おいどん!巨眼の男 西郷隆盛

長尾景虎

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛

小説おいどん!

巨眼の男

西郷隆盛


<2018年大河ドラマ『西郷(せ ご)どん』記念作品>

       saigo takamori oidon! Kyogan no otoko ~the last samurai ~

~鹿児島のおいどん! 西郷隆盛の「明治維新」。

                 「江戸城無血開城」はいかにしてなったか。~

                ノンフィクション小説

                 total-produced&PRESENTED&written by

                  NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎


         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〟

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



またこの物語のベースは日本テレビ『田原坂』(原作・脚本 杉山義法氏)からのものです。よってオマージュとして感謝いたします。それで引用をお許しください。では。


          あらすじ



 西郷隆盛は名を吉之助という。薩摩藩士である。この巨眼の男は明治維新の英雄としてあまりにも有名だ。西郷は二度、島流しにあって、島の女・愛加那とのあいだに子供をもうける。菊次郎と菊草である。薩英戦争、禁門の変のあと、長州と連合をつくり、朝廷と提携して錦の御旗をたてて官軍となる。勝海舟との会談で「江戸無血開城」をなしとげる。 その後、明治新政府をつくるが、征韓論でやぶれて、野に下る。

 鹿児島にもどった西郷は私塾をつくる。その塾生は二万人にものぼった。諸国の士族たち(元・侍、藩士)は西郷がなんとかしてくれるだろうと期待し、西郷は思わず御輿にのせられて西南戦争を初めてしまう。しかし、薩摩軍に勝ち目はない。西郷は城山からでたところを狙撃され、部下に首をはねられて自決…これにより明治維新は本当におわった。      おわり


         一 英雄野に下る





     一

 その日の午前、東京はどしゃぶりの雨であった。

 明治三年四月十一日、西郷隆盛は『征韓論』にやぶれた。

「西郷先生はどこじゃ?! 西郷先生はどこじゃ?!」足にゲートルをまき、黒い服に黄色い縁帽子をかぶった官軍(明治政府軍)兵士たちは雨でずぶ濡れになりながら、駆けた。                

 当の西郷吉之助(隆盛)は麻の羽織りをきて、傘をさして陰にいる。

 兵士たちは彼には気付かなかった。

 西郷は神妙な面持ちで、暗い顔をしていた。今にも世界が破滅するような感覚を西郷隆盛は覚えた。

……おいの負けじゃっどん。

 実はこのとき、西郷吉之助は参議(明治政府の内閣)に辞表を提出し、野に下った。

西郷は維新後の薩長政府の腐敗ぶりをなげく。

〝人民が「あんなに一生懸命働いては、お気の毒だ」というほどに国事をつかさどる者が働きぬかなくては、よい政治はおこなえない。

理想的な政治家なら、薩摩も長州もないはずだ。しかるに、草創のはじめにたちながら、政治家も官僚も色食や銭にまみれている。

働く場所をうしなった侍(士族)たちの不満が爆発しそうだ。

「そいを、わしゃ最もおそれる」〟

 辞表をうけとった親友でもある参議・大久保利通(一蔵)は悔しさに顔をゆがませた。

「わかりもはん。なぜごて、西郷どんは辞めるのでごわすか?」

 大久保は耳元から顎までのびる黒髭を指でなでた。

「朝鮮などどうでもよかとに」                           

 伊藤博文は

「西郷先生は何故に朝鮮にこだわるのでしょう?」と大久保にきいた。

「西郷どんは思いきりがよすぎとる。困り申した。あの頑固さは昔から禅をやっていたせいでごわそ」

 西郷隆盛の弟の西郷従道(慎吾)がやってきて

「兄さんが辞めとうたとは本当でごわすか?」ときいた。

子供のときから西郷隆盛と過ごした大久保は残念がった。

 吉之助は山岡鉄太郎(鉄舟)の屋敷にころがりこんだ。山岡鉄太郎は、清河八郎とともに『新選組』の発足に尽力したひとである。

「どうしました? 西郷先生?」鉄太郎はゆっくりと尋ねた。

「……やぶれもうした」

 力なく、呟くように吉之助はいった。

「それは、『征韓論』ですか?」

「そいでごわそ。死に場所をなくし申した」西郷はうなった。

 山岡鉄太郎は

「なぜ西郷先生は朝鮮にこだわり、攻めようとするのです?」ときいた。

「攻める訳ではござりもはん」西郷は続けた。

「ただ、朝鮮においがいき、友好関係をば築くのでごわす」

「…では『征韓論』ではなく『親韓論』ですな?」

「そうでごわす」西郷は頷いた。

「おいの考えがいつの間にか朝鮮を征伐する……などとごて変えられたのでごわす。何とも情けなく思っちょる」

 こうして、西郷隆盛は野に下った。

 こうして、明治十年二月、『西南戦争』が勃発する。


     二

 ――明治維新の取材とは光栄だ。本は売れるだろうか?

 春のぬくぬくとした気候で、桃色の桜吹雪が幻影のようだ。

 明治三十一年(一八九八)四月十四日……

 私、長尾景虎の先祖・上杉鷲(わし)茂(もち)がその東京赤坂氷川の老人の豪邸に自転車で足しげく通うようになったのは明治時代も深まった頃だった。

帝大卒の上杉鷲茂は東京の新聞社勤務であった。

が、その老人の伝記を書くために通うようになっていた。白髪のひげ面の羊のような老人は小柄で瀟洒な家の、元・幕臣。名を勝安(かつやす)芳(よし)(勝海舟(かつかいしゅう))。

そう勝海舟、そのひとである。

「上杉さんよ、おいらのことを調べてどうするんでぃ?」

「先生の伝記本を書きます」

「それで? どこまで書いている?」

「まだ数ページ…です」

「ははは。おまえさんが書けなければ?」

「それなら遺書を書き、僕の子供、孫、ひ孫、玄孫…必ず完成させるよう遺書を書きます」

「数年後や十年後ならいいが、百年後なら遅いぜ」

上杉鷲茂は苦笑いした。海舟は

「それよりもおいらの弟子の坂本龍馬の伝記も書いているんだろう? だが、真の英雄は西郷隆盛だな。」

先祖は瀟洒な豪邸の居間で、海舟にいわれた。

「ほう、〝西南戦争〟の西郷南州翁…西郷隆盛ですか」

「そう。西郷隆盛、西郷(せ ご)どん、だなあ。西郷どんの伝記も書いてくれ。

……懐かしいなあ。それにしても福澤の奴、俺や榎本釜次郎(榎本武揚)がどんどんと出世していくもんだから嫉妬してやがるんだぜ。馬鹿野郎ってんだ。〝やせがまんの説〟だのくだらねえ。本にする前に原稿掲載を許可してくれとさ。これが書類だ」

