第五話 勝海舟

    二

 案の定、近藤たちが道草を食っている間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……

 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけた。

 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。

 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!

 新選組たちはわずか一刻で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。

歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。

 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」

 近藤はさらに

「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。

 すると、永倉は激怒し、

「それでも局長か?!」といい去った。     

 近藤勇はひとり取り残されていった。


    三

 近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。

 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。

 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」

 と怒鳴った。

 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。

 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。

「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。

 近藤の側近は二~三人だけになった。

「切腹する!」

 近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。

「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」

「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、刻をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」

 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。

「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」

 歳三はいった。

 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。

 近藤の刻かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。

「近藤さん、必ず助けてやる!」

 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。


    四

 四月十七日、近藤への尋問がはじまった。

 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。

「やめろよ、おい!」

 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。

「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」

「ほざけ!」

「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」

 男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。

「た……泰之進」

 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?

「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」

 彼の勘はさえていた。

「俺は勝っている方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」

 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。

 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。

「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」

 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!

 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。

 ……〝孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨            

てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん〟

 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。


     五

 官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。

……麟太郎は榎本の内心を知っていた。

 麟太郎は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。

 麟太郎は『氷川清話』に次のように記す。

「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。

 しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。

 けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。

 官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」

 大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。                  

 四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。

 官軍との戦闘になった。

 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。

 脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。

 彼等は桑名藩、会津藩と連携した。

 江戸では、脱走兵が絶え間なかった。

 海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは麟太郎との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。麟太郎は頭を抱えた。

 いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」麟太郎は呟いた。

 榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしいはずだ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。

 麟太郎には榎本の気持ちがしれなかった。

 江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。

 西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。

「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」


    六

 麟太郎が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。

 官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。             

 江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。

 麟太郎は西郷に書を出す。

「一 今、苗を植えるべきときに、東三十余国の農民たちは、官軍、諸藩の人夫に駆りだされ苦しんでおり、このままでは今年の秋の収穫がない。来年はどうして生きていくのか。民は国の基本である。

 二 すでに大総督府へ献言しているのに、返答がない。

 三 王政維新について、わが徳川氏の領国を用途に当てられるということである。徳川氏の領土は狭小で、たとえ残らず召し上げられても、わずか四百万石に過ぎない。三百六十万俵前後の実収を、いままったく召しあげられても、大政に従事する諸官の棒給にも足りぬであろう。いわんや海陸の武備は、とてもできないであろう。

 まだ、その名分は正しいとはいえない。もし領国のなかばを減ぜられたとしても、罪のない家臣、その家族をどのようにして養うのか。人の怨みはどこにおちつくだろう。

 今寛典のご処置で、寡君(慶喜)ご宥免のうえ、領国をそのまま下されても、幾何かを朝廷に進献するのは当然である。そうすれば、寡君の誠心により出たものとして、国内の候伯はこれをみて黙止しているだろうか。かならず幾何かの領地を進献するだろう。 そうなれば、大政の御用途、海内の諸事の費用にあてるに充分であろう。そのようにすれば何事もうまく運ぶだろう。

 四 一家に不和を生じたときは、一家は滅亡する。一国不和を生じたときは、その国は滅亡する。国の内外の人心を離散させれば、どうなるのか。

 五 外国のひとたちは朝廷のご処置如何をもって、目を拭い、耳をそばたてて見聞きしている。もしご不当のこがあれば、噂は瞬間に、海外に聞こえるだろう(後訳)」

 官軍が天下をとったことで、侍たちの禄支給が延期されていた。麟太郎は、不測の事態を危惧していた。


    七   

 彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。

 彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名の血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきた。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。                      

 上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。

 すべては彰義隊の戦略だった。

 江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。

 彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。                

 二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。

 彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えた。西郷は、〝彰義隊を解散させなければならぬ〟と思っていた。

 一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。

「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」麟太郎は激昴した。

 榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。              

 江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。

 さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。

 彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。

 江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。

 江戸では、彰義隊を動かしているのが麟太郎で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も麟太郎が命令しているという噂が高まった。そんなものは出鱈目である。

