維新の風と龍馬伝
長尾景虎
維新の風と龍馬伝
小説
維新の風と龍馬伝
日本をいま一度洗濯いたし申候
~龍馬暗殺百五十年目の真実~
RYOUMA! ~the top samurai ~~大政奉還せよ! 龍馬の「日本再生論」。
「薩長同盟」はいかにしてなったか。~
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
NAGAO Kagetora
長尾 景虎
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
あらすじ
黒船来航…
幕末、龍馬は土佐(高知県)に生まれた。町人郷士の坂本八平直足の末っ子である。 龍馬は「坂本の仁王様」とあだ名される乙女姉にきたえられる。それから江戸に留学して知識を得た。勝海舟に弟子いりした坂本龍馬にとって当時の日本はいびつにみえた。龍馬は幕府を批判していく。だが龍馬は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
龍馬は維新夜明け前に近江屋で暗殺されてしまう。墓には坂本龍馬とだけ掘られたという。やがて明治時代に募金によって高知県桂浜に龍馬の銅像がたてられた。 おわり
一 立志
一
――明治維新の取材とは光栄だ。本は売れるだろうか?
春のぬくぬくとした気候で、桃色の桜吹雪が幻影のようだ。
明治三十一年(一八九八)四月十四日……
私長尾 景虎の先祖・上杉鷲(わし)茂(もち)がその東京赤坂氷川の老人の豪邸に自転車で足しげく通うようになったのは明治時代も深まった頃だった。
帝大卒の上杉鷲茂は東京の新聞社勤務であったが、その老人の伝記を書くために通うようになっていた。白髪のひげ面の羊のような老人は小柄で瀟洒な家の、元・幕臣。名を勝安(かつやす)芳(よし)(勝海舟(かつかいしゅう))という。そう勝海舟、そのひとである。
「上杉さんよ、おいらのことを調べてどうするんでぃ?」
「先生の伝記本を書きます」
「それで? どこまで書いている?」
「まだ数ページ…です」
「ははは。おまえさんが書けなければ?」
「それなら遺書を書き、僕の子供、孫、ひ孫、玄孫…必ず完成させるよう遺書を書きます」
「数年後や十年後ならいいが、百年後なら遅いぜ」
上杉鷲茂は苦笑いした。海舟は「それよりも真の英雄西郷隆盛の伝記も書いているんだろう? だが、おいらの弟子の坂本龍馬こそ書くべきだな。」
先祖は瀟洒な豪邸の居間で、海舟にいわれたという。
「ほう、“維新回天”の龍馬ですか。」
「そう。坂本龍馬、おいらの自慢の弟子だった、なあ。龍馬の伝記も書いてくれ。…懐かしいなあ。それにしても福澤の奴、俺や榎本釜次郎(榎本武揚)がどんどんと出世していくもんだから嫉妬してやがるんだぜ。馬鹿野郎ってんだ。“やせがまんの説”だのくだらねえ。本にする前に原稿掲載を許可してくれとさ。これが書類だ」
「あの慶應義塾の福澤先生が?で、この、福澤先生の“やせがまんの説”に勝安芳(勝海舟)先生は何と返します?」
勝海舟は笑って言ったという。
「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張!」
「ほう。…自分のことはいいから勝手に言っていろ、と?いいですねえ~。」
勝海舟は縁側に歩き、蒼天を、遠くを見る目をして、
「…あの世で元気にしているか?龍馬。…あの坂本龍馬の人生そのものが“やせがまん”の連続だったろうなあ」と語った。
これからも坂本龍馬の人生を語ることとしよう。
二
坂本龍馬の人生を語ることとしよう。
嘉永四年七月十二日(一八五一年八月八日)……
高知土佐藩には身分があった。士農工商だけではなく、土佐では侍の中でも上士(山内家家臣・上司)と下士(元・長宗我部家家臣・部下)という身分制度である。
下士は上士の前では平伏するしきたりであった。
ある雨の時、少年である龍馬は蛙に驚いて上士にぶつかって泥だらけにしてしまった。
「何をするがぜよ?」
「こっちにこい! 手討ちにしてくれる!」
「申し訳ございません! 許してくだされ!」
「許さん!」
龍馬は手討ちにされるところだった。
だが、そんな龍馬を病弱な母親・幸(こう)が雨の中、急いで走りより、土下座して、懸命に嘆願した。
「どうか! 息子をお許しください! どうか! どうか!」
「…母上! 母上!」
「手討ちにするならこの母親のうちを! 手討ちならうちを!」
「やめや! ……下士のもんなど斬っても上士のわれらの玄関が汚れるだけじゃ」
懸命の母親の嘆願で、龍馬は許された。「…ありがとうござりまする!」
後年、やけになり上士に不埒をやらかしたのちの三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎をすくって共に橋から川にどぼん、と落ちた龍馬青年はその話をした。
「頼んでもいないのに何故わしをたすけたがじゃ」
「わしは上士の刀をおさめさせた人物を知っちゅう」
「おまんの母親か? おまんの母親は上士に殺されたも同じじゃろうが」
「憎しみではなにもかわらん。争いではなにもならないんじゃ」
「だが、この土佐では一生上士と下士の喧嘩ばかりじゃろうが」
「いや、違うぞ! 弥太郎、この土佐も日本も変わるぞ! いまに皆が自由に考え身分の差などない自由な国になる! いや、そうせんといかん!」
「どげんしたらそんな国になるがじゃ」
「それはこの国の洗濯ぜよ! 洗濯ぜよ!」
「……洗濯?」弥太郎は目が点になった。
「そう、洗濯ぜよ! 洗濯ぜよ!」
龍馬は強く言った。
三
安政六年六月四日(一八五九年七月三日)江戸・下町……
坂本龍馬はいつぞやの千葉道場の千葉貞吉の美貌の娘・お佐那(さな)さま(佐那子)と、江戸で偶然出会った。お佐那(佐那子)は徳川幕府の剣術指南補として、江戸暮らしであり、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お佐那さまお久ぶりです」
「龍馬さま……お元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。
「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」
「ああ! ほんに江戸はええぜよ!」
忘れてはならないのは龍馬とお佐那さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。抜けるような青空。
「幸せそうじゃの、お佐那さま。」
「いいえ、つまらぬ人生です。幸せそうに見えるなら今、龍馬さまに会えたからです」
「は……はあ」
「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。わたしは抜け殻、夜……心は龍馬さまに抱かれています。お前さまはわたしのことなど忘れてしまいましたか?」
「わ、忘れちょりゃせんですきに」
二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。
「お佐那さま」
「龍馬」
「なぜお佐那さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお佐那さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた男・吉田松陰である。
「なにとぞ護国大明神! この日の本をお守りくだされ! 我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお! 返事をなさった! 護国大明神! わが祈りをお聞き入れくださりますか!」
松陰は門を開けて神社内にはいり無言になった。
龍馬とお佐那も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本龍馬、こちらはお佐那さまです。すまんのう。馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
松陰は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神! このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります! 吉田松陰、もはや命は捨てております! 幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます! なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
松陰は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお佐那は唖然とするしかない。しばらくして松陰は、
「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」
といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如く何処ぞかに去った。
すると次に四人の侍が来た。
「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が龍馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに! どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。
「まあ、晋作」
「わたしは長州藩の桂小五郎と申します。捜しておられるのは我らの師吉田松陰という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む! お教え願いたい」
四人の武士は高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)であった。
龍馬は唖然としながらも、
「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(高杉晋作)は、
「おい! 逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きているぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと晋作も去った。
「黒船……?」龍馬にはわからなかった。
四
「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と岩倉具視が評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として十五代将軍・慶喜として登場した徳川慶喜。徳川三百年の幕引き役を務めるのが慶喜という運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照
