Morendo

増田朋美

Morendo

暑い日だった。最近はやっと涼しくなってきたと思ったら、また暑い日が続いているという日々が続いている。季節の変わり目で体調を崩してしまう人も多い。それだけではなく、大型の台風がやってくることで、テレビやラジオは騒いでいるし、もうこれでは、生きていてもしょうがないのではないかと、思ってしまう人も少なくないだろう。いや、むしろ、そうなってしまう人のほうが多いのが、日本社会なのかもしれない。

みんな、仕事を持っていて、当たり前の様に職場に通うし、普通に、仕事をこなすことが多いだろう。それは、当たり前のことでもあるけれど、それをしていることによって、一種の免罪符というか、特権のようなものが現れてくるだろう。そして、それをしていない人は、親を困らせているとか、早く一人前になれとか、そういう事を周りの人からいわれ続けて、一生は、辛く、悲しい人生しか送れないのだった。

その日、杉ちゃんは、クリスタルボウルの演奏を聞くために、竹村さんの家に行って、演奏を聞かせてもらうことにした。

「今日は、もうひとり、演奏を聞きたいという方がお有りです。一応、ここへのアクセスは、地図を書いておきましたので、間違えることはないでしょう。」

と、竹村さんは、クリスタルボウルを布巾で拭きながら待っていた。

ちょうどこの時、竹村さんの家のインターフォンがなった。

「こんにちは。こちらのお宅でよろしかったですか?」

玄関のドアがガチャンと開いて、一人の若い女性が部屋の中に入ってきた。

「ああ、はい、確か、電話してくださった、藤井さんでしたね。よろしくおねがいします。」

と、竹村さんがいうと、

「私の名前は、藤井真理子です。」

と、女性は言った。

「藤井真理子さんですね。僕は、竹村優希と申します。クリスタルボウルを演奏する部屋はこちらです。」

と、竹村さんは、彼女をクリスタルボウルを演奏する部屋へ連れて行く。

「こんにちは。お前さんは、クリスタルボウルを聞きにきたのかな?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、よろしくおねがいします。」

と、藤井さんと名乗った女性は言った。

「よろしくおねがいします。お前さんの名前は?」

「はい。藤井真理子と申します。」

彼女はちょっと緊張していたような顔つきで言った。

「藤井真理子さんね。僕も一緒に、クリスタルボウルを聞かせていただきます、影山杉三です。」

杉ちゃんが言った。

「別にクリスタルボウルは、予防接種の副作用みたいな、そういうものはないから、大丈夫だからね。ただ、リラックスして、楽しむといいよ。」

「それでは、演奏を始めさせて頂きましょうか。藤井さんは、そこにある椅子に座ってください。杉ちゃんは、適当な位置にいてくれれば大丈夫です。」

と、竹村さんが言うと、藤井さんは、用意された椅子に座った。竹村さんは、クリスタルボウルの前に座ってマレットをとった。そして、クリスタルボウルを叩き始める。ゴーン、ガーン、ギーン、と、独特な響きのある音。美しい音という感じではないが、静かに心に染み入る音でもあった。マレットでクリスタルボウルを叩いたり、縁を擦ったりして、音を出すのであるが、この擦った音も、どくどくの倍音を含む音で、心が浮遊しているような、そんな音でもあった。

