第三話 勝海舟

         七 大政奉還




     一

 幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。

 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、強直の気配もなかった。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。

 麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。

「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。

 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」

 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。

「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」

 ……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。

 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 

当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。

 だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。

「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」

 虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。

 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。

 麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。

 慶喜の対応は冷たかった。

 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。

 麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。

 彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。

 

    二

「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。

 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。

 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く繁栄したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。

 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。

 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。

 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。

 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」

 麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。

 麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことはいっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。

 長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国が大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。

 福沢諭吉もそのひとりだった。

 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。

 ……あれはもしかして英語か?

 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!

 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。

 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。

 九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周(にしあまね))、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。

 慶応二年、麟太郎の次男、四郎が十三歳で死んだ。

 二十日には登営し、日記に記した。

「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」

 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。

  江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。

 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。

 麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に留学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。

 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいた。

 麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。

 麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。

 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」

 と強くいった。

 パークスは麟太郎の提言を承諾した。

 麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。

「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。

 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」

 麟太郎はするどく指摘していく。

「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」

 麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?


     三

 江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。麟太郎は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。麟太郎はのちにいっている。

「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。

 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。

 こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。

 俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。

 すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。

 こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。

 それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。

 甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。

 ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」


    四

 新選組の近藤と土方は徳川家の正式な家臣となった。徳川幕府のやぶれかぶれだったのだが、これで彼等は念願だった「サムライ」になれた。

 近藤勇は見廻組与頭格(旗本、上級武士)、土方歳三は見廻組肝煎格(御家人)、沖田たちも見廻組(御家人)となった。幕府としては「賊軍」となった以上、ひとりでも家臣、部下がほしかった。そこで百姓出身の新選組でも家来にした。

〝困ったときの神だのみ〟……ではないが、事実はその通りだった。

 薩長は徳川慶喜の追放について御所で密談した。しかし、そこは天皇の御前である。岩倉はしきりに徳川慶喜を死罪にし、幕府を解散させるべきだと息巻いた。その頃、幕府の重鎮・小栗上野介は「幕府から商社をつくろう」と画策していた。

 慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走し出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうでもよかった。坂本龍馬は土佐藩参政・後藤象二郎を介して、将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」

 土佐藩は大政奉還建白書を提出した。慶喜は頷いた。慶喜の評判は幕臣たちのなかではよくなかった。ひとことでいえば、無能だ、ということである。

 麟太郎も〝慶喜嫌い〟であった。

 麟太郎は、幕臣原市の「幕府とフランスを提携させ、薩長を倒す」という発案には反対だった。麟太郎は「インドの軼を踏む」

 そんな原市も、腐った不貞なやからに暗殺されてしまう。

 慶喜は恐怖にふるえながら、城内で西周に「西洋の議会制度」「民主主義」などを習って勉強した。しかし、それは無駄におわる。

 慶喜は決心する。

 慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。のちにゆう『大政奉還』である。勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、龍馬は感激で泣いたという。

 しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメだというのか?

 勝海舟(麟太郎)は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。

 勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。

 薩長同盟軍は徳川慶喜の首をとるまで諦めない気でいた。

 ここにきて龍馬は新政権の設立のために動き出す。「新官制議定書(新制度と閣僚名簿)」を完成させる。しかし、その書を見て、西郷や桂たちは目を丸くして驚いた。

 ……当の本人・坂本龍馬の名が閣僚名簿にないのだ。

「坂本くん、きみの名がないでごわすぞ」西郷が尋ねると、龍馬は笑って、

「わしは役人になりとうて働いてきた訳じゃないきに。わしは海援隊で世界にでるんじゃきにな、ははは」

 慶応三年十二月十三日、近藤勇は銃で左肩をくだかれて、激痛で馬から落ち、のたうちまわった。発砲したのは元新選組隊士だったという。京では旧幕府軍と薩長同盟軍がまさに激突しようとしていた。

