第四話 勝海舟
十
そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。
敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。
「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」
勝安房守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。
「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」
勝は沈黙した。
……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…
言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。
勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。
「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」
近藤たちは決起した。
やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤は、
「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」
新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。
皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。
甲陽鎮部隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。
「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」
近藤は強くいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。
勝海舟(麟太郎)にとっては、もう新選組など〝邪魔者〟でしかなかった。
かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?
とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!
そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!
「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。
「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」
勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。
そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。
近藤たちは故郷に錦をかざった。
どうせなら多摩の故郷にたちよって、自慢したい……近藤勇も土方歳三もそう思った。それが、のちに仇となる。しかし、かれらにはそんなことさえわからなくなっていた。
只、若年寄格に、寄合席格に、と無邪気に喜んでいた。
近藤は「左肩はまだ痛むが、こっちの手なら」とグイグイ酒を呑んだ。
数が減った新選組には、多摩の農民たちも加わった。
多摩の農民たちは、近藤が試衛館の出張稽古で剣術を教えた仲である。
土方歳三は姉に、「出世しました!」と勝利の報告をした。
「やりましたね、トシさん」姉は涙ぐんだ。
「それにしても近藤先生」農民のひとりが不安顔でいった。
「薩長が新政府をつくったって? 幕府は勝てるのですか?」
近藤は沈黙した。
やっと「勝たねばなるまい!」とたどたどしくいった。「今こそ、多摩の魂を見せん!」
十一
江戸は治安が悪化していた。
また不景気と不作で、米価が鰻のぼりになり百姓一揆までおこる有様だった。盗賊も増え、十一月には貧民たちが豪商の館を取り囲み威嚇する。
民衆は、この不景気は幕府の〝無能〟のためだと思っていた。
幕府強行派の小栗上野介らは、京坂の地において、薩長と幕府の衝突は避けられないと見ていたので、薩摩三田藩邸に強引でも措置をとるのは、やむをえないと考えていた。
江戸にいる陸海軍士官らは、兵器の威力に訴え、藩邸を襲撃するのを上策として、小栗にすすめた。小栗はこれを受け、閣老に伝える。
小栗たち過激派は、薩摩の江戸藩邸を焼き討ちにすれば、大阪にいる閣老たちも、憤然として兵をあげるだろうと考えていた。しかし、朝比奈たちは「一時の愉快を得るために軽挙をなせば大事態を招く」と反対した。
だが、十二月二十五日、薩摩の江戸藩邸は何の前触れもなく、かたっぱしから大砲をどんどんと撃ちこまれた。たちまち出火し、藩邸は紅蓮の炎に包まれ、焼失した。
砲撃家たちはまことに愉快な気持ちだった。八王子へと逃げた薩摩浪人三十人ほどは、その地で召し捕られた。相摸へ逃げた浪士たちは、相州萩野山中の大久保出雲守陣屋へ放火した。不意打ちをくらった陣屋では怪我人もでて、武器を奪われた。
薩摩藩では、薩摩屋敷が焼き討ちされたとき、約五百人のうち邸内にいたのは百人ほどであった。
薩摩藩邸焼き討ちについては、幕府海軍局にはまったく知らされてなかった。当時軍艦
奉行をつとめていた木村兵庫守(芥舟)は目を丸くして驚いた。