「さて、演奏はこちらで終了です。これから、雑談の時間にしますので、ご意見でもご感想でも、何でも話してください。」

と、竹村さんがマレットを置くと、杉ちゃんは、大きな拍手をした。

「どうもありがとうございます。ほんと、心がプカプカ浮いているような、素敵な音でした。のんびりした、いい気持ちになれるね。ありがとう。」

「いいえ、こちらこそ、聞いて頂いてありがとうございます。藤井さんは、なにかご感想はありませんか?」

と、竹村さんが聞くと、

「ええ、そうですね、、、。」

と、彼女は急いでいった。

「特にないですか?ないならそれでもいいんですよ。感想を口にするより、演奏が心にしみてくれることが大切ですから。」

竹村さんが言うと、

「お前さんな、せっかく聞かせてもらったんだから、感想でも言って貰えないかな?」

杉ちゃんが言った。

「ああ、ごめんなさい。それでは、えーとどうしたらいいのかな。えーとえーと、そうですね。単にきれいな音だったと思います。ごめんなさいそれしかいえなくて。」

と、藤井さんは答える。

「そうですか。それはありがとうございます。それでは、お茶とお菓子を召し上がってください。昨日一日かけて発酵させましたケーキです。」

と、竹村さんは、部屋の中に設置されていた冷蔵庫から、冷茶と、ケーキを取り出して、杉ちゃんと藤井さんに渡した。

「ああ、プラムケーキですね。ラム酒やブランデーをいっぱい入れた、お酒の香りがすごくするケーキ。」

と、杉ちゃんがすぐにケーキにかぶりついた。

「ウン、これはうまい!竹村さんって、お菓子を作るのも上手なんだね。ケーキ焼くのは好きなの?」

竹村さんが、ええ、時々趣味で作るのが好きなんですと答えるが、藤井さんは、ケーキを食べようとは知らなかった。

「お前さん食べないのか?」

と、杉ちゃんは聞いた。

「ええ。すみません。私、お酒は飲めないのでして。ブランデーなんてアルコールの濃度が高いものはちょっと。」

「大丈夫だよ。焼いたときにアルコールは、飛んでしまうから。あ、それとも車を運転するとかそういうことかな?」

彼女の答えに杉ちゃんはいうと、

「あれ。今日は、電車でいらしたのではなかったんですか?」

と竹村さんが聞いたので、車で来たわけではないと言うことがわかった。

「ええ、電車できました。それに私、車の運転はできないので、車で行くことはありません。」

と、藤井さんは答える。

「そうなんだ。なら、なおさらいいじゃないか。ケーキは焼いてあるからね、大量に食っても、酔っ払うことはないから、安心して食べや。」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうですが、お酒を飲んできたとか、そういう事は、顔には出さないで置きたいので、遠慮したいんですが。」

藤井さんは言った。

「なにか事情がお有りですか?基礎疾患のようなものがあって、食べるものが制限があるとかですか?」

竹村さんが聞いた。まあ、クリスタルボウルというものを聞きに来るという人は、第なり小なり訳ありの人が多いのであるが、中には、うつ病とか、統合失調症とか、そういう基礎疾患と呼ばれるものを持っている人もいる。そういうひとを否定するのではなく、ちゃんと、お客さんとして、受け入れることにしている。だから、クリスタルボウルの拝聴料金も、1000円だけもらうことにしていた。高額にしていたら、基礎疾患のある人たちが、治療するきっかけをなくしてしまうからである。

「ええ、実は、私、ここへ来ること、家族に内緒で来てしまったんです。本当は、友人の家に行くつもりだと言っていました。そうでないと、こういうところにはいけないと思いましたから。」

藤井さんはそういう事を言いだした。

「はい、そういう方は知っていますから、大丈夫ですよ。それに、ご家族が何を言ってきても、あなたは、こういうものが必要だとわかっていますから、対抗する文句もしっかり用意してあります。大丈夫です、それは、気にしないでください。」

と、竹村さんは言った。こういう事は、実によくあることなので竹村さんは、気にしないでいた。

「それよりも、あなたがなぜここに来たかを、話していただけませんか。なにか、基礎疾患でもあるのですか?それとも、単にリラックスしたくて、こちらに来たのですか?それだけにはとても見えませんね。」

「竹村さんは、何でもわかってくださいますね。そういうことなんですよ。私は、高校を出たあとにすぐ自殺未遂をして、それから、2年ほど、状態が落ち着かなくて、精神科に入院したりしたんです。それ以降は、何も仕事をしていなくて。家族は、色々してくれるから、何でもしてくれるから、嬉しいんだけど、私は、素直に喜べないんです。それよりも、災害は増えているし、年金の事もあるし、私にできることは死ぬしかないのかなとか、そんな事ばっかり考えてしまって。でも、死ぬのは家族に申し訳ないから、それもできなくて。だから、もうこういう人生が続くのかなと思うともう本当に辛かったんです。だから、こちらに来させて頂いたわけです。」

藤井さんは、小さな声で言った。

「そうですか。わかりました。確かに、ご家族が理解してくれないのもまた困りますが、居場所がないのも、また困りますね。多分、ご家族の中にいても、人間幸せになれない動物なのは、僕も知ってますよ。それなら、月に一度でいいですから、こちらに来てもらえますか。まず、完全に引きこもりになる前に、こちらに来ることができれば、また変わってくるでしょう。」