 ………幕府の連中は負けなきゃ分からねぇんだ。こりゃ見守るしかねぇ。

 麟太郎は単身、船で江戸へ戻った。                        

         八 鳥羽伏見の戦い






     一

 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」

 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。

 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。


 大阪に逃げてきた徳川慶喜は城で、「よし出陣せん! みな用意いたせ!」と激を飛ばした。すわ決戦か……と思いきや、かれの行動は異常だった。それからわすが十刻後、徳川慶喜は船で江戸へと遁走したのだ。

 リーダーが逃げてしまっては戦にならない。

 新選組の局長近藤勇はいう。「いたしかたなし」

 それに対して土方は「しかし、近藤さん。わずか二~三百の兵の前でひれ伏すのは末代までの恥だ。たとえ数名しかいなくなっても戦って割腹して果てよう!」

「いや」近藤はその考えをとめた。「まだ死ぬときじゃない。俺たちの仕事は上様を守ること。上様が江戸にいったのならわれら新選組も江戸にいくべきだ」

「しかし…逃げたんだぜ」

 近藤は沈黙した。新選組は一月十日、船で江戸へと向かった。

 江戸に到着したとき、新選組隊士は百十人に減っていた。


   二

 徳川慶喜の大政奉還の報をうけた江戸の幕臣たちは、前途暗澹となる思いだった。

 大政奉還をしたとしても、天下を治める実力があるのは幕府だけである。名を捨てて実をとったのだと楽観する者や、いよいよ薩長と戦だといきまく者、卑劣な薩長に屈したと激昴する者などが入り乱れたという。

 しかし何もしないまま、十数日が過ぎた。

 京都の情勢が、十二月になってやっとわかってきた。幕臣たちはさまざまな議論をした。 幕臣たちの中で良識ある者はいった。

「いったん将軍家が大政奉還し、将軍職を辞すれば、幕府を見捨てたようなもので、旧に回復することはむずかしい。このうえは将軍家みずから公卿、諸候、諸藩会議の制度をたて、その大統領となって政のすべてを支配すべきである。

 そうすれば、大政奉還の目的が達せられる。このように事が運ばなければ、ナポレオンのように名義は大統領であっても、実際は独裁権を掌握すべきである。

 いたずらに大政奉還して、公卿、薩長のなすところに任ずるのは、すぐれた計略とはいえない」

 小栗忠順(上野介)にこのような意見を差し出したのは、幕臣福地源一郎(桜痴)であったという。福地は続けた。「この儀にご同意ならば、閣老方へ申し上げられ、京都へのお使いは、拙者が承りとうございます」

 小栗は、申出を拒否した。

「貴公が意見はすこぶる妙計というべきだが、第一に、将軍家がいかが思し召しておられるかはかりがたい。

 第二に、京都における閣老その他の腰抜け役人には、とてもなしうることができないであろう。

 しかるに、なまじっかかような説をいいたてては、かえって薩長に乗ずられることになり、ますます幕府滅亡の原因となるだろう。だから、この説はいいださないほうがよかろう」

 小栗は、福地がいったような穏やかな手段が薩長に受け入れられるとは思っていなかった。

 彼は、薩長と一戦交えるしかないという強行派だったのだ。

 官軍(薩長)の朝廷工作により、徳川幕府の官位をとりあげられ領地も四百万石から二百万石に取り下げられた。これは徳川家滅亡に等しい内容であったという。

 慶喜はいう。

「朝命に異存はないが、近頃旗本らの慷概はいかにもおさえがたい。幕府の石高は、四百万石といわれているが、実際には二百万石に過ぎない。

 そのすべてを献上すれば、徳川家としてさしつかえることははなはだしいことになる。いちおうは老中以下諸役人へその旨をきかせ、人心鎮定のうえ、お請けいたす。その旨、両人より執秦いたすべし」

