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 そのとき安斉あんざい桂南けいなは動揺のあまり、ついうっかり『表情』というものを忘れていた。


「こんにちは~」


「いらっしゃいませ」


 他の店員たちの発する間延びした挨拶の声を聞いてふっと我に返り、あわてて、中途半端に語頭を濁しつつそれらに追随する。


 ほんの数瞬間前、ひろびろと構えられた店内カウンターのほぼ真向かいにある、つめたい銀鼠ぎんねず色のエレベーターの扉が物言わぬ気配のうちに開いたかと思うと、そこから高校生同士とも思しき若い男女が姿を現したのである。


(やだ、ウソでしょ……)


 彼らにはどこか遊び慣れたような雰囲気があり、その装いや見る者にもなんとはなしに伝わる独特の距離感などからして、さっぱりとあか抜けていた。

 ただし、そのうち一方は桂南にも見覚えのある――というよりは彼女自身、ほとんど毎日それと同じものを身に着けている――グレーのブレザー制服姿であったが。


「あっ、すご~い。カウンター、こんな目の前にあるんだァ」


 いわば典型的な「サッカー少年」をも彷彿とさせる、根の明るそうな整った顔立ちをした娘のほうが、こちらもなかなか見た目がよく、飄々とした印象を与える連れの男にむかって、はしゃいだ様子でそう声をかけた。


「はじめてみたいな顔してるじゃん」


 感情の動きの読み取りづらい、どこか翳りの深い表情を覗かせながら、若者が応じる。


 桂南が高校生スタッフとしてアルバイトをしている、商店街にほど近いテナントビル五階のカラオケ店は、この日平日だったこともあり、夕方以降の客でにわかに賑わい始めていた。

 そこにいましがたやってきた、桂南と同学年の島尻佳朋と、なにやら見知らぬ私服姿の美青年。桂南は、ちょうど彼らが彼女の立つカウンターへ近づこうとしたタイミングで、彼女には図らずもそれを遮るかのように利用後の会計に並んだ、別の団体客に心中しんちゅうで感謝した。


(なんで?……っていうか、向こうは私に気づいてないっぽいな。)


 熱に浮かされたような薄らぼんやりとした頭で目の前の客に対応しながら、桂南は一方で、彼女のとなりのカウンターでときおりその連れとの間で意見のおおまかなすり合わせを行いつつ、トントンと諸々の利用手続きを完了していく佳朋の、そのさして桂南を意識するふうでもない平然とした様子に、にわかにいらだちを感じはじめていた。


「こちら、次回からご利用いただけるクーポン券になりますっ」


 最後にここ一、二週間ほどの常套句になっているセリフを添えて、唇の先をぺろりと舐める。

 一階へ向かうエレベーターを待っている間中、渡されたクーポン券をひとまずのあいだ誰が所持しておくかという点でずっと揉め合っている様子の、男子高校生たちのややくたびれた紺の詰め襟の背中を眺めた。

 そしてこのとき桂南は、この狭い雑居ビルの五階に存在するあらゆる「念」を攪拌かくはんしてでもいくような、繰り返される店内放送の音声が、いちどきに自身の頭上に降り注ぎはじめたように感じた。


「ちょっと、三番失礼します」


 あまりにも日向で多くの時間を過ごしすぎた猫のような、不思議な間の抜け方をした顔の造作の男店長にそう声をかけてから、するりとカウンターからホールへ抜け出る。

 それまで尿意は感じていなかったが、ただ寄る辺なさに、バックヤードにある女子化粧室の個室にこもってみると、不意に全身が心地よい怠惰に侵されはじめ、彼女は鈍重なため息とともに、少量の放尿をした。

 ゆっくりと用を足し終えたあとで洗面台の鏡に向かい、彩度の低い臙脂えんじ色と灰色のストライプ柄の制服シャツの襟を正す。およそ二ヶ月前に採用されたばかりの桂南の胸からは、まだ「研修中」と記されたプレートバッジが外れることはない。


(、歪んでる)