 麟太郎は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。

 しかし、それは阻止できそうもなかった。


    八

 ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。

 薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。たちまちまた六人を殺した。

 彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。

 彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。

 西郷隆盛は、

「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。ゆえに条理をもって説論できなんだ」

 麟太郎は日記に記す。

「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」

 大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいた。

 かれらは麟太郎や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。

 彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。

 官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。

 上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。

 やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。

 午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。


 彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。

 西郷は書類をみてからしばらくして、

「彰義隊をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。

 大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、

「さようであります」と答えたという。

 麟太郎は『氷川清話』に記す。

「大村益次郎などという男がおれを憎んで、兵隊なんかさしむけてひどくいじめるので、あまりばかばかしいから家へひっこんで、それなりに打っちゃっておいた。

 すると大久保利通がきて、ぜひぜひねんごろにと頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気で肩入れするようになったのだ。

 なにしろ江戸市民百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは容易に達せられない。そこでおれはその事情をくわしく話したら、さすがに大久保だ。それでは断然遷都の事に決しようと、こういった。すなわちこれが東京今日の繁昌の本だ」      

       十一 勝海舟よ、永遠なれ!

         





     一

 彰義隊討伐の日、麟太郎の屋敷に官軍が乱入し、小銃を発射、刀槍雑物を掠奪して立ち去った。その件につき、麟太郎はただちに大総督府参謀海江田武次(信義)に、徳川慶頼を通じ、

「小拙(麟太郎)何等の罪科にて御沙汰これあるや」と問い合わせたという。不当な官軍の行為をなじった訳である。

 海江田ら、大総督府参謀は何も知らなかった。大村益次郎が、麟太郎を抹殺せよなどと指令を出したという推測が、麟太郎の周囲で流れていたようである。

 麟太郎はたまたま慶頼の屋敷にいたので命拾いしたが、それから七日間、氷川の屋敷に帰らなかった。

 榎本武揚から麟太郎に書状がきたのは二十一日のことである。館山に碇泊している艦隊を率いて脱走する、という。麟太郎は返書を送った。

「大廈が倒れるときは、一本の木が支えられるものではないというのは、ほんとうだ。

 官軍が入城して以来、軍艦引き渡しの処置が遅れたが、その後はなんとかはかどった。 だが船橋、木更津で幕兵が軽挙をおこし、官軍と戦ったが瓦解した。

 その後、大総督府と交渉を重ね、遅々として進まなかったが、ようやく平穏のうちに、慶喜公に対する寛典が下されようとしたとき、彰義隊が暴挙をおこし、事態は急変してしまった。

 官軍の行動はふたたび盛んになり、わが方の士気は屈し、きもがすわらなくなり、相手の術中に陥り、どんな対策をおこなうこともできなくなり、味方がたがいに疑いぶかくなり、将来どのような手を打つべきか知らない。

 ああ私の徳川家に対する尽力は、三度やぶれ、血涙を流すのみである。

 上様のご苦慮を思えば、気がめいるばかりである。誰がこの苦心を理解できるだろうか」   

 麟太郎が二十二日に帰宅すると、大総督府参謀であった海江田が訪れ、告げた。

       

「おいは官軍参謀を罷めさせられ申した」

「大村益次郎のやりかたにそぐわなかったためかね」

「そうでごわす」

 西郷吉之助(隆盛)も参謀を辞任するという、海江田は、

「西郷どんは、近頃じゃやる気ないごつ見え申す。薩摩へ帰りたかという申す」

「いい男がつぎつぎといなくなるじゃねぇか。残念なことでい」

 麟太郎は、すべてが終わったと思った。

 そう思うと切なくなり、身がしめつけられる思いだった。


     二

 徳川家の領地四百石は取り上げられ、領地はわずかに七十万石にさせられた。一橋大納言(慶喜)、田安中納言(慶頼)が皇室の藩屏に列して告げられたのだ。

 六月になって、榎本武揚と行動をともにしている元陸軍副総裁白戸石助が麟太郎のところを訪ねてきた。仙台、米沢、会津を中心とする東北藩連合軍が朝廷に嘆願書を出し、官軍と一戦まじえる気であるという。

 麟太郎はいった。

「おれには別の考えがある。これから大事をなしとげるには、国が大きいこと、人民が多いことが有利とはいえねえよ。

 いちばん大事なのは人材だなぁ。いま東北藩連合軍にはどれだけの人材がいる?

