至誠の魂 勝海舟

長尾景虎

至誠の魂 勝海舟

小説 至誠の魂

 勝海舟

                           戦わずして勝つ


                 KATSUKAISHU~the last samurai ~開国せよ! 龍馬の師・勝海舟の「日本再生論」。

                 「江戸無血開城」はいかにしてなったか。~

                ノンフィクション小説

                 total-produced&PRESENTED&written by

                  NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎


         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〟

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



**この物語は津本陽さん著作の『私に帰せず 勝海舟』をベースにしていますので、この物語のオマージュの故・津本陽さんに感謝します。引用を許可してください。では。


          あらすじ


  黒船来航…

 幕末、勝海舟(勝麟太郎)は幕府の軍艦奉行に抜擢された。それまでは年五十石の貧乏武士であり、そのため奮起して咸臨丸という船にのってメリケン(アメリカ)に留学して知識を得た。麟太郎の弟子はあの坂本龍馬である。先進国を視察した勝海舟にとって当時の日本はいびつにみえた。勝は幕府を批判していく。だが勝は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。

 勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……

 勝海舟は官軍と徳川の間をかけもちしながら生き抜く。新政府の〝知恵袋〟として一生を終える。墓には勝海舟とだけ掘られたという。           おわり






         一 立志



    一

 勝麟太郎(勝海舟)にも父親がいた。

 麟太郎の父・小吉の実家は男谷家といい、年わずか百石の百表取りだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。 

いきおい内職することになる。虫かごを作ったり、傘を張ったり、小鳥を飼って売ったりしていたという。

この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。

 男谷家で、小吉は腕白に過ごした。

 貧乏にも負けなかった。

 しかし、小吉の父・男谷平蔵は年百石のほかに勘定組頭の役料が入る。それに小吉の兄彦四郎は勘定役の信濃の代官であったという。

あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。

 平蔵は米山検校から巨額な遺産をもらったという幸運が成った。

 そのため食うにはこまらなくなった。

 それをいいことに小吉は腕白に育った。本所亀沢町へいよいよ仮屋敷を構え、男谷が引っ越すと、離れていたばばあ殿と小吉は一緒になった。

ばばあ殿は毎日、孫娘の許嫁である小吉に嫌がらせばかりしていたという。

 小吉はそれが嫌で、ばばあ殿が早く死んでくれたら、などと思った。憂さ晴らしに剣術の稽古に励んだ。

 稽古場で小普請組頭の石川という師匠の息子が

「こいつの家は年四十石だ」と馬鹿にするので、小吉は頭にきて木刀でその息子をボコボコに叩きのめした。痣だらけにした。

 当然、翌日、師匠に叱られた。


     二

 ――明治維新の取材とは光栄だ。本は売れるだろうか?

