第二話 坂本龍馬
八
江戸にいるうちにいつの間にか龍馬は、
「おなじ土佐藩士でも、上士は山内家の侍であり、郷士は日本の侍じゃ」と考えるようになっていた。
土佐城への忠誠心は、土佐郷士は薄いほうである。
江戸から戻り、土佐を歩くうちに
「なんだ。これなら帰らずともよかったぜよ」と思った。土佐では先の大地震の被害がみられない。地盤がかたいのだ。
龍馬が帰宅すると、「ぼん!」と源おんちゃんが笑顔で出迎えた。
「ぼんさん、お帰りんましたか」
「帰ったきに」龍馬はいった。
「おいくりまわりの者(ぶらぶらしている人という意味。土佐弁)じゃきに」
「ぼんが帰りましたえ!」おんちゃんは家のものをよんできた。
家の者に挨拶した龍馬だったが、やはり乙女はいなかった。嫁いだという。
龍馬はさびしくて泣きたくなった。
さっそく龍馬は岡上の家へと向かった。
すると乙女が出てきて「あら? 龍馬」と娘のような声でいった。可愛い顔で、人妻のようには思えない。
「いらっしゃい! あがっていって。主人は外出中だけれど…」
「おらんとですか?」
「ええ」
龍馬は屋敷の中に入った。
「姉さんとふたりきりだと恥ずかしいぜよ」
「なんで? 姉弟じゃきによ。また昔みたいに足すもうでもやるか?」
「いや」龍馬はにやりと笑った。
「また、姉さんの大事なところをみてしまいそうじゃ」
乙女は頬を赤らめ、「他の女のあれはみとらんじゃろうな?」ときいた。
「いや。もうすこしでみられるところじゃったが、みれんかった」
「龍馬も大きくなったね。そんなことまで考える年頃になったきにか」
「もう二十歳じゃもの」
龍馬は笑った。
まもなく乙女の旦那、岡上新輔が帰ってきた。かれは龍馬に、
「おんしは壤夷派か?」
ときく。痩せた背の低いやさ男である。もう四十代のおっさんで禿げである。
また浮気して乙女に箒で叩かれては逃げた。
「違いますきに」この頃の龍馬には『譲夷』など頭にない。
龍馬は気を悪くしながら実家へと戻った。
……あげな男が旦那では乙女姉さんもかわいそうじゃ…
実家にいくと客が来る、来る。
「黒船はみたか?」
「江戸にはいい女がいたか?」
龍馬は馬鹿らしくなって「みとらん。知らん」などといって部屋にもどった。
しばらくするとお田鶴さまがやってきた。
「龍馬どのに会いにきました」
「え?」
「江戸から帰ってきたときいております。黒船のことについてしりとうごさります」
龍馬とお田鶴は部屋で向かいあって話した。世間ばなしのあと、
お田鶴は「汚のうございますね?」
「朝から顔を洗ってないですき」
「いいえ。部屋がです」彼女は笑った。
ふいにお田鶴は「幕府など倒してしまえばいいのです」などと物騒なことをいった。
「いかんきに! お田鶴さま! 物騒なことになるき」
「では、龍馬どのは幕府を支持するのですか? 幕府は腐りきっていますよ」
「……じゃきに。たしかにわしもこのままでは日本は滅ぶと思うきに。しかし、家老の妹さまがいうと物騒じゃからいわんほうがいいぜよ」
「わたしは平気です。田鶴が、このひとのためなら、というひとがひとりいます。そういうひとがいれば、田鶴は裸で屋敷を駆け回っても、幕府を批判しても怖くはありませぬ」
「………それは誰です?」
「そのひとはあまりにも子供っぽくて、田鶴のことなど何とも思っていないかも知れませぬ」田鶴は龍馬の目をじっとみた。そそるような表情だった。
……まさか。わしか?
純粋無垢な少年のような考えを龍馬はもった。お田鶴さまがわしを好いちゅう?