 官軍にしても悪戯に力に頼るばかりで、会津藩などは徳川に忠義を尽くしているように見えて、じつは忠義などしちゃいねぇさ。徳川家がこんなになっちまったのも、もとはといえば会津藩に誤られたためだ。おれは官軍との戦いには賛成できねぇよ」


     三

 品川沖に艦隊を碇泊させていた榎本武揚は、将軍が駿河に追われ、たった七十万石になったことを受けて激怒し、かねてからの提案だった蝦夷に共和国をつくることに決めた。 富士山丸を官軍に引き渡したため、つかえる艦隊は、開陽丸、回天丸、千代田形、蟠龍丸、咸臨丸の五艦だけだった。咸臨丸はすでに老朽化していた。

 榎本武揚は、オランダから届いたばかりの開陽丸でなら、官軍側との海戦にのぞんでも勝てると見ていた。

 大総督府からは、山岡鉄太郎(鉄舟)らを呼び出し命じた。

 一、駿府へのお引移り、精々取急ぐ候よう致すべく候事。

 一、駿府へのお召し連れあいなり候ご家来、姓名取り調べ差し出し申すべき事。

 麟太郎が慶喜の供をして駿河へ出向き、おこなうのは開墾事業である。

 水戸では慶喜が謹慎しており、会津と気脈を通じ、官軍と戦うという者が出ているので、麟太郎たちが移住を急いだのだ。

 幕府艦隊が脱走したのち、麟太郎は官軍の猜疑を一身にうけた。脱走の計画をたてたのが麟太郎であるというデマが流れたためである。

 麟太郎は、鉄舟とともに協力して、奥州(東北)へ脱走しようとする幕兵たちの集団を説得、解散させることに努めた。

 品川沖から姿を消した艦隊の動向を、麟太郎は常に気づかっていた。

 消息をたっていた、榎本武揚の指揮する幕府艦隊のうわさが、麟太郎のもとに届くようになったのは、明治と改元された九月八日以降であった。

 なんでも美加保丸という速力がでない船が荒波で沈み、開陽丸も破損した。

 官軍の三艦が去ったあと、港には血にそまった死骸が流れ、賊名を負う死骸を葬ることもなく、皆気味悪がった。そのため清水の次郎長が、部下をひきつれて始末にあたった。 麟太郎は旧旗本を静岡へ移転させるのに苦労した。

 官軍では、榎本が艦隊を率いて蝦夷に向かったのは麟太郎の計画であるという噂がまた流れた。薩摩人は麟太郎に好意をもっているが、海軍とは薄い長州人は麟太郎に不満をもっていた。

 米沢藩が官軍に降伏し、会津若松城は籠城、南部藩も降伏、東北連合軍はバラバラになりかけた。が、榎本武揚の指揮する幕府艦隊の到着で、活気をとりもどした。

 榎本の元には新選組の土方歳三がいて、大鳥らとともに二千五百の兵士を率いていた。 麟太郎は静岡藩では、幹事という役職についた。同僚は鉄太郎である。

 江戸開城のとき陸軍総裁だった麟太郎は、いまでは家老平岡丹波守のもとで、中堅役人をしていた。しかし、ひんぱんに東京にもいき、官軍と交渉もするのだった。

 麟太郎はいつしか官軍と徳川家のあいだをひんぱんに行き来する役目になった。徳川家の家臣であると同時に、新政府の知恵袋として扱われていた。


   四

徳川宗家はかつて数百万石ともいう大大名であった。しかし、大政奉還と、最後の将軍・徳川慶喜の「恭順姿勢」「謹慎」による、いわゆる薩長官軍への敗北により領地は七十万石に下賜(かし)(身分の高い者が低い者に与えること)された。場所は現在の静岡県である。

そこが幕臣たちの領地になった。

一橋大納言(慶喜)、田安中納言(慶頼)は皇室の藩屏に列する。

『岩倉公実記』には、

「七十万石はわずかに尾(州)藩(六十一万九千五百石)の上に位するのみ。これ百万石を越ゆべからずとの説によれるものの如し」

と記されている。

つまり、禄高を大激減され静岡に移封(いほう)されたのだ。だが、官軍は錦の御旗を掲げて、天子さま(天皇のこと)を担いでいる。「恭順姿勢」「慶喜謹慎」「江戸城無血開城」「大政奉還」「王政復古の大号令」「戊辰戦争」で白旗あげたんだ、仕方なし、である。