 春のぬくぬくとした気候で、桃色の桜吹雪が幻影みたいだ。

 明治三十一年(一八九八)四月十四日……

 私、長尾景虎の先祖・上杉鷲(わし)茂(もち)がその東京赤坂氷川の老人の豪邸に自転車で足しげく通うようになったのは明治時代も深まった頃だった。

帝大卒の上杉鷲茂は東京の新聞社勤務であったが、その老人の伝記を書くために通うようになっていた。

白髪のひげ面の羊のような老人は小柄で瀟洒な家の、元・幕臣。

名を勝安(かつやす)芳(よし)(勝海舟(かつかいしゅう))という。そう勝海舟、そのひとである。

「上杉さんよ、おいらのことを調べてどうするんでぃ?」

「先生の伝記本を書きます」

「それで? どこまで書いている?」

「まだ数ページ…です」

「ははは。おまえさんが書けなければ?」

「それなら遺書を書き、僕の子供、孫、ひ孫、玄孫…必ず完成させるよう遺書を書きます」

「数年後や十年後ならいいが、百年後なら遅いぜ」

上杉鷲茂は苦笑いした。海舟は

「それよりも福沢諭吉がこんな書類送ってきやがったぜ」

先祖は瀟洒な豪邸の居間で、海舟に書類をみせられたという。

「ほう、〝やせがまんの説〟ですか」

「福澤の奴、俺や榎本釜次郎(榎本武揚)がどんどんと出世していくもんだから嫉妬してやがるんだぜ。馬鹿野郎ってんだ。本にする前に原稿掲載を許可してくれとさ」

「あの慶應義塾の福澤先生が? で、この、福澤先生の〝やせがまんの説〟に勝安芳(勝海舟)先生は何と返します?」

勝海舟は笑って言ったという。

「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張!」

「ほう。…自分のことはいいから勝手に言っていろ、と? いいですねえ~」

勝海舟は縁側に歩き、蒼天を、遠くを見る目をして、

「おいらの人生そのものが〝やせがまん〟の連続だったなあ」と語った。

 これからも勝海舟の人生を語ることとしよう。


   三

 兄・林大学頭により、小吉は十二歳で学問所に足を運んだ。麟太郎は林大学頭という叔父をもつことになる。小吉は学問よりも馬に乗るのが好きで『大学』を五、六冊ほど覚えたところで追放された。小吉は、運がいい、と自分で思った。

 しかし、小普請組頭や徒士組の家の子が出世するには、人脈がなければ勉強以外にない。

 ある日、彼は意地悪するばばあ殿が嫌で嫌で、とうとう家の金を持ち出して家出をした。 江戸の町をぶらぶらしていると侍がいた。

「お侍さん。上方は知っているかい?」小吉は刀と脇差しを腰に差しながらきいた。

「知っているさ。京のことならなんでもな。これからいくんだ」

「拙者も一緒でいいかい?」

 小吉は家出をし、京まで辿り着く頃までは所持金もなくなった。わらじもすりきれ、何日も風呂に入ってないから垢まみれの臭い体で乞食しながら歩いた。

 小吉は後悔していた。

 これじゃあ只の乞食だ。

 京で声をかける町人がいた。

「おい乞食! どこからきよった?」   

「江戸からだ。俺は乞食じゃねぇ。小普請組頭の武士だ」

 初老の町人は笑った。

「そうかそうか。まぁ、風呂に入っていけ。飯も食わしてやる」

 小吉は風呂にいれてもらい、たまった垢を落とした。気持ちがよかった。

 江戸に帰ってきたのは半年後だった。途中、箱根で落石にあい、男性のシンボルを怪我したが、治った。そこで狼に食われなかったのは幸運だった……とのちに言われた。

 家出して心を入れ替えて就職活動に勤しんだがやはりうまくいかない。

 小吉は正直すぎて世間の俗物には受け入れられなかったのだ。

 そんな小吉も結婚し、子が生まれた。勝麟太郎(のちの勝海舟)である。文政六年(一八二三)正月三十日が誕生日であった。小吉二十二歳、妻お信二十歳のことである。

 夫婦は喧嘩が絶えなかった。

 世間でも評判になるくらい喧嘩をした。麟太郎を身籠もったのも、檻の中だったともいわれる。小吉もお信も檻に入れられ、夫婦は「夜」にふけり、身籠もったのだ。

 小吉は檻の中で書を読みふけり、妻となにをして、過ごした。麟太郎は三歳まで檻の中で母親と暮らした。

 いろいろと騒ぎを起こす小吉の元で、麟太郎は順調に育った。お信も息子を可愛がった。麟太郎には徳川幕府の大奥に勤める女がふたりいたという。ひとりは小吉の姉の亀田という女性。もうひとりは遠縁の阿茶の局という女性だった。

 阿茶の局との縁で、麟太郎は六歳の頃、江戸城のお座敷の縁側まで歩み寄った。奥座敷から見ていた大御所の家斉(十一代将軍)が、

「あれは誰であるか?」

 と、尋ねる。小姓は、

「阿茶の局の縁者にござりまする」と答えた。

「左様か。わが息子(十二代将軍・家慶)の遊び相手にちょうど良い」

「しかし、只の小普請組頭の息子……卑しい身分のものです」

「かまわん! かまわん!」

 家斉のこの言葉で、麟太郎は阿茶の局の部屋で寝起きすることになる。

 悪戯好きだった麟太郎は、女中たちに捕まってはお灸をすえられたが、十三代将軍・家定の生母おみつの方(本寿院)は麟太郎を可愛がって菓子を与えるのだった。

 麟太郎は衣服や食事などなに不自由なく育った。

 彼は志を抱く。

 ……この徳川幕府の中で出世して公僕さまのために働きたい!