九
龍馬とは妙な男である。
せっかくお田鶴との逢引までことが進行したのに、見知らぬ医者の娘の屋敷に忍びこんだ。相棒の馬之助も屋敷に忍びこんだ。
「どうぞ。雨戸を外しますから」
「相手は誰じゃ?」
「お徳という娘です」
龍馬はお徳の部屋へと忍びこんだ。
「誰です?」
「龍馬というき。夜ばいにきよった」
お徳は相手をしてくれた。初めて女を抱く龍馬は興奮しきりだった。
こうして、龍馬は本当の「女」を知った。
その壮快感のまま、龍馬は江戸へと戻っていった。
江戸の千葉道場に戻ると、貞吉も重太郎も涙をにじませてよろこんで出迎えてくれた。 ……土佐もいいが、江戸っこは人情がある…
龍馬はしみじみ思った。
土佐に帰っている間に、重太郎は妻をもつようになっていた。
「お八寸というのだ。せいぜい用をいいつけてくれ」
「お八寸です。どうぞよろしくおねがいします」頭を下げる。
涼しい眼をした、色白の美女である。龍馬のすきなタイプの女性だった。
……こりゃいかん。わしがすきになってはいかんぜよ
「龍さんはどうだい? 結婚は……相手ならいないでもないぞ」
「待った!」
龍馬はとめた。佐那子の名がでそうだったからである。
十
龍馬がひとを斬ったのはこの頃である。夜、盗賊らしき男たちが襲いかかってきた。龍馬は刀を抜いて斬り捨てた。血のにおいがあたりを包む。
しかし、さすがは龍馬の剣のすごさである。相手からの剣はすべて打ち返した。
ひとりを斬ると、仲間であろう盗賊たちはやがて闇の中へ去った。
腕を龍馬に斬られた男も逃げ去った。
「なんじゃきに! わしを狙うとは馬鹿らしか」
龍馬はいった。刀の血を払い、鞘におさめた。只、むなしさだけが残った。
ひとの話しではお冴がコレラで病死したという。お徳より先に、龍馬の初めての女になるはずだった女子である。龍馬は「そうか」といたましい顔をしたという。
武市半平太はしきりに龍馬に、
「おんしは開国派か? 壤夷派か?」ときく。
「わからんぜよ。わしは佐久間先生のいうことに従うだけじゃきに」龍馬は頭をかいた。 そんな最中、飛脚から手紙が届いた。
龍馬は驚愕した。父・八平が死んだ。
「どげんした? 坂本くん」武市が尋ねた。
「父が死んだ……みたいです」
龍馬は肩を落とした。
「それはご愁傷さまだ」武市は同情して声をかけた。
「土佐に戻るのかね?」
「いいや。戻らぬき」
龍馬にはものすごいショックだった。二十二歳になっていた龍馬は、その日から翌年にかけてほとんど剣術修行をするだけだった。逸話が何もないという。
それだけ父親の死が龍馬にとってはショックだった訳だ。
ほどなく北辰一刀流の最高位である免許皆伝を受けた龍馬は、千葉道場の塾頭になった。 この当時、長州藩の桂小五郎(のちの木戸考允)は斎藤のもとで神道無念流の塾頭になり、土佐の武市半平太は桃井春蔵(鏡心明智流)の塾頭となっていた。
ひとくちに、〝位は桃井、枝は千葉、力は斎藤〝というのだそうだ。
桂小五郎は、龍馬より二つ年上の二十五歳だった。
「坂本くん。一本どうだい?」
「稽古きにか?」
「そうだ。どちらが強いかやろうじゃないか」桂小五郎には長州(山口県)訛りがない。
「あんたと勝負するちゅうんか?」
「そうだ!」
やがて、仕方なく防具をつけて、ふたりは試合をすることになった。
対峙すると、この桂小五郎という男には隙がない。龍馬には気になることがあった。
自分の胴があいているのだ。桂の剣が襲いかかる。
龍馬より桂が一枚上手のようである。
……どういう手で倒すか?
桂と対峙して、龍馬に迷いが生じた。 ……このまんまでは負けるきに!
龍馬は片手上段でかまえた。桂はびっくりする。こんな手はみたこともない。
龍馬はさそった。
……打つか?
