孔雀に踏まれる
関藤みずほ
1
路上に棄てられた煙草の吸い殻から、むせび泣くような白煙が立ち上っているのを見、彼女は立ち止まりそうになった。
たそがれの黄金色に染まった街並みのそのなかばにある、四方へ複雑に交叉し入り組むアーケード街の目抜き通りを賑わせる人波は、あたかも蜜のごとく緊密に互いを結びつけ合い、まるで途切れる気配を見せない。
「ふ〜……」
すれ違いざまに
ナイフのごとく鋭敏でありながら、決して互いの道筋のなかへ切り込んでいくことのない孤独な動線が絡みあってできた硬く小さい鞠のなかを、いまひとりの少女の軽やかな足取りが、その合間を縫って――あたかも妖精がその行く道々へさらさらと金の粉を振りかけてでもゆくような、冴えて機敏な甘やかさで進んでいく。
老舗のブティックに大衆食堂、ファストフードチェーンに雑貨屋、化粧品専門店。ショッピングモールとは異なり、全体の意図といったものの影響が極端に希薄なままに乱立するそれらは、テナントのひとつひとつ、みなが言わば「陸の孤島」であった。
「あぁ、急がないとバイトに遅れちゃう〜、なんてね……」
自分自身以外には聞く者もないそんな
その表面にはでかでかと『本日ポイント3倍Day!』などと記された、これから僅か数時間ののちには人々の頭上から引き降ろされて来るであろう吊り下げ横断幕の下を、彼女はあたかも疾風のかすめるがごとく無表情のままに突っ切り、そうしていよいよその視界のなかに歩行者たちを次の繁華街へと導く横断歩道の存在も飛び込んでこようか、というあたりまでやってきてから唐突に、少女はその目の
(……わあー、こんなお店出来てたんだ)
いま興奮に大きく見開かれた、この世のありとあらゆる光を貪欲に吸い込んでいきそうにも思えるその潤んだ瞳は、彼女がいま現在立っている地点のすぐ右側にあるわりあいに手狭なテナントスペースに収まった、なにやら欧州の言語であらわされるものらしい店名の小さな洋菓子屋の店先に出されている、ガラス・ケースの中身をありありと映し出していた。
(……やっぱりちょっと高いなあ)
彼女はそのままもじもじと15秒ばかり、それらの、ガラス・ケースの中に品よく納められている、おおもとではそれぞれが持つ歴史に拠る正統性を堅持しながら、もう一方では現代的な遊び心をも感じさせる洒落た技巧の施された、いかにも上質なものであるらしい洋菓子類をしげしげと眺めていた。
やがてにわかに夜を連れてくるほの暗さに包まれはじめた商店街の、その全体が訴えかけてくる――雑踏における地の振動にも似たさびしさに呼応するように、おのおのの軒先で徐々にひえびえとしたライトアップがはじまった。
すると、見つめている少女の、その少しばかり急勾配で上をむいた鼻先にも、ぽっと照らし出すような複雑な光が宿った。
(母さん)
なにか心定めたようにその場を立ち去ろうとしたそのとき、不意にぽん、と何者か少女の肩に軽く触れる者があった。
「…………?あ、ごめんなさぁい」
相手は、彼女の言には答えず、そのかわりにこの状況にはそれほど似つかわしくない、どことなく熱心なところのある表情で、いきなり少女の瞳を射貫くように強く見つめた。
現在高校2年生の彼女より、ひとつかふたつ上であろうか。すくなくともまだ学生ではあるように見える、若い男だった。
そして、ここからさらに言うことがあるとすれば……青年は、その表情にいまはっきりとその姿を現しているはにかみの色を差し引いたとしても、なかなかと言ってよいほどの
彼はそのいささか派手ともいえるいでたちからは容易に想像のつかない、ややくぐもった、芯のある低音を響かせる声で言った。
「あのお、いきなり失礼ですけど……これから時間、あったりします?」
「えーっ、じゃあN市からこっち来てたんですかァ」
「うん。高校まではずっとここで、大学からは向こうで独り暮らししてるんだけど、母親の引っ越しの手伝いでちょっとの間こっちに」
「へえ……」
「そちらは?」
