第二話 勝海舟
七
京都に入ると、目付きの悪い浪人たちが群れをなして近付いてくるではないか。龍馬と以蔵はいつ斬りこまれてもいいように間合いを計った。
浪人が声をかけてきた。
「貴公らはいずれのご家中じゃ?」
以蔵はわめいた。
「俺の顔を知らんがか。俺は岡田以蔵じゃ! 土佐の人斬り以蔵を、おんしら、知らんがか?!」
以蔵は左手で太刀の鯉口を切り、右膝を立て、浪人を睨む。
「これはおみそれした」
以蔵の名を聞いた浪人が、怯えた表情を隠さず、引き下がった。
龍馬と勝麟太郎を振り返り、以蔵は、
「今の奴がなんぞほざきよったら、両膝を横一文字にないじゃったがに、惜しいことをしたぜよ」以蔵の目が殺気だっているので麟太郎は苦笑した。
「以蔵はひとを斬るのがよほど好きなのだな。だが殺生は控えてくれよ」
勝海舟(麟太郎)がいうと、以蔵が
「じゃきに、先生。わしらが浪人を追っ払わなければ先生は殺されたがったぜよ」と笑った。
龍馬が「勝先生は直心影流の剣の達人ぜよ。失礼は許さんぜよ」
「先生はいつも剣の鍔と鞘を紐で結んでるがぜ。達人でも剣が抜けなければダメじゃきに」 勝海舟は苦笑いを浮かべて
「てやんでい…はははは」と笑った。
京で、麟太郎は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
桂たちは、麟太郎の意見にことごとく同意した。
麟太郎はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、麟太郎は出世を辞退している。
「偉くなりたくて活動しているんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。
八
大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち〝八つ当たり〟という訳ではなかった。
ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。
すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。
十五歳のいたましい春だった。
久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。
六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけた。
が、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。
「筋金入りの〝攘夷思想〟」のひとである。
熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。
「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」
松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」
と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。
松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に繁栄する。
が、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。
長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。
それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。
これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木(まき)和泉(いずみ)である。
天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を〝朝敵〟ではなく、〝官軍の藩〟とする。
やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思う。
桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。
いったのは、師の松陰その人である。
禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。
しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には、
「まてや、久坂! もうちと考えろ! 異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」
と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。
丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、
「ペリーの大砲は三キロメートル飛ぶが、日本の大砲は一キロメートルしか飛ばない」と。
「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」
と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。
それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…
孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。
四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。
ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだ。
が、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろう。
と、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。
伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと
「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。
下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになる。
と、〝抗戦派(進発派「正義派」)〟と〝恭順派(割拠派「俗論党」)〟という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。
周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。
そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。
文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。
「お文さん………何故ここに?」
「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」
「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」
「違います! 寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。
桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。
弱気はいかんとですよ。……義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも〝桂さんこそ長州藩の大人物〟とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」
桂は考えた。……長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。
文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。
それは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。
しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。
彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。
だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。
だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。
坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。
しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。
遅刻した龍馬は
「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ? 桂さん?」
「同盟はなんもなっとらん」
「え? 西郷さんが来てないんか?」
「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」
龍馬は喝破する。
「何をなさけないこというちゅう?! 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か? 長州藩か? 日本人じゃろう!
こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙っているんじゃ!
薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!
そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」
こうして紆余曲折があり、同盟は成った。
「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」
晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。
最初は八十人だったが、最後は八百人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派〝徳川幕府への恭順派〟を叩き潰した。
やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。
「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」*
長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。
七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替えた。
長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。
「勝さん、あんたは大丈夫ですか? 長州に尻尾をふった裏切り者! と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」
「てやんでぃ! 古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」
長州の志士たちの予想は的中した。
幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。
だが、幕府の暴発は続く。
薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊百三十七~百五十四ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊百五十四~百六十八ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献参照
四 和睦と新選組
一
京都にしばらくいた勝麟太郎は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。
「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」
麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。
馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、
「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」
麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。
棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。
六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。
見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎との闘いが行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二刻)ほど睨み合っていた。
それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。
さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。
二
大阪より麟太郎の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着した。
何事であろうか? と麟太郎は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持っているって話さ」
「何を考えているんだか」
大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。
三
イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめた。
五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
幕府でも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職した。
しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
麟太郎は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一刻)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。
四
由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻影のようである。
麟太郎は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
麟太郎は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
……まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ……
長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。
さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる〝報復〟だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。 薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。 その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体の加減を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」
五
島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。
それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいた。
彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
奈良原は答書を持参していた。
旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
ひとりがあがり、首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」
と、奈良原が
「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。
しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
それもどうにも噛み合わない。
一、加害者は行方不明である。
二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。
六
キューパー総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であった。
イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だった。
そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、麟太郎は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。
薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに、
「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。
「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみていたから火傷させられたのさ。
しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわっていねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」
咸臨丸の元の船名は『ヤッパン号』、ヤッパンとは阿蘭陀語で、日本、のことである。咸臨丸の名付け親は海軍艦長であるが、誰かが「勝麟丸だ! (勝麟太郎の名前)」と冗談をいい、それを踏まえてだった、ということがまことしやかに言われるが俗論である。
渡米する咸臨丸に勝海舟は艦長として乗ったが、二十六日かかったという。
その際、福澤諭吉が木村摂津守に頼み込んで同乗したが、「英語が話せる」という触れ込みだった。
だが、福澤は蘭学者であり、英会話はまだ勉強中であったという。
同乗したのは他に「〝NOといえる最初の日本人〟こと小栗忠順勘定奉行」だった。
勝海舟は臆病だ、馬鹿だ、というが幕府海軍訓練所の訓練中に時化にみまわれた船の中で
「俺のカラダをマストに縛れ! 俺は船と共に死ぬ! いいか、この船は俺が死なねえかぎりだいじょうぶでぃ!」という勇気(笑)もみせている。
七
幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
しかし、憤慨するものはいなかった。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を平静に判断することになれていたのだ。
この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に〝英雄〟となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。
八
文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。そ
れは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
会合場所は、小石川伝通院内の処静院でおこなわれた。
幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、新選組となる。
役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいた。
京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。
そこで死んでもたいしたことはない〝浪人〟を使おう……という事になったのだ。
「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
近藤が「総司はまだ子供だからな」と、沖田が、
「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
九
「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。
処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿
鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだ。
世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は
「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。
十
隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
浪人隊は黙々と京へと進んだ。
浪人隊はやがて京に着いた。
その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は
「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱藩弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとした。
浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。
その強直は肩や肘にまでおよんだが、勇は平静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって〝英雄〟となる)
十一
壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。
そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
容保は書をかく。
……新選組
「これからは壬生浪人組は〝新選組〟である! そう若者たちに伝えよ!」
容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートした。
新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。
近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。
このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。