桂に迷いが生じたところで龍馬は面を打った。
「面あり!」
あっけなく、桂の負けである。
……なんだあれはただの馬鹿胴だったのか…片手上段といい、この男は苦手だ…
桂は残念がった。
「わたしの負けだよ、坂本くん」桂は正直にいった。
「桂さんもすごかったぜよ」
ふたりは笑った。
十一
大阪から一路、龍馬は土佐に戻った。
途中、盗っ人の藤兵衛とわかれて、単身土佐にかえってきた。龍馬にとって江戸出発以来二度目に帰郷である。今度は北辰一刀流の免許皆伝ということもあって、ひとだかりができる。せまい城下では大いに人気者である。
武市半平太はすでに土佐に戻っていて、城下で郷士、徒士などに剣術を教えていた。
その塾の名は「瑞山塾」といい、すでに土佐では人気のある私塾になっていた。
瑞山とは武市の雅号のことである。
龍馬の兄・権平は「龍馬、おんしも塾を開け。金なら出してやる」という。
すると龍馬は「わしはやめときます。ぶらぶらしときますきに」という。
「ぶらぶら?」
権平は不満だった。何がぶらぶらじゃきにか? 北辰一刀流の免許皆伝者が…
龍馬は珍しもの好きである。
さっそく噂をきき、絵師・河田小竜という男のところへ向かった。
河田小竜は唯一、日本中を旅して学識をもち、薩摩の砲台や幕府の海軍訓練所にもくわしい。また、弟子のジョン万次郎から米国の知識まで得ていた。
河田邸はせまっくるしい。そのせまい邸宅にところせましと大きな絵がかざられている。「おんしは坂本のはなたれじゃなかが? 何しにきた?」
絵を描きながら、河田小竜は龍馬にきいた。
「絵師にでもなりたいきにか?」
「いいや。先生の話しばうかがいたいき、きたとです」
「話し?」
「はい。世界の話しです」龍馬はにこにこいった。
河田小竜は「しょうがないやつだな」と思いながらも、米国の男女平等、身分制度のないこと、選挙のことなどを話した。龍馬に理解できるだろうか?
小竜は半信半疑だったが、龍馬は、
「米国には将軍さまも公家もなく、男も女も平等きにかぁ……いやあおどろいた」と感心してしまった。
龍馬のこのときの感動が、日本を動かすことになるのである。
そんなとき、一大事が江戸で起こった。
……伊井大老が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されたというのだ。伊井直弼大老は幕府の代表のようなものだ。伊井大老が暗殺されるということは幕府の力がなくなるということである。
「龍馬! 一大事じゃ!」兄は弟に暗殺のことを伝えた。
………これは難儀な世の中になるぜよ……龍馬の全身の血が逆流して、頭がくらくらした。眩暈を覚えた。生涯、これほど血のわいたときはない。
……よし! わしも何かでかいことするぜよ!
龍馬はそう思い、興奮してしまった。
三 脱藩と寺田屋事件
一
上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
高杉は思考が明瞭である。
…ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
即座に手にいれた。
もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
高杉の二十三歳の若さがみえる。
奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
……壤夷以外になにがあるというのだ!
といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。
蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
藩命は冷ややかなものだった。
江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわしい話しは江戸でせい」
といって晋作の話しをとめた。
「は?」
晋作は唖然とする。
敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
……長州は口舌だが、実がない!
こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけだ!」
といった。
その後、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
晋作は江戸についた。
長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴っているだけです。
……壤夷で富国強兵をすべし!
……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
……この国を回天(革命)させるのだ!
晋作は血気盛んだった。
が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
そういっただけだ。
続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
たしかにその通りだった。
晋作は早すぎた天才であった。
誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
……わかってない!
高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
晋作はよく女を抱いた。
晋作は急に脱藩を思いたった。
脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
晋作は走った。
しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
……ちくしょう!
晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。
二
龍馬は一八六一年に「土佐勤王党」に参加したが、なんだか馬鹿らしくなっていた。
「土佐だけで日本が動く訳じゃなかが。馬鹿らしいきに」
龍馬は土佐の田舎で、くすぶっていた。
……わしは大きなことを成したいぜよ!
