であきらかにしたい。幕末の英雄・榎本武揚とは………
1 江戸最後の日
榎本武揚は幸運なひとである。
学識がゆたかであり、語学に優れて生まれたため、オランダまで幕府の援助で留学までできた。しかも、無事にオランダではスームビング号(開陽丸)まで手にいれた。
榎本武揚の本名というか、前名は榎本釜次郎といい、慶応三(一八六四)年には三十六歳になっていた。面長だが、口髭を生やし、なかなかの色男である。
榎本釜次郎は身分に似合わず、気さくで、愛想のいい男だったという。もっとも、寡黙というか無口なほうで、ほとんどいつも読書しているか、昼間採取してきた石や土の整理をしているか、さもなければぼんやりと物思いにふけっていた。
しかし、黙っていても、眼や口元がたえず誰かに話しかけるように表情に富んでいるので、愛想いいような印象を与えてしまう。
寡黙な男も、酒には弱い。
酒がはいると陽気になって、冗談をいう。自慢の口髭を軽く指で撫でながら、冗談をいったり歌を歌ったりしてひとの気をひくのに長けた人物だったようだ。
そんな人望があったからこそ、旧幕臣も新選組の土方歳三もついていったのだろう。
あの「鬼の土方」と恐れられた土方歳三をもひかれた榎本釜次郎とは何だったのだろう。 あの痩身な口髭のサムライは、幕府の要人はまた気さくな、人に慕われる人物で、寡黙な敗者ではあるが英雄である。
英雄とは、人並み外れた頭脳と、体力と、ひらめき、霊感をもっているものである。榎本釜次郎にはそれがある。西郷隆盛(吉之助)にも、坂本龍馬にも、勝海舟(麟太郎)にも、高杉晋作にもそれがあった。
大久保一蔵(利道)や桂小五郎(木戸孝允)にもそれがあったが、それは龍馬や高杉よりも大きな資質をもっていた。龍馬は若くして暗殺され、高杉晋作は若くして病死している。それにくらべて大久保利道や桂小五郎(木戸孝允)は維新を生き抜き、新政府の一翼を担った。西郷吉之助(隆盛)も新政府のメンバーに加わったが、士族(元・侍、武士、藩士)たちの御輿にのせられて、「西南戦争」などという馬鹿げた内戦をひきおこしている。西郷隆盛は英雄ではあったが、運がなかった。
その点では、榎本武揚は敗者ながら運がよかった。
五稜郭に立て籠もり「箱館戦争」を起こして官軍と対立したが、殺されず、のちに明治政府の要職にまでついた。その意味では、最期は、西郷はやぶれ、榎本は勝った……
(大久保利道は維新後十年で暗殺され、木戸孝允も病死しているから、あながちふたりが成功者だった訳ではない。しかし、本当の成功者は最期まで生き残った大久保と木戸だ)
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』からの文献を参考にしています。
盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
*この頃、「明治6年の政変」が政治に関心がある人物の注目することだった。
明治政府首脳が、明治6年(1873)10月、真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
通説では事件は「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と久しく言われていきた。背景にあるのは、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府を司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
そもそも「征韓論」の西郷は、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかける。そうしながら一方で、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探った。土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法をつねに採っている。勝海舟との談判による江戸城無血開城がその最たるものである。
だが、もし勝海舟の相手が西郷隆盛や薩摩藩士ではなく、現実主義者の長州藩士だったらこうも江戸無血開城はうまくいかなかったであろうと歴史家たちは口をそろえる。
朝鮮に対しても西郷は江戸と同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして自分が殺されることはないと西郷は確信していたようだ。
「朝鮮を近代化せねば」という目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣もそれで納得した。
一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者のデコレーションだと歴史家は分析する。
そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
だが、外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤らがたったふたりで東京に引き返した。大久保・伊藤が戻ってくるまで大使節団は4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり計画は頓挫、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまった。
一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、成果を着実に挙げていた。
政治生命の危機を感じた大久保は、帰国後、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となった。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であった。巻き添えを食らった形で西郷も下野することになるのだった。
西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。朝鮮問題など、もはや、どうでもよくなってしまっていた。
ただ国内の権力闘争だけだ。一種のクーデターにより、これで政権は薩長閥に握られた。
しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。政治どころではもはやない。国益や政治・経済の自由どころではない。
