第二章 女中と異国の元王子③



おそいぞ団子。牛相撲はとっくに始まってる」

 皇帝夫妻の席にもどったコチュンは、ニジェナのお𠮟しかりにむかえられた。やぐらの上には三人しかいない。ニジェナは民衆に見えないはんで身体をばし、牛相撲を思いっきり楽しんでいたようだ。そこに水をさす形になるが、コチュンは買い物ちゅうに見かけた、怪しい男の話をしなければならなかった。

「……確かに、少しでも危険な要素を感じるなら、用心するにこしたことはない。衛兵にそのことを伝えてこよう」

「わたしが伝えてきます。トゥルム様はここにいてください」

「いや、衛兵たちへの指示もあるから、わたしが行くほうがいい。それに、警備はばんぜんとはいえ、不測の事態に対応できるようにしておかなければいけないからな」

 トゥルムははげますようにコチュンのかたたたき、やぐらの下に降りていった。残されたコチュンとニジェナは、難しい顔をわせた。

「申し訳ありません……ややこしい事態にしてしまって」

 コチュンの謝罪に、ニジェナはわずらわしそうに首を振った。

「ユープー国やおれへの反発は、最初からわかっていたことだ。それでも、いずれは民衆の前に出なきゃいけなかった。警備を固めるのは当然だろ」

「そういう意味じゃないです。ニジェナ様は平和のためにバンサ国に来てくれたのに、わたしの国の人が、ニジェナ様に悪意を向けるのが、申し訳なくて」

 コチュンが告げると、ニジェナは意表を突かれて瞬きをした。

「……そんなことを言われるとは、思ってもみなかった」

「ごっ、ごめんなさい」

「お前が謝ることじゃない。確かに、ぞうごんを浴びせられるのは最悪の気分だよ。けど、それぐらいかくのうえだ。それに、想像していたよりユープーとの友好を喜んでくれる民衆がいることも知れた。悪いことばかりじゃないさ」

 しかしニジェナがいくら言ったところで、コチュンの顔はしずんだままだ。ニジェナは仕方なくため息をつくと、コチュンのりょうかたを摑んで、無理やりに座らせた。

「おれは、大好きな牛相撲をて明るい気持ちになりたい。だから今は、しんくさい話はやめよう。お前も、おれと一緒に牛相撲を楽しめ。それならできるだろ?」

「……はい」

 コチュンはがおを見せて、買ってきた食べ物の説明をした。するとニジェナは、さっきよりも楽しそうに頷くのだった。



 待ちに待った牛相撲は、ここ数年で一番と言えるほどの名勝負だった。体重別に階級がわかれており、軽い牛から重たい牛へと試合が進んでいく。太陽がかたむいていくのとへいこうするように、土俵に伸びる牛たちのかげも大きさを増していった。

 特に、今日の大トリをかざる最重量級の試合は、とうじょうれるほどの熱戦だった。西部から選抜された黒毛の牛と、東部から選抜された赤毛の牛の勝負である。用心して睨み合ったかと思えば、角を大きく振り回し、ぶつかり合って力をきそう。そのたびにつちけむりいあがった。

 再三の力比べのあと、赤毛の牛がもうとっしんした。そのしゅんかん、勝負が決する。黒毛の牛は赤毛の牛のはくに押され、きびすかえしてしりを向けたのだ。牛相撲は先にげたほうが負ける。赤毛の牛が黒毛の牛を追いかけ、ほこるようにえた。

「やったぁ、東が勝ったぁ!」

 思わず立ちあがって声をあげたコチュンは、となりを見てハッとした。ニジェナも同じように立ちあがり、こぶしを振りあげ飛び跳ねていたのだ。

「最高の試合だったな!」

 ニジェナは声を弾ませると、コチュンの両手を摑んで振り回した。満面の笑みに押されて、コチュンも何度も頷いてしまう。

「はい、感動しました! 二頭ともよくりましたよねっ」

 コチュンとニジェナは、手をつないでおどるように飛び跳ねた。だが急に我に返ると、二人は手をはなしてはにかみ合った。

「悪い、調子にのった」

「こちらこそ、すみません」

 コチュンの顔が、カッと熱くなった。はしゃいでいたとはいえ、男性と、しかも皇族の人と、友達のように手を取り合ってしまうとは。コチュンがれいを欠いてしまった自分に反省していると、ニジェナがぽつりと呟いた。

「牛が好きなやつと話すことなんて、あんまりないから。つい浮かれてしまった」

 謝るニジェナの横顔が、ほのかにじらっていた。初めて見る表情にコチュンは目を丸くしたが、うっかりしてしまう。

「わたしも、ニジェナ様の楽しそうな顔が見られてうれしかったです」

 アハハと笑うコチュンを見て、ニジェナはさらに顔を赤くした。

「二人とも、ずいぶん仲がよろしいようで?」

 コチュンとニジェナの間に、トゥルムが割って入ってきた。その言葉に、ニジェナが慌てて反論しようとしたが、トゥルムはにやにやしたまま遮った。

「まあ怒るな。無事にすべての試合が終わってよかっただろ。わたしはこれから、勝者の牛にくんしょうさずけることになっている。すまないが席を外すぞ」

「ニジェナ様はご一緒に行かれないのですか?」

 コチュンがニジェナにたずねると、ニジェナは少しさびしそうに答えた。

「土俵にあがれるのは、男だけと決まりがあるだろう」

 コチュンは、あっ、と口を閉じた。自分はニジェナが男だと知っているけど、今の彼は皇后を演じているのだ。トゥルムがやぐらを降りると、コチュンはおずおずと切り出した。

「ニジェナ様も、土俵にあがりたかったですよね」

「いや、今日は大好きな牛を見ることができただけで満足だよ」

 ニジェナはやぐらのさくに寄りかかり、土俵に残っている牛を見下ろした。コチュンも、その少し後ろから牛を見た。勝ち残った牛は、割れんばかりのせいえんを浴びている。コチュ

ンがその牛を眩しそうに見ていると、ニジェナが言った。

「今日は、バンサ国に来てから一番楽しい日だった。連れてきてくれて、ありがとう」

 ニジェナが、嬉しそうにコチュンの顔を真っ直ぐ見つめた。その表情があまりにも優しくて、コチュンは返す言葉がすぐには出てこない。

 そのとき、二人の足の下から、大きな音がひびいた。コチュンとニジェナは会話を止め、音の正体を探ろうとあたりをわたした。

「なんの音だ?」

 音はなおも鳴り続けている。ニジェナがやぐらの下をのぞき込もうとしたとき、バキッ!と、ひときわ大きな音がとどろいた。その直後、コチュンの足元がぐらりと揺れた。

「団子っ、柱に摑まれ!」

 ニジェナがさけんだ瞬間、やぐらが傾き始め……皇帝夫妻の客席が、ほうかいしていった。

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