著者が徳川慶喜を「知能鮮(すくな)し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通と西郷隆盛らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していた。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の〝熱い時代〝にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通・西郷隆盛らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本龍馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない! 薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す! やるかやられるかだ!」
慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・十六歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。〝負けるが勝ち〝だ」
と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
*NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用
五
――これが〝奴隷国〟ということか。
安政六年九月十二日(一八五九年十月七日)……
坂本龍馬が上海に渡航したのはフィクションである。
だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言った。
「これからは、長州は倒幕でいきますよ」
龍馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
龍馬はにやりとした。「それ坂本さん! 唄え踊れ! わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
坂本龍馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。
だが、龍馬は、江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
晋作は呆れた。「なにーい?! 勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ! 君はまんまとだまされたんだ! 目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない! こいつは我々の敵になった! 俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
高杉は考えてから「わかっていた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」龍馬は場を去った。
夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
勝海舟に越前福井藩の三岡(みつおか)八郎(はちろう)(のちの由利(ゆり)公正(きみまさ))と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大いに勉強になった。
(二○一四年四月六月、坂本龍馬の新たな書状が、個人所有の古い骨董品のテーブルの下から発見されたという。筆跡鑑定でも龍馬の書状に間違いがない。内容は明治政府の財政問題の官職を、計算と予算案に長けた三岡八郎を登用するように、というものだ)
龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。
春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であった。
そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本龍馬の顔など知る訳がない。
龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと、
「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」
容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人? ほう」
坂本龍馬は一礼した。
……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
坂本龍馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?! あんたさんに関係あらしません!」
興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか? 袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
おりょうは激高して「うちはおこも(乞食)やあらしまへん! 金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが? 幾らぜ? 三両か? 五両かへ?」
「……うちは…うちは……おこも(乞食)やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんはおこも(乞食)にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」龍馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう? お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
おりょうは答えなかった。
ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
半平太はそういって連行された。
吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に『毒まんじゅう』を差し出されるとすべてを話した。
以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本龍馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉佐那子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。
龍馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
すべては日本の国の為にである。
長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
勿論、龍馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
ここにきて坂本龍馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。
六
長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。
それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木(まき)和泉(いずみ)である。
天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を〝朝敵〝ではなく、〝官軍の藩〝とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねった。
が、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。
いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。
どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には
「まてや、久坂! もうちと考えろ! 異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は三キロメートル飛ぶが、日本の大砲は一キロメートルしか飛ばない」
「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。
それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。
四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになった。
このとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいない。
で、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。
伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと
「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。
下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。*
****
桂小五郎のちの木戸孝允は新選組から『逃げの小五郎』と呼ばれるほどおこも(乞食)や夜鷹(売春婦)や商人などに化けて京で新選組ら反長州藩士派らの凶刃から逃げていた。
坂本龍馬は京で指名手配されたが、才谷梅太郎という変名で逃げていた。
指名手配の似顔絵が似てなかったのも幸いした。
龍馬は夜鷹に化けた桂小五郎と話した。
桂小五郎は
「長州藩が追い込まれ、朝敵になったのもすべては奸族・会津・薩摩のせいだ! 久坂らの死も憎っくき薩摩のせいなんだ! 僕がこんな姿で逃げなければならなかったのか?
すべての元凶は薩摩だ!」
「じゃきに桂さん! このままじゃあ長州藩は滅びるぜよ! そこでその薩摩と同盟を結び、薩長同盟で徳川幕府を倒さねば長州は滅びるぜよ」
「あの薩摩と同盟? 馬鹿なのか? 坂本君! あんな腐れ外道の薩摩と」
「そうじゃ! その腐れ外道とじゃ! 薩摩と同盟を結ばねば幕府軍の総攻撃を受けて長州藩はおわる。長州藩がおわってもいいきにか?」
「確かに長州藩はもはや風前の灯じゃ。だが、薩摩と結んで長州藩は助かるだろうか?」
「ああ、間違いない! 長州藩は日本そのものだ! 奇兵隊とやらも使える。あとは武器じゃ! 今、長州藩は幕府に睨まれて武器を外国から買えん。そこでわしらカンパニー亀山社中の出番じゃ!