慶喜は十二月、将軍の格式をもって、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア(ロシア)、オランダの、六カ国公使に謁見を許した。
慶喜は各大使に次のように挨拶した。
「あいかわらず親睦を続けたい」
六カ国公使たちに同じような言葉を発した。これをきいた大久保(利通)が、岩倉具視に書状を送り、徳川家の勢力を撲滅するのは武力しかない……と説いた。
そんな中、薩摩藩邸焼き討ち事件が起こった。
十二
慶応三年(一八六七)京では、慶喜の立場が好転していた。尾張、土佐、越前諸藩の斡旋により、領地返上することもなく、新政府に参加する可能性が高くなっていった。
しかし、十二月、上方にいる会津、桑名や幕府旗本たちに薩摩藩邸焼き討ち事件が知られるようになると、戦意は沸騰した。「薩長を倒せ! 佐幕だ!」いつ戦がおこってもおかしくない状況だった。蟠竜丸という艦船には榎本和泉守(武揚)が乗っており、戦をするしかない、というようなことを口を開くたびにいっていた。
やがて、薩長と幕府の海軍は戦争状態になった。
風邪で元旦から寝込んでいた慶喜も、のんびりと横になっている訳にもいかなくなった。 寝ている彼のもとに板倉伊賀守がきて
「このままでは済む訳はありません。結局上洛しなければ収拾はつかないでしょう」
慶喜は側にあった孫子の兵法をみて、
「彼を知り、己を知らば百戦危うからず、というのがある。そのほうに聞く、いま幕臣に西郷吉之助(隆盛)に匹敵する人材はおるか?」と尋ねた。
板倉はしばらく沈黙したのち「………おりませぬ」
「では、大久保一蔵(利通)ほどの人材はおるか?」
「……おりませぬ」
慶喜は薩長の有名人たちの名をあげたが、板倉はそれらに匹敵する幕臣はおりませんというばかりである。慶喜は殺されないだろうか? と怖くなった。
この板倉のいう通りだとすれば幕臣に名将がいないことになる。戦は負けるに決まっている。……なんということだ。
もはや慶喜には、麾下将士の爆発をおさえられない。
動乱を静めるような英雄的資質はもちあわせていない。
だが、慶喜は元日に薩賊誅戮の上奉文をつくり、大目付滝川播磨守に持参させた。つまり、只の傍観者ではなかったということだ。
「討薩表」と呼ばれる上奉文は、つぎのようなものだった。
「臣慶喜が、つつしんで去年九日(慶応三年十二月九日)以来の出来事を考えあわせれば、いちいち朝廷の御真意ではなく、松平修理太夫(薩摩藩主島津忠義)の奸臣どもの陰謀より出たことであるのは、天下衆知の所であります。(中訳)
奸臣とは西郷、大久保らを指す」
別紙には彼等の罪状を列挙した。
「薩摩藩奸党の罪状の事。
一、大事件に衆議をつくすと仰せ出されましたが、去年九日、突然非常御改革を口実と
して、幼帝を侮り奉り、さまざまの御処置に私論を主張いたしたこと。
一、先帝(考明天皇)が、幼帝のご後見をご依託された摂政殿下を廃し、参内を止めたこと。
一、私意をもって官、堂上方の役職をほしいままに動かしたこと。
一、九門そのほかの警護と称して、他藩を煽動し、武器をもって御所に迫ったことは、朝廷をはばからない大不尊であること。
一、家来どもが浮浪の徒を呼び集め、屋敷に寝泊まりさせ、江戸市内に押し込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉の部下屯所へ銃砲を撃ち込む乱暴をはたらき、そのほか野州、相州方々で焼き討ち強盗をした証拠はあきらかであること」
当時、京も大坂も混乱の最中にあった。町には乞食や強盗があふれ、女どもは皆てごめにされ、男どもは殺され、さらに官軍が江戸へ向けて出発しつつある。
しかも、〝錦の御旗〟(天皇家の家紋)を掲げて……
京都に向かう幕府軍の総兵力は一万五千であった。伏見街道で直接実戦に参加したのはその半分にも満たない。薩長連合軍(官軍)は一万と称していたが、実際は二千から三千程度である。比較すると十対二、三である。
幕府軍の総兵力一万五千の一部は、伏見街道で直接実戦に参加した。
幕府軍の指揮者は、「何倍もの兵力をもつ幕府軍に薩長が戦をしかけてくるはずはない」とたかをくくっている。見廻組が薩長軍の偵察にいき、引き、また引きしているうちに幕
府軍は後退をよぎなくされた。幕府軍は脆かった。
滝川播磨守は、幕軍縦隊を前進させると、薩長は合図のラッパを吹き、街道に設置しておいた大砲が火を噴いた。左右から幕府軍はたたかれた。
滝川は大目付で、軍隊の指揮能力に欠ける。彼は大砲の轟音にびくつき馬で遁走した。 指揮者がこの調子だから、勝てる戦ではない。砲弾で幕府軍たちは殺されたり、怪我し
たりして皆遁走(逃走)しだす。兵数は五倍の幕府軍はびくつき混乱しながら逃げた。
幕府軍は大損害を受け、下鳥羽へ退いた。
江戸にいる麟太郎は、九日に、鳥羽、伏見の戦の情報をはじめて知った。
麟太郎は日記に記す。
「正月の何日だったか、急に海軍局の奴がきて、偉い方が軍艦でおつきになったという。俺は上様だろうと何だろうと関係ねぇ。今はでる幕じゃねぇといってやったさ。しかし、勝安房守を呼び出せとしきりにいう。いけないといって出なかった。
それでも安房をよべとうるさい。俺を呼ぶ前にもっとやることがあるだろうに、こんなんだから薩長に負けるんだ」
慶喜が大坂を放棄したことで幕府の運命がまた暗転した。
麟太郎は「このままではインドの軼を踏む。今はうちわで争っているときじゃねぇ。このままじゃすきを付かれ日本は外国の植民地になっちまう」と危惧した。
それは、杞憂ではないことを、麟太郎は誰よりもわかっていた。
九 江戸城無血開城