龍馬は次第に「脱藩」を考えるようになっていた。
……藩の家来のままじゃ回天(革命)は成らぬがぜよ。
兄・権平の娘(つまり姪)春猪はいつも「叔父さま! 叔父さま!」と甘えてくる。利発な可愛い顔立ちの娘である。
春猪には計略があった。龍馬叔父さんと知り合いの娘とを交際させる…という計である。その計は九分まで成功している。
げんに春猪は、ともかくも龍馬叔父さんを、五台山山麓の桃ノ木茶屋までおびきよせたではないか。龍馬が遠くから歩いてくる姿を念押ししてから、
「ほら!」
と、春猪は「きたわよ」とお美以にいった。
お美以は下を向いて恥かしがった。
「お美以さん、だまっていてはだめよ。ちゃんと叔父さんに好きだっていわなきゃ」
春猪はにこりといった。
「ええ」
お美以は囁くようにいった。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
九つのとき、お美以は龍馬に連れられて梅見にいっている。あのころ、龍馬は江戸から一度目にかえってきたときである。龍馬は、お美以の手をひいたり、抱き抱えたりした。しかし、なにしろ十一歳も年上である。九つのお美以としては龍馬は大人である。
しかし、女の子は九つでもおませである。龍馬を好きになった。
まあ、これは「はしか」みたいなものである。年頃の女の子は年上の男性を好きになるものだ。まだ子供であるお美以は母に、
「わたくしは、龍馬おじさまのお嫁様になります」といってあわてさせた。
今、お美以は十代の美少女である。
しかし、龍馬は彼女を子供扱いした。
「お美以ちゃんはいつまでも子供の頃のままじゃきにな」といった。
「そんな……」お美以は泣きそうな顔をした。
「龍馬おじさまは、お美以さんに御無礼ではありませんか?!」
それを知って春猪は叔父龍馬に食ってかかった。
龍馬は「子供は子供じゃきに」と笑ったままだ。
そののち龍馬は源おんちゃんにめずらしく怖い顔をして、
「春猪に、人間の娘をおもちゃにしちゅうなといってくれ」といった。
「おもちゃに?」
「いえばわかるきに。わしは忙しいので出掛ける」
龍馬は出掛けた。
春猪は複雑な気持ちでもあった。じつは春猪は龍馬叔父に好意をもっていたのである。 ……初恋……? そうかも知れない。私は龍馬おじさんのお嫁さんになりたい!
しかし、当の龍馬にはそんなことは知らない。
三
『脱藩の準備』を龍馬はしはじめた。
当然ながら脱藩には金がいる。刀もほしい。
龍馬の家は土佐きっての裕福な武家だけに、名刀がしまってある。だが、兄の権平が脱藩を警戒して、刀箪笥に錠をして刀を取り出せなくしていた。
「どげんするきにか…」
龍馬は才谷屋を訪ねた。才谷屋は坂本家の分家である。坂本家のすぐ裏にあって、こちらも商業を営んでいる。北門が坂本家、南門が才谷屋の店口となっていた。
「伯父さんはいるきにか?」
龍馬は暖簾をくぐり、中にはいった。
「ああ、坂本のぼんさま」
番頭は用心深くいった。というのも、権平に、〝龍馬が金か刀の無心に来るかもしれぬが、あれのいうことに応じてはならんぞ〟と釘をさされていたからだ。
「あるじはただいま留守でござります」
「伯母さんは?」
「いらっしゃいますが、何やら気分が悪いとおやすみでございます」
「なら、刀蔵の鍵をもってきてくれんがか」
「……それは」
「本家のわしが頼むのだぞ。わしは奥で酒飲んじょるきに、持ってきとうせ」
どんどん入りこむ。
やがて夕方になった。
「おや、めずらしい。龍馬じゃないかが」
お市おば(龍馬の祖父の従弟の妻)がいった。その姪の久万、孫の菊恵をつれて朝から遊びにきていたが、龍馬をみつけると笑顔になった。
しかし、お市おばも龍馬の算段を知っている。……脱藩はなりませぬ!