「あっ、ごめんなさい。えっとォ、まず苗字が……『島』にお尻の『尻』って書いて『
近藤は困ったように微笑み、その快活さをすこし疑うように、あらためて
「いや、……なるほど。じゃあ『good friend』さん、だね。――せっかくだけど、名前で呼びたいから。それよか、ほんとさあ……可愛いよね。最初見たときびっくりしたよ」
「エーそんなァ。よく言われるけど……」
「意外と正直なんだ」
「それほどでもぉ!ゆーて、お兄さんもカッコいいって言われたこと、けっこうあるでしょ?」
「……うーん。まあ、……まあ」
「ほらァ」
思いがけなく出会った相手とそんな他愛もない問答を重ねながらも、佳朋はあくまで、相手に与えうる感触はさりげなく、しかし実際のところは
「あっ、ちょっと待ってね。バイトの店長に連絡しなきゃあ」
佳朋がいかにもいまはじめてそのことに思い当たったというふうに、しかしその割には節度を欠くと言って良いほどの上機嫌で、その肩から提げていた平たい革製のスクールバッグから携帯電話を取り出すのを、近藤はまたも不意をつかれたような曖昧な表情で見守った。
彼女がそのとなりの電話口で、いましがたでっち上げた〈緊急の用事〉をすらすらと並べ立てているあいだ、近藤はやはりしげしげと、佳朋の全身の様子や顔立ちをうかがうように見ていた。
ただし、それは決して異性に対する愛欲の類いに結びつく感情からのものではない。
(この
けど、そのわりに身体のほうはいいな。胸もでかいし。)
そして一方の佳朋も、ちょうど電話口でアルバイト先の男店長に向かって、事前の申請なく欠勤することへの謝罪をまじえた、声色は明るいがどこか心うつろでもある軽口を叩いていながら――彼女が今回のように、その隣に誰かしら男を「控えている」状況において、その目の前になにか彼女の欲しいモノがある場合には、「いつでもそうしている」やり口にならって――ちらり、ちらりと
これは女が連れの男にモノをねだる方法としては間違いなく、相手にとっての「きわどい境界線」を攻めることになる、リスクの高い型である。しかし一方で、……確かに、その微妙なさじ加減をまちがえれば大やけどする危険性はあるものの、仮にいやらしさを感じさせない程度の露骨さを影ひとつなく演じきることができたとすれば、それは一転、ある種の愛嬌にもなりうると言えた。
――そして、そうした意味においては、彼女ほど完璧な「演技派」は世にふたりといなかったのである。
しかし、最後に店長と別れの挨拶を交わすタイミングになってから、佳朋は突如として、この(彼女自身ですら、実は心底寒々しいと感じている)「駆け引き」を続行することに見切りをつけてしまった。
(………なーんか、この人とはさっきから目が合わないのよね。)
やがて、いちど時刻を確認してから携帯を鞄のなかへしまい込んだ佳朋が、いまさっき彼女のなかで生じかけた違和感をみずから振り切るように、先ほどまでにも増してさらに明るい声で相手に呼びかけた。
「ごめんねぇ、どこ行こっか!」
「…………ってあげるよ」
「へぇっ?」
近藤は重々しい咳払いをして言い直した。
「あのケーキ、食べたそうにしてた。買ってあげようかって」
佳朋はにわかに、「信じられない」とでも言いたげな顔でゆっくりと、なにか呑み下すように頷いた。
「うっそぉ。やったァ」
「うん」
「でも悪いしィ……」
「いいんだ。俺も、きみに声かけたはいいけど、あいにく今はあんまり持ち合わせがなくて。むしろ、ケーキのひとつやふたつくらいなら買わせて欲しい」
まだそう言い終えないうちに、すでにその小ぶりな黒い財布を片手に握り、佳朋に先んずるようにして洋菓子店の軒下へと一人で歩を進めてゆく、その近藤の背中に寄っているある種の木の割れ目じみて見える深いシャツのシワを、佳朋は食い入るように見つめた。
「そっかァ……」
既に夜は近かった。
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