  

    四

 麟太郎が九歳のときに事件はおきた。麟太郎は江戸の屋敷に引っ越し、旗本の家から塾にかよっていた。その道すがら、狂犬が麟太郎の金玉に噛み付いた。

 ぎゃあっ! 叩いてもはたいても犬は離れない。噛み付いたままだ。それに気付いた鳶職が犬を蹴飛ばして、麟太郎を抱えて家に連れて帰って介抱した。

 小吉は知らせを受けて駆けつけた。

「てめぇがぼんやりしているからこんなことになるんでい! この馬鹿!」

 小吉は息子を散々叱りつけ、駕籠にのせて家に連れてかえった。

「痛むか?」

 麟太郎は気絶寸前である。

 医者がきた。傷は深かった。金玉はぶらさがっているが出血がひどくやぶれていた。

 医者は麻酔もせず、傷口を縫った。麟太郎は気絶した。

「家の息子はどうですか? 先生」

「危ない。今晩が山だろう」医者は辛辣だった。しかし、嘘をいう訳にもいかない。

 小吉は愕然とした。俺の息子が

……死ぬかも知れぬ。口をぽかんと開け、よだれを垂らしそうになった。世界の終りだ。家族は声をあげて泣く。小吉は

「やかましい! 泣くな! 泣いて麟太郎が助かる訳じゃねぇ!」と叱り付けた。

 小吉は神仏に祈った。その晩から井戸端で水垢離をやって、近所の金比羅神社で裸参りにいった。帰ると小吉は息子を一晩中寝ないで自分の肌で抱きしめて、耳元で、

「しっかりしろ! しっかりしろ!」と囁き続けた。

 近所では

「勝という剣術使いは子供の怪我で狂った」と噂になった。

 幸運なことに麟太郎は死ななかった。

 次の日に目を覚ますと粥をすすった。十日ほど療養するうちに起きられるようになった。  

麟太郎は再び家斉の嫡男の小姓役を務め、その後三年を大奥で過ごし、天保五年(一八三四)、麟太郎は十二歳のとき御殿を下がった。

 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように麟太郎は召し抱えられ、内示がきた。

 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。麟太郎は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。                                 

 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。

 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。麟太郎は残念がった。勝麟太郎は十六歳で城を離れざる得なくなった。

 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは勝麟太郎にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「麟さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた勝麟太郎は剣術に熱中した。

 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように剣術鍛練に励んだ。

 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。

 直心影流の宗家となった従兄弟の男谷精一郎信友の影響で、その流派を習うことになる。 勝麟太郎は後年こういっている。

「俺がほんとうに修行したのは剣術だけだ。俺の家は剣術の家筋だから、親父もなんとか俺を一人前にしようと思い、当時江戸で評判の島田虎之助という人の弟子につけた。この人は世間並みの剣術家ではなくて、いまどき皆がやる剣術は型ばかりだ。あんたは本当の剣術をやりなさい、と言ってくれた」

 麟太郎は島田虎之助(九歳ほど年上。文政十一年(一八一四)九州豊前中津生まれの剣客)の稽古場に泊まり込んで、掃除洗濯煮炊きまでやり剣術を習った。稽古場と実家は距離があり、麟太郎が家に帰るときは何刻も歩いた。

 稽古場では互いに打ち合い、転んでもすぐたちあがり木刀で殴りあうという荒っぽい稽古がおこなわれていた。そこで麟太郎は心身を鍛えた。

 弘化三年(一八四六)二十四歳の頃、麟太郎と、お民との間に長女夢子をもうけ、嘉永二年(一八四九)十月に次女孝子をもうけた。

 麟太郎の父・小吉は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、嘉永三年九月四日四十九歳で死んだ。

 小吉はいろいろなところに借金をしていたという。

 そのため借金取りたちが麟太郎の屋敷に頻繁に訪れるようになる。

「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」麟太郎は頭を下げ続けた。自尊心の高い勝麟太郎にとっては屈辱だったことだろう。