「竹村さんは、私の事を、悪い人間とか、犯罪者予備軍とか、そういう事をいわないんですか?」

藤井さんは、竹村さんにそういう事を言った。

「はい、言いません。よほどの事がない限り犯罪者とか、テロリストにはなりませんよ。」

と竹村さんがいうと、

「そんな事ありません。私は、喜びの感情を捨てました。だって、働いていない人は、喜ぶのは、犯罪をしたときしかないっていわれたことがあったから。それをずっと思い続けることで、17年間犯罪をしないで済んだんです。働いていないってことは、もうそれだけが犯罪だって、いわれたことだってあるんです。だから、そう思うことにして、私は、生きてきたんです。」

と、藤井さんは答えるのである。

「それは誰にいわれたのかな?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ。学校の先生です。ひどい学校だったんですよ。生徒は、授業をろくに聞かないで、携帯でメールを打ったり、漫画を読んだり。どうしてこんな生徒がいるんだろうって言うくらいひどいところでした。それが普通だと家族にいわれたときは、私の真剣に勉強したい気持ちは、真っ逆さまに地獄へ落ちたような気がしました。それからの学校は、私にとって地獄でした。学校の先生は、ヤクザの親分みたいな感じで、毎日働かない人がどうのとか、犯罪者がなんだとか、そういう話ばかりしていましたので。私の気持ちは、どこにもなくなってしまって。ああもう真剣に勉強できる世の中は終わってしまったんだって、それで私は自殺を図ったんです。それは、私の責任でもあったから。私は、偏差値がとれなくて、体育も真剣にやってもできなくて、オール一に近いような状態でしたから。もう、いいってことですよね。私は、この世の中に必要ないってことでしょうからね。」

「なるほどね。まあ、真面目なやつが、そういうところにいっちゃうとそうなっちまうんだよな。気にするなと言っても、お前さんにはできない技だ。それを教えてもらうことすらできなかっただろうからな。まあ、辛い人生だったんだろうね。仲間がいれば、もうちょっと人生楽になれたかもしれないね。でもそれも叶わなかったんだろうな。」

杉ちゃんはできるだけ軽い口調で言った。

「そういう事は、ありえない話じゃありません。うちへ聞きに来る人にもたまにいます。偏差値が低いのと真面目さとか、そういう事は、無関係であると、教育関係者にもわかってほしいものです。まあ、そういう人は、何も気が付かないでしょうが、こうして被害者が居るんですから、気が付かなければ行けないんですけどね。教師とか、そういう職業は、本当に罪の多い職業だと思ってほしいものです。」

「ホントだね。ある意味殺人罪よりも重いのかもしれない。だって、傷ついた生徒は、傷ついたままで、生きて行かなきゃいけないんだからな。それに、ご家族は、そういう人たちの絶対的な見方になる事は、まずできないからね。お前さんのご家族だってそうだろう。一生懸命働いてくれるけど、それを、感謝できないで、申し訳ないとか、居場所がないと感じるのが、良き証拠だ。」

杉ちゃんと竹村さんは、相次いでそういう事を言った。

「逆を言うんだったらね。学校をもっと、開かれた場所にしてほしいもんだよな。まるで密閉容器だからな。そこで何が置きているかなんて、親は知るよしもないんだからな。ただ評判だけが、世間を飛び回って、あそこの学校に行っていれば大丈夫なんて変な神話がはびこっちまって居るからな。」

「そうですね。結局私は、生まれてこないほうが良かったということになりませんか。私は、もう死ぬしかないんです。だって、学校を選ぶということは、自分でちゃんとできなくちゃ行けないのに、それを私が、できなかったんですから。だから、私の人生はもうおしまいだと思うんです。」

そういうかの所に、杉ちゃんは、

「まあ待て待て。」

と言った。

「まあ確かに、華やかな人生とか、そういうやつじゃないことは確かだし。普通に生きることもできないと思う。だったら、普通の人生ではない生き方をしてもいいんじゃないかな。人は、結果しか見ないけどさ、でもそれを逆の意味でとればだよ。結果さえあれば生き残れるということだ。つまりこういう事。人は肩書しか見ないが、肩書さえあれば、悪い過去を見るやつはいない。」

「それでは、私は、どうすればいいんでしょうか。私は、車にも乗れないし、こうして、何もできないんですよ。」

という彼女に、杉ちゃんは、

「それでは、車に乗れないで来られるところを探せばいいよな。この、竹村家にこさせてもらえたのは電車だろ。それなら、電車で来られるところで、居場所を探せばいいよ。それなら、ここで、クリスタルボウル習ったらどう?少なくとも、ここで習える場所があれば、お前さんは何もしていないことから、開放されるんじゃないのかなあ?」