「あの慶應義塾の福澤先生が? で、この、福澤先生の〝やせがまんの説〟に勝安芳(勝海舟)先生は何と返します?」

勝海舟は笑って言った。

「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張!」

「ほう。…自分のことはいいから勝手に言っていろ、と? いいですねえ~。」

勝海舟は縁側に歩き、蒼天を、遠くを見る目をして、

「あの西郷隆盛の人生そのものが〝やせがまん〟の連続だったろうなあ」と語った。

 これからも西郷隆盛の人生を語ることとしよう。

     三

 西郷吉之助は、文政十年(一八二七)十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、鹿児島加治屋町に生まれた。

大久保一蔵(利通)も同じ加治屋町の西郷家より二町ほどはなれた猫薬小路で生まれた。

大名はどこでもそうだが、この時代、上級、下級藩士の区別がやかましかった。西郷の父は小姓組の家柄で、藩士の身分は下から二番目だ。

長男の吉之助の後に、お琴、吉次郎、おたか、おやす、慎吾(西郷従道)、小兵衛とたてつづけに生まれ、貧乏がさらに貧乏になった。

 吉之助は後年、六尺近い体躯をして、巨眼な堂々たる英雄らしい体型になる。

無口だが、すもう好きで、相手をまかした。力は強い。しかし、読み書きは苦手であった。

 ちなみに述べると、西郷は大久保の父・次右衛門からも学徳を受けている。

大久保の父は町医者から昇格して士分になったほどの人物であった。

 吉之助の風貌は英雄たるものだが、人格も徳をつんだ男である。

西郷隆盛といえば、例の肖像画と銅像だけだが、それ以外には彼の顔を知ることは出来ない。

写真嫌いであったため、西郷隆盛といえば「上野の西郷どん」の銅像のイメージが強い。

 西郷が動けば薩摩も動くとさえいわれたのも、その風貌と島津斉彬との仲でのことである。

西郷は巨眼な堂々たる英雄であった。


     四

「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」

と岩倉具視が評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は

「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。

敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として十五代将軍・慶喜として登場した徳川慶喜。徳川三百年の幕引き役を務めるのが慶喜という運命の皮肉。

徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。

「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。

閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。

『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照

著者が徳川慶喜を「知能鮮(すくな)し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。

だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。

慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。

大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通と西郷隆盛らは「王政復古の大号令」のクーデターで、武力で討幕を企てた。

実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していた。

徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。

慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。

最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。

「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」

幕末の〝熱い時代〟にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。

本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)

その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。

孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。

まさに、策士で、ある。

歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。

将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。

欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。

大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。

討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」の策略で「幕府をなくして」しまった。

大久保利通らは大政奉還で討幕の大儀を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。

新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。

だが、徳川慶喜憎しの大久保利通・西郷隆盛らは王政復古の大号令をしかける。

日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていた。

大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。

「慶喜だけは倒さねばならない! 薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!

やるかやられるかだ!」

 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・十六歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。

「身分もなくす! 幕府も藩もなくす! 天子さま以外は平等だ!」

 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。

事前に察知していた徳川慶喜は

「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。〝負けるが勝ち〟だ」

 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!

 だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。

 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。

 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。

 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。

 徳川慶喜は「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」

*NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用


    五

大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち〝八つ当たり〟という訳ではなかった。

ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。

精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。

それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。

畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。

すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。

十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。

六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけた。

が、やがて玄瑞はこの文と結ばれる。

「筋金入りの〝攘夷思想〟」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。

「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」

松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」

と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。

松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展する。

が、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。

長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。

これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木(まき)和泉(いずみ)である。

天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を〝朝敵〟ではなく、〝官軍の藩〟とする。

やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。

松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。

禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。

どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。

しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。

高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には

「まてや、久坂! もうちと考えろ! 異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。

それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。

丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、

「ペリーの大砲は三キロメートル飛ぶが、日本の大砲は一キロメートルしか飛ばない」

「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」

と胸を張る。

文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。

それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…

孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。

四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。

ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだ。

が、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。

伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。

談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。

下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。

だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると〝抗戦派(進発派「正義派」)〟と〝恭順派(割拠派「俗論党」)〟という藩論がふたつにわれた。

元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。

周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。

そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。

文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。

「お文さん………何故ここに?」

「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」

「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」

「違います! 寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。

…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも〝桂さんこそ長州藩の大人物〟とばいうとりました。

皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」

桂は考えた。

…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?

やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。

こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。

それは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。こうして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。

しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。

彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。

坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。

しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。

遅刻した龍馬は

「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ? 桂さん?」

「同盟はなんもなっとらん」

「え? 西郷さんが来てないんか?」

「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」

龍馬は喝破する。

「何をなさけないこというちゅう?! 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か? 長州藩か? 日本人じゃろう!

 こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙っているんじゃ! 薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ! そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」

こうして紆余曲折があり、同盟は成った。

「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」

晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。

最初は八十人だったが、最後は八百人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派〝徳川幕府への恭順派〟を叩き潰す。

やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。

高杉はいう。「翼(よく)、あらば、千里の外も飛めぐり、よろずの国を見んとしぞおもふ」

『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊百三十七~百五十四ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊百五十四~百六十八ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献参照



   六

大久保利通を漫画家の小林よしのり氏は『大悪人』『拝金主義者』『私利私欲に明け暮れた謀略家』と見ているようだ。

頭山満や玄洋社なる幕末・明治初期の極右過激派集団を英雄視させるための詭弁ではある。

が、大久保利通は大悪人でもなければ謀略で私腹を肥やした訳でもない。

あまりに現実的で、冷徹なリアリスト(現実主義者)であるから大久保利通も岩倉具視も歴史的偉業を成し遂げたわりには人気がない。

だが、それもむべからぬことだ。

権謀術数をつかい、明治政府の舵取りをした功績は、西郷や大隈や前原一誠のような(夢遊病的な)〝非現実主義者〟の「非現実な理想論」より卑怯に見える。

だが、政治や経済や国家運営には確かに理想も必要だが、それ以上に権謀も必要なのだ。革命が成功するには理想論だけではなく、政敵や敵を謀殺する覚悟がなければ何も成らない。

