第二話 西郷隆盛

         四 薩英戦争



     一

 文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。

 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。

「さがれ! 無礼ものどもが!」

 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。

 これが『生麦事件』である。


  京都にしばらくいた勝麟太郎(勝海舟)は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。

「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」

 麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。

 馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、

「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」

 麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。

「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。

 棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。

 六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。

 見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎による決闘が行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。その後、それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。


     二

「あにさん! ご無事で!」

 島から帰った吉之助を、弟の慎吾といとこの大山巌が鹿児島で出迎えた。

 抱き合った。その後、吉之助は

「村田新八どんももどしとせ」と頼んだ。

 ほどなく、村田新八も鹿児島へ帰還させられた。

 西郷隆盛の勝負は、いよいよここから始まった。


    三

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめた。

 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。

 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。

 幕府でも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。

 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職した。

 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。

 麟太郎は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。

「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。

 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。

 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」

 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。

「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」

「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」

「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」

 将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。

 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。


    四

 由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻影のようである。

 麟太郎は矢田堀、新井らと話す。

「今夜中に出航してはどうか?」

「いいね。ななめに伊豆に向かおう」

 麟太郎は家茂に言上した。

「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」

 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。

 四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。

 ……まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ……

 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる〝報復〟だった。

フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。

 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。

 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。

 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。

 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。

 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。

  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。

 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。

だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。

あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。

 その日、生麦でイギリス人を斬り殺した奈良原喜八郎が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。

 彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきた。

 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。

 ニールは応じなかったという。

「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」


   五

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である奈良原喜八郎を呼んだ。

「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」

 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していた。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいた。

 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。

 奈良原は答書を持参していた。

 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。

「あなた方はどのような用件でこられたのか?」

「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」

 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。

「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」

 ひとりがあがり、その後、首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」

 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。

 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。

 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。

 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。

「いいでしょう。全員乗りなさい」

 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。

 薩摩藩士らは強くいった。

「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」

 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。

「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」

 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩・家老の川上に答書を届けた。

 それもどうにも噛み合わない。

 一、加害者は行方不明である。

 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。

 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。


     六

 キューパー総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。

 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。

 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。

 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。

 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。

 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。

 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であった。

 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。

 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。

 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だった。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。

 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。

 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシャンパンで祝った。

 イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。

薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに

「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。

「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみていたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。

 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわっていねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」


     七

 幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。

 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。

 しかし、憤慨するものはいなかった。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


 この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に〝英雄〟となった。

彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。

 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。

まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。

しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。

 その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。


    八

 文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。

それは、京にいく徳川家茂の身辺警護をする浪人募集というものだった。

 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。

 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。

 会合場所は、小石川伝通院内の処静院でおこなわれた。

 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、その後、新選組となる。

 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであった。

が、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。

江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。

 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。

将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。

そこで死んでもたいしたことはない〝浪人〟を使おう……という事になったのだ。

「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」

 土方は江戸訛りでいった。

「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。

 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。

 近藤が「総司はまだ子供だからな」と、沖田が、

「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。

「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」

 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。


    九

「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。

 処静院での会合は寒い日だった。

場所は、万丈百畳敷の間だ。

公儀からは浪人奉行鵜殿翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだ。

 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。

 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。

 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。

 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。

口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。

「あれは何者だ?」

 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。

この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、

「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」

「なぜわかるんだ?」

「だって……すごい訛りですよ」

 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は

「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。

「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。

「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


    十

 隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。

隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。

近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。

 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。

 浪人隊は黙々と京へと進んだ。

 浪人隊はやがて京に着いた。

 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。

「江戸へ戻れ」という。

「これより浪士組は朝廷のものとなった!」

 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ壤夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱藩弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとした。

 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。

 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。

 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。

「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。

 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。

(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって〝英雄〟となる)


    十一

 壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!