 慶喜は、諸藩が朝廷に禄を出すのは別に悪いことではないが、幕府徳川家だけが二百万石も献上しなければならないのに納得いかなかった。

 閣老板倉伊賀守勝静は、慶喜とともに大坂城に入ったとき、情勢が逼迫しているのをみた。いつ薩長と一戦交える不測の事態ともなりかねないと思った。

「大坂にいる戦死たちは。お家の存亡を決する機は、もはやいまをおいてないと、いちずに思い込んでいる。

 今日のような事態に立ち至ったのは、薩藩の奸計によるもので、憎むべききわみであると思いつめ、憤怒はひとかたならないと有様である。会、桑二藩はいうに及ばず、陸軍、遊撃隊、新選組そのほか、いずれも薩をはじめとする奸藩を見殺しにする覚悟きめ、御命令の下りしだいに出兵すると、議論は沸騰している。

 上様(慶喜)も一時はご憤怒のあまり、ご出兵なさるところであったが、再三ご熟慮され、大坂に下ったしだいであった」                         

 幕府の藩塀として武勇高い諸候も、長州征伐の失敗で自信喪失状態であった。          

 幕府の敵は、薩長と岩倉具視という公家であった。

 新政府は今まさに叩き壊そうという幕府の資金で運用されることとなった。

 アーネスト・サトウは、イギリス公使パークスに従い大坂いたとき、京都から遁走して大坂に入る慶喜を見た。彼は、幕府部隊司令官のひとりと道端で立っていた。

 そのときの様子を記している。

「私たちが、ちょうど城の壕に沿っている従来の端まできたとき、進軍ラッパが鳴り響いて、洋式訓練部隊が長い列をつくって行進しているのに会った。

 部隊が通過するまで、私たちは華美な赤い陣羽織を着た男のたっている、反対側の一隅にたたずんでいた。(中訳)

 それは慶喜と、その供奉の人々だった。私たちは、この転落の偉人に向かって脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、ふつうの軍帽をかぶっていた。

 見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。彼は私たちには気付かなかった様子だ。 これにひきかえ、その後に従った老中の伊賀守と備前守は、私たちの敬礼に答えて快活に会釈した。

 会津候や桑名候も、そのなかにいた。そのあとからまた、遊撃隊がつづいた。行列のしんがりには、さらに多数の洋式訓練部隊がつづいた」

 (坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』岩波書店)


 薩長に膝をまげてまで平和は望まないが、幕府の方から戦をしかけるのは愚策である。 と、麟太郎はみていた。戦乱を望まずに静かに事がすすめばよし。慶喜が新政府の首相になればよし。

 麟太郎は日記に記す。

「私は今後の方針についての書付を、閣老稲葉殿に差し出し、上様に上呈されるよう乞うた。

 しかし諸官はわが心を疑い、一切の事情をあかさず、私の意見書が上達されたか否かもわからない。

 江戸の諸候は憤怒するばかりで、戦をはじめようとするばかり。

 ここに至ってばかどもと同じ説などうたえるものか」

 江戸城の二の丸大奥広敷長局あたりより出火したのは、十二月二十三日早朝七つ半(午前五時)過ぎのことであった。

 放火したのは三田薩摩屋敷にいる浪人組であった。

 のちに、二の丸に放火したのは浪人組の頭目、伊牟田尚平であるといわれた。尚平は火鉢を抱え、咎められることもなく二の丸にはいったという。

 途中、幕臣の小人とあったが逃げていった。

 将軍留守の間の警備手薄を狙っての犯行であった。

 薩摩藩の西郷(隆盛)と大久保(利通)は京で騒ぎがおこったとき、伊牟田を使い、江                        

戸で攪乱行動をおこさせ江戸の治安を脆弱化することにした。

 家中の益満休之助と伊牟田とともに、慶応二年(一八六六)の秋に江戸藩邸におもむき、秘密の任務につくことにした。ふたりは江戸で食うものにも困っている不貞な浪人たちを集めて、飯を与え稽古をさせ、江戸で一大クーデターを起こすつもりだった。

 薩摩藩は平然と人数を集めた。


    三

 麟太郎の本意をわかってくれるひとは何人いるだろうか? 天下に有識者は何人いるだろうか?