 麟太郎は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。麟太郎は蘭学を死に物狂いで勉強した。

 彼が結婚したのは弘化二年(一八四五)二十三歳の頃で、ふたりの幼い娘の父となっていた。しかし、禄高はたったの四十一石、母も病で寝たきりになり……

 貧乏のどん底にいた。しかも、亡父の借金もある。直心影流の免許皆伝となったが、稽古場で剣術を教えてもたかが知れている。

次第に麟太郎は剣術を離れ、蘭学にはまるようになっていく。

本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。

 あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。

「これはいくらだ?」麟太郎は主人に尋ねた。

「五百文にござりまする」

「高いな。なんとかまけられないか?」

 主人はまけてはくれない。そこで麟太郎は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五百文をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。

「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら麟太郎はきいた。

「与力某様でござります」

 麟太郎は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。

「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」

 与力某は断った。すると麟太郎は

「では貸してくだされ」

 それもダメだというと、麟太郎は、

「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。

いきおい土下座のようになる。誇り高い勝海舟でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。

「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」

 麟太郎は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。

 麟太郎の住んでいるのは本所錦糸堀で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であった。雪の日も雨の日も台風の日も、麟太郎は写本に通った。

 あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、

「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。麟太郎は断った。

「すでに写本があります」

 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。麟太郎は受け取った。仕方なく写本を売りに出したが三〇文の値がついたという。

 麟太郎は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により麟太郎の名声は世に知られるようになっていく。勝麟太郎はのちに、

「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 天保六年から七年にかけて大飢饉で、勝海舟も難儀な思いをした。しかも四十一石と小禄で病妻と幼い妻をかかえている。勝麟太郎の身分は小譜請組頭で、せいぜい四十~五十石がいいところである。

出世するためには上役の御機嫌をとったりワイロを配ったりしなければならない。

プライドの高い勝海舟(勝麟太郎)にはそれがなかなかできない。

 麟太郎には祖父明敏と父小吉からの反骨の気質がある。

(勝海舟の家系はもともとは幕臣ではなく、越後の小大名の家来出身である)

 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。

 勝海舟はその頃、こんなことでいいのか? と思っていた。

 だが、麟太郎も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。


    五

 嘉永三年十月、高野長英という男が牢をやぶって麟太郎の元にたずねてきた。

「かくまってほしい」という。

 麟太郎は「私めは幕臣であるため義においてかくまうことはできません」と断った。続けて

「しかし、あなたがきたことは誰にもいいません」

 長英は了解した。長英は何刻にも渡って麟太郎と蘭学について口論したが、やがて萩生氏著作『軍法不審』をくれて帰った。

 勝麟太郎二十八歳、高野長英四十七歳であった。

 高野長英はやがて偽名を使い医者になるが、その名声が高まり町奉行の知るところとなった。逮捕の危機がせまっていたので、長英は江戸の蕎麦屋で家族と夕食を食べ、逃げた。

が、すぐ追っ手に襲われ、ひとりを殺し、短刀で喉を突いて自殺した。

 麟太郎は長英の死を嘆いた。

……いい人物が次々といなくなっちまう。残念なことだ。

「高野さんはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りなかった。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」

 麟太郎は参禅を二十三、四歳までをやっていた。

 もともと彼が蘭学を学んだのは島田虎之助の勧めだった。剣術だけではなく、これから学問が必要になる。

麟太郎が蘭学を習ったのは幕府の馬医者、都甲斧太郎で、高野長英は彼の師匠であった。だから長英は麟太郎の元に助けを求めてきたのだ。

 小吉が亡くなってしばらくしてから、麟太郎は赤坂田町に塾を開いた。氷解塾という蘭学の塾である。家の裏表につっかえ棒をしているあばら家であった。

 客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が麟太郎の元に舞い込むようになった。

 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を小吉の借金の返済にあてた。

 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。麟太郎はそれらを叱りつけた。

「ちゃんと設計書通りつくれ! 俺の名を汚すようなマネは許さんぞ!」

元々、『海舟』という名前というか号は佐久間象山の元号である。

それを勝麟太郎が象山の家におしかけて掛け軸の『海舟書屋』を奪い、

「この『海舟』という名前、号を俺にくれねえか? あんたにゃ象山っていう立派な名前があるだろう? いいか?」

象山は、

「たしかに海の舟の〝海舟〟より、〝森羅万象の山〟の〝象山〟がいいか」

「そうさな! じゃあ、俺が今日から海舟だ。勝海舟だ!」

「まて! ならお前の妹のお順を嫁にくれ! 惚れたんだ! 懸想だ!」

「え? お順(順子)はまだ十七歳だぜ?!」

「こまかいことは言いっこなしじゃ! のう? 海舟兄貴(笑)」

「べらんめい、しょうがねえなあ」勝海舟は苦笑した。

 麟太郎の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。



    六   *

「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と岩倉具視が評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。

敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として十五代将軍・慶喜として登場した徳川慶喜。徳川三百年の幕引き役を務めるのが慶喜という運命の皮肉。

徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。

「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。

閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。

『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照

著者が徳川慶喜を「知能鮮(すくな)し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせるためで、慶喜には「悪役」に徹してもらった。

だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。

慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。

しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通と西郷隆盛らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。

実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していた。

徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。

慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。

「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」

幕末の〝熱い時代〟にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。

本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)

その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。

孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。

大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。

まさに、策士で、ある。

歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。

将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。

欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。

大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。

討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。

大久保利通らは大政奉還で討幕の大儀を失ってあせったのだ。

徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。

新政府にも加わることを望んでいた。

慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通・西郷隆盛らは王政復古の大号令をしかける。

日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていた。

大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。

「慶喜だけは倒さねばならない! 薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す! やるかやられるかだ!」

 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・十六歳)を薩長にうばわれたことだ。

薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。

「身分もなくす! 幕府も藩もなくす! 天子さま以外は平等だ!」

 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。〝負けるが勝ち〟だ」

 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄! だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。

 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。

 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。

 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。

 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせるために将軍になったのだ」

*NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用



    七

明治維新の幕が開く数年前………

 この頃、麟太郎は佐久間象山という男と親交を結んだ。

 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。

 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。

 佐久間象山が麟太郎の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。

 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。


 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。

 ……「黒船来航」である。

 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのだ。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。

 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。

 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい、去った。

 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、麟太郎が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかった。

 麟太郎は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。

 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。

 二、海防の軍艦を至急に新造すること。

 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。

 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。

 五、火薬、武器を大量に製造する。


 麟太郎が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。

 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用したためである。

 幕府はオランダから軍艦を献上された。

 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。 

         二 自由の国





     一

 観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには訳があった。

 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。

 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。

 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。

 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。

 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。

 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。

 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 教育過程は次のとおりであった。

 班長担当

    綱索取扱い           週三刻

    演習              週三刻

    規程              週三刻

    地文学             週二刻

 一等尉官担当

    艦砲術             週五刻

    造船              週五刻

    艦砲練習            週六刻

    (歩兵操練監督)

 二等尉官担当

    運転術             週五刻

    数学・代数           週五刻

    帆操縦(測定器・海図・観測)  週九刻

 主計士官担当

    算術              週九刻

 軍医担当

    物理              週三刻

    代学              週三刻

    分析学             週三刻

    包帯術             週三刻

 機関士官担当

    蒸気機関理論

                    週六刻

   飽ノ浦工場建設、蒸気機関監督含む。

 軍人以外の教育担当

    オランダ語・算術教授      週十一刻

    乗馬              週十刻

 海兵隊士官担当

    歩兵操練            週十五刻

    船上操練            週四刻

    一般操練            週三刻

 鼓手担当

    軍鼓練習            週十二刻

 船大工担当

    造船所の操練

 製帆手の担当

    マストの操練

 水兵担当

    水兵の勤務実習

 看護手担当

    医官の手伝い・印刷部の手伝い



長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚      

志を任命した。長崎にいくことになった勝麟太郎も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であった。

 かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。

 しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。

 幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。

 海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。

 麟太郎は矢田堀とともに海路をとった。

 昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。 

 長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。

 あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。

「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」

麟太郎は言葉をきった。

「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」

「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。

「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。 

 昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。

 長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。

 伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。

 教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。

 ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。

 勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解した。

 麟太郎は

「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」

 ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。

 安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。

 のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。

 やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。

「なんでござろうか?」

「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」

 奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」

 麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。

 雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。

 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。

 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。

 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わった。

 訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。

 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。

 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていた。

 勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。

 彼が長崎に残留したのにはもうひとつ理由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのだ。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。