綺麗ごとだけで物事がうまくいくなら誰も苦労はしない。

他の路線を切り捨てる大久保の強さは現実路線だ。

徹底した現実主義者であった大久保は、綺麗事の非現実理想論をもっとも嫌った。

島津斉彬が在命中には寵臣・西郷隆盛(吉之助)がいて、大久保の出番はなかった。

だが、斉彬は薩摩軍を率いて京に上る時期に病死してしまう。

西郷は僧侶・月照とともに入水自殺を図り、自分だけ死なず島流しにあう。

いよいよ大久保の出番である。

藩主として斉彬の何段も下の、人間的にも下賤で凡人の島津久光に、とりいる。

これは西郷には出来ない技である。斉彬の毒殺説が本当なら「仇」であるからだ。

だが、現実には久光しかいない。現実主義である大久保利通は島津久光という愚鈍な凡人に取り入る為に、久光の趣味の囲碁を練習した。

おかげで、無趣味の謀略家の大久保利通のたったひとつの趣味が囲碁、という笑えることになった。

大久保にとっては藩主・久光など「将棋の駒」でしかない。

だが、久光は田舎者であったが薩長同盟の利点を理解することだけは出来た。

久光は切れ者でも何もわからないから大久保の方針を妄信するしかない。

王政復古の大号令のクーデターも戊辰戦争も〝大久保頼り〟であった。

廃藩置県で武家も大名も幕藩体制もなくなり、島津久光は殿様でもなんでもない平民となり、はじめて「騙された!」と気づくほどの世間知らずな田舎者なひとであった。

大久保利通も岩倉具視も『闇の陰謀家』『闇の権謀術数家』と描かれることが多い。

だが、世の中は綺麗事だけで偉業が成る訳ではない。

明治維新も理想論だけで成った訳ではない。

大久保や岩倉を『大悪人』と考えても結構だが、夜郎自大も甚だしい。

すべての革命がそうであるように、権謀、駆け引き、遠慮なくしてことは成就しがたい。

あるときは権謀が力を制して、時の主役になるときがある。

王政復古のクーデターは完全に岩倉具視が主役であった。

坂本竜馬や高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰、等の明治維新の英雄は血気にまかせ一途に理想に向かって走るタイプの人間である。若死にした為にダントツの人気がある英雄だ。

だが、大久保利通、岩倉具視ら「謀略家」は、ときに権謀術数をつかい、陰険な印象を人に与える。目的の為には犠牲を出すことも恐れないので、あまり維新の志士の中では人気がない。

果たした維新回天の功績・偉業の割には誤解され、ときに怨嗟の的となり、ときに悪役の俗物・大悪人と描かれたりする。

だが、世の中は綺麗事だけでは動かないのだ。

綺麗ごとだけ声高に叫んで歴史が動くならそんなものは革命でも維新でもない。

そんなことで物事も人心も動かない。

リアリスト、現実主義者が政府や組織にいなければすぐに〝瓦解〟するのがオチだ。

大久保利通も岩倉具視も「綺麗事だけの非現実理想主義」より「現実の政策施策」で日本を近代化したかったのかもしれない。

だから、馬鹿げた元・侍たちに暗殺された大久保利通も、明治政府の知恵袋であったが病死した岩倉具視も最期は無念、であったろう。*

『徳川慶喜(「五―王政復古 大久保利通「近代」を拓いた偉大なるリアリスト」)』松浦玲著作、プレジデント社刊+『徳川慶喜(五―王政復古 岩倉具視「王政復古」に賭けた「権謀術数」の人)』南原幹雄著作、プレジデント社刊(一部)+(参考資料)『岩倉具視』(中公新書)、『大久保利通』(中公新書)、『大久保利通の研究』(プレジデント社)、『歴史の群像・黒幕』(集英社)、『日本の歴史』(中公文庫)他、参照。


    七

 ……十年前。

 安政三年(一八五七)七月二十日。薩摩藩主・島津斉彬が死んだ。薩摩の名君とよばれたこの人物の死は、西郷吉之助にとって絶大な衝撃とうつった。

 後釜は、最低の島津久光である。只でさえ、藩が困窮し、腐敗していく中で、名君・島津斉彬が急逝したのは痛かった。

「なんという……なんということでごわすか」吉之助は屋敷の部屋で、落胆した。目頭に涙が潤んだ。

 吉井友供も「なんてごてことじゃ…」と泣いた。

「あの女だ」吉之助はふいに憎しみを、大きなる憎しみを込めていった。

「お由良じゃ」

「西郷どん!」

 吉井が咎めると、吉之助は巨体を動かしながら、「あの女子が悪いのでごわす」といった。薩摩藩は『お由良くずれ』と呼ばれる御家騒動が頂点に達していた。

 亡くなった薩摩藩主・島津斉輿は、正室との間に嫡男斉彬、次男斉敏をもうけ、側室の由良に三男久光を生ませていた。

 お由良は、江戸の三田四国町に住む大工の娘といわれたが、斉輿の寵愛をほしいままにして久光を生むや、

「なんとしても自分の腹を痛めて産んだ子を薩摩藩主にしたい」という野望を抱くようになった。

 次男の斉敏は、因州・鳥取藩三十五万五千石を継いだから、あとは斉彬が死ねば次の薩摩藩主は久光しかいない。島津斉彬は薩摩藩主として誰がみてもふさわしい人物だった。

 だから、いかにお由良が謀殺したくてもできなかった。父・斉輿も久光がかわいいのだが、斉彬をしりぞける理由もない。当然、斉彬派(精忠組)とお由良派ができる。

 殿さまの斉輿がお由良派の意見をききいれ、精忠組を弾圧しだす。島津壱岐、近藤隆右衛門(町奉行)、高崎五郎右衛門ら十四名が切腹させられ、遠島の刑になったものが九名にものぼった。大久保の父も鬼界ケ島へ流刑にされ、大久保も役目をとりあげられている。

 西郷吉之助もまた精忠組のひとりであった。

 のちにお由良騒動と呼ばれるその事件から八年目の年に、斉彬は死んだ。

 吉之助は亡き薩摩藩主・島津斉彬の供をして江戸にいったことを忘れない。その当時ペリー提督率いる黒船をみて唖然としたものだ。ときの十三代将軍・徳川家定にも謁見した。病弱のうえに子もなく……将軍はそんなひとだった。

 また島津斉彬は尊皇壤夷の志をもったひとで、西郷はそれを知って、

「おいにとって斉彬公は神のごときひとでごわすが、殿の異臭紛々たるには困りもす」

 と顔をしかめている。

 また、吉之助は斉彬が自分を重用してくれた恩も忘れてはいない。公は小役人から見出だしてくれ、右大臣・近衛家に娘を養女に迎えさせる使者にまでしてくれた。

「何事で、ござりもそ?」

「吉之助よ。いささか重い任務なれど引き受けてくれぬか?」公は笑顔でいったものだ。

「ただひとつ、まごころであたれ」

 吉之助は島津家の娘・篤子(篤姫のちの天璋院)を近衛家の養女にすることに成功した。

その後、安政五年、井伊直弼が大老になると、斉彬は

「いよいよ決起のときがきた」といったのだ。

「いよいよ出兵でござりもそ?」

「そうだ。吉之助、はげめ!」斉彬はいった。薩摩に西郷あり、吉之助は名を知られるようになる。すべては公のおかげだった。

斉彬公は、西郷が、両親が死んで落ち込んでいると

「何を落ち込んでいるんだ、このやっせんぼ(弱虫)!」

「殿、両親の遺言の「侍の本懐を成しとげよ」とはなんでござりもんそ? おいは子供の頃の怪我で剣術が……剣で戦えませぬ」

「「サムライの本懐」? くだらん!」

「じゃっどん……サムライの役目は「いざ鎌倉」で、ごわしもうそ? そのサムライが剣も使えん、只、民百姓から年貢を絞り上げるだけ。そいでは……およそサムライの本懐が…」