 麟太郎は辞職願をこめて書を提出した。

「こののち天下の体勢は、門望(声望)と名分に帰せず、かならず正に帰すであろう。

 私に帰せずして、公に帰するにきまっている。これはわずかの疑いもいれないことである。

 すみやかに天下の形勢が正に帰せざるは、国政にたずさわる要人が無学であることと、                

鎖国の陋習が正しいと信じ込んでいるからである。

 いま世界の諸国は従来が容易で、民衆は四方へ航行する。このため文明は日にさかんになり、従前の比ではない。

 日本では下民が日々に世界の事情にあきらさまになっており、上層部の者が世情にくらい。このため紛争があいついでおこるのだ。

 硬化した頭脳で旧来の陋法を守っていては、天下は治められない。最近の五、六年間はただ天朝と幕府の問題ばかりをあげつらい、諸候から土民に至るまで、京都と江戸のあいだを奔走し、その結果、朝廷はほしいままに国是を定めようとしている。

 これは名分にこだわるのみで、真の国是を知らないからである。

 政府は全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富ませ、奸者をおさえ、賢者を登用し、国民にそのむかうところを知らしめ、海外に真を失わず、民を水火のなかに救うのをもって、真の政府といえるだろう。

 たとえばワシントンの国を建てるとき、天下に大功あってその職を私せず、国民を鎮静させることは、まことに羨望敬服するに堪えないところである。

 支配者の威令がおこなわれないのは、政治に私ことがあるからである。奸邪を責めることができないのは、おのれが正ではないからである。兵数の多少と貧富によって、ことが定まるものではない。

 ここにおいていう。天下の大権はただひとつ、正に帰するのである。

 当今、徳川家に奸者がいる。陋習者もいる。大いに私利をたくましくする者もいる。怨み憤る者もいる。徒党をつくるやからもいる。大盗賊もいる。

 紛じょうして、その向かうところを知らない。これらの者は、廃することができないものか。私はその方途を知っているが、なにもいわない。

 識者はかならず、これを察するだろう。

 都下(江戸)の士は、両国の候伯に従わないことを憎み、あるいは疑って叛くことを恐れる。これは天下の大勢を知らないからである。両国の候伯が叛いたところで、決して志を達することはできない。

 いわんやいま候伯のうちに俊傑がいない。皆小さな私心を壊き、公明正大を忘れている。いちど激して叛けば、その下僚もまた主候に叛くだろう。

 大候伯が恐るるに足りないことは、私があきらかに知っている。然るに幕府はそれを察せず、群羊にひとしい小候を集め、これと戦おうとしている。自ら瓦解をうながすものである。なんともばかげたものだ。

 大勢の味方を集めればそれだけ、いよいよ益のないことになる。ついに同胞あい争う原因をつくれば、下民を離散させるだけのことだ。人材はいずれ下民からでるであろう。

 いまの大名武士は、人格にふさわしい待遇を受けているとはいえない。生まれたまま繭にかこまれたようなもので、まったく働かず、生活は下民をはたらかせ、重税を課して、       

その膏血を吸っている。

 国を宰いる者の面目は、どこにあるのか。

 (中訳)天下に有識者はなく、区々として自説に酔い、醒めた者がいない。

 今日にいたって、開国、鎖国をあげつらう者は、時代遅れとなってしまった。いまに至って、議会政治の議論がおこっている。

 (中訳)こののち人民の識見が進歩すれば公明正大な政治がおこなわれなければならない。権謀によらず、誠実高明な政事をおこなえば、たやすく天下を一新できるだろう。

 才能ある者が世に立ち、天子を奉じ、万民を撫育し、国家を鎮撫すれば、その任を果たすだろう。事情を察することなく戦えば、かならず敗北し、泰平の生活に慣れ、自らの棒禄をもって足りるとせず、重税を万民に課して苦しめ、なお市民にあわれみを乞うて、日を送るとは、武士といえようか。(中訳)