 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。

芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。

近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。

 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、

「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。

 こうして、容保は書をかく。

 ………新選組

「これからは、壬生浪人組は〝新選組〟である! そう若者たちに伝えよ!」

 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートした。

 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。

近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。

このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。

 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができた。

が、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。

 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。

 吉之助は「新選組」のことをきいて、

「馬鹿らしかでごわす」と思った。

「そげな農民や浪人出身の連中に身辺警護をまかせなければならんほどの悪い世になったでごわすか?」

 西郷にはそれが馬鹿らしい行為であるとわかっていた。

 だが、京は浪人たちが殺戮の限りを尽くしている。浪人でもいないよりはマシだ。

 そんなおり幕府が長州藩の追放を決定した。薩摩の謀略らしい……

「世の中、どげんなっちゃろう?」吉之助は頭をひねった。              

         五 禁門の変





    一

 勝海舟は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。

 麟太郎(勝海舟)は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。

「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。

 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」

 幕府の重役をになう象山と協力して、麟太郎は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。

 そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。

「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」


             

 長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。

 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期にはあの高杉晋作がいた。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。

 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。

 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?

 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。

 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだ。こうして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。

 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……

 松陰は思う。

 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……

 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。その後、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。

 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。

 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。

 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。

 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。

 ……吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

 松蔭の処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえた。

「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」

 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

 文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。

紅蓮の炎が夜空をこがすほどだった。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。

 しかし、彼は〝尊皇壤夷〟で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれた。

 京での炎を、麟太郎も龍馬も目撃した。

 久坂玄瑞は奮起した。

 文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長            

州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。

 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。

「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じゃっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」

『二心公』ともいわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。

久坂玄瑞には屈辱だったであろう。

 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。

 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。

 元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。

 軍の強攻派は

「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。

 久坂は首を横に振り、

「それでは朝敵となる」といった。

 怒った強攻派たちは

「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。

 久坂玄瑞は沈黙した。

 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。

 七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。

「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。

 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、

「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。

 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。

 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。

 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。

 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五。

 火は京中に広がった。こうして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。

 吉之助の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、吉之助は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのり大量殺戮を繰り返している。

 吉之助は有志たちの死を悼んだ。


    二

 近藤と土方は喜んだ。〝禁門の変〟から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。

 銭はあればあっただけよい。

 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。

 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。

 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような〝スターリン式恐怖政治〟で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。

 そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このまんまではわが国は外国の植民地じゃっどん!」

 吉之助は危機感をもった。

「そげなこついうても先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」部下はいった。

「そうでもそ……」吉之助は溜め息をもらした。


    三

 慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。

 それに対応したのが、高杉晋作だった。

「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」

 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分を問わず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。

高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。

「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。

 幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。

「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」

 その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。               

 ……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……

「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあった。高杉は、

「これより、長州男児の意地をみせん!」

 こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。

(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)

 その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。


    四  

幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」

 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。

だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。

久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。

「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。

だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。

しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。

だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。

京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。

大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。

 龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が

「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」

 西郷は承諾した。

「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」

 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。

 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。

 龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」

 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」

 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。

 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」

「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。

「なんでもええきに。それ次は頬ずりじゃ。抱き合え」

「……頬ずり?」桂こと木戸は困惑した。

 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。

 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。

そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。

長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。

 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。

 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。

 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。

 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。

元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。

この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。

 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。

 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出。

龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。

重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。

この縁で龍馬とおりょうは結婚する。

こうして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。

龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。

グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。

長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。

が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。

晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。

当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。

でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。

「WHY? 何故です?」グラバーは首を傾げた。

「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」

晋作はそういうのみである。

その後、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。

龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。

この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。

療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。

これが日本人初の新婚旅行である。

のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、

「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」

と志を叫んだ。

 龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。


    五

 勝海舟はいよいよ忙しくなった。

 幕府の中での知識人といえば麟太郎(勝海舟)と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。

「龍馬、上方の様子はどうでい?」

 龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。

「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。

「全部、日本国のためですきに」

 龍馬は笑いながらいった。

 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?

 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。

 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!

 そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。


    六

 龍馬は宵になると、後藤象二郎と話した。

 場所はきまって、なじみのお慶の清風亭である。

 三日後に後藤は、

「いやあ、まいった。坂本さんはそれほど土佐藩に戻るものが嫌じゃきにか?」ときく。

「そうじゃきに」         

 龍馬は顎をなでながら苦笑した。

「世に浪人ほど楽な身分はない。後藤くんは浪人になったことがないからわからないきに」

「かといって、あの同盟まで成立させたかのひとが、只の浪人で、新政府の中に名前すらないとはどげんことじゃきにか?」

「わしは役人になりとうて日本中を走りまわった訳じゃないきに」

「じゃきに…」

 後藤は口をつぐんだ。こりゃあまいった、と思った。英雄とはこういうものなのか?

 龍馬と社中を土佐藩にくみいれて、土佐の一翼を担ってもらう気だったが……

 龍馬からすれば、なにをいまさらいってんだ、というところだろう。

「藩士は御免じゃきに」

 龍馬ははっきり言った。龍馬は私立軍艦隊をつくり、天下に名を馳せると野望を語った。そのうえ貿易もする。後藤は、

「坂本さんは日本の政権に野望をもっとるですがか?」と尋ねた。

「いや」

 龍馬は後藤をみた。この男はそんな推測までするのか。

「わしの野望は政ではない。貿易でこの日本を『貿易立国』とするんぜよ」

「貿易?」

「そうじゃ。日本の乱が片付けば、この国を去り、船を太平洋や大西洋に浮かべて、世界を相手に商いがしたいきに」

 後藤は驚いて目を丸くした。こんな大法螺を夢見ている男が日本にいるとは思わなかったからだという。この壮大な夢の前では、壤夷や佐幕や薩長連合などちっぽけなものに見えてきた。ましてや土佐藩士にもどれ……などというのはまさにちっぽけだ。

「後藤さん。これはどうじゃ?」

 龍馬は紙に墨で書いた。

「海援隊」……

「は?」

「意味は、海から土佐藩を援ける、ということじゃ。海とは、海軍、貿易じゃき。海援隊は土佐藩を援けるが、土佐藩も海援隊を援けるがぜよ」

「つまり同格ということじゃきにか?」

「ああ、そうじゃ」

「じゃきに、藩主とおんしが同格なのか?」

「あたりまえだ。アメリカでは身分制度などない。大名も殿様もない」

「声が大きい! 危険な思想じゃきに」

「その為には倒幕し、大名もそののちなくす」

「大名を? 藩をなくすちゅうがか?」

「時期がくれば……大名も藩もなくす。皆が平等な日本にしたい」

「おのれは……すると龍馬。おんしの勤王は嘘か? 天子さまもいらんと?」

「そげんこついうとらん。天子さまは別じゃ」

 後藤は龍馬という男が怖くなってきた。

 意見があわないはずだ。

 後藤は龍馬のいう「海援隊」を土佐藩の支配下におこうとし、龍馬は藩と同格のかたちでいこうとしている。         

「まんじゅうの形はどうでもいいき。舌を出して餡がなめられればいいんじゃきにな」

 龍馬はいった。餡とは本質であり、利益のことだ。

 後藤とは会ったが、多くは語らず、龍馬は去った。そんな龍馬に、浅黒い顔の中岡慎太郎というやつが訪ねてきた。

(いいやつがきたきに)