米沢藩も仙台藩も会津藩も東北奥羽越列藩同盟もひどいことになった。

幕臣は彰義隊などや浪人軍団・新撰組は戦ったが、幕臣旗本は無傷、降伏して静岡に島流しにされた。恭順も徳川無抵抗も、勝海舟の策だったが、馬鹿な幕臣は「勝海舟の裏切り者! 奸臣勝海舟!」とひどく勝をうらんだようである。

維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは、およそ八万人もあった。勝海舟は幕臣たちの仕事のあっせんを懸命にやった。だが、所詮は武士である。畑をたがやせ、茶をつくれ、商いをしろ、技能を身につけよ…どうにも頑固でいけねえ。

勝海舟は元・侍(いわゆる士族)の馬鹿げた誇りと面子に、苦い顔をする。

「変においらは元・武士だ。畑仕事などできねえ、などといってもしなきゃ飢え死にするだけだ。だから耕せっていうんだ! なんでわかんねえのかねえ。呆れるぜ!」

静岡では「勝海舟の裏切り者!」と道から投石する幕臣もでるし、玄関の門に「奸臣 勝海舟」と落書きする馬鹿までいる。

「馬鹿野郎!俺が幕引きをしなけりゃ、江戸城無血開城も戊辰の早期終結もなかったんでぃ! 馬鹿野郎はお前らだってんだ!」

勝海舟は言った。


     五

 榎本武揚の指揮する幕府艦隊は蝦夷(北海道)に着いた。数日後、暴風雨のため開陽丸、千代田形を失った。最大の軍艦開陽丸を失ったのは大きいダメージだった。回天丸は米国旗を掲げ宮古湾に侵入し、接近して幕府軍艦旗に変え、甲鉄艦の左舷を乱射し、陸軍が乱入し、占領しようとしたが失敗し、艦長加賀源吾が戦死した。

 榎本艦隊が全滅したのは、明治二年五月十一日。蟠龍、回天は最後まで戦ったが、撃沈された。新選組の土方歳三は馬上で官軍の弾丸により倒れ、死んだ。榎本武揚は大鳥圭介らとともに投降し、東京に身柄を移された。

 本当ならば榎本武揚は斬首であった。が、あまりにも高い知識と学識をもっていたため新政府は彼を重用し、殺さなかった。

 勝麟太郎(勝海舟)が明治政府の要人となると、旧幕臣からは「それでも幕臣か?」と問われた。しつこく言ったのはどうも福沢諭吉らしいが、麟太郎は只、一言、               

「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず」というのみである

 行蔵…つまり出所進退は自分が決めることで、他人がどういおうが勝手だ! 

 麟太郎は、安房守の安房をとって安芳と名を変えた。アホウという意味である。

 安芳はのちに『海舟翁一夕話』でこういう。

「人はよく方針々々というが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下の事は、あらかじめ知りうることができないものだ。

 網を張って鳥をとっていても、鳥がその上を飛んだらどうするのか。我に四角い箱をつくっても、天下には丸いものもあれば三角なものもある。

 丸いものや三角なものを四角い箱にいれようとしても、さてさて苦労千万の事だ」

 七月二十日、安芳は大久保利通へ前上様慶喜の謹慎をといてもらいたい、と書状で頼んだ。二十一日には大久保が来訪し、安芳の胸中を聞いた。右大臣三条実美も、安芳の外務大丞就任を喜んでいる。

 安芳は『氷川清話』でこう記す。

「政治は理屈ばかりでゆくものではない。実地について、人情や世態をよくよく観察し、その事情に精通しなければだめだ。下手な政論を聞くよりも、無学で文字を知らない連中を相手に話をするほうが、大いにましだ。無学なやからの話は純粋無垢で、しかもその話のなかには人生の一大道理がこもっているよ。いつぞや話した通り、おれも維新前には種々の仲間と交際したよ。官軍が江戸におしよせたときは本当に骨が折れたよ。毎日役所から戻ると駕籠にのり、あの中で親分とよばれる奴らどもを尋ねてまわったが、骨が折れるというものの、なかなか面白かったよ。

 官軍が江戸にはいっても盗賊や火つけが少なかったのも俺が連中の親分に話をつけていたからさ。(中訳)つまり、人のみようによって、善となり悪となり、利ともなり害ともなるものだ。そこがまた世の中のおもしろいところさ。