 ねがわくば私心を去って、公平の政事を願うのみである。      海舟狂夫」


 麟太郎は官軍と戦わずして日本を一新しようと思っていた。しかし、小栗上野介ら強行派は薩長との戦の準備をしていた。麟太郎の意見はまったく届かず、また麟太郎のような存在は幕府にとって血祭りにあげられてもおかしくない、緊迫した形勢にあった。


    四

 龍馬は宵になると、後藤象二郎と話した。

 場所はきまって、なじみのお慶の清風亭である。

 三日後に後藤は、

「いやあ、まいった。坂本さんはそれほど土佐藩に戻るものが嫌じゃきにか?」ときく。「そうじゃきに」         

 龍馬は顎をなでながら苦笑した。

「世に浪人ほど楽な身分はない。後藤くんは浪人になったことがないからわからないきに」「かといって、あの同盟まで成立させたかのひとが、只の浪人で、新政府の中に名前すらないとはどげんことじゃきにか?」

「わしは役人になりとうて日本中を走りまわった訳じゃないきに」

「じゃきに…」

 後藤は口をつぐんだ。こりゃあまいった、と思った。英雄とはこういうものなのか?

 龍馬と社中を土佐藩にくみいれて、土佐の一翼を担ってもらう気だったが……

 龍馬からすれば、なにをいまさらいってんだ、というところだろう。

「藩士は御免じゃきに」

 龍馬ははっきり言った。龍馬は私立軍艦隊をつくり、天下に名を馳せると野望を語った。そのうえ貿易もする。後藤は、

「坂本さんは日本の政権に野望をもっとるですがか?」と尋ねた。

「いや」

 龍馬は後藤をみた。この男はそんな推測までするのか。

「わしの野望は政ではない。貿易でこの日本を『貿易立国』とするんぜよ」

「貿易?」

「そうじゃ。日本の乱が片付けば、この国を去り、船を太平洋や大西洋に浮かべて、世界を相手に商いがしたいきに」

 後藤は驚いて目を丸くした。こんな大法螺を夢見ている男が日本にいるとは思わなかったからだ。この壮大な夢の前では、壤夷や佐幕や薩長連合などちっぽけなものに見えてきた。ましてや土佐藩士にもどれ……などはまさにちっぽけだ。

「後藤さん。これはどうじゃ?」

 龍馬は紙に墨で書いた。

「海援隊」……

「は?」

「意味は、海から土佐藩を援ける、ということじゃ。海とは、海軍、貿易じゃき。海援隊は土佐藩を援けるが、土佐藩も海援隊を援けるがぜよ」

「つまり同格ということじゃきにか?」

「ああ、そうじゃ」

「じゃきに、藩主とおんしが同格なのか?」

「あたりまえだ。アメリカでは身分制度などない。大名も殿様もない」

「声が大きい! 危険な思想じゃきに」

「そのためには倒幕し、大名もそののちなくす」

「大名を? 藩をなくすちゅうがか?」

「時期がくれば……大名も藩もなくす。皆が平等な日本にしたい」

「おのれは……すると龍馬。おんしの勤王は嘘か? 天子さまもいらんと?」

「そげんこついうとらん。天子さまは別じゃ」

 後藤は龍馬という男が怖くなってきた。

 意見があわないはずだ。

 後藤は龍馬のいう「海援隊」を土佐藩の支配下におこうとし、龍馬は藩と同格のかたちでいこうとしている。         

「まんじゅうの形はどうでもいいき。舌を出して餡がなめられればいいんじゃきにな」

 龍馬は強くいった。餡とは本質であり、利益のことだ。

 後藤とは会ったが、多くは語らず、龍馬は去った。そんな龍馬に、浅黒い顔の中岡慎太郎というやつが訪ねてきた。

(いいやつがきたきに)