 中岡慎太郎は「海援隊じゃけでは片落ちじゃ。陸援隊もつくるべきじゃ」といった。

「それはいいきにな」

 龍馬は頷いた。その陸援隊の隊長をこの中岡慎太郎にさせればよい。


    六

 時代は刻々とかわっていく。

 その岐路は孝明天皇の死だった。十二月十二日に風邪をひいて、寝込んでいたが、汗を沢山かき、やがて天然痘の症状がでた。染るのではないか……公家たちは恐れた。

 孝明天皇は最大の佐幕派であった。

 その孝明天皇の崩御は、幕末最大の衝撃だった。龍馬は残念がった。

 しかし「これで維新の夜が明けるぜよ!」とも思った。

 土佐藩は書状で、土佐藩に戻るように、と請求してきた。

「今更なにをいってやがる!」

 龍馬は土佐屋の奥座敷でそれを読み、まるめてポイと捨てた。藩というものの尊大さ、傲慢さに腹が立ったのだ。

「海援隊」はついに成った。

 海援隊の規律、船中八策には、

     第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出すべき候

     第二策 上下議員政局を設け、議員を置いて万策を参議で、決定する候

            ……… 他

 と、ある。

 福岡藤次は、「船はどげんする?」ときいた。

 この件も五分でかたづいたという。薩摩藩を保証人として大浦お慶から一万二千両を借りて手にいれた大極丸の借金を、土佐藩が肩代わりすることになった。

 土佐藩との交渉もおわり、亀山社中が「海援隊」と改名された。

 紀州人陸奥陽之助が、「妙な気持ちだ」と龍馬にいうと、龍馬は、

「そのこころは安心やら馬鹿らしいやら」とおどけた。

 陸奥は大笑いした。



 ……〝世の生物たるものみな衆生なればいずれを上下とも定めがたし、今生の生物にしてはただ我をもって最上とすべし。皆が平等な個人。デモクラシー。新しい国づくりはライフワークへ。万物の時を得る喜び〟……

 ……〝戦争回避、血を流してなんとするのか〟……

 ……〝世のひとは我を何ともゆえばゆえ。我なすことはわれのみぞ知る〟……


   七

「おれはこれでひっこむきに」

 龍馬は新政府にくわわらなかった。

 陸奥は「冗談ではない」と驚いた。龍馬は薩長連合を成し遂げ、大政奉還を演じ、新官制案をつくった。当然、新政府の主軸に座るべき人間である。なのにひくという。西郷隆盛や大久保利道や岩倉具視や木戸考允(桂小五郎)にすべて譲ってしまうという。

「すべて西郷らにゆずってしまう」

 龍馬は続ける。

「わしは日本を生まれかわらせたかったんじゃきに。生まれかわった日本で栄達するつもりはない。こういう心境でなきゃ大事業ちゅうもんはできんき。

わしがそういう心境でいたからこそ、一介の浪人にすぎなかったわしのいうことを皆がきいてくれたんぜよ。大事を成し遂げたのも、そのおかげじゃ。

 仕事ちゅうもんは全部やっちゅうのはいかんきに。八分まででいい。あとの二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまうといいきに」

 龍馬は二本松邸の西郷吉之助(隆盛)の元へいった。

「坂本くんでごわさんか」

 西郷は笑顔になった。「西郷先生、新政府を頼みまするぞ」

「じゃっどん、なにごぜ新政府の名簿におんしの名がないのでごわす?」

「わしは役人になりたくないのですき。わしは「海援隊」で世界にでるぜよ」

「そげなこついうて……世界とばいうとがか?」

「そう世界じゃきに」

「坂本さんは面白いひとでごわすな?」西郷は笑った。

「西郷先生、旧幕臣たちが会津や蝦夷(北海道)にまでいっちゅうから早めに平和利にかたづけて……新政府で日本をいい国にしてもうせ」

 龍馬はしんみりいった。

 西郷は「なにごて。まるで別れをいっているようでごわすな。本当に世界にいくのでごわすか?」

と妙な顔になりいった。

 龍馬は答えなかった。

 龍馬が考えた新政府のメンバーは以下である。


関白   三条実美

 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)

 大蔵卿  大久保利通(薩摩)  

 文部卿  大木喬任(佐賀)    

 大蔵大輔 井上馨(長州)

 文部大輔 後藤象二郎(土佐)

 司法大輔 佐々木高行(土佐)       

 宮内大輔 万里小路博房(公家)

 外務大輔 寺島宗則(薩摩)

      木戸考允(長州)