薩摩藩払いで武器を買い長州へ、長州藩は薩摩に足らんコメや食糧を薩摩にやればあいこじゃ!」
「僕は…長州藩が助かるなら薩摩とあわない訳ではない。あくまで長州藩の為ならだ」
「ホントきにか? 桂さん!」
「ああ、じゃが僕がよくとも高杉や奇兵隊や長州藩のご家老お殿様はわからんぞ」
「じゃが、桂さんは薩摩と結んでもええんじゃろう? 同盟を」
「薩長同盟か。無理じゃないか? 両藩とも親の仇のように憎み合っている」
「それはわしが何とかするき! よし、後は高杉さんじゃ」
「無理だ! 僕は恥を忍んで薩摩とあうかも知れんが、晋作は薩摩に頼るくらいなら滅亡を選ぶだろう! そういう男だ。」
「だが、薩長同盟が軽挙妄動ではないとわかる。高杉さんは馬鹿ではない」
「だが、高杉が一番薩摩を恨んでいるんだ! 松陰先生や久坂玄瑞らが死んだのも薩摩のせいだからな。」
「高杉さんを説得するぜよ! 今、長州は孤立している。幕府軍に攻められたら実は次は薩摩討伐なんじゃ」
「なにっ」
「薩摩もそれはわかっちぅ。だから西郷さんもわかるはずじゃ! 薩長同盟がなければ長州藩も薩摩藩も滅びるがぜよ! 薩長同盟で徳川幕府を倒さなければ日本は外国の植民地ぜよ」
こうして龍馬は高杉晋作を説得した。
最初、高杉晋作や奇兵隊は激しく抵抗した。いや激昂した。
「長州藩のためにあの薩摩に助けを求めろというか? 龍馬!」
「そうじゃ! しかし、薩摩に頭をさげるのじゃないき。利用するんじゃ」
「利用?」
「長州藩を滅びさせない為に薩摩を利用すればいいきに! 薩摩は武器をぎょうさん持っちゅう! 長州藩の大村益次郎(村田蔵六)さんの話じゃあ、あとミニェー銃二千から三千挺の鉄砲がなければ長州藩は幕府軍に必ず負けるいうちょった。負けたら長州藩はおわりぜよ!」
大村益次郎は「そうです。最新式の銃さえあれば長州藩は幕府軍に勝てます」
龍馬は「幕府軍総勢と戦って長州藩一藩だけで勝てるとはわしも思っちょらん。というと幕府軍の先鋒は芸州きにか? 先生。」
「いえ、芸州藩は同じ外様。先鋒を断るでしょう。ということは、徳川幕府は譜代の彦根藩辺りを先鋒にするでしょうね」
「じゃろう! ほれみい、薩摩と同盟を結ばんと勝てんがじゃ。高杉さん!」
「わしらは薩摩を憎んでいる! みろ! 草履の裏に薩摩・西郷・薩奸と書いて毎日踏みつけるほどじゃ。これが我ら長州の憎悪じゃ」
「……じゃが。長州藩がたすかるには薩摩と同盟を結んで幕府を倒すしかないがじゃ! このままでは四民平等の国が、維新が成らん! 日本の夜明けが成らんがじゃ!」
「しかし…」
「おまんがやらんで誰がやるがじゃ? 高杉さん、長州藩は日本の為に働くんじゃなかったきにか。所詮は長州藩か」
「………わかった」
七
坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。
大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬! 登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。
「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」
「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」
「あ、わしは龍馬! 土佐の脱藩浪人・坂本龍馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」
「はい。妹の久坂文です」
「ほうか。あんたがお文さんかえ? まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」
「さ…桜田門外の変?」
「おまん、知らんがか? 幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」
「えっ?!」
「まずは維新へ一歩前進ぜよ」
「…維新?」
桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は
「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は
「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」
龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」
桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。
「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」
龍馬は驚くべき戦略を口にした。
「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。
「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。
「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
八
坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。
だが、まだ徳川将軍家は残っている。
家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。
明治維新の革命まで、後一歩、である。
和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。
なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。
様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。
「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は
「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。
現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。
今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は切迫な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いた。
天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。
「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
和宮は動揺した。
「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
この頃、文久二年(一八六二年)三月十六日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。やがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
家茂は妻・和宮と話した。
小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取りがなければ徳川はほろびまする」
家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。
「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
ふたりは強く、強く抱き合った。長い抱擁……
薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら、
「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」
和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。
天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。
こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
九
長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
当然、晋作も長崎に滞在して、出発をまった。
藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていた。
二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
…それにしてもまたされる。
窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。
事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であった。
吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。
だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
……自分のことしか考えられないのである。
しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であった。
当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
晋作は上海にいって衝撃を受ける。
吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
……壤夷鎖国など馬鹿げている!
それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
しかし、すぐに捕まって処刑される。
日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
……俺には回天(革命)の才がある。
……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
高杉晋作は革命の志を抱いた。
それはまだ維新夜明け前のことで、ある。
十
龍馬(坂本龍馬)にももちろん父親がいた。
龍馬の父・坂本八平直足は養子で山本覚右衛門の二男で、年わずか百石の百表取りだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。いきおい兼業することになる。
質屋で武士相手に金の貸し借りをしていたという。
この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。坂本家は武家ではあったが、質屋でもあった。
坂本家で、八平は腕白に過ごした。夢は貿易だったという。
貧乏にも負けなかった。
しかし、八平の義父・八蔵直澄は年百石のほかに質屋での売り上げがはいる。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。
そのため食うにはこまらなくなった。
それをいいことに八平は腕白に育った。土佐(高知県)藩城下の上町(現・高知県本丁節一丁目)へ住んでいた。そんな八平も結婚し、子が生まれた。
末っ子が、あの坂本龍馬(龍馬・紀(きの)(直(なお)陰(かげ))直(なお)柔(なり))である。天保六年(一八三五)十一月十五日が龍馬の誕生日であった。
父・八平(四十二歳)、母・幸(三十七歳)のときのことである。
高知県桂浜……
龍馬には二十一歳年上の兄権平直方(二十一歳)、長姉千鶴(十九歳)、次姉栄(十歳)、三姉乙女(四歳)がいて、坂本家は郷士(下級武士)であったが本家は質屋だった。
龍馬は、表では威張り散らしている侍が、質屋に刀剣や壺などをもってきてへいへいと頭を下げて銭を借りる姿をみて育った。……侍とは情ない存在じゃきに。幼い龍馬は思った。
幸は懐妊中、雲龍奔馬が胎内に飛び込んだ夢をみた。そのため末っ子には「龍馬」と名付けたのである。
いろいろと騒ぎを起こす八平の元で、龍馬は順調に育った。幸も息子を可愛がった。
しかし、三歳を過ぎた頃から龍馬はおちこぼれていく。物覚えが悪く、すぐに泣く。
いつまでも〝寝小便〝が治らなかった。
「馬鹿」なので、塾の先生も手を焼く。すぐ泣くのでいじめられる。
そんな弘文三年に、龍馬は母を亡くした。龍馬が十二歳のときだった。
母のかわりに龍馬を鍛えたのが、「坂本のお仁王様」と呼ばれた三歳年上のがっちりした長身の姉・乙女だった。
乙女は弟には容赦なく体罰を与えて〝男〝として鍛え上げようとした。
「これ! 龍馬! 男のくせに泣くな!」
乙女は、びいびい泣く龍馬少年の頬をよく平手打ちした。しかし、龍馬はさらに泣く。
いじめられて友達もいないから、龍馬は折檻がいやで堪らない。
「泣くな! これ龍馬! 男は泣いたらいかんきに!」
乙女は龍馬を叩いたり蹴ったりもした。しかし、けして憎い訳じゃない。すべては立派な男にするためだ。しかし、近所からは〝「坂本のお仁王様」がまた馬鹿弟をいじめている〝
……などと噂される。乙女も辛かったろう。しかし、乙女はけして妥協しない。
龍馬は少年時代から孤独であった。
兄姉があり、末っ子だから当然うるさいほど甘やかされてもよさそうなものなのに、そうではなかった。龍馬が利発な子なら好かれたろう。
だが、龍馬は逆に皆に無視されることになった。それは生まれたときから顔に大きな黒子があったり、背中に黒い毛が生えていたりしたからであろう。
栄姉などは龍馬を不気味がったりもしたという。
そのうえ龍馬は少しぼ~っとしていて、物覚えが悪く、いつも泣く。剛気をよろこぶ土佐の風土にあわぬ者とし「ハナタレ」と呼ばれ、いつもいじめられた。
そんな中で乙女だけが、イライラと龍馬を叱ったり世話をやいた。
「龍馬。あなたはちゃんとした立派な男に……いいえ英雄になりなさい!」
「……じゃきに…」龍馬は泣きながらいった。
「泣くな! 男じゃろ?! あんさんは女子じゃきにか?」乙女は叱った。
続けて「あんたが生まれたとき、あたしたちはびっくりしました。黒子が顔に幾つもあって、背中にふさふさ毛が生えちゅう。じゃきにな龍馬、母上は嘆いたのよ。でも、あたしが慰めようとして、これは奇瑞よ。これは天駆ける龍目が生まれたのよ……って」
龍馬はようやく泣きやんだ。
「あとはあなたの努力次第じゃ。ハナタレのままか、偉いひとになるか」
高知で「ハナタレ」と呼ばれるのは白痴のことである。それを龍馬の耳にいれまいとして乙女はどれだけ苦労したことか。しかし、今はハッキリと本人にいってやった。
この弟を一人前の男にしなくては……その思いのまま乙女は弟をしつけた。
「あんさんは何かあるとすぐ泣くので、皆いっちゅう。金で侍の株は買えるがもともと商人じゃ。泣虫なのはあたりまえじゃきに…と。悔しくないのきにか?!」
愛情を込めて、乙女はいった。しかし、龍馬にはわからない。
乙女はいろいろな手で弟を鍛えた。寝小便を直すのに叱り、励まし、鏡川へ連れていっていきなり水の中に放りこんで無理に泳がせたり、泣いているのに何べんでも竹刀を持ち直させて打ちすえたり………いろいろなことをした。
いじめや剣道の失敗で、龍馬は夜にひとりで家の庭で黙りこくり悩んでいた。
病弱な母が歩いてきて、
「どうしたの? 龍馬………また何か悩みがあるの?」
「いやああの…ぼくは弱虫で臆病だから相手に打ちこめないの。だから、強くなれないんだ」
「そうじゃない。弱虫だからではないの! 龍馬は…優しすぎるの。」
そう微笑むとこうは指で地面に字を書いた。……〝海〝という字だった。
「いい? これは海と呼ぶの。いい? 中に母があるでしょう?」
「ああ、これは母上の字?」
「そうよ。お母さんの字。…いい?」地面に〝憂〝と書いた。
「これはうれうとよむの。この字の意味は自分だけでなく他人の悩みや哀しみを感じる心。ひとが憂と〝優〝………優しいという意味になるの。〝優〝は優れている、とも読むの。優しい事は同時に優れていることでもあるの。わかった?」
「でも、それじゃあ勝てないよ。」
「今はいいのよ。そのうち龍馬は強くなる。お母さんは龍馬を信じているわ」
「うん」
龍馬少年は頷いた。だが、優しい母はやがて労咳(肺結核)の病気で死んだ。
そんな龍馬も成長すると、剣の腕もあがり、乙女のおかげで一人前の男になった。
黒船を江戸・神奈川でみた龍馬は黒船をつくりたい、黒船にのってみたい、と思った。
地元の土佐に戻った龍馬は父親の八平や家族をつれて桂浜にいった。
龍馬は「わしは黒船を買ってどうするがかを考えたぜよ」と砂浜に世界地図を櫂で書き始める。
「わしは黒船を手にして世界に旅に出るぜよ!」
「まあ、世界?」乙女や栄姉やん義理母らは喜んだ。
「ああ! ここがわしらがいる桂浜…土佐からまず黒船で西へ。清国があるぜよ。いにしえの昔からの歴史のある国じゃそうじゃ。さらに西へ! エジウという国があるがじゃ。そこは砂の国で石で出来た山がいくつもあるらしい」
「石の山? まあ。」春猪は喜んだ。
八平は黙って眺めて、人知れず涙を流す。龍馬は、
「更に西へ! そこには最新文明のあるユーロッパがある。そこは近代文明で蒸気機関の産業革命で世界のエゲレスがあるがじゃ。さらに西へ! そこにはジョン万次郎さんもいったアメリカがあるがじゃ! 海で世界を制するがじゃ!」
「そうかそうか。」
父親の八平が死ぬのはその数か月後である。
平井収二郎の妹・加尾との初恋とわかれもあった。土佐上士と下士との諍いを和解させたのも坂本龍馬である。
吉田東洋に見込まれる龍馬だったが、東洋は土佐勤王党の武市半平太(瑞山)が大嫌いだった。
「わしはおまんの様な狭い認識しかない人間は大嫌いじゃ!」ハッキリ怒鳴って言ってやった。何が勤皇攘夷じゃ! 馬鹿者が! 今は開国じゃろう!