 中岡慎太郎は「海援隊じゃけでは片落ちじゃ。陸援隊もつくるべきじゃ」

「それはいいきにな」

 龍馬は頷いた。その陸援隊の隊長をこの中岡慎太郎にさせればよい。


   五

 時代は刻々とかわっていく。

 その岐路は孝明天皇の死だった。十二月十二日に風邪をひいて、寝込んでいたが、汗を沢山かき、やがて天然痘の症状がでた。染るのではないか……公家たちは恐れた。

 孝明天皇は最大の佐幕派であった。

 その孝明天皇の崩御は、幕末最大の衝撃だった。龍馬は残念がった。

 しかし「これで維新の夜が明けるぜよ!」とも思った。

 土佐藩は書状で、土佐藩に戻るように、と請求してきた。

「今更なにをいってやがる!」

 龍馬は土佐屋の奥座敷でそれを読み、まるめてポイと捨てた。藩というものの尊大さ、傲慢さに腹が立ったのである。

「海援隊」はついに成った。

 海援隊の規律、船中八策には、

     第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出すべき候

     第二策 上下議員政局を設け、議員を置いて万策を参議で、決定する候

            ……… 他

 と、ある。

 福岡藤次は、「船はどげんする?」ときいた。

 この件も五分でかたづいた。薩摩藩を保証人として大浦お慶から一万二千両を借りて手にいれた大極丸の借金を、土佐藩が肩代わりすることになった。

 土佐藩との交渉もおわり、亀山社中が「海援隊」と改名された。

 紀州人陸奥陽之助が、「妙な気持ちだ」と龍馬にいうと、龍馬は、

「そのこころは安心やら馬鹿らしいやら」とおどけた。

 陸奥は大笑いした。



 ……〝世の生物たるものみな衆生なればいずれを上下とも定めがたし、今生の生物にしてはただ我をもって最上とすべし。皆が平等な個人。デモクラシー。新しい国づくりはライフワークへ。万物の時を得る喜び〟……

 ……〝戦争回避、血を流してなんとするのか〟……

 ……〝世のひとは我を何ともゆえばゆえ。我なすことはわれのみぞ知る〟……


    六

「おれはこれでひっこむきに」

 龍馬は新政府にくわわらなかった。

 陸奥は「冗談ではない」と驚いた。龍馬は薩長連合を成し遂げ、大政奉還を演じ、新官制案をつくった。当然、新政府の主軸に座るべき人間である。

なのにひくという。西郷隆盛や大久保利通や岩倉具視や木戸考允(桂小五郎)にすべて譲ってしまうという。

「すべて西郷らにゆずってしまう」

 龍馬は続ける。

「わしは日本を生まれかわらせたかったんじゃきに。生まれかわった日本で栄達するつもりはない。こういう心境でなきゃ大事業ちゅうもんはできんき。

わしがそういう心境でいたからこそ、一介の浪人にすぎなかったわしのいうことを皆がきいてくれたんぜよ。大事を成し遂げたのも、そのおかげじゃ。

 仕事ちゅうもんは全部やっちゅうのはいかんきに。八分まででいい。あとの二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまうといいきに」