明治政府は西郷や板垣を失い誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。
この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、江藤新平が政変で下野したために、長州派閥の汚職は追及されず彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられた後、死刑だった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためであるともいう。それも斬首の上、さらし首という(武士としては)あり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)全部が大久保の指示による「私刑」だった。
明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、本営をこことした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。
「明治6年の政変」で板垣退助は下野し、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。
自由民権運動の始まりである。
だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。
板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
最も早く勤王党の出現を見たのが幕末の福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。
大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。
すでに脱藩していた平野國臣もその中にいた。女流歌人・野村望(ぼう)東尼(とうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがたせんぞう)(時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐(えび)茂記(しげき)、建部武彦らだった。坂本龍馬よりも早い見識であったという。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤(かとう)司書(ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。
だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙(いっ)丑(ちゅう)の獄」という。
加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。
このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。佐幕派が多かった福岡藩が、戊辰の役では、薩長官軍に急遽ついた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。
追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。
当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。
西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと努力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これで福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていく。
明治8年9月、まさに同じ年、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江(こう)華(か)島(とう)(カンファンド)事件」だ。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。
「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華(か)夷(い)秩序(ちつじょ)を乱す行為である」
李氏の朝鮮政府はそう考えていた。
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからと、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。力ずくで国柄を変えられるのはどの国も抵抗があるのだ。
日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。
さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。
明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。砲艦外交をペリーの威嚇外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだ。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
「明治6年の政変」において大久保等は、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしていた。そうしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきな行為といわにゃならんど! 政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要である。そして、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮だ、と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす! 日本人は古式に則った烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす! 軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績が西郷にはある。だが、大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、まさに武断的な征韓を自らは行っている。東洋王道の道義外交を行うべきと西郷はあくまでも考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようというのが西郷の考えだったか。だから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れる、「醜悪な国・日本」なのである。