十九歳の頃、龍馬は単身江戸へむかい剣術修行することになった。
乙女はわが子のような、弟、龍馬の成長に喜んだ。
乙女は可愛い顔立ちをしていたが、からだがひとより大きく、五尺四、五寸はあったという。ずっとりと太っていてころげると畳みがゆれるから、兄権平や姉の栄がからかい、
「お仁王様に似ちゅう」
といったという。これが広がって高知では「坂本のお仁王様」といえば百姓町人まで知らぬ者はいない。乙女は体が大きいわりには俊敏で、竹刀を使う腕は男以上だった。末弟に剣術を教えたのも、この三歳年上の乙女である。
龍馬がいよいよ江戸に発つときいて、土佐城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、早朝からひっきりなしに祝い客がくる。客はきまって、
「小嬢さまはぼんがいなくなってさぞ寂しいでしょう?」ときく。
乙女は「いいえ。はなたれがいなくなってさっぱりしますきに」と強がりをいう。
龍馬が十二歳のときに母親が死んでから、乙女は弟をおぶったり、添い寝をしたりして育ててきた。若い母親のような気持ちがある。それほど龍馬は手間のかかる子供だった。 いつもからかわれて泣いて帰る龍馬は、高知では「あのハナタレの坂本のぼん」と呼ばれて嘲笑されていた。泣きながら二丁も三丁も歩いて帰宅する。極端な近視でもある。
父親はひとなみに私塾(楠山塾)にいれるが、毎日泣いて帰ってくるし、文字もろくすっぽ覚えられない。みかねた塾の先生・楠山庄助が「拙者にはおたくの子は教えかねる」といって、塾から排斥される。
兄の権平や父の八平も「とんでもない子供だ。廃れ者だ」と嘆く。
しかし、乙女だけはくすくす笑い、
「いいえ。龍馬は日本に名をのこす者になります」
「寝小便たれがかぜよ?」
「はい」乙女は強く頷いた。
乙女の他に龍馬の支援者といえば、明るい性格の源おんちゃんであったという。源おんちゃんは、
「坊さんはきっと偉いひとになりますきに。これからは武ではなく商の時代ですき」
のちの坂本龍馬は剣豪だったが、その剣でひとを斬り殺したことは生涯で一度もなかったといわれる。
十一
城下でも見晴らしのいい一角に、小栗流日根野弁治の道場があった。龍馬はそこで剣術をまなんだ。道場の近くには潮江川(現在の鏡川)が流れている。
日根野弁治は土佐城下でも指折りの剣術使いで、柔道にも達していた。
もともと小栗流というのは刀術のほかに拳術、柔道などを複合したもので、稽古も荒っぽい。先生は稽古のときに弟子の太刀が甘いと、「そんなんじゃイタチも斬れんきに!」
と弟子をよく叱ったという。強い力で面をうつ。
あまりに強い竹刀さばきだから、気絶する者まででてくる。
十四歳の龍馬もずいぶんとやられた口だったらしい。
毎日、龍馬は剣術防具をかついで築屋敷から本町筋一丁目の屋敷にもどってくると、姉の乙女がまっている。
「庭にでなさい! あたしが稽古をつけちゃるきに!」これが日課だった。また防具をつけなければならない。乙女はふりそでを襷でしばり、竹刀をもったきりである。
「今日のおさらい。龍馬!」
今日ならったようにうちこめという。
「女子だと思ってみくびったらいかんぜよ!」
みくびるどころか、龍馬の太刀を乙女はばんばんとかわし打ち込んでくる。龍馬は何度か庭の池へ突き落とされかける。はいあがるとまた乙女は突く。
父・八平がみかねて「乙女、いかげんにせぬか」ととめる。
すると乙女は「ちがいます」という。可愛い顔だちである。
「何が違うきにか?」
「龍は雨風をうけて昇天するといいますから、わたしが龍馬を昇天させるためにやっているのです。いじめではありませぬ」
「馬鹿。わしは龍馬が可哀相だといっているんじゃなかが。お前がそんなハッタカ(お転婆娘)では嫁入り先がなくなるというとるんじゃきに」
「……わたしは嫁にはいきませぬ」
「じゃあどうするんじゃ?」
「龍馬を育てます」
「馬鹿ちんが。龍馬だってすぐ大きくなる。女子は嫁にいくと決まっておろう」
乙女は押し黙った。確かに…その通りではある。
………龍馬は強い!