散々説教するが、龍馬は(何を寝言ば、ゆうちょるがか)と思いながら頷いているだけだ。やがて伯父の八郎兵衛が帰ってきた。
「伯父さん。刀ば見せとうせ」
「あっ、龍馬がか」
龍馬をみただけで顔色を変えた。本家からの情報をすでに掴んでいたからだ。
「刀は駄目だ。それより、家の娘を嫁にしちゅうがかか?」
「嫁などいらん。それより刀みせとうせ」
「これという、刀はないきに」
嘘だった。豪商だけあって名のある刀が蔵にたんとある。
しかし、本家との約束で、龍馬には刀を渡さなかった。
……鈍刀だけもって発つか
龍馬が帰宅すると、兄の権平が
「龍馬、才谷屋に何しにいったがぜよ?」といった。
「ほんの、遊びじゃ」
こんなに警戒されては策も尽きたか……龍馬は部屋で寝転がり一刻ばかり眠った。
手蝋燭をもってくる人物がいる。それを龍馬の部屋にいれ、行灯に火を移した。
「あぁ、なんだお栄姉さんか」龍馬はほっとした。
坂本家には女が多い。
一番上の姉が千鶴で、これは城下の郷士高松家に輿入れして二男一女の母である。三番目の姉が龍馬を育ててくれた乙女で、これも輿入れしている。
二番目の姉がこのお栄であるが、このお栄は不幸なひとで郷士の柴田家に嫁いだが離縁されて坂本家に出戻ってきていた。
……坂本の出戻りさん。
といえばこのお栄のことで、お栄は出戻りらしくせまい部屋で慎ましく生活していた。華奢な体で、乙女とくらべれば痩せていて、本当に姉妹なのか? と思いたくなる女性だ。「存じていますよ、龍馬。あなたの脱藩がどれだけ家族に迷惑をかけるかがわらないのですか?」
「そげんまでのんきじゃないき」
「脱藩したら二度とお国にもどってこられませんのよ」
「弱ったな」おとなしいお栄姉さんからこんな説教をうけるとは思ってなかった。
「じゃきに、わしは男じゃきに。野心をかなえるためには脱藩しかないんぜよ」
「野心って何?」
「回天ですき。日本をいま一度洗濯するんじゃき」
「……わかりました」
「ほな、姉さん勘弁してくださるんか」
「勘弁します。それにあなたが欲しがっている陸奥守吉行もわたくしからの贈物としてさしあげます」
「え? なんきに姉さんが陸奥守吉行もっちゅう?」
龍馬は半信半疑だった。……陸奥守吉行というのは名刀である。
「これはわたくしが離縁したとき、前の夫(柴田義芳)からもらったものです。坂本家のものでも才谷家のものでもありません。あたくしのものです」
龍馬はお栄姉さんより名刀をもらった。
これが、お栄の不幸となった。
龍馬の脱藩後、藩丁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらったことが判明し、柴田義芳は激怒した。坂本家まできて、
「なぜそなたはわしの形身を龍馬にやったのじゃ?!」とお栄をせめた。
お栄は、そのあと自殺している。
天命としかいいようがない。天がひとりの姉を離縁とし刀を英雄に授け、自殺においこんだ。すべては日本の歴史を変えるために………
乙女姉やんは「龍馬、脱藩しても我らは家族じゃきにな。家族じゃぞ」と泣いた。
龍馬も「すまんちや、すまんちや乙女姉やん、すまんちや。」と熱い涙を流した。
龍馬は脱藩するのである。
四
土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺された。
文久二年四月八日、夜、十時過ぎであったという。
この日は、夕方から雨がふっていた。東洋は学識もあり、剣のうでもすごかった。が、開国派でもあった。そのため夜、大勢に狙われたのだ。
神影流の剣で立ち向かったが、多勢に武勢、やがて斬りころされてしまう。
「吉田殿、国のために御成仏!」
東洋は殺された。
このころ、龍馬は高知城下にはいなかった。
龍馬の兄の権平は呑気なもので「龍馬はどこいったんぜよ?」などという。武市一派の東洋暗殺にさきだつ十五日前の文久二年三月二十四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。「いよいよ、龍馬は脱藩したのかのう?」
もはや公然の秘密である。
龍馬は神社にお参りしたあと、連れの沢村惚之丞とともにふもとの農家にいった。
「龍馬あ、旅支度せい」
「いや、ひょうたんひとつで結構じゃ」
ふところには金十両があり、ひょうたんには酒がはいっている。腰にはお栄からの陸奥守吉行がある。「よし! いくぜよ!」
脱藩とは登山のことであるという。
土佐の北には四国山脈がある。険しい山道、けもの道を駆けていかねば脱藩は成らぬ。山道には関所、人の目があり、みつかれば刑務所行きである。民家にもとまれない。役人に通報されるからである。寝ず、駆けどおしで、闇の中を駆けた。
………〝武士がかわらなければ日本はかわらんぜよ〝…
………〝国をかえるには自分がかわらんなきゃならぬ〝…
龍馬は、寝ず、駆けどおしで、けもの道を、闇の中を、駆けた、駆けた。
こうして、龍馬は脱藩したので、ある。
五
いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、大久保一蔵(利道)にはそれは知らなかった。
幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋へ向かった。
のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
ほどなく、戦闘がはじまった。
数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分正宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。 ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
吉之助(西郷隆盛)はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
龍馬は、京の町をあてもなく彷徨っていた。
文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
これが『生麦事件』である。
四 勝海舟
一
観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
長崎にいくことになった勝麟太郎(勝海舟)も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。
しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。
幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。
海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。
麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。
昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。
長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。
あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。
長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。
「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。
「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」
「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。
「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。
昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。
長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。
伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。
教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。
ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。
勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解したという。
麟太郎はいう。「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」
ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。
安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。
のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。
やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。
雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。
見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
彼が長崎に残留したのにはもうひとつ由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのである。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。
縁は雨の日のことである。
ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。
「これはかたじけない。おかげで助かった」
麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかったという。 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。