 龍馬は二本松邸の西郷吉之助(隆盛)の元へいった。

「坂本くんでごわさんか」

 西郷は笑顔になった。

「西郷先生、新政府頼みまするぞ」

「じゃっどん、なにごて、新政府の名簿におんしの名がないのでごわす?」

「わしは役人になりたくないのですき。わしは「海援隊」で世界にでるんぜよ」

「そげなこついうて……世界とばいうとがか?」

「そう世界じゃきに」

「坂本さんは面白いひとでごわすな?」西郷は笑った。

「西郷先生、旧幕臣たちが会津や蝦夷(北海道)にまでいっちゅうから早めに平和利にかたづけて……新政府で日本をいい国にしてもうせ」

 龍馬はしんみりいった。

 西郷は

「なにごて。まるで別れをいっているようでごわすな。本当に世界にいくのでごわすか?」と妙な顔になりいった。

 龍馬は答えなかった。

 龍馬が考えた新政府のメンバーは以下である。


関白   三条実美

 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)

 大蔵卿  大久保利通(薩摩)  

 文部卿  大木喬任(佐賀)    

 大蔵大輔 井上馨(長州)

 文部大輔 後藤象二郎(土佐)

 司法大輔 佐々木高行(土佐)       

 宮内大輔 万里小路博房(公家)

 外務大輔 寺島宗則(薩摩)

      木戸考允(長州)

            他


    七

 龍馬は多忙だった。薩摩藩邸で一泊すると、朝飯を食べさせてもらって食った。そのあと、岩倉具視の邸宅にいった。

 龍馬は「新政府を頼みまするきに」

「まるでどこぞへ旅立つような口調じゃのう」

「そうきにか? まぁ、いくところは決まっちゅう」

「どこにいく」

「あの世……」龍馬は冗談をいった。

「あんたは死んじゃいかんよ。この国にとって大事な人材なんじゃから。死んだら馬鹿らしいよ」岩倉具視は諭した。龍馬が自決でもすると思ったらしい。

 龍馬は笑って「わしは死んだりせん。「海援隊」で世界にでるんじゃきに」

「世界? 大きいこというねぇ。坂本さんは」

「そこで、岩倉さん。薩長連合と朝廷を合体させてほしい。薩長軍が「官軍」となるように天子さま(天皇)に働きかけをしてほしいんじゃ」

「わかった。天子さまに上献してみよう」

「錦の御旗でも掲げたらいいきに」

「わかった」

 ふたりはがっしりと握手した。

 龍馬は、朝早く下宿を出て、京のあちこちを飛びまわって夜おそく帰ってくる。

「用心の悪いことだ」

 薩摩藩士の吉井幸輔は眉をひそめた。龍馬のような偉人は暗殺のおそれがある。せめて宿をひきはらって、薩摩藩邸にこい、という。

 龍馬は「藩邸なんぞにいられんき」と笑った。

「じゃっどん、坂本さんは狙われとるでごわそ。新選組や見廻り組や浪人たちに……死んだらつまらんでごわそ?」

「あんさんはわしのことがわかっちょらん。わしは丼を枕に寝る男じゃぜ」

 むろん彼は、新選組や見廻組が命を狙っているのを知っている。

「狙わせときゃいいきに」

 龍馬にいわせれば、自分の命にこだわっている人間はろくな男じゃないという。

「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」 と龍馬はその語録を手帳にかきとめ自戒の言葉とした。