 しかし、今の政治家には、こんなささいなところまで注意する人はあるまい。行政学を一冊読んで、天下の機関がうまく回転すれば、世の中楽なものだ。

 御前とか閣下とか、そんな追従ばかり聞いておらずに、大臣などはすこしは飾り気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」

 十二月七日、安芳は大久保利通に、御暇願書をさしだしたが、受け入れてもらえなかった。安芳の屋敷には次から次へと「お知恵拝借」とばかりに客人がくる。

 十二月十四日になって、政府から、東京に至急戻るように、と命令までくる忙しさであった。安芳は静岡に隠居屋敷をつくり、そこで余生を過ごす気であった。

 しかし、何度も新政府から東京へこいと呼びだしがくる。

 そんな中、母信子が倒れ、亡くなった。

 安芳が海軍大輔に任官したのは、明治五年五月十日だった。廃藩置県で、徳川藩が亡くなったので、藩に残留する必要もない。旧幕臣に「裏切り者」とみられ、住みにくい静岡にいるよりも東京に住むと決めた。

 同年六月十五日、従四位に任じられた。


   六

徳川慶喜は、麟太郎が慶喜のため、死の危険を冒してはたらいてきた苦労を認めようとせず、彼が官軍にあらかじめ頼み、そのような芝居をさせたのであろうといった。

これにはさすがの勝海舟も開いた口が塞がらなかった。歴史的偉業もわからず、勝海舟は阿呆だ、等という。

「こまったひとだな」

勝の言葉はこれだけだった。

内務卿・岩倉(いわくら)具(とも)視(み)が士族に暗殺されそうになって、川に飛び込んで逃げ、暗殺が未遂におわったのはこの頃であるという。

勝海舟の努力もあって、慶喜の長期謹慎がとかれ、囹圄の人となっていた榎本武揚や、長井尚(なお)志(ゆき)、大鳥圭介ら箱館戦争の政治犯たちも釈放された。

彼らはその知識で、明治政府の要人に出世していく。

勝海舟はもう退官しようと思ったが、大久保利通がなかなか辞めさせてくれない。

勝には経済政策やインフラ整備や軍事力、国防などにみるものがあった。プロシアとフランスの仲が悪く、戦火が飛び火したら? 大久保はどこまでも現実主義だ。

ちょっというが、歴史的に大久保利通や岩倉具視は、行った大偉業の割には正しく評価されていない。確かに高い理想も大事だ。竜馬や久坂や高杉、吉田松陰のような。

だが、理想だけで世界が、現実世界が動く訳ではない。

理想を計画として予算を付けて、実行する現実主義者がいなければ瓦解するだけだ。

現実主義者は憎まれ、怨嗟の対象にもなる。

だが、綺麗事だけいって現実社会が動けば簡単だ。が、世の中甘くない。

スローガンや目標を達成させるのは粘り強い現実主義者、でしかない。

 勝海舟は明治三年二月二十八日、静岡の町はずれ門屋村に、豪邸を建てた。

とたんに母親が死ぬ。勝海舟の力を頼って政治犯が「たすけてほしい。匿って欲しい」と大勢くるし、静岡では「裏切り者・勝海舟」を恨む元・幕臣が多すぎた。

嫌になって勝海舟は静岡に見切りをつけて東京で大家族(愛人や妾との子供や親戚や孫など)と東京の一角に豪邸を建てて住んだ。廃藩置県で徳川藩が消滅したのもおおきな理由である。優雅な隠棲生活、である。


    七

 勝海舟(勝安芳)は、明治六年十月、征韓論が破裂して西郷隆盛が失脚したのち、参議兼海軍卿の勅命をうけた。

 征韓派の西郷、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら参議五人が辞職、三条太政大臣の率いる内閣は、参議が卿を兼任した。

 大久保利通が内閣をつくり、そこに伊藤博文、大隈重信、勝安芳がくわわった。大隈重信が財務大臣、勝安芳は外務大臣といった役職だった。勝は中流官僚として実務にあたっている旧幕府家臣の代表でもあった。日本を近代化する。それが勝の目標になった。