 縁は雨の日のことである。

 ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。

「これはかたじけない。おかげで助かった」

 麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかった。

 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。

 通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、

「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。

 ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。

「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」

 麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして

「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」

 麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。

 木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 

当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、

「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。

 図書は茫然として言葉も出ない。

 麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。

 麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。

「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」

 麟太郎は反発する。

「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」

 教師は渋々受け入れた。

 研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えた。

 安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を 

受け取ると咸臨丸と船名を変えた。

 カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。

 カッテンデーキは、

「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」

 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は

「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。

 カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。

 案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。

 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどった。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。

 カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。

「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。

 しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだ。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。

 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は

「炊事場はいらない。皆ひとりずつ七輪をもっている」といいだした。

 麟太郎は呆れて言葉もでなかった。

「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。

   

 薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。

「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。

 麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」

「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。

 そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。

「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」

 麟太郎はあいかわらず長崎にいた。


 コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。

 短期間で命を落とす乾性コレラであった。

 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。

 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。


     二

 赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。

 それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。

 麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。

「長崎みたいなところで愚図愚図して刻を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」

 はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。

 授業は長刻教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。

「留学したい! 留学したい! 留学したい!」

 麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。

 彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。

 毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。

しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。

「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。

 数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。

西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかった。

 オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。

途中で呼び止めて質問すると拒絶される。

原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。

 結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。

 麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を希望する書簡を送ったが、返答はなかった。

 麟太郎は、

「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。

幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。

 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。

その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。

 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。

 オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。

 安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大いに驚いた。

 翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。

 麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。

「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。  

だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。

「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」

 麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。


    三

 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。

ハリスの意向を汲んだ結果だった。

 幕府の中では

「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

 江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。

 米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。

 万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。

咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だった。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。

が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。

 だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。

 もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。

 勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。

 途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていた。

「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。

「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」


  やがて米国サンフランシスコが見えてきた。

 日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。

「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。

 しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。

 紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は

「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。

 諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。

「有名なワシントンの子孫はどうしていますか?」

 相手は首をかしげてにやりとし

「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。

 諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。

 ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。

 カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。

         三 壌夷



    一

 ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。

 ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。

 ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。

 ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。

 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。

 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。それから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。

「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」

 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。

 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。

 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。

 麟太郎は激昴して

「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人は、

「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」

 麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、

「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。

 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。


   二

 麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。

 麟太郎は老中より質問を受けた。

「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」

 麟太郎は平然といった。

「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」

「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」

 麟太郎は苦笑いした。ようやく、

「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」

 老中は激怒して、

「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。

 麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。

「この無礼者め!」

 老中の罵声が背後からきこえた。

 麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、           

「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだ。

 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。

 この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。

 麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。

 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。

 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。

 麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。

 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあった。

 彼は次々と出世をしていく。

 一方、勝麟太郎は反対に、〝窓際〟に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免       

職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。

 過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。

勘定奉行の 小栗忠(ただ)順(まさ)はいう。

「幕府海軍は百年で三百隻を、といかなければならないと考えます。ですが、現実的に考えれば五百年かかります。だが、それを五百年かかる事を五十年でやらなければならない。時は今です。西洋諸国に追いつけ追い越せで富国強兵です」

 勝は反駁する。

「英国海軍は三百年の歴史がある。いきおい艦隊は銭を払えれば買えるが「人材」は買えない。乗組員は外国人ではなく日本人とするには艦隊の海軍操練所が必要です。つまり、人材教育です。日本は西洋に百年は遅れている。この差は大きい。徳川三百年の眠りが深すぎた」