一
大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。
「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。
常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。
人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。
将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」
外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。
アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)
謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。
あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(安房守麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」
当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。
「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでいる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。
城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えていませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。
というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。
論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」
徳川慶喜が会津藩主・松平容保らとともに大坂城から、江戸城に逃げ帰ってきたのは勝海舟や幕臣にとっても驚きであったに違いない。
まさか、である。
鳥羽伏見で戦闘状態になっているのに、部下らに何も告げず、黙って船に乗り〝逃げ帰る〟…常人の考える範疇を越えている。
勝は「逃げ帰った? はあ?」と深いため息をもらしたという。
榎本武揚も置いてきぼりを食らったのだ。
慶喜は〝錦旗〟錦の御旗を見て、敗北した。彼の主張は、
「余は戦争に負けたのではない。政治に負けたのだ。
鳥羽伏見で薩長同盟軍が錦旗をあげたとき駄目じゃ、と思うたのじゃ」
勝は「しかし、将軍さま、ならばなぜせめて部下に幕臣に自らおっしゃらなかったのです?」
「言えるか、安房?」
もはや幕府は手負いの獅子、幕臣は蜂の巣をつついたような騒動である。
そんな中、小栗上野介忠順だけは毅然と『抗戦論』を唱えた。
「此の後に及んで何を迷いまするか? 殿!」
「錦旗じゃぞ?」
「大政奉還して白旗を挙げたのは幕府側です! なのに薩長は天子さまをかかげて官軍となり我らを攻めた。これはもはや国際法違反。
つまり、もはや薩長土肥同盟軍はもはや官軍にあらず! 恭順白旗をあげた組織に弓矢鉄砲大砲を撃ちかけるときはその軍は官軍にあらず。賊軍です」
慶喜は「しかし、勝てるか?」
「勝てまする! 幕府軍は艦隊も重火器も兵力もすべて薩長土肥同盟軍より勝っています。是非、抗戦を!」
「抗戦だけで済む話であろうか?」
「またお逃げになるのですか? 我らも薩長土肥同盟のように天子さまを掲げて官軍になるのです。徳川官軍で一戦を!」
慶喜は怒った。「無礼な! それでは薩長と同じじゃ! もう余は決めておる。それ以上は申すな!」
小栗上野介は上座から立ち上がり去ろうとする慶喜の裾をつかんだ。
「お待ちくだされ! しばらくおまちを!」
「おのれ上野介! 余を愚弄するか?!」慶喜は扇子でバンと小栗の手を叩いた。
「小栗上野介! 蟄居を命ずる! 下がりおろう! そのほうの顔などみとうもないわ!」
徳川慶喜は場を去った。愕然としてうなだれる小栗上野介。勝海舟は無言で小栗を睨んだ。
幕臣のお偉方が去ると、場は静まった。
徳川二百六十年の中で、将軍が一家臣をクビにする例はなかった。
かつて咸臨丸の乗組員だった小野友五郎はやがて幕臣に取り立てられ、勘定奉行並として「小野内膳正広胖(おのないぜんのしょうひろとき)」と名を改め、小栗の片腕にまでなっていた。
小栗上野介とは例の『徳川埋蔵金』伝説、で知られるが、財政難の幕府に大金などあろうはずもない。
勝海舟と小栗は話した。勝は小栗に密かに期待していたのだ。
考え方は同じ。デモクラシー・自由平等博愛。同じく県と郡とで日本を共和国に。同じ志のはずであった。
勝海舟は、徳川幕府中心ではなく〝日本国〟を考えろ! というが、小栗は、
「あんたは徳川の家臣じゃないのか?」ときいてくる。
「邪魔ならお斬んなさい! おれは徳川の家臣じゃなく、「日本人」だ」
「一時前なら斬っていた。しかし、今は、幕府に勝海舟は必要だ。だが、徳川幕府軍はまだまともな戦争もしていない! 薩長などに負けない!」
「それが駄目だってんだ。おいらは幕府の幕引きをやるぜ! 斬りたきゃ斬れ、小栗!」
進歩的な考えの小栗が、徳川中心だったのは三河以来の譜代の家臣という由緒ある家柄がそうさせたのか?