こう噂されるようになったのは日根野道場の大会でのことである。乙女も同席していたが「あれがあの弟か?」と思うほど相手をばったばったと叩きのめしていく。
まるで宮本武蔵である。
兄・権平や父・八平も驚き「これはわしらの目が甘かった。龍馬は強い。江戸へ剣術修行をさせよう。少々、金がかかるがの」といいあった。
「あの弟なら剣で飯が食えます。江戸から戻ったら道場でもやらせましょう父上」
さっそく日根野にいうと、「江戸の北辰一刀流がいいでしょう。あの子なら剣術道場をもてます」と太鼓判をおす。
「千葉周作先生のところですな?」
名前ぐらいは知っている。「そうですきに」坂本家は土佐一番の金持ち郷士だったが、身分は、家老福岡家御預郷士、ということであり、江戸にいくには藩の許しが必要だった。
八平はさっそく届けを出した。
「龍馬、よろこびやれ! ゆるしがでたぜよ!」
乙女が龍馬の部屋に駆け込んで笑顔になった。
「はあ」と龍馬が情なくいう。
「ノミが口の中にはいった…苦か」
……やはり龍馬は普通じゃない。
十二
龍馬がいよいよ江戸へ旅たつ日がきた。嘉永六年三月十七日のことである。
坂本家では源おんちゃんが門をひらき、提灯をぶらさげる。父・八平は、
「権平、龍馬はどこじゃ?」ときく。
「さぁ、さきほどからみえませんが…」
龍馬は乙女の部屋にいた。別れの挨拶のためである。しかし、「挨拶はやめた」
「どげんしたとです?」乙女は不思議がってきいた。
龍馬はいう。
「乙女姉さん、足ずもうやろう。こどものときからふたりでやってきたんだから、別れにはこれがいい。それとも、坂本のお仁王様が逃げるきにか?」
「逃げる? まさか!」
乙女は龍馬の口車にのってしまう。
「一本きりですよ、勝負は」
乙女はすそをめくり、白いはぎを出して両手でかかえた。あられもない姿になったが、龍馬はそんな姉をみなれている。
姉弟は十分ほどあらそったがなかなか勝負がつかない。乙女が龍馬の足をはねた瞬間、「乙女、ご開帳じゃ」と権平が声を出す。
「えっ?!」
その乙女の隙をついて龍馬は乙女の足をすくいあげ、乙女をあおむけざまに転がした。股の大事な部分までみえた。
「どうだ!」
「卑怯です!」
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。
「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」
十三
「まじないですから、龍馬、この小石を踏みなされ」
乙女がいうと、龍馬は「こうですか?」とちょっとふんだ。
「これで厄除けと開運になるきに」
「姉さん。お達者で。土佐にこんど戻ってくるときには乙女姉さんは、他家のひとになっちゅうますろう」
乙女は押し黙った。しかし、龍馬は知っていた。乙女には去年の冬ごろから縁談があった。はなしは進み、この夏には結婚するという。相手は岡上新輔という長崎がえりの蘭学医で、高知から半日ばかりの香美群山北という村に住んでいるという。
ただ背丈が乙女より三寸ほど低いのが乙女には気にいらない。
それでも乙女は、
「こんどかえったら山北へあそびにいらっしゃい」とうれしそうにいった。
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。
「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」
土佐は南国のために、唄が好きなひとがおおく、しかも明るいテンポの唄しかうけない。どんな悲惨な話しでも明るく唄ってしまう。別れでも唄を唄えといわれ、
「わしは歌えんきに」
と龍馬は頭をかいた。もう旅支度も整い、出発を待つだけである。
「では、龍馬おじさまにかわって私がうたってしんぜまする」
といったのは兄・権平の娘の春(はる)猪(い)だった。春猪は唄がうまい。
そろそろ夜が明ける。龍馬が今から踏み越えようとしている瓶岩峠の空が、紫色から蒼天になりはじめた。今日は快晴そうである。
道中、晴天でよかった。
龍馬は、阿波ざかいのいくつもの峠を越えて、吉野川上流の渓谷に分け入った。
渓谷は険しい道が続く。
左手をふところに入れて歩くのが、龍馬のくせである。右手に竹刀、防具をかつぎ、くせで左肩を少し落として、はやく歩く。
ふところには銭がたんとある。龍馬は生まれてこのかた金に困ったことがない。
船着き場の宿につくと、この部屋がいい海が見える、と部屋を勝手にきめて泊まろうとする。「酒もってきちゅうきに」龍馬は宿の女中にいう。
土佐者には酒は飲み水のような物だ。
女中は「この部屋はすでに予約がはいっておりまして…」と困惑した。
「誰が予約しちゅう?」
「ご家老さまの妹さまのお田鶴さまです」
龍馬は口をつぐんでから、
「なら仕方ないき。他の部屋は?」
「ありますが海はみえませぬ」
龍馬は首を少しひねり、
「ならいい。わしは浜辺で寝るきに」といって浜辺に向かった。
お田鶴はそれをきいて、宿から浜辺へいった。
「まぁ、やはり坂本のせがれじゃ」
お田鶴は、砂の上にすわった。土佐二十四万石の家老の妹だけあって、さすがに行儀がいい。龍馬は寝転んだままだ。
「龍馬どのとおっしゃいましたね?」
「そうじゃきに」
「江戸に剣術修行にいらっしゃる」
「そうじゃ」
「兄からいろいろきいています」
龍馬は何もいわなかった。
坂本家と福岡家は、たんに藩の郷士と家老というだけの間柄ではない。藩の財政が逼迫したときは、家老は豪商の坂本家に金をかりてくることが多い。このため坂本家は郷士の身分でありながら家老との縁は深い。
ちなみに坂本家の先祖は、明智左馬之助光春だったという。明智左馬之助は、信長を殺
した明智光秀の親類で、明智滅亡後、長曽我部に頼って四国に流れついた。
そこで武士にもどり、百石の郷士となった。
坂本という、土佐には珍しい苗字は、明智左馬之助が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことからつけられたのだという。
「龍馬どの。こんなところにいられたのでは私が追い出したように思われます。宿にもどってください」と、お田鶴がいった。
「いいや。いいきに。いいきに。わしはここで十分じゃきにな」
龍馬はそういうだけだ。
船が出たのは翌朝だった。
船に龍馬とお田鶴と共の者がのった。
「龍馬殿、この中にいられますように」
「いいきにいいきに」龍馬は屋形船の外にいってしまった。好きにさせろ、という顔つきであった。そのあと老女のはつがお田鶴にささやいた。
「ずいぶんとかわった者ですね。噂では文字もろくに読めないそうですね」
「左様なことはありません。兄上がもうされたところでは、韓非子というむずかしい漢籍を、あるとき龍馬どのは無言で三日もながめておられたそうです」
「三日も?」はつは笑って
「漢字がよめないのにですか?」
「いいえ。姉の乙女さんに習って読めますし書けます。少々汚い字だそうですが」
「まんざら阿呆でもないのでございますね」
老女は龍馬に嫌悪感をもっている。
「阿呆どころか、その漢節を三日もよんで堂々と論じたそうです。意味がわからなかったようですけれど……きいているほうは」
「出鱈目をいったのでしょう」
老女は嘲笑をやめない。お田鶴はそれっきり龍馬の話題に触れなかった。
「わしを斬るがか?!」
龍馬はじりじりさがって、橋のたもとの柳を背後にして、相手の影をすかしてから、刀を抜いた。夜だった。月明りでぼんやりと周りが少しみえる。
……辻斬りか?