            他


    八

 龍馬は多忙だった。薩摩藩邸で一泊すると、朝飯を食べさせてもらって食った。その後、岩倉具視の邸宅にいった。

 龍馬は「新政府を頼みまするきに」といった。

「まるでどこぞへ旅立つような口調じゃのう」

「そうきにか? まぁ、いくところは決まっちゅう」

「どこにいく」

「あの世……」龍馬は冗談をいった。

「あんたは死んじゃいかんよ。この国にとって大事な人材なんじゃから。死んだら馬鹿らしいよ」

岩倉具視は諭した。龍馬が自決でもすると思ったらしい。

 龍馬は笑って「わしは死んだりせん。「海援隊」で世界にでるんじゃきに」

「世界? 大きいこというねぇ。坂本さんは」

「そこで、岩倉さん。薩長連合と朝廷を合体させてほしい。薩長軍が「官軍」となるように天子さま(天皇)に働きかけをしてほしいんじゃ」

「わかった。天子さまに上献してみよう」

「錦の御旗でも掲げたらいいきに」

「わかった」

 ふたりはがっしりと握手した。

 龍馬は、朝早く下宿を出て、京のあちこちを飛びまわって夜おそく帰ってくる。

「用心の悪いことだ」

 薩摩藩士の吉井幸輔は眉をひそめた。龍馬のような偉人は暗殺のおそれがある。

せめて宿をひきはらって、薩摩藩邸にこい、という。

 龍馬は「藩邸なんぞにいられんき」と笑った。

「じゃっどん、坂本さんは狙われとるでごわそ。新選組や浪人たちに……死んだらつまらんでごわそ?」

「あんさんはわしのことがわかっちょらん。わしは丼を枕に寝る男じゃぜ」

 むろん彼は、新選組や見廻組が命を狙っているのを知っている。

「狙わせときゃいいきに」

 龍馬にいわせれば、自分の命にこだわっている人間はろくな男じゃないというのだ。

「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」 

と龍馬はその語録を手帳にかきとめ自戒の言葉としたという。

「世に生を得るのは、事をなすにあり」

 来訪者あり。

 訪ねてきたのはお田鶴さまであった。

「こりゃあいかん」龍馬は起きてから一度も顔を洗ってないことに気付き、顔をごしごし洗った。

「汚のうございますね?」

「顔をさっき洗ったばかりですが、やはり汚いきにか?」

「いえ。部屋です」

 お田鶴は笑った。

 ……どうもこのひとにはかなわん。


    九

 龍馬は福井へ急いだ。

「もうちとゆるゆる歩けや!」同伴の中岡が頼んだが、龍馬は足をゆるめず、

「いそがなあ、ならんぜよ」早足になる。京の情勢は緊迫していた。

「わしには今度の仕事が最後になるがぜよ」

 時代が龍馬を急がせていたといってもいい。

 福井に着くと、龍馬は春嶽に「三岡八郎を新政府にほしい」という趣旨のことをいった。 春嶽は眉をひそめ、「三岡八郎は罪人ぞ」

 しかし、龍馬は三岡八郎の釈放と新政府入りを交渉で決めてしまう。

 夜ふけて、いよいよ三岡が帰宅しようとしたとき、龍馬は手紙のようなものを彼に渡した。

「なんだ?」

「わしの写真じゃき。このさきどうなるかわからんきに。万一のときは形見じゃと思ってくれ」

「そうか」

 三岡は、龍馬の例の写真を受取り、龍馬の顔をじっと見た。暗くてよく見えなかったが、龍馬がどこかへ消えてしまいそうな感覚を覚えた。

 ひとは死ぬ。龍馬も死ぬときがきた。

 龍馬と中岡慎太郎が死ぬ日(暗殺日)は、慶応三年(一八六七)十一月十五日の京・近江屋の夜である。

 この年の九月、新選組三十六人と土佐浪人たちが斬りあいをしている。

土佐浪人に即死者はいない。安藤藤治という男は重傷をおったが、河原町藩邸までようやくたどりつき、門前で切腹した。他の五人もかろうじて斬り抜けた。


   十

「風邪の熱で頭がくらくらするき」

龍馬は中岡の話をきいていた。夜になったので部屋の行灯に灯を入れた。

部屋が少しだけ鬼灯色になった。

 やがて、刺客が何人か密かにやってきた。

「今、幕府だ薩長じゃいうとるときじゃなかきに」龍馬はいった。

 番頭の藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと、六太刀斬りし、絶命させた。この瞬間は数秒であった。