*
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。
明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。
それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。
性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところも一誠にはあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。
戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として一誠は軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。
「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず! これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
一誠の少年時代に家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである! それが松陰先生の教えだ! この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」
一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。
中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。
さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。
未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている! 越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない! 中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」
とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。
一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。
政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。
一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。
「私は参議などになりたくはなかったのだ! 私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか? 私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ! 民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない! 徳川幕府とかわらん! すぐに萩に帰らせてくれ!」
大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。
三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。
明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけの一誠だった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。
維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。
そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。
それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。
しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられた。
「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが精一杯の一誠の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだ。前原一誠は、「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる! そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ! 井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない! ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴! あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない! 松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ! 天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ! 孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである! 松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない! 必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ! 王政復古の大号令は何処に消えたのだ!? このままではこの国は道を誤る!」
一誠は激昂、その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。
*
*
「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と岩倉具視が評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として十五代将軍・慶喜として登場した徳川慶喜。徳川三百年の幕引き役を務めるのが慶喜という運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照
著者が徳川慶喜を「知能鮮(すくな)し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通と西郷隆盛らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通・西郷隆盛らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
*NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用
話しを少し戻す。
慶応三(一八六四)年には榎本釜次郎は三十六歳になっていた。
江戸最期の日、天気は晴天で雲ひとつなかった。風もない。
蒼い空からは太陽の陽射しがきらきらと差し込んでいた。
従僕の助六は、見世物小屋へと向かった。
見世物小屋では「手品」や、「落語」をやっている。粋な江戸っ子たちは陽気にはしゃいで観席している。拍手とあくびが入り交じる。
「旦那さん、旦那さん」
従僕の助六は静かに近付き、席に座っていた白髪の白髭の老人にひそひそと声をかけた。「なんじゃ? 助六」
老人はひそひそと訝しがる。
「……榎本どんが…帰国したとです」
「なに? それは本当か?」
「はい」
「ならば、落語などきいとるばあいじゃねぇな」
老人は席をたった。
この老人は佐藤泰然、江戸でも有名な蘭学者である。
泰然は割腹のいい男で、もうヨボヨボの老人だが、学者だけあって脳軟化はしていない。話し好きで、子供好きな陽気な男である。博識だ。
「釜さんが帰ってきたなら……多津も大喜びであろうのう」
佐藤泰然は笑った。
多津とは、佐藤泰然の孫娘である。
「多津はおおはしゃぎじゃろうて」
泰然は笑いが止まらない。
「そでごわそ。お嬢様は大変喜んでごわす」
助六は薩摩訛りでいった。助六は薩摩隼人である。
「あの孫娘にも困ったもんじゃ」
佐藤泰然は人力車に乗った。江戸の町をさっそうと走る。従僕の助六は走ってついてきた。佐藤泰然ほどの男ならもっとマシな従僕がいてもよさそうなものだが、要するに「こまつかい」など誰でもよいと泰然は考えていたのである。
「釜さん(榎本武揚)は元気じゃろうかのう?」
泰然はひとりでにやりとなった。
「巷じゃあ、薩長官軍だのやれ幕府軍だのいっているが、浮足だっているのは侍だけじゃねえか」
「おじいちゃま!」
自宅に帰ると、さっそく噂の孫娘、多津が明るい声でやってきた。
佐藤泰然の孫娘・多津は美貌のひとだった。
そう、多津は美しかった。
黒く長い髪を結い、透明に近い肌、ふたえの大きな、大きな瞳にはびっしりと長いまつ毛がはえていて、伏し目にすると淡い影を落とす。血管の浮くような細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さく、彼女はまるでみ仏がこしらえた人形のような端正な外見をしていた。
「多津! そんなに嬉しいか?」
泰然は歩きながら呆れ顔でいった。廊下を歩く。
「はい! 釜次郎さまにやっと会えるのですから」
「ははは」泰然は笑った。「もう夫婦気取りかえ? 多津」
佐藤泰然は上座に座った。
「やだわ! もう、おじいちゃまったら…」
多津は頬を赤らめて、お転婆娘のようにはしゃいだ。
多津はまだ十六歳の末通娘(処女)である。しかも、美少女だ。
そんな美少女と夫婦になる約束をした榎本釜次郎(武揚)は、幸せ者といえる。
「多津は釜さんに夢中じゃのう」
「そうです。早く一目会いたいですわ」
泰然は「おや? 多津は釜さんと会っておらなんだか?」
「……はい」
多津は頬を赤らめた。「オランダへ釜次郎さまが留学されていましたおりに文通をしていただけで写真でしか顔を知りませんの」
「ほう。それは清純なことだのう」
泰然は感心した。
「近頃じゃ、売女のようなのがうようよして、銭のために体を男に売る女子まで出ているってゆうのに………多津は清純なことだのう」
「やだわ! おじいちゃまったらいやらしい!」
多津の母・つるは、
「女子は結婚してしまえばそのようないやらしいこともしなければならないのですよ」
と娘をたしなめた。
「いやらしいことって……?」
末通娘の多津には意味がわからない。
そこで泰然はにやりとして「夜の密事よ」と笑った。
場には、医学師の松本良順もいた。
良順は「泰然先生、多津さんをからかってはかわいそうです」といった。
「わしはからかってなどおらん。わしのいうことに間違いがあるけい?」
「……いやあ」
良順はにやりとして「かまいませんな、先生には…」
「ところで良順、釜さんは元気かね?」
「いや。釜さんは元気かときかれましても……まだ上陸しておりませぬので…」
「なんだ。着いたんじゃなかったのか?」
「はい。これから品川沖に入港すると電報が届いただけなんです」
泰然は苦笑して「それだけでこの多津のお転婆娘ははしゃいどるのか」
「そのようですな」
ふたりは笑った。
「いやですわ。おじいちゃまも良順先生も、多津を馬鹿にして」
多津はふくれっつらをした。その顔もまた可愛い。
「ははは、いいではないか」
泰然は孫娘が可愛くてたまらない。
「ところで、釜さんはオランダで軍艦スームビング号を購入されたとか」
良順はいった。
「ほう、いくらでかね?」
「二万両だそうです」
「そりゃ高いのう」泰然はいった。
良順は頷き「しかし、高性能な軍艦だそうで、日本名は『開陽丸』だそうです」
「……『開陽丸』? 陽が開ける船か? それは縁起のいい名じゃのう」
「そうですね」良順は頷き「その開陽丸で、この三百年続いた徳川幕藩体制の扉をこじあけるのでしょう」
「これ! めったなこというもんじゃない! 徳川幕府は守らなければならぬ。めったなことをいうと物騒なことになるぞ」
泰然は良順を諫めた。「まずわれらのすべきところは佐幕じゃ」