通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、
「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。
ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。
「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」
麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして、
「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」という。
麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。
木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、
「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。
図書は茫然として言葉も出ない。
麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。
「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。
麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。
「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」
麟太郎は反発する。
「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」
教師は渋々受け入れた。
研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えたという。
安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。
カッテンデーキは「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。
カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。
案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。
だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどったのである。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。
カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。
「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。
しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだという。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は「炊事場はいらない。皆ひとりずつ七輪をもっている」といいだした。
麟太郎は呆れて言葉もでなかった。
「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。
薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。
「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。
麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」
「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。
そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。
「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」
麟太郎はあいかわらず長崎にいた。
コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
短期間で命を落とす乾性コレラであった。
カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。
二
赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。
それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。
麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。
「長崎みたいなところで愚図愚図して時間を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」
はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。
授業は長時間教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。
「留学したい! 留学したい! 留学したい!」
麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。
彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。
毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。
「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。
数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかったという。
オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。途中で呼び止めて質問すると拒絶される。原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。
結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。
麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を冀望する書簡を送ったが、返答はなかった。
麟太郎はいう。
「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」
コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。
安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大いに驚いたという。
翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。
麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。
「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」
麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。
三
日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。
江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。
米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。
万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だったという。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。 が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。
だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。
もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。
勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。
途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていたという。
「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。
「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」
やがて米国サンフランシスコが見えてきた。
日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。
しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。
紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は
「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。
諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。
「有名なワシントンの子孫はどうしていますか?」
相手は首をかしげてにやりとし