「馬鹿者!」斉彬が屋敷の庭方の吉之助に縁側から怒鳴った。

「サムライが重い刀を腰に二本も差してふんぞり返っている時代なんざ、もうすぐ終わるんだ。西郷……ただひとつ、真心で事にあたれ!」

斉彬は口元に優しい笑顔をつくる。

西郷は感動していた。涙が目を刺激する。

「西郷……いや、西郷吉之助、このわしの島津家の家紋入りの脇差しをお前にやろう。

だが、いいか? これは余がいなくなれば、お前がかわりに余の志を受け継ぐ、という約束の証だぞよ。忘れるなよ、西郷!」

「ははっ! 斉彬さまー!」


    八

 ……そんな斉彬も死んでしまった。ときの十三代将軍・徳川家定も死んだ。

「あの女だ! おの女が殺したのんじゃ!」西郷は切腹しようとした。              

「やめなはん!」とめたのは勤王僧・月照だった。

「月照どん! 死なせとうせ!」

「吉之助殿! やめなはん! 死んではならん……どうせ死ぬなら天下に命を捧げよ!」

 月照はさとした。

 こののち井伊大老による『安政の大獄』が始まる。これは尊皇壤夷派の大弾圧で、長州の吉田松陰らが次々と捕らえられ処刑されていった。

すべては幕府の延命のためだったが、諸藩の反発はますます高まった。            

 幕府の敵は薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)といっても過言ではなかった。

 当然、薩摩の壤夷派・西郷吉之助(隆盛)と月照も狙われた。


 その日の天気は快晴だった。

 馬関(下関)に吉之助と月照たちの姿があった。前面に海が広がる。

「西郷どん。あんさたちは狙われもんそ」付き添っていた有馬はいった。

 吉之助は「有馬どん……心配かけもうす」

「西郷どんは薩摩の英雄じゃっどん、死んではなかとぞ」

 西郷吉之助(隆盛)と月照は、弾圧の手を逃れ舟にのり鹿児島へ帰郷した。              

 また大久保一蔵(利通)も追っ手を逃れ、鹿児島へ戻った。

「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。

 西郷吉之助は一度結婚に失敗している。貧乏で、家族五人でボロ屋敷に住み、そんな生活に嫌気がさしていた当時の妻は、吉之助が江戸に出張したときに実家に逃げ帰ってしまったのだ。

 鹿児島では西郷吉之助は小姓組で、勘定頭わずか八十石の禄高の侍にすぎない。両親はすでに亡く、家は次男の吉二郎がみている。しかし、吉二郎は結婚していなかった。

 吉二郎は、いつも南国鹿児島の桜島の噴煙をながめながら、ゴロゴロと昼寝ばかりしていたという。大変に呑気なひとだったようだ。                                

「兄(あに)さん、ごろごろ昼寝ばかりしとんと、はよう嫁もらいたらどげかね?」

 妹のたかがいった。

「嫁など…」吉二郎は頭をかいた。

「いらぬ。おいはひとりでじゅうぶんでごわす」

「またそげなこというて……吉之助兄さんが怒りはるで」

「吉之助兄さんは藩のために働いとる。おいはこの家を守っちょる。そげでごわそ?」

 妹は呆れて「どこが家守っちょるとでごわすか? はよう嫁もらわなんだら兄さんが困るんですえ?」

 しかし、吉二郎は頭をかくばかりだった。


   九

 大久保は「吉之助どん、無事でごわしたか!」と、鹿児島藩邸で再会を喜んだ。

「一蔵どんも……元気で何よりでごわす」

 吉之助は巨体を揺らして抱擁した。

「何よりも無事が大事でごわす。天下乱れごっつときに死んだらつまらん」

「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。

「それにしても…」西郷はいった。

「あのお由良……ゆるせなか」

「西郷どん!」吉之助より五歳年下の大久保は、まるで西郷の父のように諫めた。

「……おいたちはあの女に島流しにあいもうしたぞ。忘れたでごわすか?」

「忘れたばい」大久保は冷静にいった。

「今は又次郎(のちの久光)さまの天下、あまり軽はずみなごていうとると足をすくわれもんそ」

「おいはかまわんでごわす」

 吉之助はどこまでも頑固だった。

 西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵は親友であり、同じ郷中の身分だった。斉彬公亡きあと、薩摩藩はお由良の子・又次郎(のちの久光)の世となっていた。

 吉之助はそれがどうにも我慢できない。

 斉彬公亡きあとの薩摩藩などないに等しい。……なにが藩制改革でごわすか?!            

「兄さん! よくご無事で!」

 まだ青年の末弟、西郷小兵衛がやってきて笑顔になり、白い歯を見せた。

「おう! 小兵衛じゃなかと」吉之助は笑顔をつくった。

 大久保もそんな兄弟の再会がほほえましい。何だかしあわせな気分になった。

 やがて藩の重鎮・柳瀬がやってきた。

 西郷たちは平伏する。

 柳瀬は「吉之助…」と声をかけたあと

「わかっとっておろうな?」といった。

「は?」

「僧侶・月照のことである!」

 吉之助は緊張した声で

「月照どんがどげんしたんでごわす?」と問うた。

 薩摩藩は幕府が怖くて、〝壤夷派〟の月照老師を〝始末〟するつもりらしい。

……つまり「殺せ」ということだ。

「じゃっどん……なして月照どんを殺さねばならんとでごわす?」

 柳瀬は答えない。

「それで、薩摩がよくなりござそうろうや?」

 柳瀬はまた答えない。

「柳瀬どん?!」

 柳瀬はようやく

「殺せ! それが幕府からの命令じゃ」と唸るようにいった。

「じゃっどん……」

「じゃっどん、はいらぬごで。始末せい西郷吉之助!」

柳瀬は吐き捨てるようにいうと座を去った。一同は顔を見合わせ、深い溜め息をついた。

 ……薩摩は幕府のいいなりでごわすか?


    十          

「兄さん! ご無事で!」

 半年ぶりに帰宅すると、吉之助は大歓迎された。しかし、心は晴れない。

 いつも西郷吉之助の心の中には〝月照上人〟のことがあった。殺す? それでよかでごわすか? あの月照どんのような知恵者を殺してよかじゃろうか?