二階奥の薄暗い部屋では、龍馬と中岡がむかいあって話している。

一階でなにやら物音がきこえたが、誰かが喧嘩でもしとるんじゃろ、と思った。

「ほたえなっ!」

 龍馬は叫んだ。土佐弁で「騒ぐな」という意味である。

 この声で、刺客たちは敵の居場所をみつけた。

 刺客たちは電光のように駆け出した。

 奥の間に入るなり、ひとりは中岡の後頭部を、ひとりが龍馬の前額部を斬りつけた。

これが龍馬の致命傷になった。

斬られてから、龍馬は血だらけになりながらも刀をとろうとした。

その後、陸奥守吉行に手をかけた。脳奬まで流れてきた。

 龍馬はすばやく背後へ身をひねった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。左肩さきから左背中にかけて斬られた。しかし、龍馬は刀をかまえて跳ねるように立ちあがった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。

 ようやく龍馬は崩れた。……「誠くん、刀はないがか?」と叫んだ。

 誠くんとは中岡の変名石川誠之助のことで、その場で倒れていた男に気遣ったのだ。

 龍馬は致命傷を受けてなおも気配りまで忘れない。刺客たちは逃げ去った。

「慎ノ字(シンタ)……手は利くか?」

「……利く」

「なら医者をよんで…こい」

 中岡は気絶しそうになる。

 龍馬は、冷静に自分の頭をおさえ、こぼれる血や脳奬を掌につけてながめた。

 龍馬は中岡をみて笑った。澄んだ、壮快な気持ちであった。

「わしは脳をやられている。もう、いかぬ」

 それが最期の言葉となった。いいおわると、龍馬は倒れ、そのまま何の未練もなく、その霊は天に召された。この凶刃に倒れる坂本竜馬の様子は、瀕死の重傷を負いながらも証言した中岡慎太郎の言葉で語られたという。

 坂本龍馬暗殺………享年三十三歳

 天命としかいいようがない。日本の歴史にこれほどの男がいただろうか?

 天が歴史をかえるためにこの若者を地上におくりこみ、役目がおわると惜しげもなく天に召したとしか思えない。坂本龍馬は混沌とする幕末の扉を押し開けた。

 幕末にこの龍馬がいなければ、日本の歴史はいまよりもっと混沌としたものになっていただろう。



     十一

 幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。

 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。

 麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。

「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。

 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」

 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 

広沢はいった。

「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにござりまする」

 ……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。

 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせた。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。

 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいていたのだ。

 だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。

小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。

「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」

 虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。

 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。

兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう……なんとも幼稚な話である。

 麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。

大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。

 慶喜の対応は冷たかった。

 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。

 麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。

 彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。 

「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。

 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。

 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。

 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。

 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。

 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。

 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」

 麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。

 麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことはいっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。

 長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国が大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。

 福沢諭吉もそのひとりだった。

 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。

 ……あれはもしかして英語か?

 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!

 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。

 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。

 九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周(にしあまね))、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。

 慶応二年、麟太郎の次男、四郎が十三歳で死んだ。

 二十日には登営し、日記に記した。

「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」

 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。

 江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。

 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。

 麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に留学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。

麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。

 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。

 麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。

 麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。

 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」

 と強くいった。

 パークスは麟太郎の提言を承諾した。

 麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。

「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。

 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」

 麟太郎はするどく指摘していく。

「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」

 麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?


    十二

 新選組の近藤と土方は徳川家の正式な家臣となった。徳川幕府のやぶれかぶれだったのだが、これで彼等は念願だった「サムライ」になれた。

 近藤勇は見廻組与頭格(旗本、上級武士)、土方歳三は見廻組肝煎格(御家人)、沖田たちも見廻組(御家人)となった。幕府としては「賊軍」となった以上、ひとりでも家臣、部下がほしかった。そこで百姓出身の新選組でも家来にした。

〝困ったときの神だのみ〟……ではないが、事実はその通りだった。

 薩長は徳川慶喜の追放について御所で密談した。しかし、そこは天皇の御前である。

岩倉はしきりに徳川慶喜を死罪にし、幕府を解散させるべきだと息巻いた。

その頃、幕府の重鎮・小栗上野介は「幕府から商社をつくろう」と画策していた。

 慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走し出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうてもよかったのだ。