決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができた。
が、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。
大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。
麟太郎は「新選組」のことをきいて、
「馬鹿らしいねぇ」と思った。
「そんな農民や浪人出身の連中に身辺警護をまかせなければならねぇ世になったか?」
勝にはそれが馬鹿らしい行為であるとわかっていた。
だが、京は浪人たちが殺戮の限りを尽くしている。浪人でもいないよりはマシだ。
そんなおり幕府が長州藩の追放を決定した。どうやら薩摩の謀略らしい……
「世の中、どうなっちまうのかねぇ」麟太郎は頭をひねった。
五 若き将軍
一
長州藩ら尊皇壤夷派が七卿を奉じて京都を去った今、家茂の上洛は必然のものとなった。役目は、朝廷を警護し、大阪城にとどまって摂海を防衛することである。
麟太郎は、九月二日、順動丸で品川沖から大阪へ向かった。
老中坂井雅楽頭、大目付渡辺肥後守らが同船している。
麟太郎は坂井に説く。
「ご上洛にうえは、ただ事変のご質問をなされるばかりにて、鎖港の儀につき、公卿衆に問われようとも、何事もお取りつくろうことなく、ご誠実にご返答なさるのが肝要と存じまする」
老中がその場しのぎの馬鹿なことをいってもらっちゃ困るのだ。
八日に紀州和歌山沖を通り、大阪天保山沖に到着したのは九日である。
麟太郎は、順動丸に乗り込む塾生の坂本龍馬や沢村たちを褒めてやった。
「おぬしどもは、だいぶ船に慣れたようだな。あれだけ揺れても酔わねぇとはたいしたもんでい」
麟太郎の船酔いはいつまでもなおらない。船が揺れるたびに鉢巻きをして、盥に吐き続ける……おえおえおえ。
神戸海軍塾は、操練所より先に完成していた。龍馬たちは専称寺から毎日荷物を運んだ。
麟太郎は順動丸を神戸に移動させて、新井某に、航海でいたんだ箇所を修繕させ、十五日の朝、砲台建設箇所を見聞したあと、操練所と海軍塾を見た。
海軍塾は麟太郎の私塾である。建設費用は、松平春巌から出資してもらった千両で充分まかなえたという。
佐藤与之助にかわって坂本龍馬が海軍塾塾頭になり、その龍馬が建前入用金を記した帳簿を麟太郎に見せた。
「屋敷地八反余、ならびに樹木代六両とも五十二両。
建物一ケ所、右引移り。地ならしとも三十両。
塾三門(約五・四メートル)幅、長さ十間(十八・二メートル)、新規畳健具とも百七
十両。ほか台所、雪隠(トイレ)、馬屋、門番所、新規七十七両……」
ほかにも塀や堀、芝などの代金がこまごまのっていたという。
麟太郎は感心して「お前は何事も大雑把なやつだと思っていたが、以外とこまごまとした勘定をするのだな」と唸った。
龍馬は師匠にほめられてぞくぞくと嬉しくなった。
「じゃきに、先生とわしは生い立ちが似ちょうとるきに。わしの祖父も商人だったきに、勘定もこまのうなりますろう」龍馬は赤黒い顔に笑みを浮かべた。
麟太郎がみると、塾はまだ未完成で、鉢巻きの人足が土のうをつみあげている最中であった。
「龍馬、よくやった!」勝海舟は彼をほめた。
翌日、ひそかに麟太郎は長州藩士桂小五郎に会った。
京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と麟太郎に尋ねた。
のちの海舟、勝麟太郎は苦笑して、
「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思っているのかい?」
といった。
桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
麟太郎は不思議な顔をして
「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
数刻にわたり桂は麟太郎と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。
二
十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひか
れた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
麟太郎はそれを見てから
「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。
坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州藩奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主の詫び状とともに幕府に返されていた。
浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
麟太郎が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、
「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
「さっそく余を供にしていけ」といった。
麟太郎は暗い顔をして
「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
麟太郎は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」麟太郎は首をふった。
「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
麟太郎は答えた。
……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…
三
若き将軍・徳川家茂の上洛は海路よりとられ、やがて上陸した。
この夜、家茂は麟太郎を召し寄せ、昼間の労をねぎらい、自ら酒の酌をして菓子を与えるという破格の扱いをしたという。
船は暴風にあい、あくる日、子浦にひきかえした。
各艦長らは麟太郎を罵り、
「上様に陸路での上洛をおすすめいたせ!」といきまいた。
その争論をきいた家茂は、
「いまさら陸路はできぬ。また、海上のことは軍艦奉行がおるではないか。余もまたその意に任す。けして異議を申すではない」とキッパリ言った。
この〝鶴の一声〟で争論は止み、静寂が辺りを包んだ。麟太郎は年若い家茂の決然とした言葉を聞き、男泣きに泣いたという。
麟太郎は家茂の供をして大阪城に入った。
勝海舟(勝麟太郎)は御用部屋で、
「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
麟太郎は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」
四
麟太郎は相撲好きである。
島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
麟太郎は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
龍馬は麟太郎より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
麟太郎には剣客十五人の身辺警護がつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
しかし、麟太郎は固辞して受け入れなかった。
慶喜は、麟太郎が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、麟太郎はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ麟太郎が長崎にいくまでもなかった。
慶喜は
「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と麟太郎に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
しかし、慶喜の真意がわかっていても、麟太郎は命令を拒むわけにはいかない。
麟太郎は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
麟太郎は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
麟太郎は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
龍馬は首をひねり
「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
麟太郎一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのるはずだが、麟太郎は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
麟太郎は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけていたさ。幕臣は腐りきっているからな。
いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」
五
麟太郎が長崎にいくと、
「長崎には長州藩士たちがはいってきていて、麟太郎を殺す算段をしている」という情報がはいった。
二十六日、長州藩士たちが蒸気船を訪ねてきた。龍馬と沢村が会った。龍馬はいつでも刀を抜き、斬り殺せるように身構えていた。
「貴公がたは、何のようで先生に会見を希望しとるきにか?」
「軍艦奉行殿にわれらの本意を申しあげとうござりまする」
「じゃきに、本意とはなんですろう?」
龍馬は今にも刀を抜こうかと、鋭い眼で相手を睨む。
「長州藩は勅命を奉じ、下関を通る外国船を砲撃したのでござる。それが長州藩追放とは納得いきません」
「幕府が異人をそそのかして下関を攻撃させたっちゅうのは嘘じゃがに。先生は米国や英国に交渉して攻撃をとめようとしちゅうがですろう」
長州藩士たちは、
「拙者どもは明後日帰国しますから、それまでに勝先生に会いたいのです」と嘆願した。龍馬はそれを勝麟太郎に伝えた。麟太郎は気安く答えた。
「明日は西役所にいって機械買い上げの話をしなくちゃならねぇから、明後日の暮れ六つ(午後六時)に来るがいい、と言ってやれ」
六
三月六日、麟太郎は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」
その日、オランダ軍艦が入港して、麟太郎と下関攻撃について交渉した。
その後、麟太郎は龍馬たちにもらした。
「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」
「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。
「アジアの中で日本が褒められるのは国人同しが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いていんのにさ。他の国は国人同しが争って駄目になっている。
確かに、今までは戦国時代からは日本人同しは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」
麟太郎は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき麟太郎の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。
四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。
麟太郎は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。
「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。
しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」
四月十八日、麟太郎は家茂の御前へ呼び出された。
家茂は、麟太郎が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。麟太郎はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。
「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」
「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」
「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」
「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」
「およそ八、九町にござりまする」
「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」
家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」
四月二十日、麟太郎は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は麟太郎の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。知識人として知られていた。
龍馬は、麟太郎が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。麟太郎からの贈物である。
「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。
「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」
麟太郎は「西洋と東洋のいいところを知っているけい?」と問うた。