「どげんしたでごわす? 兄さん」

 親類たちは不安気にきいた。

「わかりもうさん……わかりもうさん」吉之助は頭を抱え、苦悩した。

 斉彬死後、すべてがかわってしまった。斉彬生存中は活躍していた藩士たちも粛清されていった。月照上人もそのひとりだった。

 

間もなく藩の船は鹿児島湾へ漕ぎ出した。

 西郷吉之助、月照とともに、下男・重助、平野国臣と、藩がつけてよこした坂口周右衛門という上士が乗船している。

 もう夜で、屋形船からも障子を開けるとまるい月が見える。

 安政五年十一月十五日の満月は、陸も海も銀色に光らせていた。

「月がきれいどすなあ」

 月照はいった。

「まっこと」吉之助は笑顔をつくり答えた。もう覚悟はできている。

 月照は酒をうまそうに呑むと、さらさらと辞世の歌を書いて紙を西郷に渡した。



  くもりなき心の月の薩摩潟

   沖の波間にやがて入りぬ

  

  大君(おおきみ)のためには何か惜しからむ

       

   薩摩の迫門に身は沈むとも


「……月照どん!」

 吉之助は涙声になった。辞世の歌を渡すや、月照は何事もないように立ち上がり、月を仰いで、海に身を投げようとした。そのとき瞬時に、吉之助が、

「月照どん! お供しまんぞ!」といって抱き合うように海に落ちた。

 ふたりがひきあげられたとき、月照は息絶えていた。享年四十六才だった。

 役所にふたりの遺体がひきあげられたと知り、大久保一蔵や吉之助の弟の慎吾や有村俊斎、大山格之助が目の色をかえて駆けつけた。

「月照どん! 西郷どん!」

 月照はすでに息がない。しかし、不思議なことに吉之助は息をふきかえした。

「……西郷どんが生きとる!」一同は喜んだ。

 当の西郷はいびきまでかいて、床に横になって藁に包まれ眠りこくっている。

 西郷吉之助はどこまでも運がいい。

 月照の死体は、西郷の菩提寺でもある南林禅寺へほうむられた。

 生き残った西郷の処置に、薩摩藩はこまった。幕府に睨まれている人物ではあるが、なにしろ故・斉彬の寵臣でもある。

 重役の中にも、吉之助を愛する者も多い。

「名をかえて、島へ流してしまえば幕府もうるさくいうまい」

 ついに薩摩藩はそういう措置をとった。

 よって、寺には月照と西郷吉之助(隆盛)の墓が建てられ、幕府には西郷は死んだこと           

になった。西郷は「菊池源吾」と名を変えられ、奄美大島へと『島流し』にされた。

 吉之助は「おいは幽霊でごわす」と苦笑したという。

         二 島流し





    一

 西郷隆盛が菊池源吾と名をかえ、奄美大島に島流しにあったのは、安政六年一月である。

奄美大島は南国の島で、気温は高く、湿気はないから過ごしやすい。

 椰子の木や色鮮やかな植物が豊富にある。

さとうきび畑がいたるところにあり、ぎらぎらした太陽がまぶしい。

「よかとこじゃ」吉之助は、舟から降りて笑顔をつくった。

 しかし、島は〝よかところ〟ではなかった。薩摩藩領地でもあるこの奄美大島は「搾取」の地でもあった。

薩摩は島民に、米のかわりにさとうきびからとれる砂糖を年貢として差し出させていた。

搾取につぐ搾取で、島民は皆怒りを覚えていた。

 確かに、大島は素晴らしい景色と自然をもつ。

しかし、その陰は暗い搾取……であった。

 西郷は鹿児島城下から約三百キロ海路を離れた奄美大島の竜郷村の民家に住むことになった。吉之助は三十一歳になっている。

 別に罪人というわけではなく、藩が、この島に西郷を隠して幕府の眼を逃れさせるために島へ流したのだ。吉之助の苦手とする炊事、洗濯も自分でしなければならず、そのため面倒なときは二日も何も食べない日もあった。

 それから一年後の万延元年(一八六六)四月、吉之助はボロボロの着物をきて、髭ぼうぼうでボロ小屋で写経にあたっていた。

島のガキたちが窓から、珍しい巨眼の男、を覗きみている。

「みせもんじゃなか!」吉之助は紙を丸めて投げつけた。

 すると役人がきて、「西郷どん。文にござる」と吉之助に手紙を届けた。

 それは三月三日、幕府の大老・井伊直弼が水戸浪士の襲撃を受け、桜田門外で暗殺されたという内容だった。世にいう『桜田門外の変』である。

 この襲撃隊の中には、有村俊斎の弟・次左衛門が薩摩藩からひとり参加し、大老の首を討ちおとしたという。そのことで薩摩隼人たちは多いに勇気づけられた。

 井伊大老は幕府の象徴、それがなくなるということは幕府がなくなるということだ。

 吉之助は涙を流し嘆いた。

「こげなときに……おいは何しよっとか! なさけなか!」

 吉之助は机をたたき、ボロ屋をでて天を仰いだ。

「情なか! おいどんはなさけなか男じゃ!」巨大な両眼から、涙があとからあとから溢れ出た。

 吉之助は上をむいて堪えようとしたが、無駄であった。

 ……おいは…なにしょっとか?! なさけなか! くやしか! ……

 そんなある日、島民たちが大勢駆けていくのがみえた。役所にむかって怒号を発しながら西郷の背後から駆け抜けていった。男も女も老人もいる。

「大官を出せ! 大官を出せ!」島民は役所の前でシュプレキコールを繰り出す。

 西郷は疑問の顔のまま、巨体を揺らしながら島民に近付き、

「どげんしたと?」と島民のひとりにきいた。

「あんさんは?」

「………幽霊でごわす」

 島民は冗談だと思った。

「役人が悪さしたとばってん。怒っちょる!」

「これです」島の女は傷だらけの幼子を抱き抱えて、吉之助にみせた。

「さとうきびを齧っただけで百たたきの刑にあい、死にもうしました」

 まだいたいけな子供である。傷だらけの……

 吉之助の全身の血管の中を、怒りが、激しい怒りが駆け抜けた。なんということじゃ! 激昴のあまり、顔が真っ赤になった。

「ほんでごつ…こげな子供を百たたきしよったでごわすか?! こげな子供を?!」


 村長の龍左民は、西郷に薩摩藩からの搾取をすべて話した。

西郷はそれを知り、ますます怒りに震えた。

あたりは晴天で、太陽がぎらぎらしているが、吉之助には暗闇のように感じた。

……ほんでごつ…あげな子供を百たたきしよったでごわすか?!