「すると泰然先生は今の幕府に不満はないのですか?」
「これ!」
「釜さんならきっとこの国を回天(革命)させると私は思います」
泰然は「これ! 幕府を批判すれば吉田松陰らの二の舞になるぞ!」と諫めた。
しかし、そんな大人たちの会話など多津の耳にははいらない。
白黒の写真をみて、にやにやする。
「……釜次郎さま」
「多津、本物の釜次郎はその写真よりも色男じゃぞ。だが、釜さんは生まれる時代が違った。もう少し平和な時代なら釜さんの叡智も活躍の種になるだろうがのう」
「でも、榎本さまは幕府の要人なのでしょう?」
「まあ、そうさな。しかし、薩摩と長州が同盟を組んで戦をやらかす気じゃ。こりゃあ運が悪い」
「榎本さまなら大丈夫よ」
「そうか?そうじゃのう」
泰然はにこにこいった。孫娘が可愛くてたまらない。
思えば、多津が榎本と文通したのは四年前(文久二年(一八六二))のことである。
榎本釜次郎(武揚)は幕府の海外留学生としてオランダに渡った。そして、四年間学問に勤しんだ。それからの帰国である。榎本の不覚は多津の年齢を聞かなかったことだ。
榎本たちはオランダで開陽丸に乗り込み、一路、極東日本国へと向かった。
そんなときに多津と榎本は何通か文通したのである。
この年「ええじゃないか」の大衆混乱がおこっていて、町では人々が仮装などして、わけもなく踊っていた。
ええじゃないか ええじゃないか
かわらけ同志がはち合うて
双方けがなきゃ
ええじやないか
ええじゃないか ええじゃないか
お前が瑣ならおれも瑣
互いに吸いつきゃ
ええじやないか
タタタッタッタッタッタータタ タタタッタータタターン
開陽丸の艦長室で、揺られながら榎本釜次郎(のちの武揚)は手作りのビールをつくっていた。口ずさむ曲は『フランス革命(ラ・マルセイエーズ)』である。
甲板では「富士山が見えた! 富士山が見えた!」と大騒ぎである。
「釜さん!」
「ん?」
「富士山が見えた! 四年ぶりの日本だ!」
そういって艦長室に飛び込んできたのは、同僚の留学生・沢 太郎左衛門である。
「そうか! ついに日本がみえたか!」
榎本ははしゃいだ。
「おおっ!富士山じゃな!日本だ!」
沢は「なにつくっているんだ?」と興味深々だ。
「これけい? ビールだ」
榎本は試験管からグラスに茶色い液体をそそいだ。「呑むか?」
「だいじょうぶなのか?」
「だいじょうぶでい。うまいはずだ」
沢にグラスを差し出す。沢は飲んだ。「……うまい!」
榎本ものんで、ふたりは「帰国の祝い酒でい」と呑んで笑った。
「しかし、釜さん。こう祝っちゃならねぇほど日本は腐ってきているようだぜ」
「腐っている?」
「なんでも、長州藩(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)がふっついて幕府を倒そうと息巻いているらしい」
「てやんでい!」榎本はいった。「そうさせないためにこうして軍艦を増やしているんでい。幕府のほうが兵力は多い………負ける訳がない。三百年続いた徳川幕藩体制は不滅だ」
「しかし、この国は未曾有の国乱の中にある。誰かが、この国をまとめなけりゃなあ。迷えるかな東洋の子羊、日本国、ヨーソロー!」
沢は溜め息をついた。
「この国をいままでまとめてきたのは徳川幕府だぜ。幕府がなくなりゃ、日本のおわりだ」
「そうはいうけどよう。釜さん。将軍は一橋さま(慶喜)だぜ」
「それが? 徳川分家とて…徳川でい」
「だが、家茂公が亡くなるとはなあ」
「まあ、痛いことだった。だが、薩長なんぞに負けるか? 幕府じゃぞ」
若き将軍・家茂亡きあとの将軍は、慶喜である。井伊直弼大老も暗殺されてしまうし………これは前途多難だと誰もが思っている。
英雄が必要だ。この国の混乱をおさめる英雄が……
「幕府は大丈夫かねぇ? 家茂公が亡くなって、後釜は慶喜公だ。お先真っ暗ってのはこのことではないかい?」
「てやんでい! 幕府にこの開陽丸や回天丸などの幕府艦隊があればだいしょうぶだ」
榎本釜次郎は強くいった。
幕府海軍が保有する軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
千代田形は十七メートル。大砲三門。
観光丸は五十八ルートル。
「船がついたわ!」
海岸で、多津は浮かぶ開陽丸をみた。勇々たる軍艦である。
白いマストが眩しい。
「釜次郎さま~っ! 釜次郎さま~っ!」
少女の多津は笑顔で、手をふった。艦長の榎本に見えたかはわからない。
それでも多津は大喜びで手を振るのだった。
榎本は陸にあがりパーティーでシャンパンを呑みながら、勝海舟と話した。
「幕府ではだめでい」
勝海舟はいった。「幕府は腐りきっている」
「勝さん、幕府の要人が何をいっているのですか? 上様は…」
「その上様が駄目だってんだ。家茂公ならまだしらずあの慶喜公ではな」
榎本はいきりたち「徳川幕府は三百年も続いた伝統があるのですぞ!」
「幕府はもう駄目だ。あとは新政府にまかせて大政奉還するしかねえ」
「勝さん! 薩長に降伏せよというのですか?!」
「そうだ」
「勝さん! あんたは裏切り者かね?!」榎本は激昴した。「幕府のほうが兵が多い。負ける訳がない。軍艦もある。薩長なぞにまける訳ない! 一戦交えて…」
「その戦をやめさせねばならんのだ!おいらは幕府の幕引きをするつもりでい」
「…幕引き? 二百六十年の徳川幕府ですぞ?」
「ああ。知行地八百万石のな」
「そう。神君・家康公から二百六十年…徳川幕府あってこその日本国でしょう?」
「幕府は死にかけている。釜さん、お前さんは留学していて江戸の幕臣たちをみてこなかったからわからねぇんだ。幕府は今や腐りきった糞以下だ」
「戦わずして降伏するは末代までの恥!」
「幕府は死にかけている。戦だけは回避せねばならねぇ。そのために俺はなんでもやるぜ。薩長新政府への投降結構。徳川だけでは共和制は無理だ。まず、俺の思うように幕引させてもらうぜ! わからねぇか釜さんよ」
「それは私利私欲であり、義じゃあねえ!」
「いや! これがおいらの勝海舟の義だ! おいらの幕引きが気に入らねえなら文句なく斬ってくれていいぜ」
「しかし…まだ幕府の軍艦も武器も薩長に負けていない!」
「だから! そのまま戦えば内戦になって長引けば外国の食い物になっちまうって話だよ! アヘン戦争の清国みたいに日本がなっちまうぜ。それでいいのかい? 釜さんよ」
榎本に勝海舟(勝麟太郎)はいった。そして、場を去った。
榎本釜次郎は呆気にとられ、シャンパンを喉に流しこんでから、
「あれは勝海舟じゃない。”負”海舟だ」と悪態をついた。
……幕府は旗本七万騎と多数の軍艦がある。薩長なぞにまける訳ない!