龍馬は「何者だろう」と思った。剣客は橋の真ん中にいるが、龍馬は近視でぼんやりとしか見えない。よほど出来る者に違いない。龍馬はひとりで剣を中段にかまえた。
橋の向こうにぽつりと提灯の明りが見える。龍馬は、
「おい! 何者じゃきにか?!」と声を荒げた。
「人違いじゃなかがか?!」
ところが相手は、声をめあてに上段から斬りこんできた。鍔ぜりあいになる。しかし、龍馬は相手の体を蹴って倒した。相手の男は抵抗せず、
「殺せ!」という。
ちょうど町人が提灯をもって歩いてきたので、この男の顔ば明りで見せちゅうきに、と龍馬は頼んだ。丁寧な口調だったため町人は逃げる時を失った。
「こうでござりますか」
すると龍馬は驚愕した。
「おんし、北新町の岡田以蔵ではなかが!」
後年、人斬り以蔵とよばれ、薩摩の中村半二郎(のちの桐野利秋)や肥後の河上彦斎とともに京洛を戦慄させた男だった。
以蔵は「ひとちがいじゃった。許してもうそ」と謝罪した。
「以蔵さん、なぜ辻斬りなんぞしちゅっとか?!」
ふたりは酒場で酒を呑んでいた。
「銭ぜよ」
「そうきにか。ならわしが銭をやるきに、もう物騒な真似はやめるんじゃぞ」
「わしは乞食じゃないき。銭なら自分で稼ぐ」以蔵は断った。
「ひとを斬り殺してきにか?!」龍馬は喝破した。以蔵は何もいえない。
龍馬は「ひとごろしはいかんぜよ! 銭がほしいなら働くことじゃ!」といった。
ふたりは無言で別れた。(以蔵は足軽の身分)
龍馬は、もう昔の泣き虫な男ではなかった。他人に説教までできる人間になった。
……これも乙女姉さんのおかげぜよ。
龍馬は、江戸へ足を踏み入れた。
二 黒船来る!
一
伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から四ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという(この小説の設定。井上馨は伊藤博文の哈爾浜遭難事件後、病気を抱えながら享年八十歳で死ぬ。死ぬのは伊藤博文の方が先である。死ぬ、というより伊藤は暗殺だが)。
彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
尊皇攘夷など荒唐無稽である。
二
観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。
三
坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。
だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。
久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが龍馬であった。
「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」
大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。
だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。
京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。
大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
四
龍馬は江戸に着くと、父に教えられた通りに、まっすぐに内桜田の鍛冶橋御門へゆき、橋を渡って土佐藩邸で草履を脱いだ。
藩邸にはすでに飛脚があって承知しており、龍馬の住まう長屋へ案内してくれた。
部屋は三間であったという。
相住いの武士がいるというがその日は桃井道場に出向いていて留守だった。龍馬は部屋にどすんと腰をおろした。旅による埃が舞い散る。
部屋はやたらときれいに掃除してある。しかも、机には本が山積みされている。
「こりゃ学者じゃな。こういう相手は苦手じゃきに」
龍馬は開口したままいった。「相手は学者ですか?」
「いいえ。剣客であります」
「郷士ですな?」
「いえ、白札です」
白札とは、土佐藩独自の階級で、準上士という身分である。
「わかった。相住むのはあの魚みてぇな顎の武市半平太じゃな」
龍馬は憂欝になった。正直、藩でも勤勉で知られる武市半平太と相住まいではやりきれないと思った。
武市半平太を藩邸の者たちは「先生」と呼んでいた。
「なんじゃ? 大勢で」
顔はいいほうである。
「先生の部屋に土佐から坂本龍馬という男がきました」
「龍馬がきたか…」
「龍馬という男は先生を学者とばいうとりました」
「学者か?」武市は笑った。
「あの魚みてぇな顎……などというとりました。許せんきに!」
「まあ」武市は続けた。
「どうでもいいではないか、そのようなこと」
「天誅を加えまする」
「……天誅?」
「ふとん蒸しにしてくれまする!」
武市半平太は呆れて、勝手にせい、といった。
なかまのうちひとりが龍馬の部屋の襖をあけた。すると驚いた。ふんどし姿の裸で、のっそりと立っている。
「なんじゃ?! 坂本その格好は?!」
「わしは馬鹿じゃで、こうなっちゅう」
「このお!」
大勢がやってきた。
「かかれ!」
龍馬に大勢でとびかかった。行灯がかたむき、障子が壊れ、龍馬は皋丸をけったりしたため気絶する者まででる。四半刻ばかりどたばたとさわいでいるうちにヘトヘトになり、龍馬はふとん蒸しで、みんなが乗りかかった。息ができず、死ぬような苦しみになる。
「もうよかが! あかりをつけいや」
武市半平太がやってきていった。不機嫌な声でいった。龍馬は解放されると部屋を出ていった。
五
「なぜ先生は龍馬の無礼を咎めなかったのです?」
と、事件のあときくものがあった。
武市半平太は「徳川家康も豊臣秀吉も、だまっていてもどこか愛嬌があった。その点、明智光秀にはふたりより謀略性があったが、愛嬌がなかったために天下をとれなかった。
英雄とはそういうものだ。
龍馬のような英雄の資質のあるものと闘っても無駄だし、損でもある」
「龍馬は英雄じゃきにですか?」
「においはある。英雄になるかも知れぬ。世の中わからぬものぞ」
そのころ「英雄」は、千葉道場で汗を流していた。
竹刀をふって、汗だくで修行していた。相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で、龍馬より一つ年上の眼の細い青年である。
そんな剣豪を龍馬は負かしてしまう。
「一本! それまで!」貞吉が手をあげる。
重太郎は「いやあ、龍さんにはかなわないな」などという。もう、親しい仲になっている。龍馬は友達をつくるのがうまい。
