第二章 女中と異国の元王子④




 観衆は悲鳴をあげて逃げ出した。しかし、やぐらの上にいるコチュンとニジェナに逃げ場なんてない。バキバキとたおれるやぐらに、必死にしがみつくのが精いっぱいだ。そのうえ、下を覗き込んでいたニジェナは、身体を支えきれず、やぐらから投げ出されかけている。

「ニジェナ様っ!」

 コチュンがとっにニジェナを摑んだ。だが、非力なコチュンではどうにもできない。コチュンはすぐさま柵を摑んでいた手を離すと、両手でニジェナのうでを握り直し、振り子のように引き戻した。あざやかな黄色い衣装が宙を泳ぎ、ニジェナはやぐらの中に飛び込んだ。しかし、その反動でコチュンが宙に投げ出された。

「コチュンっ!」

 ニジェナが腕を伸ばしたが、コチュンは激しいしょうげきとともに落下した。すりばち状になっている土俵のふちをごろごろと転がり、ようやく止まったときには、全身の骨が粉々になったかのような激痛におそわれていた。それに、落ちたときに顔をりむいたらしく、視界が赤く染まるほど、ポタポタと血がしたたっていた。

「大変だ、女の子が落ちたぞ!」

 客席から悲鳴が聞こえ、コチュンはふらふらと頭を持ちあげた。同時に、コチュンの心臓がドキリと跳ねた。土俵の中央に、赤毛の牛がいたのだ。やぐらがとうかいしたことでさくらん状態になり、周りにいる牛飼いたちに襲いかかっていた。興奮した牛は、動くものに襲いかかる習性がある。コチュンはそのことを思い出し、息を殺して牛が落ち着くのをいのった。

 だが、牛はコチュンにねらいを定めると、大きく吠えてとっしんしてきた。コチュンは逃げたくても激痛のせいで身動きが取れない。観客たちから悲鳴があがる。コチュンは己の死を覚悟し、ギュッと目をつむった。

「こっちだ!」

 そのとき、ニジェナが倒壊したやぐらから飛び降り、口笛を吹いて牛を呼んだ。やぐらのへんで黄色い衣装を引き裂くと、裂いた衣装のはしを大きく振り回して牛にせまったのだ。すると、いっしゅんだけ牛が勢いをゆるめ、角のほこさきをニジェナにえて走り出した。観客が息を吞むなか、ニジェナは紙一重で牛の突進をけ、もう一度口笛を吹いた。

「さあ、追ってこい!」

 ニジェナは衣装のすそを持ちあげ、背を向けて駆け出した。牛は引き寄せられるかのように、再びニジェナを追いかける。だが、牛が向きを変えるために減速したすきを見て、牛飼いたちが投げ縄で牛の首をとらえた。次々に牛飼いたちの投げ縄がい、押さえつけら

れた牛はものの見事に土俵から退場した。

 残されたのは、ボロボロの女中と、つちぼこりにまみれた皇后だけだ。

「ニジェナ様……」

 コチュンは呟くと、ばたりと倒れてしまった。ニジェナはあがった息のままコチュンに駆け寄ろうとしたが、それより先に、客席から一人の男が飛び込んできた。

「しっかりしろ、コチュン!」

 男はコチュンに駆け寄ると、大事そうにこした。

「おれだよ、トギだ。わかるか?」

 男の問いかけに、コチュンはぐったりと頷いた。やがて、客席がざわざわと騒ぎ始めた。

「ニジェナ皇后様が、女の子を助けたぞ」

 暴れ牛をしずめたニジェナに、バンサ国の人々がしょうさんの言葉を口にしたのだ。牛相撲の牛たちをたたえるように己へ向けられたまなしに、ニジェナは驚いた。

「ニジェナ皇后様は、この国のえいゆうだ!」

「ニジェナ皇后陛下、ばんざい!」

 歓声が沸き起こるなか、土俵の中に大勢の衛兵たちがなだれ込んできた。その先頭に、顔を上気させたトゥルムがいるのを見て、ニジェナは慌てて駆け寄った。

「大変だトゥルム、団子がひどいを……」

 ところが、助けを求めたニジェナに、トゥルムはいきなり口づけをした。あまりにもとつぜんこうに、ニジェナは目を白黒させてどうようした。だが、客席にいるバンサ国民は、皇帝夫妻の熱烈なせっぷんに、ひときわ大きな歓声をあげるばかり。ニジェナはそれにも驚き、あわててトゥルムをはねのけようとした。だが、トゥルムの腕にがっしり押さえつけられ、身動きが取れない。

「トゥルムなんのつもりだっ、こんなことしている場合じゃ……」

「ばか、周りをよく見ろ」

 トゥルムはニジェナに耳打ちし、目線を客席に向けた。

「女中を助けたお前を、バンサ国民は英雄視している。わたしたち皇帝夫妻が、バンサ国民に認められる好機だ!」

 トゥルムの興奮した様子に、ニジェナは半信半疑のまま客席を見た。そこには、トゥルムとほうようする自分を、ばんらいはくしゅで祝福するバンサ国民たちがいた。しかも、彼らの声援は今までにないような高揚感に満ちている。ユープー国への敵対心を、こんな形でふっしょくできる機会なんて、二度とおとずれないだろう。

「ここで、おれたちのなかむつまじい姿を見せれば、バンサ国民の意識も変わるのか」

 ニジェナは、視界のすみに傷ついたコチュンをとらえながら、おくみしめた。

 自分をかばって怪我をした彼女のもとに駆けつけたい。だが、今は己の使命を全うするべきときだ。ニジェナはトゥルムの首に手を回し、無機質な口づけを返した。すると二人の予想通り、客席からは割れんばかりの歓声が沸き起こった。

「トゥルム陛下、ニジェナ皇后陛下、ばんざい!」

「バンサ国とユープー国、ばんざーい!」

 だが、その様子に難色を示したものがいた。コチュンを抱きかかえたトギが、抱擁する皇帝夫妻を睨みつけていたのだ。

「コチュンが大変だっていうのに、いちゃつきやがって……最悪のふうじゃねえか」

 トギがてるように言ったが、コチュンはかすんでいく視界の中に祝福の声を受けるニジェナを見つけ、胸を撫で下ろしていた。

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