「世に生を得るのは、事をなすにあり」

 来訪者あり。

 訪ねてきたのはお田鶴さまであった。

「こりゃあいかん」龍馬は起きてから一度も顔を洗ってないことに気付き、顔をごしごし洗った。

「汚のうございますね?」

「顔をさっき洗ったばかりですが、やはり汚いきにか?」

「いえ。部屋です」

 お田鶴は笑った。

 ……どうもこのひとにはかなわん。


    八

 龍馬は福井へ急いだ。

「もうちとゆるゆる歩けや!」同伴の岡本が頼んだが、龍馬は足をゆるめず、

「いそがなあ、ならんぜよ」早足になる。京の情勢は緊迫していた。

「わしには今度の仕事が最後になるがぜよ」

 時代が龍馬を急がせていたといってもいい。

 福井に着くと、龍馬は春嶽に「三岡八郎を新政府にほしい」という趣旨のことをいった。 春嶽は眉をひそめ、「三岡八郎は罪人ぞ」

 しかし、龍馬は三岡八郎の釈放と新政府入りを交渉で決めてしまう。

 夜ふけて、いよいよ三岡が帰宅しようとしたとき、龍馬は手紙のようなものを彼に渡した。「なんだ?」

「わしの写真じゃき。このさきどうなるかわからんきに。万一のときは形見じゃと思ってくれ」

「そうか」

 三岡は、龍馬の例の写真を受取り、龍馬の顔をじっと見た。暗くてよく見えなかったが、龍馬がどこかへ消えてしまいそうな感覚を覚えた。

 ひとは死ぬ。龍馬も死ぬときがきた。

 龍馬と中岡慎太郎が死ぬ日(暗殺日)は、慶応三年(一八六七)十一月十五日の京・近江屋の夜である。

 この年の九月、新選組三十六人と土佐浪人たちが斬りあいをしている。土佐浪人に即死者はいない。安藤藤治という男は重傷をおったが、河原町藩邸までようやくたどりつき、門前で切腹した。他の五人もかろうじて斬り抜けた。


    九

「風邪の熱で頭がくらくらするき」

龍馬は中岡の話をきいていた。夜になったので部屋の行灯に灯を入れた。部屋が少しだけ鬼灯色になった。

 やがて、刺客が何人か密かにやってきた。

「今、幕府だ、薩長じゃいうとるときじゃなかきに」龍馬は強くいった。

 番頭の藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと、六太刀斬りし、絶命させた。この瞬間は数秒であった。二階奥の薄暗い部屋では、龍馬と中岡がむかいあって話している。一階でなにやら物音がきこえたが、誰かが喧嘩でもしとるんじゃろ、と思った。

「ほたえなっ!」

 龍馬は叫んだ。土佐弁で「騒ぐな」という意味である。

 この声で、刺客たちは敵の居場所をみつけた。

 刺客たちは電光のように駆け出した。

 奥の間に入るなり、ひとりは中岡の後頭部を、ひとりが龍馬の前額部を斬りつけた。これが龍馬の致命傷になった。

斬られてから、龍馬は血だらけになりながらも刀をとろうとした。

陸奥守吉行に手をかけた。脳奬まで流れてきた。

 龍馬はすばやく背後へ身をひねった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。左肩さきから左背中にかけて斬られた。

龍馬は刀をかまえて跳ねるように立ちあがった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。

 ようやく龍馬は崩れた。……「誠くん、刀はないがか?」と叫んだ。

 誠くんとは中岡の変名石川誠之助のことで、その場で倒れていた男に気遣ったのだ。

 龍馬は致命傷を受けてなおも気配りまで忘れない。刺客たちは逃げ去った。

「慎ノ字(シンタ)……手は利くか?」

「……利く」

「なら医者をよんで…こい」

 中岡は気を失った。

 龍馬は、平静に自分の頭をおさえ、こぼれる血や脳奬を掌につけてながめた。

 龍馬は中岡をみて笑った。澄んだ、壮快な気持ちであった。

「わしは脳をやられている。もう、いかぬ」

 それが最期の言葉となった。いいおわると、龍馬は倒れ、そのまま何の未練もなく、その霊は天に召された。この凶刃に倒れる坂本竜馬の様子は瀕死の重傷を負いながらも証言した中岡慎太郎の言葉で語られた。

 坂本龍馬暗殺………享年三十三歳

 天命としかいいようがない。日本の歴史にこれほどの男がいただろうか? 天が歴史をかえるためにこの若者を地上におくりこみ、役目がおわると惜しげもなく天に召したとしか思えない。坂本龍馬は混沌とする幕末の扉を押し開けた。

 幕末にこの龍馬がいなければ、日本の歴史はいまよりもっと混沌としたものになっていたかも知れない。

〝われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ〟

 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。


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