 また島民が役人にひきずり暴力をうけた。島民は反発して、役所におしかけた。

 西郷吉之助も急いでやってきた。

「また、どげんしよったでごわす?」

「さとうきびを………齧ったというて…」村の女は泣きながらいった。

 いよいよ吉之助は激昴した。吉之助は護衛を叩きのめし、役所の中へと単身おしいった。

「相良どん! 相良どんおるか?!」

 吉之助は護衛の役人をはねのけながらすすんだ。奄美大島の役所所長は、相良角兵衛という男である。

「なにとぜ? 西郷どん」相良角兵衛はすっとぼけていった。

「どげんことでごわすか? 相良どん」

「……なんが?」

 西郷は相良に掴みかかった。

「斉彬公亡きあと、お由良の政になって、領民は搾取につぐ搾取のみにあってごわす!」

「……それとおいになんの関係があるとでごわす?」

 相良はあくまでもしらばっくれた。

「島民を連行したでごわそ? さとうきび齧ったいうて……たかがさとうきびじゃなかか!」

「……罪は…罪でごわそ…」

 相良は震えながらいった。

 西郷吉之助のゲンコツが飛ぶ。相良は倒れた。

「島民は連れてかえる。それでよかか?」

 吉之助は気絶している相良の頭をふった。

 その後、相良の部下に

「相良どんが許してやるいうておりもうそ。早く連行した島民を釈放せい!」と強くいった。

 しばらくして、連行された島民は自由の身になり、西郷も無傷で役所から出てきた。

 役所前に集まっていた島民たちから歓声があがった。

「ありがとさんでもうそ!」

 村長の龍左民は、ハッとして、

「……そういえばあんさんの名ばきいとらんかった。あんさんの名は?」といまさらながら尋ねた。

「菊池……」吉之助は口をつぐんだ。笑顔になり

「西郷、西郷吉之助でごわす」          

 島民の中にいた美貌の女性(のちの愛加那)が、ぽっと頬を赤くして、

「……吉之助さま…」と囁くようにいう。その女性は恥ずかしそうに場を去った。

 母親らしい女は

「あれまぁ、色気づきじゃっどん」といい、一同は笑った。

 吉之助はその若い女性に興味をもった。

 ……なかなかの美人ではなかが。

 ぎらぎらとした太陽がすべてを美しく照らしている。南国、常夏の風景は西郷の心をなごませた。

 やがて夜になった。

 しかし、月光が辺りを銀色に染め、なにやら幻影的でもあった。

 吉之助はさっそくその女性を家によんだ。女性は恥ずかしそうに清楚に名乗った。

「加那といいます……吉之助さま」

 吉之助は笑って

「おいにさまはいらなか。幽霊でもうそな」

「まぁ、幽霊? 島にはなぜこられたのですか?」

「まぁ」吉之助は頭をかいた。

「罪人ということでもなかが、まぁ、幕府の手を逃れということでごわすか」

 加那は吉之助の興味を抱いた。

「……ご両親はなんと?」

「おいの両親は…おいが二十一歳のときに死にもうした」

 加那は吉之助に頭をさげた。

「失礼し申しました」

「いや」

 吉之助は口元に笑みを浮かべた。

 しばらく静寂が辺りを包む。波の音だけが耳にきこえる。

 加那は、

「吉之助さまはご結婚はどげとです?」ときいた。

 是非とも答えがききたかった。

「おいは一度結婚に失敗したばい。妻は貧乏が嫌で実家に駆け戻りおった。それいらい女子とは縁がないでごわす」

 吉之助は笑った。

 加那は

「ならばあたくしを妻にしてください!」とうとう本心をいった。

「おいの? 妻に? 苦労するだけでごわすぞ」

「かまいもはん」

 加那は吉之助にすがった。吉之助は気になっていることがあった。

 ……加那の左手の甲の蒼い入れ墨である。

「おいはさっきから気になっていたのじゃが……その左手の入れ墨はなんぞ? なにかの呪いでごわすか?」

「ああ、これでごわすか?」

 加那は、左手の甲の蒼い入れ墨をみせながら、

「これは、ハズキ、いいます。結婚前に堀り、結婚したら右手の甲にも入れ墨を堀るのです」

と答えた。

「そげんことはいかん! もう痛い思いはしなくてもよかぞ?!」

「なら、結婚してくださりまするか?」

 西郷は加那を抱擁し、

「よかとよかと。結婚するもうそ」と答えた。

「結婚したら、島では旦那さまに上の名前をつけてもらうしきたりでごわす」

「そうか? ……なら愛じゃ」

「愛?」

「そうじゃ。おまはんはこれからは愛加那じゃ」

 ふたりは抱擁し、抱き合った。

 間もなく愛加那は身籠もった。

 ふたりは結婚した。島嫁「アンゴ」である。

 大島の台風はすざまじいものだが、天気はほとんどよく、冬になっても暖かいし、米も年に二度とれる。さとうきびも豊作だ。西郷が大島にいたころ、台風でさとうきびが被害にあったが、

