3

 室内据え付けの革椅子にどっかりと腰を下ろし、その膝に厚さが電話帳ほどもある「歌本」を抱えた近藤が、さもくつろいだ様子でページを繰っていくのを、佳朋はその隣から、彼の横顔を覗き込むような姿勢で眺めていた。


「も~、いい加減、はやく決めてくれないと。私が先に曲入れちゃうよォ?」


「いいよ、先」


「なんでェ。……先に歌いはじめるほうが、ちょっと気恥ずかしいんだからぁ」


 不満げにそう漏らしつつ、一方でなにか異様に確信的な気配すら滲ませながら立ち上がった佳朋は、テレビ画面のすぐ下方に設置してあった二人分のマイクを片方だけ手にとり、電源が切れたままのそれの頭部をとんとんと叩いた。


 近藤がすかさずはやすような短い口笛を吹いたが、佳朋は無視し、卓の反対側にあったリモートコントローラーに手を伸ばすと、すばやく、自身の携帯電話の着信メロディにも設定している、浜崎あゆみのお気に入りの楽曲を一件予約した。


「おっ、『あゆ』かあ。いいね……」


 ほどなくして流れ始めた、曲の導入部を聞いていた近藤がわずかに反応を示し、目を上げることもなくそう口にする。


「もォ。本なんかどけて、聞いてってば」


 がりりと左耳のうしろを掻きながら、佳朋が言う。


 二時間と経たぬ以前にはじめて出会ったはずの彼らはいまでは不思議と、あたかもよほど昔から互いに顔なじみの間柄ででもあったかのように、すっかり互いに馴れてしまっていた。


 だが一方で彼らはまた、この短時間ではどうにも剥くことのかなわない、相手の反射神経のより深い部位に潜んでいるであろうとある「注意深い」顔を、ふたりのうちどちらからも説明のつけがたい興奮のうちに、それも、ばさりと瞬時に暴いてしまいたいという暗い衝動に駆られてもいたのだった。


「ねえ、やっぱり私、いいよ」


 ――商店街の、くだんの洋菓子店の店先で佳朋がつぶやいたとき、近藤はそれをあやうく聞き逃した。


 店の手前側に構えていた店員と目が合ってしまったが、佳朋は構わず、近藤の腕をつかまえるようにして彼を制止した。


「何?」


「ごめん」


「いらないの?」


「……うん」


 近藤が先に動き、さもはじめからなんでもなかったというふうに軌道を逸らすと、佳朋はフフと小さく鼻で笑った。


「じゃあ何が欲しい?」


 足を向けたつぎの大通りへの横断歩道は、ふたりが立つ地点の十数米メートル先にあり、ちょうど向かいの青信号が点滅しはじめたところであった。


 挙動の怪しい子どもに大人が何か問い詰めるような鋭さを含んだ声色に、佳朋は急になぜか胸のすくような、妙にすがすがしい心持ちを覚えた。


「なんも、いらなぁい」


 それからは、通りのひとつ向こう側に構えたやはりアーケード式の飲食店街に出ることはせず、佳朋がその入り口の頭上から五体のイタリア石像が見下ろす本通りに足を踏み入れてから辿ってきた道を、逆に戻ってゆくようなかたちでふたりは進んだ。

 気まぐれに途中の青果物店に立ち寄ってみたかと思えば、数軒先の乾物屋でべつだん深い考えもなしに量り売りの高級煎餅を購入してみたり、ただその内装のポップな趣に惹かれ、両者にしたところで用のない小さな眼鏡屋に足を踏み入れてみたり、表通りに面したコンビニエンスストアの裏側に建つ、少々しけた雰囲気のリサイクルショップの中を探索するなどして行った。


 しばらくそのようにして歩き回ったのち、彼らは、夕刻から夜に近づくにつれてふたりの肩に次第に重たく落ちかかってくる、どこかしら予感めいた夕闇の存在を疎んずるように、ひときわ白々とした店内照明のあかりを道に投げかけているドラッグストアチェーンのすぐ隣の、やや地味な店構えのハンバーガー・ショップに入った。


「この後」


 ガラス一枚をはさんだすぐ向かい側に大型自転車が停めてあり、強くぶつけることでもあったのか、そのカゴがおかしな具合に歪んでいる様子が間近にうかがえる窓際の二人席に陣取った。