 そのまま鏡の前に立った状態で、両の手のひらで顔の輪郭を包み込み、ぐいと上に持ち上げた。

 ほんのわずか、他人があえて凝視してようやくわかる程度に、ではあるがすこしばかり顎の形がひしゃげたような、正面から見て左右で輪郭のバランスが不釣り合いな顔。

 半年以上も前になる新年の席で……その機会まで久しく会っていなかった、ちょうどそのとき泥酔し切っていた母方の伯父から、いかにも品のないあけすけな指摘を受けて以来、桂南はそのことを自らの顔と向き合うたびに、逃れがたく、頭のどこかで意識するようになっていた。

 当時、言ってしまってから時を遅くして失言に気づいた伯父は、まあ、だれでもみんな輪郭なんて少なからず歪んでるものだ、お前だけが特別ってのでもないよ、などと取ってつけたように言い足したが、その一言はかえって、のちから見ればその後の桂南がある種の『歪み』に対して向けはじめた強迫的な危機意識を、なおのこと鋭くするのにくみしたといえた。


 腕を元に戻して、とくに意味もなくもう一度手を洗い、今度はさきほど見かけた島尻佳朋の、どこか安心しきったような笑い顔を頭に思い描いてみる。


 一年以上前のことである。桂南たちが高校に入学して間もないころから、佳朋はすでに――その担任の女教師をして「あなたなんかもう半分以上、出来上がっちゃってんのよねえ……」などと言わしめたほどの、その目立って華のある容貌や、相手に向かってさりげなく畳みかけるような、甘えた調子のこもった口のききかたなどに関して――はじめこそ野次馬根性の据わった一部の上級生たちのあいだでだけであったのが、時間が経つにつれて、彼女と同学年のちょっとした「噂好き」たちのあいだにまでひろがっていくかたちで、たびたびその話題がもちあがる存在だった。


 だが、その下馬評はまさに毀誉褒貶きよほうへんに相半ばする、といったところで、渦中にある張本人とはクラスの離れていた桂南も、佳朋の周辺からときおり漏れ聞こえてくる、なにやら男絡みと思われる苛烈な噂を小耳にはさんでは、なぜか心のどこかでわずかばかり躍起になっている自分自身を間近に感じつつ、いかにも皮肉っぽく口元を歪めてみせていた。


「なんだ、そりゃあ」


「でもさあ、本人には悪いけど、正直……わかるよね。いかにもやってそうじゃん、見た目」


「うーん。たしかに美形だけどね」


「『たしかに』って、どういう『たしかに』?」



 不意に、何を見るともなく対峙していた洗面鏡のすみに、別の人物の姿が映り込んだ。


「あ、安斉ちゃんおつかれ」


 背を向けたままだったが、鏡越しに声をかけられた。

 アルバイトの同僚かつ先輩である、大学生の竹内たけうちだった。


「お疲れ様です」


 瞬間、その表情にさっと緊張を走らせた桂南の様子に気づいてか気づかずにか、竹内はいちばん手前の個室便所に入ろうとする寸前に、


「トイレ長いから、具合でも悪くなったんじゃないかって、店長心配してたよ」


 と、それまで塗りつけていた薬用リップクリームのキャップを咄嗟に閉じた桂南に向かって、小さく釘を刺した。


「はい……すみません」


 つぶやくように言ったものの、竹内のやや乱雑に扉を閉める音によって、謝罪の声はかき消された。

 携帯用ブラシやリップクリームを手元のポーチに片付けていきつつ、桂南はほっと息をつく。


 ――いま時分ともなればもう、島尻さんと顔を合わせることもないだろう。

 

 桂南はあたかも、いま竹内に言われてはじめて思い出したというふうに、自分の直近の行動のを急激に意識した。


 ――あのから逃げ隠れしてどうする。相手にされていないからと、腹を立てていてもしようがないじゃないか。

 というより、この場においてなにかやましいところがあるのは、むしろ彼女のほうではないのか。


 こう考えはじめた途端、不意にわずかばかりの勇気を得た桂南は、自身の量感のある真っ黒なボブショートヘアをいたわるように撫でつけて、なるべく足音を立てぬようにそっと化粧室を出た。

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