「では、勝さんは日本人だけで海軍を、と」小栗はまた食ってかかる。

「当たり前だ。自分の国を守るのは自分の国の人間、いわば日本人だ。他国に守ってもらう、だの甘い。自分の国は自分たちで守るのが国際的な常識だ」

「それはまったく賛成だね。だから、そのために僕は勝さんと共に咸臨丸で渡米したのさ。外国の常識を知る見分のために」

「小栗さんは為替レートに文句をいっていたね? 米国の金貨と日本の金小判銀小判を計りにかけて、米国と日本の通貨の金の含有量が違うとか」

「そうだ。正しいものは正しい。間違いは間違いといってこその友好関係だ」

「だが、日本では〝出る杭は打たれる〟だよ。そんなはったりかましたって駄目なものは駄目さ」

「海軍のことかね? それとも為替レートのことかね?」

 勝海舟は苦笑した。「両方さね」


    三

 左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで〝ごろ寝〟ばかりして過ごした。   

……幕府は腐りきっている。

 いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。

 当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。麟太郎の行状を見咎め、若年寄に報告したという。

              

「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」

 若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。

 彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。

 麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。

 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものだ。

 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。

「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。

 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なっていたところへ、国際問題が起こった。

 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。

 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。

 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。

 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。

 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。

 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。

 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。

 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。

 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。

 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」

 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。


    四

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。麟太郎は残念に思った。

「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」

 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。

 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。

 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を麟太郎は思った。麟太郎は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士           

気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。

 麟太郎は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことにはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。

「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」

 麟太郎は斉昭の欠点を見抜いた。

「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」

 麟太郎は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。

「おしいことでい」勝麟太郎は悔しい顔で頭を振った。

 赤坂の麟太郎の屋敷には本妻のたみ(民子)と十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、麟太郎の傍らにつきっきりで世話をやく。

麟太郎は当然手をつける。当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。

 他にも麟太郎には妾がいた。麟太郎は絶倫である。

 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。


   五

 井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。

 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の〝外遊〟に似ている。

 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行った。

開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。

彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。

 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。

「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」

 麟太郎は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と感心した。

 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、

「なにか申すことがあるであろう? 申せ」

 しかし、何の返答もない。

 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと麟太郎に声をかけた。

「勝麟太郎、どうじゃ?」

 一同の目が麟太郎に集まった。

 〝臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する〟 という噂が広まっていた。

 麟太郎が平伏すると、大久保越中守が告げた。

「麟太郎、それへ参れとのごじょうじゃ」

「ははっ!」

 麟太郎は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。

 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、麟太郎はそれを知りながら無視した。麟太郎はいう。

「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しいと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。

 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。

 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。

 海軍の策は、敵を征伐する勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」

 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と麟太郎は説く。

 この年、麟太郎門下の坂本龍馬が訪ねてきた。龍馬は前年の文久二年夏、土佐藩を脱藩し、千葉定吉稽古場で居候していたが、近藤長次郎に連れられ、麟太郎の屋敷を訪ねてきた。最初は麟太郎を殺すつもりだったが、麟太郎の壮大な構想をきくうちに感化され、すぐに弟子入りをした。

 龍馬は姉・乙女に手紙を書く。〝天下一の英傑・勝麟太郎(勝海舟)先生の弟子になりました。えへんえへん〟……


   六

 激しい西風を受け、順動丸は正月二十三日の夕方、浦賀港に入り、停泊した。麟太郎は風邪をこじらせていた。麟太郎が風邪で順動丸の中で寝込んでしまったため、兵庫の砲台の位置についての取決めは延期となった。

 この日の午後、坂本龍馬、新宮馬之助、黒木小太郎ら、麟太郎が大阪で開塾した海軍塾生らが順動丸を訪ねた。

彼らは塾生仲間だった鳥取藩の岡田星之助が、壤夷派浪人と結託して、麟太郎の命を狙っているので、先手をうって斬るつもりである。

彼等は落ち着いて話す間もなく引き揚げていった。

 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。

 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松                  

平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。

 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、                      

天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。

「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」麟太郎はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。

 そんな時、「生麦事件」が起こる。

 「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。

「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」

 麟太郎は幕府の無能さを説く。

「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」

 五日には大阪の宿にもどった麟太郎は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。

 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、麟太郎は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。

「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。

公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。

ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」

 龍馬はにやりと笑って、

「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」

 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、

「喜んでいきますきに!」

 麟太郎は幕府への不満を打ち明ける。

「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。

幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」

「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。

 勝麟太郎は「そうだ」と深く頷いた。

「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」

「その通りだ」

「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」

「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」

「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。


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