象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。
「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」
ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。
「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。
龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。
七
麟太郎は、わが息子ほどの年頃の家茂が、いとおしくてたまらない。
彼は御前を退出したのち、龍馬たちにいった。
「あんな明敏な上様が、ばかどもに取り巻かれて、邪魔ばかりされ、お望みのようにお動きにおなりねぇのをみると、本当に涙がこぼれるよ」
その〝馬鹿ども〟幕臣たちにはこういった。
「あいつらの心中は読めているさ。鎖国なんてできっこねぇのを知りながら、近頃天狗党だのという過激派がはびこっているんで、恐れているだけさ。しかも、その場しのぎに大言壮語しやがる。真に憎むべきは奴らだよ」
麟太郎はこの年、安房守に出世した。安房とは現在の千葉県のことである。
八
新選組の血の粛清は続いた。
懸命に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。
土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。
「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」
尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………
壤夷派は次々とテロ事件を起こした。
元治元年(一八六四)六月、新選組は〝長州のクーデター〟の情報をキャッチした。
六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。
「トシサン、きいたか?」
近藤はきいた。土方は
「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」
「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。
「というと?」
「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」
「なにっ?!」土方はわめいた。
「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」
「江戸の幕府に書状を出した」
近藤はそういうと、拳を握りしめた。
土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。
「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。
「幕臣に男児なし! このままではいかん!」
歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」
「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」
近藤がいうと、歳三は
「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。
とにかく、近藤勇たちは決断した。
九
池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、
副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかった。
最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
桂小五郎は
「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
数が少ない。
「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」
近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。
「桂はん…新選組です」芸者幾松が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。
近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。
「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。
近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。
「手むかうと斬る!」
近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二刻にもおよんだ。
沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。
沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。
そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。
沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。
早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。
赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、隊士をさらに増やすように資金まで送ってきたという。
「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。
龍馬は「あぁ…まぁ、知っていることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。
「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。
「まあ」龍馬は笑った。
「やつらは幕府の犬じゃきに」
「すごい人殺しですわねぇ?」
「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」
「まぁ! あなたはすごいこと考えているんやねぇ」おりょうは感心した。
すると龍馬は
「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。
十二日の夕方、麟太郎の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)
頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れた。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
勝麟太郎は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていた。
「なんてこった!」
のちの勝海舟(麟太郎)は嘆いた。
六 禁門の変
一
麟太郎は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。
麟太郎は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。
「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。
国家のため、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」
幕府の重役をになう象山と協力して、麟太郎は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に繁栄させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。
そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。
「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」
二
長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期にはあの高杉晋作がいた。ともに若い二人 は吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだ。人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
松陰は思う。
……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。
安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
……吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえた。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだった。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
しかし、彼は〝尊皇壤夷〟で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれた。
京での炎を、麟太郎も龍馬も見証した。
久坂玄瑞は奮起した。
文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長
州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
『二心公』といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。
久坂玄瑞は沈黙した。
頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は懸命に堪えた。
七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
麟太郎の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、麟太郎は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのり大量殺戮を繰り返しているという。
麟太郎は有志たちの死を悼んだ。
近藤と土方は喜んだ。〝禁門の変〟から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。
銭金はあればあっただけよい。
これを期に、近藤は新選組の組織を再編成した。
まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三、あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような〝スターリン式恐怖政治〟で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
そんな中、事件がおこる。
英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は肩を落とした。
三
慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。
それに対応したのが、高杉晋作だった。
「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分を問わず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。
幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。
「このまま保守派や幕府をのさばらせていては、日本は危ない」
その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。
……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……
「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。
「これより、長州男児の意地をみせん!」
こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。
(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)
その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
四
麟太郎はいよいよ忙しくなった。
幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
龍馬は笑いながらいった。
この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。
後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。
世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。
なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。
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