しかも慶喜の信任も篤く、陸海軍奉行と勘定奉行として、慶喜留守中には江戸の最高権力者であったればこそ〝戦わずして負ける〟ことの悔しさはいかほどだったか。
二
あくる日小栗邸で小栗と三井の組番頭・三野村(みのむら)利左衛門は話した。
三野村は、
「殿様、メリケンに行かれてはいかがか? 三井がお金を出しまする。国元の上州に御帰りだとか…。およしなさい。ろくなことがありません。日本は狭もうございます。
三井が金を出します故、何卒、メリケンへの遊学を」
小栗は、
「それは嬉しい話ではあるが、そこもとの温情にすがって「小栗は外国に逃げた」と百年のちまで陰口を叩かれるのは余の信じるところではない」
「いいえ、逃げるなどめっそうもない! これは投資でござる、殿さまがメリケンやエゲレスにいて、海外の情報を三井に手紙で知らせて頂ければ、と。これからは海外との商売も多くなりとすれば〝逃げる〟のではなく〝投資〟でござる!」
「ありがたいが、小栗も一個の武士。アメリカに逃げたなどといわれたくない。利左、新政府からの〝カネのさそい〟もきているのであろう? 船に乗り遅れるなよ。お主は商人。幕府なり明治政府なりと商売をおこたるなよ。私は死んでも仕方がない身だから。小栗上野介、武士道とは死ぬことと理解した也」
三野村は「申し訳ありません。殿様! あっしは恩義を仇で返しそうです!」と泣き崩れた。
小栗の妻のみちと養子の叉一(またいち)も泣いた。
その後、三井の利左が新政府にのったことが三井財閥の繁栄の基礎となった、と歴史に伝えられている。
こうして小栗上野介ら家族と家臣は国元の上州にわずかな銭とアメリカ旅行土産の粗末な大砲一門だけで、江戸から落ちのびた。
死ぬ気などさらさらなかった。
だが、絵に描いた餅『徳川埋蔵金伝説』だけが独り歩きをしだす。小栗に、危機がせまっていた。
小栗上野介はもはや藩主ではなく、地元の寺で隠遁生活のような生活をしていた。
わずかな家臣と共に田畑を鍬で耕し、百姓のようである。だが、ここでも強欲な百姓連中が『徳川埋蔵金伝説』を知って、「カネをよこせ!」と百姓一揆みたいなことをする。
小栗は威嚇のために、わずかに残った家臣たちで空砲で、鉄砲と大砲を撃ちまくった。
これが官軍に知れて、「謀反の疑い」の詮議をかけられた。といっても鉄砲は数丁、砲門は一門のみ。しかも、弾はもう撃ち尽くして残っていなかった。
だが、官軍は小栗らを拘束した。妻のみちは妊娠しており、小栗は「名前は男なら小栗家の由緒ある名前〝叉一〟女子なら母上から一字もらって国子。会津藩の横山主税(ちから)殿を頼れ!」
と、妻や母親を早朝逃がした。その後、小栗は斬首されるのである。
麟太郎が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、麟太郎は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。
閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。
薩長官軍に抗戦論を主張したのが小栗上野介忠順であった。幕府勘定奉行であり、陸海軍奉行で、三河譜代の家臣だったが慶喜にリストラにされた。
『徳川埋蔵金』の例の話の火つけ人であるが、財政難にあった徳川幕府に財産・隠し財産などある訳もなく、上州赤城に「徳川の財産を埋めた」「徳川埋蔵金がある」等ペテンであり、法螺である。
だが、張本人の小栗忠順は官軍に処刑されているので、何ともいいようもない。
「勝安房守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」
結局、麟太郎の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。
正月十八日、麟太郎は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、〝長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか〟という意味の書を送った。
一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
麟太郎は慶喜に、
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。
その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を、図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
麟太郎は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
麟太郎の危惧していたことがおこった。
大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていった。
二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていた。
(大山伯著『戊辰役戦士』)
薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
麟太郎は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて退散したね」
三
旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。
ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。
慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。
「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。
二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。
よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。
官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。
土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」
そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。
「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」
それは決死の覚悟であった。
逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は
「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。
「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。
四
西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。
鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
……〝わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する〟……
官軍は江戸へ迫っていた。
慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。
慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。 江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。
「もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、麟太郎は警戒した。
麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいっているのだと疑いを深くするばかりだ。
外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
慶喜は涙声だった。
麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であった。
麟太郎は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
西郷吉之助は五つの条件を出してきた。
一、慶喜を備前藩にお預かり
一、江戸城明け渡し
一、武器・軍艦の没収
一、関係者の厳重処罰
西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのだ。
まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」
官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。
しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
麟太郎は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのだ。
五
官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。
一、慶喜を備前藩にお預かり
一、江戸城明け渡し
一、武器・軍艦の没収
一、関係者の厳重処罰
いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
勝は沈黙する。
しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では〝共順する相手を攻撃するのは違法〟ときいていた。
つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
彼は私から公になったのだ。もうひとりの〝偉人〟、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ! と歓声をあげたという。
(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。
西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。
この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。
十 幕臣遁走
一
幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達した。
大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であった。
開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
千代田形は十七メートル。大砲三門。
観光丸は五十八ルートル。
これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。
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