坂本龍馬は後藤象二郎を介して、将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」といっていた。

 土佐藩は大政奉還建白書を提出した。慶喜は頷いた。慶喜の評判は幕臣たちのなかではよくなかった。ひとことでいえば、無能だ、ということである。

 麟太郎も〝慶喜嫌い〟であった。

 その後、麟太郎は、幕臣原市の「幕府とフランスを提携させ、薩長を倒す」というアイデアには反対だった。麟太郎は「インドの軼を踏む」といった。

 そんな原市も、腐った不貞なやからに暗殺されてしまう。

 慶喜は恐怖にふるえながら、城内で西周に「西洋の議会制度」「民主主義」などを習って勉強した。しかし、それは無駄におわる。

 慶喜は決心する。

 慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。のちにゆう『大政奉還』である。

勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、暗殺前の龍馬は感激で泣いた。

 しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメなのか?

 勝海舟(麟太郎)は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。

 勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。

 薩長同盟軍は徳川慶喜の首をとるまで諦めない気でいた。

 ここにきて龍馬は新政権の設立のために動き出す。「新官制議定書(新制度と閣僚名簿)」を完成させる。しかし、その書を見て、西郷や桂たちは目を丸くして驚いた。

 ……当の本人・坂本龍馬の名が閣僚名簿にないのだ。

「坂本くん、きみの名がないでごわすぞ」西郷が尋ねると、龍馬は笑って、

「わしは役人になりとうて働いてきた訳じゃないきに。わしは海援隊で世界にでるんじゃきにな、ははは」と暗殺前にいっていた。

 慶応三年十二月十三日、近藤勇は銃で左肩をくだかれて、激痛で馬から落ち、のたうちまわった。発砲したのは元新選組隊士だった。京では旧幕府軍と薩長同盟軍がまさに激突しようとしていた。

 ………幕府の連中は負けんと分からんとか。こりゃ見守るしかなか。

 吉之助は単身、船で鹿児島へ戻った。                       

         六 江戸無血開城






      一

 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。

「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。

 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。

 そうして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。

 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」

 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。

「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。

 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)

 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。

 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(安房・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」

 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。

「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。

 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。

 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えていませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。

 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。

 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」


     二

 西郷吉之助が、鹿児島では「独身」を通していることに周りは不安がった。

「おいには島女房がおりもうそ」吉之助はそういうが、やはり鹿児島での伴侶は必要であろう。

そこで岩山八郎の娘イトが花嫁に選ばれた。

 イトと吉之助はふたりっきりで河辺にきた。

「イトさん。すまんが結婚はなかったことにしてもうせ」

「なぜとです? わたしが出戻りだからでごわすか?」

 イトはすがるような目で、吉之助をみた。

「いや。そげん理由でなか。おいどんと夫婦になってもいいことないど。苦労するだけじゃ。前の女房も貧乏が嫌で逃げてったんど」

「かまいもはん!」イトは吉之助の胸に抱きついた。

「貧乏はなれもうそ。わたしを嫁にしてくれもんそ!」

「……イト殿」吉之助は狼狽した。

 しかし、ほどなく吉之助はイトと結婚した。

  その年、吉之助の弟・吉二郎の病弱な妻・ますが死んだ。西郷のところにはいろいろな有志が集まってくる。暗殺前の龍馬もそのひとりであった。

 雨が降り、吉之助の屋敷はひどい雨漏りがする。

「じゃきに、西郷さん。すごい雨漏りじゃきな?」

「ははは、まぁそげなもんどげんともなか。今は日本国中雨漏りじゃっどん」

 吉之助はいっこうに貧乏を気にすることはなかった。

 まもなく、イトは長男・寅太郎を産んだ。


    三

 勝海舟が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、麟太郎は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。

 閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。

「勝安房守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」

 結局、麟太郎の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。

 正月十八日、麟太郎は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、〝長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか〟という意味の書を送った。