「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。
諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。
ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。
カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。
のちの龍馬の師もそれだけ苦労した、ということだ。
四
龍馬は藩命で長州にいって久坂玄瑞や高杉晋作とあったことがある。そこで長州藩士の久坂玄瑞や高杉晋作とあっている。三千世界の烏を殺し…高杉の歌である。
「土佐の吉田東洋、長州の長井雅楽、薩摩の久光は奸俗ぞ!」
高杉はいった。「斬らねばなるまい!」
その言葉通り、武市半兵太らは岡田以蔵らをつかって吉田東洋など開国派たちを次々と斬り殺していった。
その頃、龍馬は勝海舟の館の門で見張りをしていた。
勝の娘・孝子が「お父様、あの門で毎晩見張りしているお侍さんは誰です?」ときく。 勝海舟は笑って「あいつは龍さんよ。俺を守っている気なんだろう」
龍馬はいまでも勝海舟に初対面したことを忘れない。
千葉重太郎とともに勝の屋敷を訪ねて斬り殺す気でいた。
「相手は開国派……このわしが斬る!」千葉はいった。
「お前ら俺を斬りに来たんだろ? 松平春嶽公の書状じゃあ、坂本龍馬とかいうやつは凄い面白いやつだっていうじゃねえか。どういう風に面白いんだ? おいらに見せてみろ」
「わしは…面白いことはなんちゃあ出来ませんきに」
「千葉重太郎同じく」
「じゃあ、何のためにきたんだ? おいらの弟子になろうってまで思い詰めたんだ。何かあうだろう? お前さんの志ってもんをおいらに見せろっていってんだ」
「志…そうですろうのう。わしの志は四民平等の自由な日本。日本の洗濯ですきに」
「おまえさんらどうもあんぽんたんだなあ」
勝は度肝を抜かせた。勝は地球儀をみせて「これなんだかわかるけい?」ときいた。
千葉重太郎と龍馬は目が点になった。
「ここが日本だ」ちっぽけな国だった。
「世の中にはいろいろな国があるぜ。メリケン、プロシア、清国、インド、アフリカ、イギリス…イギリスなんざ超大国といわれているがみろ! こんなちっぽけな島国だ。しかし世界に冠たる大英帝国を築いている……なぜだと思う?」
龍馬は興奮して「船……船ぜよ!」
「そうだ…軍艦だ! 日本は鎖国でも壤夷でもない。…第三の道…すなわちすみやかに開国して貿易によって儲けて軍艦を備えるこった。佐幕なんざ馬鹿らしいぜ! そのための開国だぜ」
「勝先生! わしば弟子にしてくれませんきにか?!」
千葉重太郎は呆気にとられたままだったが、龍馬は真剣だった。
「龍さんとやら……あんた面白いやさだね?」
五 壌夷
一
ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。
ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。
ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。
ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。
咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。それから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
麟太郎は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。
三
麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終
えたのち、将軍家茂に謁した。
麟太郎は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびらやかに申すがよい」
麟太郎は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
麟太郎は苦笑いした。ようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
老中の罵声が背後からきこえた。
麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
それをきいて呆れた木村摂津守が、
「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」と諫めた。
この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。
麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。
実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
彼は次々と出世をしていく。
一方、勝麟太郎は反対に、〝窓際〝に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免
職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。
過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。
四
幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
麟太郎は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と感心した。
しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
しかし、何の返答もない。
大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと麟太郎に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
一同の目が麟太郎に集まった。
〝咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する〟 という噂が広まっていた。
麟太郎が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「麟太郎、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
麟太郎は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、麟太郎はそれを知りながら無視した。麟太郎はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
海軍の策は、敵を征伐する勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と麟太郎は説く。
この年、麟太郎門下の坂本龍馬が訪ねてきた。龍馬は前年の文久二年夏、土佐藩を脱藩し、千葉定吉道場で居候していたが、近藤長次郎に連れられ、麟太郎の屋敷を訪ねてきた。 最初は麟太郎を殺すつもりだったが、麟太郎の壮大な構想をきくうちに感化され、すぐに弟子入りをした。
「いいね。気に入った。それがすなわち第三の道だ! 開国してその後、日本を先進国にするのだ! いいね、龍さん!」
「ありがとうございます、勝先生!」
「お前さんは今日から俺の弟子だ」
勝麟太郎は龍馬を幕府軍艦に乗せた。
龍馬は「おおおっ! 黒船じゃあああっ!」と興奮した。その興奮の中、手紙を書いた。
龍馬は姉・乙女に手紙を書く。〝天下一の英傑・勝麟太郎(勝海舟)先生の弟子になりました。えへんえへん〝……
五
激しい西風を受け、順動丸は正月二十三日の夕方、浦賀港に入り、停泊した。麟太郎は風邪をこじらせていた。麟太郎が風邪で順動丸の中で寝込んでしまったため、兵庫の砲台の位置についての取決めは延期となった。
この日の午後、坂本龍馬、新宮馬之助、黒木小太郎ら、麟太郎が大阪で開塾した海軍塾生らが順動丸を訪ねた。彼らは塾生仲間だった鳥取藩の岡田星之助が、壤夷派浪人と結託して、麟太郎の命を狙っているので、先手をうって斬るつもりであるという。彼等は落ち着いて話す間もなく引き揚げていった。
京は物騒で、治安が極端に悪化していた。
京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。
なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、
天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。
「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」麟太郎はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。
そんな時、「生麦事件」が起こる。
『生麦事件』とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。
「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」
麟太郎は幕府の無能さを説く。
「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」
五日には大阪の宿にもどった麟太郎は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。
宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、麟太郎は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。
「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。
公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」
龍馬はにやりと笑って、