「砂糖を隠しておるのであろう!」と役人は島民をいじめた。 

 吉之助と愛加那の間に長男が生まれた。菊次郎である。


    二

 文久元年(一八六一)一月、知らせが届いた。

「産まれもうしたか?!」吉之助は喜んだ。

 鹿児島の薩摩藩邸では、久光と側役にまでなっていた大久保が話していた。

 島津久光は「お由良」事件とは関わっていない。

 というよりも「幕府を一新しよう」とまでいっていた。

 兵をすすめ、幕府に改革を進言するという。しかし、久光には幕府を倒すまでの考えがない。そこが西郷や大久保ら『精忠組』にはものたりない。

「幕府の改革なんどといっているばあいじゃなかとでごわす。むしろ、一挙に幕府を倒すのが最高の策でごわそ」

 『精忠組』の意見とはまさしくそういうことである。


「何? 西郷?」

 島津久光は側近の大久保一蔵(利通)に尋ねた。

 大久保は

「はっ! 今こそ薩摩には西郷どんが必要でござりもんそ」と答えた。

「西郷吉之助を大島から戻せというのか?」

「……はい。是非」

「しかし…」島津久光は言葉を呑んだ。

「幕府には死んだことにしておる」

「このさい、幕府なんど関係なかではござりもんそ? 久光さま」

「じゃけんど……」

 大久保は強くいった。

「わが薩摩藩に不忠なものなどひとりもござりもうさん」

「うむ」

 久光は天を仰いだ。晴天で、鳶が飛んでいた。桜島は何ごともないように噴煙をあげている。島津久光は意を決した。

「西郷吉之助を大島から戻せ!」

「はっ!」大久保は頭を下げた。

 やっと自分の尽力が実を結んだのだ。やっと西郷どんが戻される。

 奄美大島には新しい西郷の家が完成していた。

 そこに妻の愛加那と子・菊次郎と吉之助が住むのだ。

「立派な家でごわす」西郷たちは家を見上げた。思わず笑みがこぼれる。

 大島に相良にかわって新しい大官がやってきた。

「よお! 西郷どん!」        

 それは、吉之助の親友でもある桂久武である。「桂どん!」

 ふたりは抱き合った。

 桂は西郷の妻と子を見た。……あちゃあ! 島嫁と子でごわすか……

 桂は武家の出身で、およそ未開地大島の大官ごときになる器ではない。しかし、西郷を慕って藩に進言してやってきたのだった。

 桂は大久保一蔵の近況を、吉之助に話した。

「囲碁? あの一蔵が囲碁でごわすか?」

 桂は笑った。西郷もつられて笑う。

「久光公に近付くために、必死で囲碁を覚えたんじゃそうでごわすぞ」

「あの一蔵が囲碁のう」西郷は腹が痛くなるほど笑った。

 桂はしばらく笑ってから、

「西郷どん。鹿児島への帰還の命がでたでごわすぞ! めでたいことじゃろう?」といった。

「…鹿児島へ? ほんとでごわすか?」

 お茶を運んでいた愛加那は、廊下でそれをきき衝撃をうけた。……旦那さんが鹿児島へ戻られる! 彼女は思わずもっていたおぼんを落とした。涙がでて、駆けて逃げた。

「……愛加那」

 吉之助は桂を残して、追いかけた。

「……愛加那!」

 やがて、吉之助は島妻においついた。

「旦那さまは鹿児島に帰られるのですね?」愛加那は両目から涙を流して、とぎれとぎれいった。

「……愛加那! 許せ! 辛抱してくれ!」

 吉之助は土下座した。

「旦那さま! やめてくだされ!」

 西郷は立ち上がり、ふたりは抱き合った。長い長い抱擁、その後、口付け……

「……愛加那!」

「…だ…旦那…さま……偉き……ひと…に…なりもうして…」

  島の妻は涙声でいった。それが吉之助との最後の抱擁となり、最後の別れとなる。

  このとき、愛加那はふたり目の子供を身籠もっていた。

  女の子で、のちに菊草とよばれる吉之助の子で、ある。               

         三 久光との確執





    一

 吉之助は三年間島にいたあと、やっと鹿児島にもどった。

「鹿児島じゃ! なつかしいでごわす」

 桜島はいつものように噴煙をあげていて、雄大である。

 親友の大久保一蔵が出迎えた。

「西郷どん!」

「一蔵どん!」

 ふたりは抱き合った。           

「一蔵どんのおかげで鹿児島にもどれもうしたばい。感謝感激でごわす」

 吉之助は礼を述べた。

「いやいや、西郷どんはわが薩摩の英雄じゃっど。天下がおまんさんを必要としておるっちゅうことでごわそ」

「西郷どん、よかとでごわした」

 大久保一蔵は笑みを浮かべた。……なんにしてもこれで倒幕ができる。

「西郷どん! 西郷どんではごわさんか?!」

 薩摩藩士の男たちが集まってきて、握手した。みんな西郷吉之助の帰還を喜んだ。

 西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と一蔵にきいた。

 大久保一蔵(利道)は顔をしかめて、

「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」

 といった。

「そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」

 西郷は強くいった。

「そげんこついうても、久光公には才能がござらん」

「……なさけなか。藩主がこげな状況では藩に命を捧げたひとたちが浮かばれもんそ」

 西郷吉之助(隆盛)は嘆いた。

 やがて、島津久光は隠居した。

 その隠居は、宮中や朝廷に知らせ、久光は薩摩藩主ではなくなった。

「何の理由もなく兵を動かせば壤夷派にしてやられる」

 薩摩藩士たちは、血判状をつくって久光に迫った。

 島津久光は、

「よし! わかった! 上洛じゃ!」

 と息巻いた。

 家臣たちは「やっとごて公がわかってくれもした!」と喜んだ。

『精忠組』も同じように喜んだ。

 しかし、久光はいつまでもぐすぐすしている。

「殿! ………はやく行動をば!」

 久光は押し黙った。その後、オドオドとなって「わかっとか!」といった。


   二

「西郷どん! ご無事でよかごわした!」

 吉之助の元に、薩摩藩士仲間の村田新八と森山新蔵がやってきた。

「新八どん! 新蔵どん! ひさしゅうごわす!」

 吉之助は笑顔をふたりにみせた。

「西郷どん、難儀じゃったでごわそ?」

 と村田新八は強くいう。

「まぁそうでごわすな」

 吉之助は苦い顔をした。

「おいが掃除も洗濯もひとりでしよった」

 すると森山がにやりとして、

「じゃっどん西郷どん」

「なにとぜ?」

「奄美で結婚したとでごわそ?」森山はにやにやした。

 吉之助はにこりと白い歯をみせ、巨眼と太い眉を細め、

「そうでござりもそ。島の女と結婚しよった」といった。しあわせそうな顔だった。

「……そぜ?」

 村田は吉之助に尋ねた。

「そぜ? ってなんじゃっとん?」

「子までできたんでごわそ?」

「ははは」吉之助は大笑いして

「そでごわすそでごわす」

「めでたいでごわすな」

 一同は笑った。

 西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と森山にきいた。

 一蔵は顔をしかめて、

「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」

 といった。

「なんどもいうどん。そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」

 西郷は強くいった。

「まず幕府を倒すためには二条城をせめ、彦根城を攻め一挙に江戸に攻め入るのが最高の策でごわす」

「そげんこついうても……」一蔵は首をふった。

「久光公は〝わかっとか! 〟いうたばってん。ほんとげにわかっちょっとがか?」

 村田新八と森山新蔵も、

「久光公には倒幕は無理でごわす。西郷どん…」

 吉之助は口をつぐんだ。

「西郷どん。あんさんがたつしかなか」

 一同の目が西郷吉之助(隆盛)に集まった。吉之助は頭をかいて、

「じゃっどん。おいは幽霊でごわそ?」と冗談をいった。


   三

 諸国の志士たちが西郷吉之助によせる期待はただならぬものがあった。

「西郷が動けば薩摩は動く」といわれるほどで、故・斉彬の助手として活躍し、顔も知られていた。

 西郷は島津久光との約束を忘れ、急ぎ馬関(下関)を発して京へと向かった。

 それを知った久光は、激昴して、

「おのれ! 余をばかにすっとか?!」

 といった。

「吉之助め、余の命にそむいて……何をばするつもりか! あの男は余をあなどっておるのではなかか!」

「久光さま。そのようなことは…」

「黙れ! 一蔵!」

 大久保は久光をなだめた。

「西郷どんはどげんこつで京へいきもはんじゃろうですか?」

「知るか!」久光は強い口調でまくしたてる。

「あの男ばゆるすわけにはいかん!」

「落ち着いてくだされ! 久光さま!」

「一蔵! 誰のおかげで偉くなれもうした?」

 大久保一蔵(利通)は押し黙った。…確かに偉くなったのは久光のおかげである。

「いつやめてもよかとぞ? 一蔵」

 久光は低い声でつめよった。

 大久保一蔵(利通)は押し黙ったままだ。

「吉之助はまた島へ流す! おいを馬鹿にした罰じゃ!」

 久光は顔を真っ赤にしていった。よほど腹が立っていたのであろう。

「久光さま。そのようなことは…おいが連れ戻すばってんそれは平にご容赦を!」

「そげんこつはいかん! 吉之助はまた島へ流す!」

「……久光さま!」

「あれはわが藩と幕府を戦わせるつもりぞ。流さねばなりもうさん」

 久光は、ふん、と鼻を鳴らすと場を去った。

大久保一蔵は愕然として、城内の庭園でがくりと膝をついた。なんともやりきれない思いであった。……なんてごてじゃっどん。

 また西郷どんが島流しにあうとがか?!