 安芳は長崎に出張した際、かつての愛人・お久の子、梶梅太郎をひきとった。安芳には他にも愛人の子がいた。安芳は年老いてもなお絶倫だった。

 内閣で客員削減の議論がでると、勝は「それなら大官を削減したほうがよい。私がお手本になろう」といって、その後内閣に出席することもなくなった。

 安芳は閣議出席をとりやめたのち、明治八年四月二十五日、辞表を提出して野に下った。そののち安芳は東京の豪商大黒屋(榎本六兵衛)の助けをかり、『徳川銀行』ともいうべき金融機関を設立する。

「ものごとを始めるには金がなければならない」安芳はいった。

 廃藩置県で全国の武士が職を失い、安芳はそれら武士に政府から支払われる〝一時金〟を金融機関でとりあつかわせた。そんななか西郷が鹿児島で乱をおこす。

 警視庁は西郷と勝が、なんらかの関係があるかも知れないと捜査した。が、用心深い安芳は警察に証拠をつかまれるようなことはなにもしていなかった。

 大政奉還、鳥羽伏見の戦い、王政復古の大号令、江戸城無血開城、会津戦争、箱館戦争、廃藩置県、帯刀禁止令、東京へ遷都、明治政府、佐賀の乱、萩の乱、秋月(福岡)の乱、神風連の乱、西南戦争………おおきな歴史の波が勝海舟の横を爆音とともに駆け抜けていった。

勝海舟は西郷隆盛を人物として高く買っていたので「西南戦争」で、西郷自刃と知ると思わず「てやんでぃ、馬鹿野郎!」と声が出た。


     八

 若き将軍・家茂が死んで、後家となり静寛院宮と号していた和宮は、天璋院(篤姫)の働きに感銘を受けていた。天璋院は徳川幕府崩壊後、失業した大奥女中たちを庶民の嫁として嫁がせ、私財を投げ受って天下安寧に勤めた。

一度は京に戻った和宮ではあったが、天皇が東京に移ると東京に戻って生活した。

明治時代になって、徳川家の子孫を英国に送ったのは天璋院・篤姫である。

天璋院と和宮が御飯の配分で争い、しゃもじを取り合って

「私が…」

「…いえ。私が…」と譲っていると、勝海舟が

「じゃあ、もう一本しゃもじを」 といって収めたという有名なエピソードがある。

 あるとき船宿で天璋院が火鉢に鉄瓶がかけてあって、差し出されたお茶が美味しかったので邸宅でも鉄瓶を火鉢にかけた。それを発見した勝海舟が

「これ(鉄瓶)は下司(げす)(身分の卑しい者)の使うものです。銀瓶がありますから銀瓶をつかってください」と言ったというエピソードもある。

また天璋院は外出先で、風呂上りに浴衣を着たところ肌にべとつかないと気に入り、普段でも浴衣を着るようになり、舶来のシャツも買った。

御台所(将軍の正室)と仰がれ、女中たちにかしずかれてきた人とは思えぬ変貌ぶりである。

 天璋院は徳川家の後継者は旧・島津藩主の子と結婚することと遺言を残して逝った。

天璋院篤姫は義父・島津斉彬にもらった「薩州桜島真景図」という屏風絵をみては故郷の薩摩(鹿児島県)をおもったことだろう。今、彼女の魂は薩摩にあるに違いない。

「……家茂さん。家茂さん!」静寛院宮(和宮)は脚気で静養し、和宮は死ぬ直前まで環翠楼という寺で静養していたという。

一八七七年九月二日亡くなった。享年三十二歳

……また西郷隆盛も、この年、西南戦争などという馬鹿げた内戦を起こして自決した。享年五十一歳……大久保利通も暗殺される……

 和宮の葬儀は箱根阿弥陀寺で行われた。

 天皇家から歴史上初めて将軍家に嫁いだ和宮はこうして最期までヒロインとして生き、ヒロインとして死んだ。時代に翻弄された皇女ではあったが、最期の顔には笑顔があった。 

そののち明治十二年(一九三三年)、二十歳の徳川家達が留学から帰ると、許嫁と結婚させて「すべてがおわった」とばかりとなった。天璋院は脳溢血で倒れた。

 明治十六年(一九三七年)十一月十六日、五十七歳で眠るように亡くなる。私財はわずかな銭だけだった。

こうして江戸から明治へと駆け抜けたふたりの女性の物語は幕を閉じた。

「江戸中見渡しても、天璋院さんや和宮さんの悪口いうやつはいねぇぜ」

 勝の言葉はそれだけである。

維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。明治六年(一八七三年)には、勅使として西四辻公業とともに鹿児島へ下向し、島津久光を東京へ上京させた。