「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」
岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、
「喜んでいきますきに!」といった。
麟太郎は幕府への不満を打ち明ける。
「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。
馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」
「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。
勝麟太郎は「そうだ」と深く頷いた。
「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」
「その通りだ」
「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」
「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」
「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。
京都に入ると、目付きの悪い浪人たちが群れをなして近付いてくるではないか。龍馬と以蔵はいつ斬りこまれてもいいように間合いを計った。
浪人が声をかけてきた。
「貴公らはいずれのご家中じゃ?」
以蔵はわめいた。
「俺の顔を知らんがか。俺は岡田以蔵じゃ! 土佐の人斬り以蔵を、おんしら、知らんがか?!」
以蔵は左手で太刀の鯉口を切り、右膝を立て、浪人を睨む。
「これはおみそれした」
以蔵の名を聞いた浪人が、怯えた表情を隠さず、引き下がった。
龍馬と勝麟太郎を振り返り、以蔵はいう。
「今の奴がなんぞほざきよったら、両膝を横一文字にないじゃったがに、惜しいことをしたぜよ」
以蔵の目が殺気だっているので麟太郎は苦笑した。
「以蔵はひとを斬るのがよほど好きなのだな。だが殺生は控えてくれよ」
勝海舟(麟太郎)がいうと、以蔵が「じゃきに、先生。わしらが浪人を追っ払わなければ先生は殺されたがったぜよ」と笑った。
龍馬が「勝先生は直心影流の剣の達人ぜよ。失礼は許さんぜよ」
「先生はいつも剣の鍔と鞘を紐で結んでいるがぜ。達人でも剣が抜けなければダメじゃきに」
勝海舟は苦笑いを浮かべて「てやんでい…はははは」と笑った。
「その通りだ! しかし以蔵さんよひと斬りはいかんぞ。本物の武士がするこっちゃねぇ。これからは勝の弟子の岡田でいてくれ」
京で、麟太郎は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
桂たちは、麟太郎の意見にことごとく同意した。
麟太郎はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、麟太郎は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動しているんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。
千葉佐那子は短刀をもって龍馬の所へきた。「佐那子を龍馬さまのお嫁さまにしてくだされ! でなければ佐那子はこれで死にまする!」龍馬は焦って、
「佐那子殿! わしは誰とも結婚せん! わしはこの国を回天させるんじゃきに!」
というばかりだ。
その頃、武市半平太の元にいた岡田以蔵は〝人斬り以蔵〝と呼ばれるほど京の都で人斬りを繰り返していた。武市のロボットのように天誅と称して尊皇攘夷に反対している浪人や侍旗本らを闇討ちしていた。武市半平太の天下のような土佐だったが、尊皇攘夷など無理難題、である。
渋沢は三菱の創始者・岩崎弥太郎と対立している。岩崎はひとりでどんどん事業を展開すべきだといい、渋沢は合本組織がいいという。
渋沢は岩崎を憎まなかったが、友人の益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが猛烈に岩崎を批判するものだから、岩崎は反対派の大将が渋沢栄一だと思ってひどく憎んだという。 こうしてのちに明治十三年、仲直りもせず岩崎は五十二歳で死んだ。
六 和睦と新選組
一
京都にしばらくいた勝麟太郎は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。
「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」
麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。
馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、
「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」
麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。
龍馬は助太刀にいかなかった。
「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。
棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。
六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。
見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎による決闘が行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。
二
大阪より麟太郎の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
何事であろうか? と麟太郎は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持っているって話さ」
「何を考えているんだか」
大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。
三
イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
幕府でも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
勝海舟は、龍馬が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃したとです。商船は逃げちゅうが、一万ドルの賠償金を請求してきたきに。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃しました。
水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきちゅうでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出たとです。
その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたとです」
アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたちゅうが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたちゅうことじゃきに」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そうじゃきに。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げちゅうが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうです。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はなかとです。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だということじゃきに」
将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。
四
由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻影のようである。
麟太郎は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
麟太郎は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる〝報復〝だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。 薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。 その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」
五
島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
奈良原は答書を持参していた。
旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
ひとりがあがり、首をかしげた。
「おいどんは持っておいもはん」
またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
シーボルトは激怒し、
「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
と、奈良原が、
「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
それもどうにも噛み合わない。
一、加害者は行方不明である。
二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。
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