 目の前が真っ暗になる思いだった。

 大久保一蔵はさっそく急いで京へと向かった。

 京の薩摩藩邸には西郷がいた。

「おや? 一蔵どんじゃなか! どげんしたでごわす?」

 何も知らない吉之助は明るい声でいった。

「西郷どん……」

「?!」

 吉之助は驚いた。大久保一蔵が土下座したからだ。

「なにしよっとぞ?! 一蔵どん」

「悪いことしよった……西郷どん…またあんさんを島流しにするちゅうて…」

 一蔵は涙を流した。

「島流し? おいを? また久光がそういったでごわすか?」

「……そうでごわす…悪かことしよっとばい」

「頭をあげとせ! 一蔵どん! あんさんが悪いのじゃなかが…」

 吉之助は手を差し向けた。

「……じゃっどん…」

「すべては久光の無能のためでごわす」     

 大久保一蔵は起き上がり、眩暈を覚えながら、

「おいは久光公がわからんとなったでごわす。西郷どんのような人物が今、必要なときになにとぜ島流しなんぞに…」と呟くようにいった。

「一蔵どん………おいはよかとぞ。島流しなんぞなんでもなか。どうせ一度はなくしかけた命じゃっどん。なんでもなかと」

「……おいは…おいは…」

「?!」

 吉之助は驚愕した。大久保が切腹しようとしたからである。

「…な?! なにしよっとか一蔵どん?!」吉之助は一蔵のもつ脇差しをとめた。

「馬鹿なことするもんじゃなか?!」

「…死なせて…もうせ! 西郷どん! わしが腹をきってお詫びを…」

「馬鹿ちんが!」

 吉之助は一蔵の頬を平手打ちした。

「〝死んではつまらん〟いうたのはあんさんでなかが?!」

 一蔵は脇差しを畳に落とし、茫然とした。

「どうせ死ぬなら…」

 吉之助は続けた。

「どうしても死ぬなら、天下のために命を捧げもうせ! 犬死はつまらん! 犬死だけはつまらんど」

「……じゃっどん」

「今は乱世のときぞ。あんさんがいのうなったら天下はどげんなっとか?!」

 吉之助は諭した。

 大久保はしばらく茫然としてから、

「……西郷どん」と囁くようにいった。


     四

 村田新八は徳之島へ、西郷吉之助も島へ流された。

 久光は大阪へ入った。西郷のいとこ大山弥助(のちの巌)、西郷の弟・西郷慎吾(従道)がやってきた。

 久光への意見は、「あにさんを帰してくれもんそ」ということである。

 しかし、島津久光の考えはかわらなかった。

 そんな最中、文久二年(一八六二)『寺田屋事件』が起こる。

「九州諸藩からぬけだした連中が京へきて何かしようとしちょる。おいどんをかつぎだして久光公のご出馬をこうとる」

 吉之助は島流しの前に一蔵にいっていた。

「なぜとめてくれなんじゃ?」

「なれどな、一蔵どん……久光公の怒りはな……そりゃきびしいど」

「わかっちょる」

 いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。

田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。

それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、一蔵はそれは知らなかった。

 幕府要人の暗殺をしようとしている。

「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」

 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。

 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。

「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 

と、有馬は叫んだ。

「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」

 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのだ。

「狼藉ものをひっとらえよ!」

 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋へ向かった。

 のちにゆう『寺田屋事件』である。

「久光公からの命である! 御用あらためである!」

 寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。

大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。

 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。

又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。

 ほどなく、戦闘がはじまった。

 数が少ない。

「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。

 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。

 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。

襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。

「襲撃だ!」

 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分正宗である。田所、藤堂が大山に続いた。

「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。

悲鳴、怒号……

 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。

 倒れる音で、志士たちがいきり立った。

「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。

 志士たちはわずか七名となった。

「手むかうと斬る!」

 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。

 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。

 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。

 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。

 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、

「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。

 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。

 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。

 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。

 ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。

 吉之助はそれを知り、

「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。


    五

 奄美大島の愛加那と子供ふたりは「吉之助がふたたび島流しにあった」ときいて、思わず興奮した。やっとあえるのだ。

 しかし、西郷吉之助が流されたのは大島ではなく、徳之島であった。

徳之島は奄美大島につぐ二番目に大きな島で、久光が、

「大島にやったのでは家族がいて罰にならない」

 と、いったためにこの島が流刑場所に選ばれた。

 しかし、待ち切れない。

 愛加那は興奮して徳之島まで舟でむかった。こうして、再会した。

「おお! 愛加那でごわそか!」

「旦那さん!」

 ふたりは抱きあった。吉之助は息子と女の子をみた。

「これが菊次郎でごわそ?」

「…はい。こちらは菊草という旦那さまの娘です」愛加那は笑顔をつくった。

「そうでごわすか。そうでごわすか」

 吉之助の笑顔はわずかだった。すぐに暗い顔をして

「……久光公に…嫌われ申した」 

 と、慙愧の顔をした。

 すると、見知らぬじじいとばばあがやってきて、

「おんしは極悪人じゃ!」といった。

「……なにごて?」吉之助は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

「ふつうの人間は一度島流しにあえばこりて悪さしないものじゃっどん。

おんしは二度も島流しにおうてる。極悪人じゃで」

「じじい、ばばあ」吉之助は顔をしかめて

「おいどんは極悪人じゃ。その杖でおいを叩きのめしてごわせ!」

 やがてばばあとじじいは吉之助を杖で叩きはじめた。

「………旦那はん!」

「愛加那! ……子らに見せんじゃなか! 行け! はよ行け!」

 愛加那は子供たちに、ボコボコに叩かれる吉之助をみせて、

「よくみとらんせ。あれがあんさんたちの父ど!」と諭した。

 吉之助は傷だらけになった。

 久光はそれをきき笑ったが、妻子にあえるのは駄目じゃな。とも思い、島流しの場所をかえさせたという。

   

 吉之助は沖永良部島へと流された。

 島は石がいっぱいあって、太陽がぎらぎらまぶしく、そんな海岸の炎天下のちいさな檻に西郷吉之助(隆盛)はいれられた。食事はおそまつで、風呂にもはいれない。

 雪隠(トイレ)もない。しかも、暑苦しい。狭い。外にでられない。

 吉之助は髭をぼうぼうに生やしっぱなし、服も汚れ、さすがに痩せて、頬はこけ、風呂にはいってないから臭くなった。

 吉之助は座禅を組んで耐えた。三年間そんな日々が続いた。

 島には陽気な薩摩隼人・川口雪篷がいて、酒をラッパ呑みしながら檻にやってきた。昼頃だった。「西郷どん……酒はどうじゃ?」

 雪篷がいうと、西郷は目をまわし、気絶した。

「おい! 西郷どんが気絶しよったぞ!」

 雪篷はあわてて役人をよびにいった。しかし、吉之助は、死ななかった。

この経験で禅の境地を得た西郷隆盛は『敬天(けいてん)愛人(あいじん)』を座右の銘とした。意味は、天を敬いひとを愛すること、である。

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