大日本帝国憲法制定時の枢密院審議では、枢密顧問官として出席したが、終始一貫沈黙していた。

 また座談を好み、西郷隆盛や大久保利通を、その後の新政府要人たちと比較した自説を開陳しているが、その一方で自身はその政治的姿勢を團團珍聞などのマスメディアから厳しく批判された。

徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに尽力した。

この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。

そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。

また、江戸城無血開城と維新の立役者であったが西南の役で逆賊の臣となってしまった、かつての敵側の将である西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している。

勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官の伊東祐亨は、勝の弟子とでもいうべき人物だったが日清戦争には反対の立場をとった。

清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。

勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。

三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。

晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している。

ただしその独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。晩年は、子供たちの不幸に悩み続け、その上、孫の非行にも見舞われ、孤独な生活だったという。


    九

 安芳の元には福沢諭吉が「学校を設立したい」と金を借りにきた。だが、安芳は貸さなかった。そんななか西南戦争がおこり、西郷が自害したという報をきく。

 勝は「おしい人物を失った」となげいた。

不仲の福沢諭吉に「元・幕臣なのに薩長明治政府に尻尾をふり、節操がない」と悪口を言われると有名な『痩せ我慢の説』「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉め貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」を唱えて一蹴した。

 勝安芳は、天下を治めるには経済が第一だ、という。

「天下の富をもってして、天下の経済に困ることがないというのが、こっちの落付きだ。 昔のひとでも、皆経済には苦労しました。信長は経済の着眼がよかったので、アレだけになった。信玄も、甲州の砂金をそっと掘りだしていたり、色々な法をたてた。南朝でさえ、    

北朝に細川頼之という経済家があって敗れた」

 安芳は大久保一翁、永井尚志、鉄舟、木村芥舟らと連携して徳川宗家の経済基盤を確立させようと努めた。徳川勢力を維持するために、安芳は土地、家屋、田畑、山林から画書骨董によって利殖をはかる。旧幕臣たちの再就職の斡旋もした。

 明治十七年七月七日、華族令が制定され、公・候・伯・子・男の五段階の勲位が設けられたという。安芳が受勲したのは明治二十年である。ともに受勲したのは、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、らである。

李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治六年(一八七三年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。

また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。 

安芳には老人となっても愛人がいた。それらの女たちを同じ屋敷に住まわせたりもした。

子や孫も沢山できた。惜しかったのは長男小鹿(ころく)が結核で五十代で死んだことである。ちなみに〝元・幕臣〟だのといって金をせびりにくる〝不届きもの〟の浪人もあとを絶たなかった。

が、勝海舟は金を与え続けた。勝と愛人・お久との子供が梅太郎で、お久は二十六歳で病死している。

勝海舟の妻のお民は女中(糸、カネ)の子供や、愛人(お久)の子供などかいがいしく面倒をみていたが、我が子・小鹿(ころく)が結核で病死すると、

「勝と同じ墓にはいりたくない」といったという。だが、彼女の墓は海舟の隣になり、要望はかなえられなかった。ボケがすすんでもいた。梅太郎の妻は外国人のクララという。  

当時は珍しい国際結婚であった。勝海舟の浮気相手のひとりの長崎の愛人・お久は

「まるで私たちは〝かくれんぼ〟のよう。漢字で書けばどういう字でしょう?」

との問いに勝海舟が

「〝確恋慕〟さ」というのはドラマのうえでの演出(日本テレビ『勝海舟』)でしかない。

勝海舟が維新後三十年で有栖川熾仁にはからって徳川慶喜の天皇への拝謁を頼み込んだのは歴史上の事実である。

有栖川熾仁といえば皇女・和宮の元・許婚であるが、幕府と朝廷との公武合体で和宮は江戸の徳川家茂に嫁いだ。勝海舟は早朝から東京の有栖川熾仁の御殿におしかけて土下座をし、

「恨みはわかりますが、どうか、どうか、徳川慶喜公を天子さま(天皇の事。ここでは明治天皇のこと)に慶喜公の拝謁の許可をお願いいたしまする! 明治維新から三十年…もう徳川家をお許しくだされ! この勝海舟、この願い叶うまで死ぬに死ねませぬ!」