 それまで、メニューの中でも値が割高の「特盛り」バーガーに大口で食らいついていた近藤が、不意にその口角を持ちあげ、手の甲でその部分を軽くぬぐいながら提案した。


「ホテルかカラオケにでも行こうかと思うんだけど、佳朋さんは」


 佳朋は顔色を変えずに、ふいと窓外に目をやった。


「……ん~、じゃカラオケ」


「じゃあって」


 バーガーは注文せずに、ちびちびとフライドポテトだけをつまんでいた佳朋が、いままさにその一本を自らの口内に放り込もうとしていた手を止め、それを相手に差し向けるようなしぐさを見せてから言った。


「だってェ、ホテルなんて泊まるお金ないしィ」



 ――近藤の、それほど達者とも思えぬ歌を黙って聞いていた佳朋が、やがて曲の歌唱部分が終了したと悟ると、手前のグラスにわずかに残っていた烏龍ウーロン茶を遠慮がちに飲み干した。


「次、何か入れなよ」


 言いつつ斜め後方に佳朋を振り向いた、ちょうどその角度から見ると、それでなくともやや大ぶりなその鼻に、より主張を感じさせるようになる近藤の顔をちらと一瞥してから、佳朋は首を横に振った。


 ほぼ溶けつくして角の丸まった、ちびた氷を吸い付けていたストローから唇を離して言う。


「だってあとォ、二時間経つまで十分もないよォ」


 近藤は、佳朋の発言の意図をまるきり把握しかねるといった顔で、一度腕時計で時刻を確認してから、


「べつに、十分もあれば、あと一人一曲ずつくらい歌えるだろ。そこから延長したっていいじゃん」


 と、ややくたびれたらしい様子で、自らも座席に腰を落ち着けながら言った。


「……門限あんのォ」


 佳朋が目を合わさずに言うと、


「そうなの?高二で、ずいぶん厳しいんだな……たかだか19時半だよ、いま」


 取ってつけたような笑みを浮かべた。


「…………」


「……さすが、お嬢さんは飽きるのも早い」


 言いつつ、近藤はちょうど佳朋と彼との座っている間隔部分に置かれた、D字型のタンバリンをけて、無造作にテーブルの上に置いた。


 瞬間、しゃらり、という、そのシンバル部分のうち震えて醸された微音の、その不思議に安堵のため息じみた、いやに重量感のある物静かさに耳をそば立てていた佳朋は、直後――不意に距離を詰めてきた近藤の、その身体の感覚と体温とを間近に感じると、にわかに身を固くした。


「逃げられたな」


「……逃げてなぁい」


「――本当に?」


 ふたりの間に厳然とした沈黙のあることを忍びながら、一方では何か重ねて問わんとでもするような、逃れる隙もなく荒涼としたまなざしを頬に受けた。

 佳朋は焦点の曖昧な後ろめたさを抱えたまま、ただ無言で近藤に顔を振り向けた。


 目の前の、この恐ろしいほどに考えなしの彼は、一体どこの何者だろう。


 眠りに落ち込んでいく直前に見る夢のように冷たいてのひらが重ねられると、すぐ後で唇が見知らぬ感触におかされ、佳朋は不意に、なにかを悲しまなくてはいけない状況といったものを強く連想した。


 どちらともなく小さく口を開け、ためらいがちに舌を触れ合わせたあと、ふたりは諦めたように身体を離した。


「もォ、何いきなりィ……」


 しかし、佳朋が二の句を継ぐまえに、近藤が再び強引に口づけた。


 さきほどまでとは別の器官ででもあるかのように跳ねる舌を渋々受け入れたとき、佳朋の全身を、膝の裏をくすぐられるような、肌も粟立つ嫌悪感が駆け巡った。だが、は生憎なことに、がどんな様子をしているかという問題意識によってのみ、その存在理由らしいものが見いだせるような種類の激情に


 振り落とされるのを恐れるように男の舌に応えながら、佳朋は固く目をつむっていた。あたたかく閉ざされた不安の少し外側で、ある――灼くような陽射しのもと、水を求める一匹の家畜が、ぬかるむ泥水の中に死んだように身を浸している姿――の残像を、ほとんど夢見心地のうちに結びながら。


 押さえつけていた近藤の腕の力が緩んだと思うと、……急に、佳朋自身が求めていた本当の寒さが訪れた。

 すでに唇は離れていた。

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