とでかい声でいった。

「まあ確かに、いつでも僕は、お弟子さんを募集してはいますけど、ちょっと杉ちゃんの言っていることは、強引すぎませんか?」

竹村さんが言うと、

「そうなんですけどね。でも、なにか居場所というか、通う場所を作っておかないと。このままじゃこいつは、本人の言う通り死ぬしかないことになっちまうぞ。それは、やっぱり、かわいそうだからさ。なんとか生かしてやりたいじゃないか。そのためには、どこかに通うことが必要なんだ。」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。杉ちゃんの言い方は、少々乱暴なため、藤井さんは、ちょっと怖がる顔をした。

「大丈夫だよ。竹村さんは、こう見えても、ちゃんと教えてくれますからね。そういうところは、林家三平とか、フランツ・リストみたいなところある人だから。」

杉ちゃんがそう言うと竹村さんは、はい、とにこやかな顔をした。

「杉ちゃんってなんでも知っていますね。僕のことも、彼女の事も、しっかり見抜いていらっしゃいますね。それは、すごいと思います。」

「確かにすごいですが、私みたいな、何もしていない人が、楽器なんて習えるのでしょうか。私、五線譜すら読んだことないんですよ。」

藤井さんが申し訳無さそうにそう言うと、

「まあ、そうだけど。お前さんの場合、早く手を打たないとなんとかできないんじゃないの?」

と、杉ちゃんが言った。藤井さんは、ハッと気がついたような顔をする。そうですね、と小さい声で言った。

「じゃあ、ここでちょっと体験入門してみましょうか。まず、マレットを持ってみてください。クリスタルボウルは、水晶でできていますから、できるだけ力を入れずに、叩いてください。」

と、竹村さんは、彼女にマレットを渡した。彼女、藤井さんは、ちょっと震えた手で、ゴーンとクリスタルボウルを叩いてみる。

「はい、そうですね。それでは、このクリスタルボウルの音を聞いてみましょうか。この楽器は、一番低いドの音を出します。」

竹村さんが、クリスタルボウルを叩いてみると、はっきりした音程ではないが、ドの音を、示していた。

「それでは、次の楽器。これはソの音を出します。ちょっと叩いてみてください。」

竹村さんは、彼女にマレットを渡して、隣の小さなクリスタルボウルを叩いてもらった。確かに、ソの音を出していた。

「はい。よろしいですよ。じゃあ両手でマレットを持って、ドとソのクリスタルボウルを叩いてみましょう。」

と、竹村さんにいわれて、彼女はそのとおりに、叩いてみた。ドソの和音は、とてもきれいに響いてくれた。

「そうですそうです。なかなかうまくやれますね。じゃあ、週に一度、来てくれますか?一緒にやりましょう。」

「そうですが、家族にどう言えばいいか。家族は、私が出ることを快く思ってないようですから。私は、家の中にずっといて、それしかできないと思って居ると思いますから。」

竹村さんがそう提案するが、彼女は申し訳無さそうに言った。

「いや、ご家族だって、お前さんが外へ出るのを待っててくれるんじゃないかな。もし、外へ出たいって言ったら、お前さんがやっと出られたって、大喜びしてくれるんじゃないの?」

と、杉ちゃんがそう付け加える。

「杉ちゃんは何でもプラスに変えてしまうんですね。それは、すごいことだと思います。」

竹村さんは、感心してそういった。

「ああいいじゃないか。なんでも、そういうふうに考えないと、世の中やっていけないよ。いいか、できないことは、反対の方向を見ればいいのさ、そうすれば、できることが見えてくるから。そうだろう?」

杉ちゃんは、平気でそういう事を言って、口笛を吹いている。そういう彼を見て、竹村さんは、彼のような明るい人が、増えてくれる人がいてくれれば、もうちょっと、世の中は明るくなるのではないかと思った。

「それでは、もう一度、今度はミのボウルを叩いてみましょう。いいですか、行きますよ。」

と、竹村さんが、彼女に真ん中に置いてあるクリスタルボウルを指さした。彼女は、マレットをとってゴーンとそれを鳴らした。






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Morendo 増田朋美 @masubuchi4996

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