勝海舟は白髪頭を下げ続けた。耄碌(もうろく)なのか手足が震えていた。

「………わかった」有栖川熾仁は言った。

こうして徳川慶喜は不名誉な朝敵・賊軍から、許されて天子さまに拝謁した。

もう涙、涙、である。

「勝よ、ありがとう! この慶喜、お前にはお礼の言葉もない」

徳川慶喜の十男の子供を勝海舟の死んだ息子・小鹿の娘と結婚させ、勝海舟の養子にすることに決まった。勝海舟は勝家を残す気は元々さらさらなく、承諾した。

 勝海舟の妻・民子は「わたしが死んでもあの女好きの海舟の墓にははいりたくないねえ」ということをぼけた頭で白髪の皺くちゃ婆となっても言っていた。

 明治三十二年一月十九日午後、勝安芳は風呂からあがり、便所から出たところで倒れた。布団の敷かれたところまでいけないので、「どうなさったのか?」ときかれると、

「死ぬかもしれないよ」といい、「生姜湯をもってこい」という。「ない」というと「ならブランデーを…」といいブランデーを飲んだ。脂汗が出るといって、湯で体を拭いたという。私の先祖・上杉鷲茂も見舞った。そのまま静かに眠りこんだ。二十一日午後五時、勝安芳は心臓麻痺で世を終えた。

最期の言葉は「コレデオシマイ」。享年七十七歳。墓には勝海舟とだけ掘られた。勝海舟の好んだ言葉は「功なく、また名なし」であったという。妻民子の死は、勝海舟の死から三年後。それから息子小鹿の墓に祀られていたが、昭和二十六年、東京の勝海舟の墓のとなりに祀られた。

実に彼女の死から四十八年後。多分、民子は夫・勝海舟を許してないだろう。また、そんな民子を勝海舟はまぶしいものをみる目でみているだけだろう。

勝海舟はこうして歴史に名を刻んだ。勝海舟よ、永遠なれ! こういって筆を収めたい。                       


おわり 



略年譜

• 天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。

• 安政2年(1855年)

• 1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。

• 7月29日、海軍伝習重立取扱となる。

• 8月7日、小普請組から小十人組に組替。

• 安政3年(1856年)

• 3月11日、講武所砲術師範役となる。

• 6月30日、小十人組から大番に替わる。

• 安政6年(1859年)

• 5月、伊予松山藩が武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に築造した砲台設計する。

• 11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。

• 安政7年(1860年)

• 1月13日、品川から咸臨丸出航。

• 2月26日、サンフランシスコに入航。

• 閏3月8日、サンフランシスコを出航。

• 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。

• 5月7日、江戸に帰府。

• 6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。

• 文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。

• 文久2年(1862年)

• 7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。

• 閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。

• 文久3年(1864年)

• 2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。

• 改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2,000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。

• 11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。

• 慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。

• 慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。

• 慶応4年(1868年)

• 1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石。列座は陸軍奉行並の上。

• 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。

• 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。

• 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。

• 明治2年(1869年)

• 7月13日、諱を安芳と改める。

• 7月18日、維新政府の外務大丞に任官。

• 8月13日、外務大丞を辞す。

• 11月23日、兵部大丞に任官。

• 明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を辞す。

• 明治5年(1872年)

• 5月10日、海軍大輔に任官。

• 6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。

• 明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。

• 明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。

• 明治8年(1875年)

• 4月25日、元老院議官に異動。

• 4月27日、元老院議官を辞表を提出。

• 11月28日、元老院議官を辞す。

• 明治20年(1887年)

• 5月9日、伯爵を受爵。

• 12月、従三位に昇叙。

• 明治21年(1888年)

• 4月30日、枢密顧問官に任官。

• 10月、正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。

• 明治22年(1889年)

• 5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。

• 12月、勲一等瑞宝章を受ける。

• 明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。

• 明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。

• 明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。

• 明治31年(1898年)2月26日、勲一等旭日大綬章を受ける。

• 明治32年(1899年)

• 1月19日、死去。

• 1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。




<参考文献>

なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』『西郷どん』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。

『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。

 他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。


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至誠の魂 勝海舟 長尾景虎 @garyou999

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