急進的な「佐幕派」の榎本武揚の不幸はここからはじまる。
佐藤泰然から榎本釜次郎に文が届いた。
……至急こられたし。孫娘の多津がまちわびている……
榎本釜次郎は至急、泰然の屋敷に向かった。もう夜だった。
「おお! 釜さん!」
佐藤泰然は笑顔で榎本を出迎えた。そして「これが孫娘の多津じゃ」
「多津にござりまする」多津は頭を下げた。
榎本釜次郎は知らなかった。多津がまだ十六歳になったばかりの子供だということを…「榎本、榎本釜次郎です」
頭をさげたが、多津のあまりの若さに驚いている様子だった。
ふたりは江戸の町を連れ立って歩いた。
榎本はさすがに、
「多津さんはまだ十六歳になったばかりだそうですね?」と動揺した。
「はい」
「私は知りませんでした。文通していたときに年はきかなかったものですから」
「若いとお嫌ですの?」
多津は可愛い顔を向ける。
「いやあ」榎本は苦笑して「私は今年で三十六になります。二十歳も年が違う」
「いいじゃありませんか。愛があれば年の差なんて……」
多津はますます可愛い顔をする。
「どうせ、すぐにわたしもお婆ちゃんになりますわ」
「それは…」釜次郎は笑った。「多津さんがお婆ちゃんになったら、私はもうヨボヨボのお爺さんですぐあの世行きだ」
ふたりは笑った。
観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。
そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。
観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
慶応三年年(一八六四)正月……
雪まじりの風が吹きまくるなか、大鳥圭介は江戸なまりで号令をかける。
見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から大鳥圭介のような者がでてくるのはうれしい限りだ。幕府の様式軍隊はこうして訓練していた。
訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
訓練を無事におえた大鳥は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
榎本釜次郎は実家に戻った。
父はすでに亡い。母は琴という。兄の武与と妻てい、姉の楽(通称・観月院)、妹の歌と夫の江連真三郎が正座してまっていた。
「いやあ! みなのしょうしさしぶりじゃな」
榎本は江戸訛りで笑顔をみせた。
一同は酒を汲み交わした。榎本釜次郎は何かいいかけた。すると母が「佐藤泰然先生の孫娘さんと結婚するのですね?」と口をはさんだ。
榎本武揚の実家では母の琴と兄・武(たけ)与(とも)の妻・てい、姉の観月院と妹の歌が「やれやれですねえ。これで釜次郎さんもやっと結婚ですか。」と笑顔だ。
「しかし、母上…少し問題があるのです」
「なんです?」
「どうも多津さんは二十歳も年下で、まだ十六だそうです」
「まあ、若いならいいじゃないですか。それともおばばさまみたいな熟女がいいとでも?」
「いいやあ、そういうことではないのですが…」
「ならばご先祖さまへのおわびとしてこの母がこの短刀で自害しておわびします」
「え?」
「母上、この観月院もお供を」
「ならばこの歌も」
武揚は驚いた。「おいおい。姉上に歌、母上! はやまらないでください!」
観月院は「おや。今日は仏滅ですね。これでは自決できません」などという。
母の琴は「自決に仏滅が関係あるの?」ときく。
「はい。仏滅は仏が滅亡して不吉。友引は誄(るい)が親類縁者におよぶ」
「じゃあ、だめですね」とは歌。
「母上、お昼寝なさいませ。また、お疲れになりますよ?」
「しかし…この榎本家の一大事に昼寝など…」
「姉上…」
観月院は武揚に囁いた。「母上は躁うつ病(現在の認知症)であると医者はいいます。寝ればすべてを忘れてしまいますわ」
「躁うつ病? それで母上の勝気な状態は躁うつ病のなせることか。勝さんじゃねえが、こいつはいけねえ、じゃな?」
榎本家は一同が明るい。
陰気な印象のある幕末が少しだけ華やいでみえたことだろう。
「……母上、多津さんはまだ十六歳だというじゃありませんか」
観月院は「何か不満でも?」ときいてきた。
「いやあ、しかし二十も年が違う」
歌は「いいんですよ、兄さん。女子は若くて子供を沢山産めるだけでいいんです」
「いやあ、これはまいったねぇ」
榎本釜次郎は観念した。「わかった。年は違いすぎるが、よし! 結婚だ!」
母は喜んだ。一同からは拍手がおこった。
「結婚だ! 結婚だ!」
こうして、榎本釜次郎と多津は、勝海舟と妻たみ子を晩酌人に結婚した。
初夜は榎本の実家だった。
母親や姉は夜中に心配して、物見遊山みたいな顔をしたが、「姉さま、母上」と歌が諫めた。多津は言った。
「釜次郎さま、ひとつだけ多津と約束して頂けまするか?」
「…ん? 何かのう?」
「女子はこの多津だけにして頂きたいんですの。それ以外のことは多津は我慢しますわ」
「多津……」
「…駄目ですか? やはり他の女子にも手を出しまするか?」
「いや。そんなことはねえが」
「なら。駄目ですか?」
「…いや! わかった! 女子は多津だけだ」
そういって榎本釜次郎(和泉守武揚)は多津を抱擁した。
釜次郎と多津の甘い新婚生活はたったの数日に過ぎない。
嵐の前の静けさ、であった。
榎本、三十六歳……
榎本は名をかえ、榎本和泉守武揚、榎本武揚となり引き続き開陽丸の艦長職についた。 維新の夜明け前夜のこと、である。
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