 一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。

「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。

 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」

 麟太郎は慶喜にいう。

「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。

 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。

 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。

 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。

 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。

 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」

 麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。

その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。

 麟太郎は思った。

「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」

 麟太郎の危惧していたことがおこった。

 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。

 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。

 二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。

(大山伯著『戊辰役戦士』)


    四

 宮中で、天皇の御前で会議がひらかれた。世にいう『宮中会議』である。

 参加したのは公家と薩長藩や土佐、肥後藩で、幕臣は〝蚊帳の外〟であった。当然ながら薩長藩は「徳川幕府をつぶし、新政権をつくる」という主張である。

 それに反対の意見を述べたのは土佐藩主山内豊信(容堂)だった。徳川をひとつの藩として残して新政府にとりこもう、という。

 それに反駁したのは公家の岩倉具視だった。徳川幕府を根絶やしにし、新政権をつくるのが最上の策といきまいた。しかし、両者は噛み合わず、議論が前にすすまない。

 大久保一蔵は会議から抜け出し、外で篝火を炊き、陣をひいている吉之助にいった。

「西郷どん! これじゃ議論にならんでごわす!」

 吉之助は策をさずけた。

 ……土佐藩主山内豊信に、もしものときがある、岩倉具視がそちを斬るかもしれない、と知らせた。もしものとき……?! 今まで息巻いていた山内豊信が急に静かになった。

 いつの時代も人間は利より恐怖に弱い。

 岩倉は徳川家康の話までもちだして〝倒幕の命令〟を天皇より授かることに成功する。 すべては吉之助の策通りにすすんだ。

「相手が逃げるなら、戦に引きずり出せばよか」

 吉之助は江戸の薩摩藩邸の藩士や不貞浪士たちをつかい、江戸での放火殺戮をくり返し、江戸を守る出羽(山形県)庄内藩を挑発。これに怒った庄内藩士たちは江戸の薩摩藩邸を攻撃……これにより薩摩や討幕派の連中は「戦の大義」を得た。

鳥羽伏見……戊辰戦争の始まりである。


   五

 薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。

 麟太郎(勝海舟)は日記に記す。

「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。

 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。

 そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。

 すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。

 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。

 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて退却したね」


    六

 旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。

 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。

 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。

「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。

 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。

 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」

 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。

「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」

 それは決死の覚悟であった。

 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は

「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。

「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」

 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。

 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。


 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。大きな眼の男、吉之助は血気さかんな質である。

 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。

 ……慶喜の首を取らねば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……

 江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。

 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!

 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。

 ……〝わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する〟………

 官軍は江戸へ迫っていた。

 慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……

 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。                    

 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。

 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。

 江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。

「もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。

 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」

 まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。

 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、麟太郎は警戒した。

 麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。

「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいっているのだと疑いを深くするばかりだ。

 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」

 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。

 隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。

 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。

 慶喜は涙声だった。

 麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。

 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であった。

 麟太郎は鉄太郎に尋ねた。

「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」

 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。

 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)は会った。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。

 西郷吉之助は五つの条件を出した。

     

 一、慶喜を備前藩にお預かり

 一、江戸城明け渡し

 一、武器・軍艦の没収

 一、関係者の厳重処罰

 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」

 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。

「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」

 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。

 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかった。

 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は

「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。

 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。

 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。

 麟太郎は日記に記す。

「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」

 麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。


     七

 官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。

 西郷隆盛は開口一発、条件を出した。

   

 一、慶喜を備前藩にお預かり

 一、江戸城明け渡し

 一、武器・軍艦の没収

 一、関係者の厳重処罰

 いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。

 勝はいう。

「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」

 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。

 勝は沈黙する。

 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。

「そうでごわすか」

 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。

 勝は続けた。

「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」

 今度は西郷が沈黙した。

 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では〝共順する相手を攻撃するのは違法〟ときいていた。

 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。

 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、

「わかり申した」と頷いた。

 官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。

「明日の江戸攻撃は中止する!」

 彼は私から公になったのだ。もうひとりの〝偉人〟、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ! と歓声をあげたという。

(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)

 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。

 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。          

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