江戸での月日は早い。
もう、龍馬は免許皆伝まじかである。
そんな千葉道場主の貞吉の息子重太郎には、佐那子という妹がいた。二つ違いの妹であり、幼少の頃より貞吉が剣を仕込み、免許皆伝とまではいかなかったが、才能があるといわれていた。色が浅黒く、ひとえの眼が大きく、体がこぶりで、勝気な性格だった。
いかにも江戸娘という感じである。
そんな娘が、花見どきの上野で暴漢に襲われかけたところをおりよく通りかかった龍馬がたすけた、という伝説が土佐にはあるという。いや、従姉だったという説もある。
龍馬は佐那子を剣でまかした。
その頃から、佐那子は龍馬に恋愛感情を抱くようになる。
佐那子が初めて龍馬をみたときは、かれが道場に挨拶にきたときだった。
「まぁ」と佐那子は障子の隙間から見て「田舎者だわ」と思った。
と、同時に自分の好むタイプの男に見えた。ふしぎな模様の入った袴をきて、髪は篷髪、すらりと背が高くて、伊達者のようにみえる。
「佐那子、ご挨拶しなさい」父に呼ばれた。
「佐那子です」頭を下げる。
「龍馬ですきに。坂本龍馬ですきに」
「まぁ、珍しい名ですね?」
「そうですろうか?」
「ご結婚はしてらっしゃる?」佐那子は是非その答えがききたかった。
「いや、しとらんぜよ」
「まあ」佐那子は頬を赤らめた。「それはそれは…」
龍馬は不思議そうな顔をした。その後、佐那子の体臭を鼻で吸い、〝乙女姉さんと同じ臭いがする。いい香りじゃきに〝と思った。
佐那子はそのときから、龍馬を好きになった。
六
この頃、龍馬は佐久間象山という男に弟子入りした。
佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
佐久間象山が麟太郎(勝海舟)の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。
嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎(勝海舟)は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であった。
次の日の早朝、朝靄の中、龍馬が集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。
「いゃあ、遅刻したぜよ」と坂本龍馬がやってきた。
立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い、遅い」と笑った。
「すいません佐久間先生」龍馬はわらった。
この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい坂本!」と龍馬にいった。
「黒船をみてみたいか?」
「は?」龍馬は茫然としながら「一度もみたことのないもんは見てみたいですきに」
「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」
象山は「よいよい!」と笑った。
象山は馬にのった。龍馬は人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。
途中、だんご屋で休息した。
坂本龍馬はダンゴを食べながら
「先生は学識があるきに、わしは弟子入りしたんじゃ」
「おい坂本」象山はいった。
「日本はこれからどうなると思う?」
龍馬は無邪気に「日本はなるようになると思いますきに」と答えた。
「ははは、なるようにか? ……いいか? 坂本。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」
佐久間象山は説教を述べた。
やがてふたりは関所をパスして、岬へついた。龍馬は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!
浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は
「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。龍馬は丘の上に登った。近視なので眼を細めている。
「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」
全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。龍馬は頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。
象山は
「坂本。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。
七
その年も暮れた。
正月から年号が嘉永から「安政」にかわり、龍馬も二十歳になった。
龍馬にとっては感慨があった。
……坂本の泣き虫も二十歳か……
われながら自分を褒めたい気分にもなる。しかし、女をしらない。相手は「坂本さん! 坂本さん!」とそそってくる佐那子でもよかったが、なにしろ道場主の娘である。
女を知りたいと思うあまり、龍馬はお冴のわなにはまってしまう。
国元でも「女との夜」についていろいろきいてはいた。まるで初陣のときと似ちゅう… とはきいていたが、何の想像もつかない。
遊郭でお冴に手をひかれふとんに入った。お冴は慣れたもので龍馬を裸にして、自分の服も脱いで「坂本さま」と甘い声をだす。
そんなとき、龍馬は妙なことをいいだす。
「……わしの一物が動かんぜよ」
「まぁ、本当」
お冴は笑った。
「これじゃあ……お冴さんのあそこを突くことも出来んきに…」
龍馬は動揺した。お冴は父親の仇を討ってくれとも頼んだ。
それっきり、龍馬は夜の行為ができないままだった。
佐那子はそれをきいて笑ったが、同時に嫉妬もした。
「あたしが相手なら大丈夫だったはずよ」佐那子は龍馬にホレていた。夜のことまで考えていたくらいである。
お冴とは二度目の「夜」をむかえた。
こんどは勃起したが、突然、大地震が襲いかかってきた。
安政元年十一月三日、江戸、相模、伊豆、西日本で大地震がおこった。
「いかん」
龍馬はとっさに刀をひろいあげて、「お冴、中止じゃきに」といった。
立っていることもできない。
大揺れに揺れる。「逃げるぜよ! お冴!」龍馬は彼女の手をとって外にでると、遊郭の屋敷が崩壊した。
「あっ!」
お冴は龍馬にしがみついた。
……これは難儀なことになっちゅう。土佐もどうなったことじゃろう…
龍馬の脳裏にそんな考えがふとよぎった。
……土佐に帰ってみよう
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